第二十五回
「治と乱と」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 幕府に反逆した細川清氏が従兄弟の細川頼之に討たれ、名門・斯波氏が管領をつとめる新政権が発足するなど幕府政治は新たな局面を迎えようとしていた。この情勢の中で四国を拠点にし、中国探題として西日本の平定を企図する頼之は、反幕府勢力と戦うばかりではなく投降を呼びかけることで幕府政治の安定を図ろうとしていた。頼之の目は、中央政界への進出と西の海のかなたに向けられようとしている。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川貞世

渋川幸子

新開真行 三島三郎

紀良子 安宅頼藤 

春屋妙葩 足利直冬 

細川氏春 細川頼基 山名氏清

山名師氏 山名氏冬 山名時義 飯田某

勇魚

小波

魏天

大内弘世

斯波高経

世阿弥(解説担当)

春王(子役) 斯波義将(子役) 乙若(赤子役) 
細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
ロケ協力:景徳寺
室町幕府直轄軍第7師団

足利義詮

赤松則祐

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 貞治二年(1363)7月、京の都にはにわかにきな臭い空気が流れていた。一年前、まだ少年の斯波義将が執事職に就き、その父親の斯波高経が後見人として幕政の中枢を握ったが、宿老の佐々木道誉赤松則祐といった有力大名らがこの人事に不満を抱き、兵を起こして斯波父子を討とうとしているとの噂が広がったのである。結局この騒ぎはあくまで噂として終息していったが、幕府政界の不安定ぶりを改めて見せ付ける形となった。
 将軍である足利義詮はこうした事態の中でこれといった有効な手を打てず悶々と過ごしていた。そこへ四国の細川頼之のもとから書状が届く。さきに周防の大内氏を投降に導いた頼之は、さらに中国地方に勢力を広げる最大の反幕府勢力・山名時氏に幕府への投降を呼びかけるよう義詮に進言していた。中国探題として山名氏と長年戦ってきた頼之の進言であるだけにその現状分析には説得力があり、義詮はやはり山名と抗争を続けてきた赤松則祐とはかった上で、この件を頼之に完全に任せることにした。

 義詮から全面委任の命を受けた頼之はさっそく家臣の飯田某を密使として山名時氏が進出している備後に送り込んだ。「頼之からの使いじゃと?」と時氏は半信半疑で迎え入れるが、飯田から受け取った頼之の書状を読むと、息子たち(師氏・氏冬・時義・氏清)と重臣を集めて密談を始めた。「今や我らは山陰はおろか山陽にも手を伸ばし、京間近の丹波も押さえてまさに日の昇る勢い。むしろ追い詰められているのは幕府ではないか。それを投降の勧めとは…我らを愚弄するか」と師氏はあざ笑うが、時氏は「この辺りが潮時かもしれぬのう…」 と言って息子や家臣たちを驚かす。時氏は頼之が清氏を討ったことで四国全土がほぼ彼の支配下に収まり、先に大内氏を投降させたことでやがて山陽・山陰でも巻き返してくるだろうと読んでいた。また各地の南朝勢力もこのところ退潮著しく、直冬自身もその勢力を大きく後退させていた。もはや彼を主とかついで勢力を広げるのも限界に来ている、と時氏は言う。「ならば…ここで幕府と和睦を結び、これまでわしらが太刀をふるって手に入れてきた所領を、そっくり幕府に認めさせて確固たるものにするほうが得策とは思わぬか」と言う時氏に、息子たちはやや複雑な表情を見せる。 「わしはな…元弘の乱が起こる以前は上野の山名というところで民百姓のような暮らしをしておった…それが乱世に乗じて齢六十五になるまでにいくつもの国を手にし、幕府と張り合える大名にまでのし上がったのだ。これ以上、何を望めと言う。ここらが、潮時よ。分に過ぎた高望みをした者は必ず身を滅ぼす。ならば分相応と思ったところで突っ張るのをやめることじゃ」時氏はそう言って息子たちに笑いかけた。
 飯田某は頼之のもとへ帰り、山名時氏が幕府への投降に前向きであると報告した。ただし時氏は自らの実力で切り従えてきた伯耆・因幡・美作・丹後・丹波の守護職を幕府が追認することを条件として出してきていた。頼之は「さすがは、稀代の下剋上の者よ」とその要求に半ば感心しつつ、それを受け入れるようにとの意見も添えて義詮に報告を行う。
 結局この年の9月、山名時氏は幕府に恭順の意を示す形で備後から伯耆に戻った。見捨てられた形の足利直冬は恨み言を言いつつも自らに大きな勢力があるわけでもなく、やむなく石見へと引き返していった。中国地方の2大勢力・大内氏と山名氏が幕府に形ばかりの投降、実質的な和睦をしたことで、幕府は軍事的な脅威からかなり解放されることとなる。

 年が明けて貞治三年(1364)2月。頼之は久しぶりに上京した。主な目的は父・頼春の追善のために京都の西に建立した景徳寺の落慶供養に立ち会うことにあった。頼春の命日の2月20日に行われたこの儀式も夢窓の甥である実力者の高僧・春屋妙葩が招かれ盛大に執り行われる。出席者の中には親友である今川貞世の姿もあった。
 頼之は貞世を屋敷に招き、久しぶりに酒を酌み交わす。しばらく会わなかった間の様々な出来事を思い出して二人は万感の思いに浸る。「そう…様々なことがあった…そして、こうして共に酒を酌み交わす友が、一人いなくなった…」と貞世はしんみりと言う。「わしもお主も、決して望んだことではなかったが形としては清氏を討ったことで将軍の覚えもめでたく、地位も上がった…やりきれんのう」と言う貞世に、頼之は黙ったまま酒をあおる。貞世は話題を変えて、最近和歌の方面でも行き詰まりを感じて「連歌」に凝り始めていると頼之に明かす。「連歌は一人では出来ぬ。人と人とが力を合わせて歌をつむいでいく…今のわしには、それが何とも言えず楽しい」と貞世は言い、京に出てきたついでに連歌でもたしなんでみないかと頼之を誘う。頼之は「それも良いが」と言いつつ、「わしは近頃、無性に政(まつりごと)に興味が出てきた。四国や中国などではなく、この幕府を、この国全体を動かすような政をしてみたい…そう無性に思うのだ」と貞世に笑みを見せながら言う。貞世は困ったような表情を見せ、「…かつて清氏が、似たような事を言っておったな…そして、滅びた。わしはもう一人の友を同じように失いたくは無いが」と言うが、「もしお主が幕政を掌るようなことがあれば、一命に代えてもそれを支えよう」とも言った。「かたじけない」と頼之は満面の笑みを浮かべて、貞世に酒を注ぐ。

 数日後、頼之は唐突に佐々木道誉の屋敷へと招かれた。道誉はいかにも彼らしい婆沙羅な宴で頼之をもてなす。そして周囲の者を下がらせて頼之と二人きりになって話を始める。「わしのこと、さぞ恨んでおいでであろうな」と道誉。「は?」と頼之が不意を突かれたようにキョトンとしていると、道誉は「恨んでおるはずだ。右馬頭殿にとって無二の友であった清氏を、あのような没落に追い込み、右馬頭殿ご自身の手で討たせたは…その張本人はこの道誉入道よ」と言って頼之の目の奥を覗き込んだ。頼之が答えに窮していると、道誉は一人で話を続ける。「そう。わしは清氏を謀略にかけて執事の座から反逆者へと追い落とした。じゃが、その清氏を執事の座につけた、いわば生みの親もこのわしじゃ。ここだけの話じゃが、清氏の没落に一番胸が痛んだのはこのわしよ」この道誉の言葉に、頼之は驚く。「わしは清氏を見込んでおった…だが、それは見込み違いだった。清氏は己の力を頼みすぎ、己の心の底に潜む野心に次第に引きずり込まれていってしまった…それが分かったとき、わしは幕府のためにも清氏を除かねばならぬと決意したのじゃ」道誉は珍しく真剣な表情で頼之に告白を続ける。 「右馬頭殿ならば分かってくれると思うてこうして打ち明けておる。わしはの、故尊氏公に幕府の後事を託された者として、幕府を守り、育てねばならぬ。そのためには時には汚名を着ねばならぬこともある…奇麗ごとだけでは天下の政は出来ぬのでござるよ。このこと、右馬頭殿にもしっかと胸に刻み込んで置かれたい」との道誉の言葉に、頼之は一礼して「肝に銘じておきまする」とだけ返事をする。
 道誉は頼之が大内氏、山名氏の投降に尽力したことを誉め、「ぼちぼち戦の世を終わらせねばのう」としんみりと言う。「右馬頭殿はお父上と従兄弟を戦で亡くされた…この道誉も息子と孫を戦で失うておる…武士の常とは言いながら、肉親を無惨に死なせるのはかなわぬものよ。もう、こりごりじゃ。そう思う」と道誉は言い、「やはりお父上と兄二人を戦で死なせたお方がおってな。わしは今そのお方と和平の道を求めて動いておる」と頼之に打ち明ける。頼之はあえて口に出さなかったが、それが南朝の重臣である楠木正儀であることは明白だった。頼之は様々な思いを胸に道誉邸をあとにした。

 三月の初め、前年に幕府に投降した周防の大内弘世が将軍への目通りのために上洛してきた。弘世はさきに幕府への忠誠を示すために九州に渡って菊池軍と戦って敗れていたが、それから間もないこの上洛の一行の華やかさは都の人々をも驚かせるものであった。弘世は貿易で手に入れた大量の銭貨や異国の珍品を京の各所で上は公家から下は田楽役者にまで大盤振る舞い氏、その経済力の大きさをまざまざと見せ付ける。
 この大内弘世の宿所を、頼之と共に京に来ていた小波が訪ねてきていた。弘世が持ち込んだ大量の渡来品に目を見張っていると、その取引にあたっている少年の姿が目に入ってきた。赤間関で出会った魏天であった。魏天は一年のうちに日本語も覚え、大内氏のもとで通訳や交易の手伝いをして暮らしていたのである。小波は魏天と語り合いながら「いつかお主の生まれ育った国にも行ってみたいものだ」と大海の向こうに思いを馳せる。二人が話しているところへ、六、七歳ぐらいの子供がいつの間にか入り込んで並んでいる品物に目を見張らせていた。そのうちその子供は一つの豪華な文鎮を取り上げ、「これを所望じゃ」と魏天に突きつける。魏天は相手が子供なので適当にあしらって文鎮を取り返そうとするが、子供は返そうとせず宿所の外へ飛び出していく。魏天と小波が慌てて追うが、子供は宿所の外につないであった馬に素早く飛び乗り、「代金はあとで征夷大将軍に求めよ」と言い捨てて駆け去ってしまった。これを何人かの家臣と思しき武士が追いかけていったので魏天と小波はあの子供がかなり高い身分の子なのだと悟る。端から一部始終を見ていた弘世は「あれが噂に聞く、将軍のお子の春王さまか」とつぶやいていた。
 3月6日、当年7歳の春王は乗馬して管領・斯波義将のもとを訪問した。少年管領・義将および後見人の高経が門前まで春王を出迎え、うやうやしく礼をする。この訪問は側室の子である春王を、将軍の嫡子であり正式な後継者として世間に認知させるための最初の儀式ともいえた。

 3月16日、大内氏に続き山名氏も上洛を果たした。ただし山名時氏自身はいきなりの入京を用心深く避け、その息子の氏冬、時義らを先に入京させ、将軍に目通りさせた。義詮は山名氏に対しその要求どおり五カ国の守護職を認め、山陰地方は事実上山名一族の独立支配地域と確定することとなった。世人は「領土を増やしたければ敵になるのが早道」と皮肉を言いたてたが、これと引き換えに幕府は山名氏をその傘下に加え、大内氏の帰参と共にその支配領域を西日本に大きく拡大したのである。
 山名氏冬・時義は将軍に目通りを追えたのち、斯波高経の仲介で将軍の正室・渋川幸子にも面会した。高経と幸子は人脈的に深く結びついており、山名氏は以前の斯波氏との縁を頼って幸子人脈への接近を図ったのである。この面会の中で山名側は山名・大内の軍事的脅威が取り除かれたのだから細川頼之を中国管領の任から解くべきと進言する。高経もまた以前から対立関係にある細川氏が頼之のもとに統一され力を蓄えていることに警戒感を抱いており、これを四国に封じ込めるべきと意見する。幸子自身も春王の乳母を頼之の妻・慈子がつとめていることで個人的に頼之に悪感情を抱いており、進言を受け入れて頼之を四国に封じ込めるよう計らってみると約束する。

 この数ヶ月、頼之は久しぶりに妻・慈子と共に生活を送っていた。頼之は慈子に「阿波に来る気はないか」と誘うが、慈子は自分が育てた春王が成長するのを見届けたいから京にとどまりたいと答える。「殿こそ、ご側室をお持ちにならないのですか」と慈子は問う。頼之もすでに三十六歳、夫妻の間にはその後子は出来なかった。慈子は細川家の跡継ぎを作るためにも側室を持つべき、と夫に勧めるが、頼之は「何を今さら…細川家の血は、父上がたくさん残してくれておるしのう」と笑うばかり。頼之は18歳年下の弟の頼基には見所があるからこれを自らの養子にし、細川家の跡継ぎとして教育したいと慈子に打ち明ける。そして「我らの子は、春王さまだと思えばよいではないか…先日もお目にかかったが、頼もしゅう成長しておられる…」と頼之は目を細め、慈子も去る五月に紀良子が春王の弟の乙若(後の満詮)を生んだことに触れ、「春王様も兄となられてますます大きゅうなられたような…」と目を細める。
 8月、ついに山名時氏が自ら上洛し、将軍義詮に目通りして忠誠を誓った。義詮はこれを機に幕府の権威高揚を狙って三条坊門の旧足利直義邸跡に新たな将軍邸を造営し、ここに幕府を移すことを決定する。この工事の監督には斯波高経・義将父子があたることとなり、佐々木や赤松など諸大名も動員されることとなった。
 その一方、頼之は長年つとめていた中国管領から解任され、代わりに四国全土を統括する四国管領(四国大将)の地位に就くこととなった。佐々木道誉は頼之に、この人事に斯波、山名、そして将軍正室の渋川幸子が関わっている、と教えた上で、「逆にこれを良い機会ととらえなさるが良い。四国全土を完全に押さえられよ。そして瀬戸内の海路をしっかと押さえておくのじゃ…そのためには何をすればよいか、右馬頭どのならお分かりであろう」とささやく。「なぜそれがしにそこまで入れ知恵なさる?」と頼之が問うと、「はっはっは、わしは頼之殿を見込んでしもうたのかもしれんのう。いずれ、四国だけではなく幕政をつかさどられる方だと…まぁ見込み違いした例もござったが」と笑いながら立ち去っていった。
 間もなく頼之は慈子らに見送られて四国・讃岐へ向けて京を発った。

 勇魚と小波の船団で讃岐に向かう途中、頼之は淡路に立ち寄り、以前敵として戦った従兄弟の氏春と面会、和解を確認する。一時は南朝に走り幕府の敵とされた氏春だったが、その後頼之のはからいで淡路守護の地位に復帰していた。氏春は頼之を細川一門の長として仰ぎ、今後は頼之に忠実に従うと誓った。これにともないやはり一時南朝に走り、氏春に従っていた熊野水軍の安宅頼藤も頼之と和解する。これにより頼之は後顧の憂い無く四国の支配強化に当たれることになった。
 讃岐・宇多津に入った頼之は新開真行三島三郎 ら重臣を集めて今後の方策について協議を開いた。中国地方には弟の頼有が暫定的に備後の守護として残っているほかは細川一族の支配は及ばなくなっていたが、頼之はこれで四国に専念することができ、いよいよ父・頼春以来の四国完全支配の企図を達成する機会であると新開らに説明する。「それには背反常なき伊予の河野一族、彼らを我らに従わせねばならぬ」と頼之は語気を強め、「先の清氏討伐の折、味方に来ぬばかりかひそかに敵に通じて追い詰められた恨みもある。これに鉄槌を加えねば、わしは四国管領を名乗ることは出来まい」と言って、伊予へ本格的に大軍を侵攻させるとの意思を示した。これまで見たことの無い頼之の強硬な態度に新開と三郎は顔を見合わせる。

 この年の9月、頼之は突如讃岐から大軍を起こして伊予への本格侵攻を開始した。軍勢を率いて馬上に立つ頼之の顔には、これまでに見せたことのない荒々しい気迫がみなぎっていた。

第二十五回「治と乱と」終(2002年7月8日)


★解説★

世阿弥第三弾  今回で予定50回の半分まで来た訳ですねぇ…と感慨深い解説担当の世阿弥でございます。近々解説担当だけではなくて、わたくし本人がドラマ中に登場してくるはずなんですけど…あ、もちろん紅顔の美少年の時期を私が同時に演じるわけはございませんのでご安心(?)のほどを(笑)。
 半分まで来たと言うことで、前回辺りからちょっとここまでと雰囲気の変わった「第二部」の世界が展開してきております。合戦に次ぐ合戦の時代がひとまずヤマを越え、平和と安定の時代の兆しが見えてくるのがこの時期なのでございますね。そしてそうした情勢の中で、主人公の細川頼之さんも本格的に「政治家」への道を歩んでいくことになるわけです。

 しかし今回の冒頭にもありますように、幕府内部のゴタゴタ自体はいっこうに絶えません。まぁこの辺は現在の日本でも政党内の派閥間にゴタゴタが起こるのと構造的には似ているとも申せますな。この貞治2年7月に佐々木道誉さんたちが斯波派打倒のクーデターを起こすんじゃないかとの噂が広がったことは『後愚昧記』という日記資料が伝えています。結局何事も起きずに終わったのですが、この三年後、ホントに道誉さんが斯波政権をクーデターで打倒してしまうという展開が待ってますので、このときの噂も根の無いものでは無かったのでしょうな。それにしても毎度ながら政変の影に道誉あり。

 頼之さんが義詮さまに建策し、家臣飯田某(なにがし。名前が不明なんですね)を派遣して山名時氏投降を工作したというのは『山名家譜略纂補』という史料に出てくる話だそうで。しかし一方で義詮さんが諸将の意見を受け入れて一色詮光さんを仲介して時氏さんを誘ったと言う史料もあり、どっちが真相かは判然としません。そこは頼之さん主役のドラマですので、「頼之工作説」をここでは採らせていただきましたが、その後の山名一族は一貫して反頼之派ですのでちょっとしっくりいかないかな、と作者は本音は思ってるみたいですけどね。山名氏が幕府と和睦してしまったことで哀れなのはそれに長年かつがれていた直冬さん。この数奇な運命をたどった尊氏さまのお子さんはこの後はほとんど消息不明となり、貞治5年(1366)に出した書状を最後に完全に消息が途絶えます。
 時氏さんが息子たち相手に「わしは元弘の乱以前は上野の山名というところで民百姓のような暮らしをしておった…」と語るセリフがありますが、これはこのドラマのメインキャストの一人である今川了俊(貞世)さんが著書『難太平記』に記しているもの。貞世さんがわざわざ書き残しているところを見ると、時氏さんが良く人前で口にした述懐のようですね。「だから渡世の哀しさも身の程も知った、また戦の難儀というものも思い知った」 とも語っており、たたき上げの下剋上武将・山名時氏さんがその影で大変な苦労を積み重ね、どこまでが自分の「身の程」かわきまえていた、ということが知られる名文句です。このセリフは暗に「息子たちはそんな苦労をしらないから身を滅ぼすのではないか」という時氏さんの懸念を表していたと言われますが、その予感はやがて「明徳の乱」となって的中することになるわけです。
 チラッと出てきた息子さんの一人・氏清さんはこの明徳の乱の中心人物になる方ですね。時氏さんの先兵として都に乗り込んだ時義さんというのも出てきましたが、この人のお孫さんが応仁の乱の主役の一人・山名宗全さんだったりします。

 頼之さんが今回久々に上京し、京での日々がつづられております。ま、ドラマ中での休憩アクセントといったところですかね。実際にはこの年の2月20日に父・頼春さんの菩提寺・景徳寺の落慶供養をしているという以外確実な行動記録はないんですが。
 今川貞世さんがこのころ連歌に打ち込み始めたと言う話が出てきましたが、正確に言いますと周阿さんという連歌師について本格的に学び始めたというところで、連歌熱は以前からあるにはあったようです。若いころから和歌界(?)のホープとして注目されていた貞世さんですが、このころ流行の連歌にも早い段階から首を突っ込んでいたようです。連歌とは南北朝時代に大流行し確立した文芸で、5・7・5の上の句と7・7の下の句を人々が歌いついでいく、いわば集団文芸というべきものです。延文元年(1356)に連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』が編纂され準勅撰扱いを受け(この工作をしたのが例によって佐々木道誉さん)、いろいろと流派が出てくるほどに流行します。その中で貞世さんがこの時期からついた師匠の周阿さんの一派では、古典に基づいた気の利いた歌を詠んで高い得点をすることを第一にし(連歌は採点者がいるゲームでもあった)、風情と言ったものは二の次にしていたとかで、かなり後に了俊さんは周阿派に批判的となり、独自の連歌論を立てていくことになったりします。
 頼之さんと道誉さんの対面シーンは尊氏様と頼之さんの対面シーンと同様、南北朝マニアの作者がやりたくてしょうがなかった妄想シーンとしてお楽しみください(笑)。清氏さん追い落としはどう考えても道誉さんの個人的悪意によるところが大きいとしか思えない大謀略なのですが、その後の斯波政権打倒の陰謀なども考え合わせると、結果的に幕府と将軍権力を強化する方向に道誉さんが持って行っているのも確かなんで、こういう解釈もドラマ的にはありでしょ、ということで。

 大内弘世さんが上洛し、海外貿易で得た莫大な富を京の人々に見せ付けたというのは『太平記』に出てくる話。そこに春王さまが入ってきて…というのはもちろんフィクションです。ただ、この時期にちょうど乗馬して斯波邸に行ったという話があるので、それと結びつけてこんなシーンを作ってみました。魏天と春王さまはこの辺で会っておいたほうがいいかな、とも思いまして(意味深)。
 山名・大内両氏が幕府に投降し、その代わり実力で切り取った領土をそのまま安堵されたことについて世人が「領土を増やしたければ敵になればよい」と皮肉を言ったというのも『太平記』に出てくる話ですね。しかしこの両氏投降により幕府は軍事的には一応の安定をみることになるわけです。もちろんずっと警戒していたのも事実で、義満さまが「明徳の乱」「応永の乱」を起こす(起こされる)展開につながっていくわけです。
 この山名氏と斯波氏が結びついて渋川幸子さんに取り入り、細川氏を牽制する…という展開が挟み込まれてましたが、これは確認こそとれないもののその後のことを考えると十分ありうると作者が考えてやってることです。完全に凡庸そのものであった義詮さまに対してこの奥さんは相当なやり手であったのは事実のようでして…後に頼之さんと熾烈な権力闘争をすることになったりするんですな、これが。

 さて、ラストは頼之さんが伊予へ向けて侵攻を開始するところで終わってます。そりゃまぁ一応伊予の守護は頼之さんなんですけど、長年伊予を支配してきた河野一族にしてみりゃこれは侵略行為に他ならないわけですね。なんとなく平和ムードの今回でしたが、次回は伊予をめぐる細川氏と河野氏の壮絶な戦いから幕を開けることになりましょう。

制作・著作:MHK・徹夜城