第二十六回
「四国統一」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 大内氏、山名氏が幕府に帰順し中国地方が軍事的に安定したことを受けて、細川頼之は中国管領の任を解かれた。幕府の重鎮・佐々木道誉はこの背景に幕府内の派閥抗争があることを頼之に告げ、逆にこれを機会に四国支配に専念するようアドバイスする。中央政界への進出も視野に収め始めた頼之は、細川支配に抵抗する伊予の河野氏を駆逐するべく、大軍を動員した。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川貞世

渋川幸子

三島三郎 懐良親王

紀良子 河野通盛

足利基氏 菊池武光

河野通朝 河野通堯 上杉憲顕

渋川義行 細川天竺禅門 一忠

勇魚

小波

斯波高経

観阿弥

世阿弥(解説担当)

春王(子役) 斯波義将(子役) 
細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
興福寺衆徒のみなさん 春日大社神人のみなさん 得能水軍のみなさん
ロケ協力:勝持寺
室町幕府直轄軍第7師団・第12師団

足利義詮

赤松則祐

佐々木道誉


◆本編内容◆

 貞治三年(正平19、1364)9月、細川頼之は突如、讃岐から大軍を率いて伊予に侵攻した。その意図は父・頼春以来、細川氏と伊予支配権をめぐって争ってきた伊予の河野氏の勢力を完全に駆逐することにあった。頼之はこの戦いにこれまでにない気迫をもって臨み、河野氏も当主の河野通盛の指揮のもと激しく抵抗したものの細川軍の勢いに押され、じりじりと後退を余儀なくされる。
 10月に入り、頼之の軍は通盛の嫡子・通朝が籠もる世田山城(現・東予市)を取り囲んだ。通朝はよくこの城を守ったが、頼之の攻勢に恐れをなした家臣の内通にあい、11月6日に城は陥落。通朝は無念の自害を遂げる。
 息子・通朝の戦死の知らせを、河野通盛は居城の高縄山城(現・北条市)で受けた。「おのれ、頼之…!わしの倅を…!」と叫んだ途端、通盛は絶句しそのまま昏倒してしまう。通盛はショックの余り病の床につき、11月26日に急死してしまった。通盛の急死を知った頼之は「そうか」と一言言ったのみで、さらに河野氏の各拠点への攻撃を指示する。その陰で三島三郎にだけ「通盛は…さぞ深い恨みを抱いて死んだのであろうな…その無念の最期、まことに察するに余りあるが、これも武士の宿業というものかものう」と胸のうちをわずかに明かす。

 当主と嫡子を相次いで失った河野勢は恐慌状態に陥り、その一族や家臣たちが次々と頼之に投降してきた。そのような中で残存勢力をまとめて気を吐いたのは自害した河野通朝の嫡男、まだ若年の通堯であった。通堯は高縄山城で残った一族郎党を前に「頼之は祖父・通盛、父・通朝の仇、まさに我ら河野の不倶戴天の敵ぞ!これを討たねば、何百年と伊予に根を下ろしてきた祖先たちに顔向けできぬわ!」と気勢を上げ、高縄城を拠点に各所から侵攻してくる細川軍に激しく抵抗する。
 年が明けて貞治四年正月、通堯は軍勢を率いて細川軍の拠る湯築城(現・松山市)を急襲、これを奪回し、城を守っていた細川軍の武将・細川天竺禅門 は自害して果てた。この一戦で河野側は勢いづき、細川軍に対し反攻に打って出る。この勢いに頼之はひとまず世田山城で自軍の態勢を整えつつ伊予の国人たちの掌握工作に力を注ぎ、四月になってから大攻勢を開始した。頼之は自ら軍を率いて道後方面に進出、ついに河野氏の本拠地である高縄山城を包囲するに至った。
 4月10日、河野一門の庶流や家臣たちが頼之に投降し、ついに高縄山城は落城した。しかし通堯は城を脱出し、海賊衆の手引きで瀬戸内海へと逃れた。「おのれ頼之…!この恨み、忘れはせぬぞ。わしは必ず伊予を取り返してみせようぞ!」船の上で通堯は伊予の陸地をにらみながら絶叫する。
 通堯を追い、伊予の完全制圧を達成した頼之は、伊予の府中(現・今治市)に入り、戦後処理につとめた。通堯の消息について勇魚小波に命じて探らせたところ、通堯はその後水軍の得能氏を頼って能美島に落ち延び、南朝方につながる得能氏を通じて九州の懐良親王の征西府と連携して伊予奪回の機をうかがっているらしいとのことであった。「征西将軍府か…確かにこの海一つ隔てればそこは宮方(南朝方)の天下じゃからのう」と頼之は海をにらみつつ言い、今後も通堯の動きから目を離すな、と小波たちに指示する。
 長年敵対してきた河野一族を駆逐して伊予を完全に支配化に置いたことで、頼之の支配は阿波・讃岐・土佐の各国にまんべんなく行き渡り、四国および淡路は細川氏のもとに統一されることとなったのである。

 五月三日、京では将軍足利義詮の子で今年八歳になる春王の「矢開(やびらき)の儀」が執り行われた。武士の子として初めて弓矢を使う儀式で、春王はモズを射て得意げに儀式を終える。この儀により春王が義詮の後継者であることが公式に天下に示されたということでもあった。その成長ぶりに実母の紀良子、そして乳母の慈子は涙ぐんで喜び合う。良子はつい先日の4月10日に三番目の義詮の男子を出産したが月足らずで翌日に死なせていたため、その喜びはなおさらのものであった。しかしその陰で、義詮の正室である渋川幸子は険しい目線で春王の姿をにらんでいた。
 六月二十七日、春王は上洛していた赤松則祐の屋敷を訪問した。則祐は盛大に春王を歓待し、「我らの白旗城においでの時のこと、覚えておいでか?」と春王に笑って言うと、家臣たちに合図して、以前白旗城で春王を喜ばせた「松ばやし」を披露する。春王は「おお、覚えておるぞ。あの時のこと、決して忘れはせぬ」と喜び、手を叩いて家臣たちの舞い踊りを称える。「赤松、そなたは私の親も同然じゃ。今後も、大いに力になって欲しい」と春王に言われて、則祐は「恐れ多いお言葉…!」と深々と頭を下げる。盛大な歓待ののち、帰宅する春王を見送りながら、則祐は「見込んだとおり、大したお方にお育ちじゃ…あれでまだ八歳というのか…まこと、末恐ろしいわ」と家臣たちに微笑しながら言う。これ以後、則祐は春王の後見人と世間でみなされるようになり、「春王様の養父」と呼ぶ声もあった。

 そのころ、今川貞世は土地関係の所用で関東に赴き、鎌倉に入って義詮の弟である鎌倉公方の足利基氏に面会していた。基氏は笠懸をして弓の腕を披露し、貞世はその腕前を褒め称える。「その方とは、一度会って歌の話なぞゆっくりしてみたかった」 と基氏は笑って貞世の肩を叩く。基氏と貞世は冷泉為秀を和歌の師とする兄弟弟子の関係でもあったのである。歌の話を語らいつつ、いつしか話題は政治向きのことへと移っていく。基氏は先に畠山国清兄弟を、先年には下野の宇都宮・芳賀一族を制圧し、以前直義派について関東執事の座を追われた上杉憲顕を執事に復帰させて関東支配の実を上げつつあった。
 当年弱冠26歳の基氏の充実した統治ぶりに、貞世は京の義詮がその指導力欠如のために政治を不安定化させているのと比較して基氏を称える。「いっそ基氏さまが将軍になれらようとは思われませぬか」と貞世が冗談めいて言うと、基氏は顔色を変えた。「わしは父・尊氏から兄上を補佐して関東を治めよと命じられた。将軍になるなど、もってのほかじゃ。滅多なことを口にするものではない」と基氏が言うので、貞世は黙り込む。すると基氏は貞世に「いま、幕府には人物がおるか」と問う。その言葉に基氏の心の隅に中央への野心が無くも無いことを察した貞世は、「我が友に細川頼之という者がござる…さきごろ四国を平定し…」と頼之の名を基氏に吹き込んだ。

 八月三日。伊予を脱出ししばらく能美島に潜んでいた河野通堯は得能水軍の手引きで九州に渡った。そのまま征西将軍府のある大宰府に入った通堯は、いまや九州の支配者となっている懐良親王に謁見する。通堯は頼之の無法な侵攻を親王に訴え、祖父・父の仇を討ち伊予奪回を図るためにも親王の力を得たいと懇願する。懐良と菊池武光 は大内、山名が幕府に降ったいま、瀬戸内の海路を押さえ、幕府勢力の西進を食い止めることが必要、と判断し、通堯を全面的に支援することを決める。懐良の仲介で後村上天皇から通堯に伊予の所領を安堵する綸旨がもたらされ、通堯はしばらく九州の地で伊予奪回の機会をうかがうこととなった。
 通堯が懐良親王に帰順したことは、すぐに頼之の耳にも入った。河野氏の当主がいまだ健在であることで伊予の国人達の態度も依然流動的で、頼之の伊予経営は難航を余儀なくされた。「やはり九州だな…いずれ、早いうちに九州を平定して幕府の手に握らねばなるまい」とつぶやく頼之だったが、この年の八月に九州平定の命を受けて九州探題として派遣された渋川義行(幸子の甥)は懐良らの勢いに九州に入ることすら出来ず、中国地方をウロウロしている有様であった。

 この間、幕府は管領・斯波義将の父として後見を務める斯波高経 が権勢を振るっていた。高経は幕府財政の安定を狙って全国の地頭・御家人に課す税の税率を上げたり、京周辺の寺社や有力守護の力を抑えてその所領を幕府領にするなど、幕府権力の強化を推し進めていたが、その独裁的な手法は当然ながら寺社や守護たちの激しい反発を招いてもいた。中でも奈良の興福寺と春日大社は所領をめぐって激しく斯波父子に反発し、僧兵たちにより春日大社の神木が京に運び込まれ、斯波邸内に放り込まれるという強訴騒ぎも起こっていた。
 貞治五年(1366)三月、政変勃発を予感させる事件が起こる。3月4日に斯波高経は三条坊門の将軍邸に諸大名・公家などを招き盛大な花見の宴を催したが、これに出席すると返事していたはずの佐々木道誉の姿が一向に現れない。高経がいぶかしんでいると、道誉がこの宴をすっぽかして桜の名所・大原野の勝持寺において自ら盛大な花見の大宴会を開いているとの知らせが入り、高経は唖然とする。
 道誉は大原野の寺の境内の中にある数本の桜の木の前に真鍮作りの巨大な花瓶を置いて、「見よ、桜の立花じゃ」と見立てて満座を沸かせる。さらに巨大な香炉を置いて大量の香をたき、山海の珍味を並べる一方で茶を立てて闘茶試合を催し、一忠観阿弥を初めとするお抱えの一流猿楽役者たちや白拍子を集めて一斉に上演させ、夜に至るまで大宴会を繰り広げた。この豪快な花見の宴は「さすがは婆沙羅の道誉入道よ」と都じゅうの人々の評判となり、面子をつぶされた形の高経は大いに悔しがる。

 この一件をきっかけに、以前から対立関係にあった道誉と高経の関係は一気に不穏なものとなっていった。そしてそれは間もなく大きな政変へとつながっていく。

第二十六回「四国統一」終(2002年7月14日)


★解説★

世阿弥第三弾  どうやら日曜更新体制に復帰できたかな、と胸をなでおろす解説担当の世阿弥でございます。今回はいつもに比べて文量が少ない気もいたしますけど、これは戦闘シーンとか豪華花見シーンとかで映像にすると案外時間をとられる場面が多くてセリフがあんまりかかれてないからなんですよね。

 冒頭は前回ラストに引き続いて頼之さんvs河野一族の死闘に時間が割かれております。史実もおおむねドラマの通りの展開でございまして、実際に映像化したら合戦シーンばっかで大変だろうなぁ、と思っちゃうところで…ナレーションで片付けられる可能性も大ですな。
 河野通朝さんが自害した世田山城っていうのは以前にも南北朝の死闘が行われた因縁の場所です。この伊予に新田義貞の弟である脇屋義助さんが四国に勢力を張るためにやって来て直後に急死したのち、一族の大館氏明さんがこの城に立てこもって頼之さんのお父上である細川頼春さんに攻められ、討死されてるんですな。実は頼之さんもこの戦いに参加していたようでして、第4回で頼之さんが「十二のときに父に連れられて伊予での戦に立ち会ったことがある」と言っていたのはこの戦いのことだったりいたします。
 それにしても河野氏にとっては踏んだり蹴ったりの展開でありますね。通朝さん戦死に続き、直後に当主の通盛さんが病死。通堯さんが頑張ってますけど、結局伊予を追われてしまう。河野一族が伊予に根を張ったのは平安時代以来とか言われてますから、彼らにしてみりゃ頼之さんなど細川氏は無法な侵略者以外の何者でもありません。頼春さんの代から抗争を続けていましたが、このときばかりは頼之さんの前に完敗ということになってしまいます。のちに頼之さんが中央政界進出のために四国を留守にしますとたちまち河野氏勢力が巻き返してますので、頼之さん個人の戦略眼、指揮能力が高かったのかもしれませんね。
 なお、チラッと細川天竺禅門さんという武将が討死していることが触れられていますが、史料に名こそ残るもののこれがどういう人なのかは良く分からないようで、三河国の幡豆郡天竺というところに本拠を置いていた庶流細川家の人だったのでは、と言われています。
 この戦いに敗れて伊予を追われた通堯さんはもともと河野氏とは関係の深い得能水軍に助けられて九州は懐良親王を頼ります。彼はここから執念で伊予奪回をしちゃうわけなんですが、詳しいことはいずれドラマで語られましょう。
 そういえば「四国統一」とタイトルつけながら土佐について全く触れていませんが、貞治四年の段階で頼之さんが土佐・阿波・伊予・讃岐の守護であったことが確認できます。なおかつ伊予と違って土佐は以前から親戚の細川氏の勢力圏であったため支配はスムーズに進んだようです。

 短く入る春王さま成長ばなしは記録にあるイベントをそのまんま使ってます。紀良子さんが三人目のお子さんを生んだもののすぐ亡くされたというのも記録に残る話。なお、ドラマ中では面倒だったんで出演を一切カットしましたが、この春王さま矢開の儀が行われた五月に、尊氏さま夫人であり義詮さまの生母である登子さん(大河「太平記」では沢口靖子さんでしたねぇ)が亡くなられております。また同じ五月に義詮さんが北条高時さんの三十三回忌を営むなど、なにやら北条氏の昔を思い起こさせるイベントが続いておりました。
 春王さまが赤松邸を訪問されてますが、これは以後恒例化され、「赤松ばやし」は毎年将軍にお見せするイベントとして定着していきます。則祐さんが春王様の「養父(養君)」と見られたというのは公家の日記『師夏記』に見える話です。

 いきなり今川貞世さんが関東に出かけて足利基氏さんと顔を合わせております。実は作者は今回執筆の直前になってこの事実に気がついて慌てて挿入したというんですが…。
 この時期に貞世さんと基氏さんが会ったかどうかは実は定かではありません。しかし『了俊大草子』という本には貞治年間に貞世さんが基氏さんと対面し、その射芸を見たということが記されており、また基氏さんが貞治4年(やや疑問もあり)9月に歌の師・冷泉為秀さんに当てた書状で「先日古今の説を少々“遠州”よりたまわりました」と書いていて、この「遠州」ってのが遠江に領地を持っていた貞世さんのことをさしているのではないかと言われてるんですね。だとするとこの時期しか会う機会はないのではないか、と作者は急遽この場面を組んだわけでございます。はるか後に、今川了俊さんが基氏さんのお孫さんをたきつけて反乱を起こさせようとする事件があるのですが、それの伏線というところもございます。

 さて、時間の流れがだんだん速くなっているような気がいたしますが、これはあくまで事件があまり無いからです。決してあと半分で終わらせるために話を詰め込んでいるわけではございません、たぶん(笑)。
 貞治五年三月の大原野大花見大会(笑)のエピソードは『太平記』が記しているものですが、まぁ婆沙羅大名・佐々木道誉さんの真骨頂ともいえるエピソードでしょう。この人、並みの派手好きではありませんね、ホント。それもただ派手に騒いでいるだけじゃなくてちゃんと政治的計算があったりするわけで、まさに「政界の怪物」の名にふさわしい。桜の木の前にバカでかい花瓶を置いて「立花」を気取ったという仕掛けも、立花芸術の立役者の道誉さんならではですね。
 あれ?私のお父さんがいきなり出演しているじゃああーりませんか!(笑)なお、『太平記』には我が父・観阿弥の名も一忠の名もございませんが、この花見に猿楽役者を呼んでいたと書かれてますので、道誉さんが一忠・観阿弥の庇護者であったと考えられることからこの花見にこの二人が出ていたとするのはそう無茶な創作でもないでしょ。
 もちろんわたくし世阿弥もすでにこの世にあるんですが、まだ三歳なので出演は無理でした(笑)。


制作・著作:MHK・徹夜城