第二十七回
「予兆」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 中国管領を解任された細川頼之は大軍で伊予へ侵攻、この地に根を張っていた河野氏を駆逐して四国全土をその支配下に収めた。一方、京の幕府では将軍義詮のもとで政権を握る斯波父子に対する有力守護を中心とした不満がくすぶり続けていた。幕府の宿老・佐々木道誉はその機運をつかみ、またも政変を引き起こそうとしている。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

楠木正儀

渋川幸子

三島三郎 新開真行

寛成親王 後村上天皇

大内弘世 後光厳天皇

春屋妙 葉室光資 但馬道仙 

三宝院覚正 金逸 金竜

魏天

小笠原頼清

斯波高経

世阿弥(解説担当)

春王(子役) 斯波義将(子役) 
細川家家臣団のみなさん 斯波家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
室町幕府直轄軍第6師団

足利義詮

二条良基

佐々木道誉


◆本編内容◆

 貞治五年(1366)8月3日。異変は突如として起こった。近江から六角佐々木氏の佐々木氏頼が突然軍勢を率いて入京したのである。「すわ、戦か」と京の市民たちが大騒ぎするなか、京にいた諸大名はそれぞれに水面下で活発な動きを展開していた。
 この佐々木氏頼軍の入京が同族である幕府の宿老・佐々木道誉の手引きであることは明らかであった。道誉の狙いが、かねてから対立関係にある斯波高経斯波義将父子の打倒にあるであろうことは斯波父子自身もよく承知しており、「道誉より先にこちらが将軍を押さえねばならぬ」と、翌4日に高経は将軍邸に赴いて将軍・足利義詮に面会し「昨日の近江の軍の入京はこの高経を討とうとの将軍のお考えか…ならば武士を一人我が館に送り込めばすむこと」と凄んで見せる。その勢いに義詮もひるみ、「このことについてはわしも何も知らん。道誉入道や赤松などが結託して勝手にやっておることじゃ」と弁解し、彼らを説得するからひとまずおとなしくしていてくれと高経に言う。
 ひとまず安堵した高経はその後義詮の正室・渋川幸子と対面するが、幸子は事態を楽観視していなかった。「将軍は確かに何もご存知ないかも知れぬ…しかし道誉を甘く見てはなりませんぞ。早く兵を集めなされ。そしてこの将軍邸を囲むのです」と言う幸子に、高経は「執事をつとめる我らに将軍に対して刃を向けよと言われるのか…高師直、仁木義長、細川清氏…下手に兵を動かしたものは自滅しかねませぬ」と答え退出する。
 ところが高経が将軍邸を退出した直後、佐々木氏頼の軍が三条坊門に押しかけ、あっという間に警固と称して将軍邸を包囲してしまった。そしてその将軍邸へ佐々木道誉がやって来る。道誉は義詮に対面し、「畿内の諸大名、および多くの寺社が斯波父子の政に不満を抱き、このままでは幕府そのものへの反逆に走りかねませぬぞ。大事に至る前に、斯波父子を執事の座から降ろしていただきたい」と要求する。道誉が合戦をするのではなく、ただ軍事力で威嚇して斯波父子を守護国である越前に追えばよいと進言したので、義詮は力なくこれにうなづく。その影で幸子は「言わぬことではない…」とつぶやいていた。
 道誉らが将軍と将軍邸を押さえて各地の兵を京へ呼び寄せている、との知らせに将軍邸からさして離れていない三条高倉の斯波邸は緊迫する。斯波側も京市中にいた兵を集めて対抗する構えを見せるが、将軍自身を押さえられては大勢は決したも同然だった。数日の睨みあいの後、8月8日夜半に将軍側から三宝院覚正が使者として斯波邸を訪れ、斯波義将の執事解任と斯波父子の越前への追放を伝えてきた。義将は「あまりにも理不尽な将軍の仰せじゃ!かくなる上は一戦交えてでも!」と父の高経に迫るが、高経は無駄な抵抗は避けて越前で機を待つべしと決断。翌9日早朝に斯波父子は館に火を放ち、一族郎党と軍勢を率いて京を去り越前へと向かった。義詮も道誉もあえてこれに追撃を加えようとはせず、政変は無血のうちに終わったのである。

 こうした京の政変の情報は、戦後の伊予にあって統治につとめていた細川頼之のもとにも届いた。「道誉入道、またやりおったのう…」と頼之は感心しつつも半ば呆れたように言う。情報をもたらした三島三郎 はその後越前に逃れた斯波父子に対し、将軍義詮から畿内の諸大名に追討令がくだり、各地の大軍が越前に向かったが、斯波父子も杣山(そまやま)の城に籠もって防戦する一方で下手に抵抗しようとはしておらず、幕府の追討軍も斯波父子を徹底して滅ぼすつもりが無いらしいと語る。「清氏の前例があるからな…斯波どのも分かっていておとなしくしておるのだろう。将軍も気まぐれだからいつ返り咲くかも分からぬ」と頼之は言い、「して、執事職の後任は?」と三郎に聞く。三郎は今度の政変の立役者である佐々木道誉が自ら執事になるのではないかとの観測がある、とだけ頼之に告げた。
 しかし観測のままに道誉が執事職に就くことはなかった。道誉自身が固辞し、義詮に将軍親政を行うよう勧めたからであった。道誉はさらに関東・鎌倉府の足利基氏との関係を改善しておくよう義詮に忠告する。「関東は…いま着実に力をつけております。京が動揺している今、基氏さまとその周囲に京に取って代わろうとの心が芽生えぬとは限りますまい」と言う道誉に、義詮はただうなずく。

 政変の余波もさめやらぬ9月23日、出雲国の海岸に一隻の外国船が碇を下ろした。急報がまずこの国の守護をつとめる京の道誉のもとに届く。「高麗国からの使者だというのか?」 と道誉は驚く。これまでにも高麗からの使者の来日が無かったわけではないが、今回出雲に着いた使者はこれまでになく威勢を調えた一行であり、高麗国王からの正式な国書も持参しているとの報告であった。道誉がさっそくこれを義詮に報告すると、義詮はこの使節の意味を道誉に尋ねる。道誉は「九州・瀬戸内の海賊どもがかの国々の沿岸を襲っているとは私も聞き及ぶところ…その件ではござりませぬか」と答える。「ええい、国の中すら容易に治まらぬのに、国の外からも難題がふって来るのか!」と義詮は頭を抱える。
 出雲に到着した金逸金竜を正副使とする高麗使節は、高麗国王が元の征東行中書省(日本遠征のために設けられた機関で高麗国王が長官をつとめる)の名義で日本に送ったもので、その目的は高麗沿岸を犯す海賊達、いわゆる「倭寇」の禁圧を日本政府に求めることにあった。一行は日本の複雑な政治事情を聞き込みつつゆっくりと旅をし、翌貞治六年の春になってようやく入京を果たすことになる。

 貞治5年の12月7日。北朝の後光厳天皇が義詮の子で今年九歳になる春王に名を賜う儀式が行われた。朝廷が義詮の求めに応じて春王の名の候補として「義満」「尊義」の二つに絞りこれを義詮に回答、義詮側が「義満」を可としたため、後光厳天皇みずから筆をとって「義満」の名を大書し、関白二条良基がこれを春王に伝達する、という手続きがとられた。これと同時に春王は従五位下の官位を朝廷から与えられることになる。
 「義満…」都からの知らせで春王に与えられた名を聞いた頼之は感慨深げにその名を何度もつぶやく。「はや九歳におなりか…元服をなされ、義満と名乗られる暁にはさぞ立派なお方に成長されておられよう」と頼之は期待を込めて新開真行や三島三郎に言う。
 頼之の四国経営はこの間も着々と進められていった。長年頼之の支配に抵抗し、阿波の山間部で独立の姿勢を守っていた小笠原頼清も、頼之の勢いについに力尽き、貞治6年正月に頼之の軍門に降った。頼之は自ら臣従を誓いに来た頼清を暖かく迎え入れ、小笠原氏の帰順を幕府に伝えその所領安堵などを約束する。「ところで、正氏どのはどうなされたか?」と頼之は頼清に問うた。正氏は清氏の遺児で一時小笠原氏らの盟主として担がれていたのである。頼清は首を振り、「それがしと共に頼之殿に降るよう説得したのですが…父の仇に降るわけにはいかぬ、と一喝されまして」と言って、正氏がさらに山奥の豪族を頼って抵抗を続ける様子だと頼之に告げた。「そうか…」とだけ頼之は言って、ほんの一瞬であるが悲しげな表情を浮かべた。

 貞治6年の2月、高麗使節はついに京に入った。彼らの来日の目的がかなり政治的なものであることを知った京の人々の間では「蒙古襲来の再来か」と恐怖する声まであった。
 当時の公式の日本代表政府は北朝朝廷である建前であったが、実質的権力は無いに等しい朝廷はこの問題に深入りを避け、外交交渉は一貫して幕府があたることになった。しかし幕府としてもなんら外交のノウハウがあるわけでもなく、春屋妙葩など外国事情に通じる禅僧に交渉を頼む一方、以前から高麗と貿易を通じて関係の深い大内弘世の協力を得ることになった。弘世は通事(通訳)として育てていた魏天を京に呼び出し、漢文と高麗語によって行われる外交交渉に協力させる。
 交渉自体は友好的に進められたものの、倭寇の根拠地である九州にまったく号令が及ばない幕府には実のところ何の対策もこうじられるものではなかった。幕府側は率直にその事実を返書にしたため、早い時期に九州を平定し倭寇撲滅のための努力はするとの意向を高麗側に伝える。交渉がほぼ終わったところで征夷大将軍として義詮が高麗使節を将軍邸で引見し、鎧や太刀・扇子などの品を贈り物として使節に渡し今後の友好を確認しあった。
 将軍邸を訪れた高麗使節たちを、物陰から春王が興味津々の様子で見つめていた。「あれはどこから来たものじゃ?」と乳母の慈子に聞く春王。「高麗と申しまして、海の向こうの国でございます」と慈子は説明するが、さらに詳しい説明を求める春王の相手をしかねて、通訳にあたっていた魏天に助けを求める。魏天は地図を見せて春王に日本周囲の国々を説明し、「わたくしはこれから主君の命であの使者たちと共に高麗に渡り、かの国のことを学んで来ることになっております」と明かした。「お前は高麗の者ではないのか?」と首をかしげる春王に、魏天は少し悲しげな顔で「私の故郷はここでござります」と元の海岸を指差した。「帰りたいか?」と問う春王に、魏天は「それはもちろん…しかし今のわたくしはおのれが投げ込まれた運命の中で、精一杯生きてみたいだけでござります」と答えた。

 交渉の経緯を聞いた道誉は「やはり…九州じゃな。九州を押さえねば、幕府は幕府たりえぬ」とつぶやく。その道誉はこの時期別の交渉を熱心に進めていた。長年の懸案である南朝との和平交渉である。すでに清氏戦死後はまったく軍事的に勢いを失った南朝では、軍事的主力である楠木正儀自身が積極的に北朝との和平を進めようとしていた。正儀は以前京を占領した際に道誉邸で厄介になった縁から道誉と交渉ルートを持っていたのである。両者の連絡は道誉お抱えの医師である但馬道仙を通して行われていた。
 河内にやって来た道仙に正儀は後村上天皇が近ごろ北朝との和平に傾いてきている、と喜びの表情で語る。道誉を代表とする北朝側は講和の条件として三種の神器を北朝側に引き渡す代わりに皇位を北朝系と南朝系で交互に引き継ぐこと、皇室の所領財産を両統で分け合うすることなどを提案していた。さすがに軍事的に京都奪回が果たせるとは思われない情勢の中で強硬だった後村上の姿勢も次第に軟化し、この交渉に応じて京に帰る意向を示し始めていたのである。
 住吉の南朝皇居では皇太子の寛成親王が父の後村上天皇に詰め寄っていた。「主上は先帝の御心を無になさるおつもりか!また、よしんば都に帰れたとて足利が約束を守るとは思えませんぞ。三種の神器を手に入れたらそれきりでございましょう」と責める寛成に、後村上は疲れきったように黙り込むばかり。寛成の説得にも関わらず後村上は交渉を進ませ、ついに4月に公家の葉室光資を義詮のもとへ使者として派遣することが決定される。南朝の和平の使者がじきじきに京に入るのは、むろんこれが初めてのことである。
 「父上もあのお年ではや老いられたものだ」と寛成は側近達を前に嘆息する。「このままでは我らは神器を奪われ、先帝後醍醐の偉業は無に帰すのだぞ…それを看過できようか?」と寛成は言い、側近達をあつめて密談を始める。

 4月の末、京に入った南朝の勅使・葉室光資はまず但馬道仙の家に入り、間もなく将軍・義詮に対面を果たした。道誉も立ち会う中、光資は後村上天皇からの勅書をうやうやしく義詮に差し出す。義詮もまた重々しく勅書をふしいただいた上で中を開いて読み始めた。ところが、読み進むうち義詮の顔が一変してくる。「なんじゃ、これは!わしが“降参”するとあるではないか!」と声を上げる義詮。道誉も驚いて文面を確認すると、確かに義詮の“降参”を認めてやるとの内容である。「この和平は、こちらの帝が落ちぶれた住吉の帝に救いの手を差し伸べてやろうというものぞ…それをこちらの降参とは…余りにも無礼ではないか!道誉、お主は交渉に当たっていながら何をしておったのだ!」と義詮は激しく怒り、勅使の光資を追い返すよう命じた。道誉は大いに困惑しつつ、義詮に平身低頭で謝罪する。
 和平が破談になったことを聞いて、寛成は一人ほくそ笑んでいた。彼が後村上の勅書を、ひそかに義詮の怒りを買うことが必至の文面のものにすり替えていたのである。一方で道誉からの連絡で和平交渉決裂を知った楠木正儀は嘆息するばかりであった。

 南朝との講和交渉が破談になった経緯については、道誉自らが書状をしたためて頼之に伝えてきた。道誉は書状の中で無念と言いつつ、この破談には何者かの謀略があった可能性もあるとして今後も正儀と交渉を続けるとしていた。
 そして末尾に、「機は熟してきておる。近々右馬頭どのにご上洛を願うことになろう」と道誉は記していた。上洛とは頼之に幕政への参加を求めるということにほかならない。頼之は大きな使命が着実に迫りつつあることを感じとっていた。

第二十七回「予兆」終(2002年7月23日)


★解説★

世阿弥第三弾  また遅れてしまってますねぇ。しかも当初予告していた今回のタイトルも変更になっちゃってるし。まったくここの作者は行き当たりバッタリに人生おくってますな。あ、申し遅れましたが、わたくし本仮想ドラマの解説者にしてぼちぼち登場人物になる予定の世阿弥でございます。

 前回のラストから数ヵ月後、またもや幕府では政変が起こっております。この「ムロタイ」を最初からお読みになっていた方は「またかい」と呆れるばかりでございましょうね。今後も何回かこのパターンは繰り返されますので、お楽しみ(?)に。
 今回の政変で「またかい」と思わされるのは黒幕が佐々木道誉さんという点でしょうね。もう70過ぎてるんですけどこの人、依然として現役バリバリの政治家であります。「道誉が動くと政変が起きる」ってんで、当時の「道誉番」の新聞記者たちは常に館にはりついていたことでございましょう(笑)。それにしても一向に主体性のない将軍義詮さま。ただお父上の尊氏さまもそうでしたが、その主体性の無さが将軍の身を政治紛争から一歩高みの安全地帯に置くことになり、結果的に将軍の地位を守るという効果があるのも事実ですね。
 この斯波父子政権打倒のクーデターは斯波側が自らの館に火を放って自主的に(?)退去したことから一応無血クーデターという形で幕を下ろしました。この政変の黒幕が佐々木道誉さんだったのは事実ですが、単純に道誉さんたち有力守護大名と斯波父子の対立というばかりでなく、斯波政権が幕府の財政的強化を狙って興福寺など有力寺社の土地を接収する行動に出たため、寺社勢力が激しく斯波政権に抵抗していたという背景も見逃せません。この時代、こうした宗教勢力は重要な政治権力の一つでありまして、細川清氏、斯波高経、そして細川頼之さんといった室町幕府の歴代政権はいっつもこうした宗教勢力との激しい抗争を繰り広げているんですね。
 この政変の後、道誉さんが執事になるんじゃないかとの観測が出た、ってのがドラマ中に出てまいりますが、これはあくまで創作。観測ぐらいはあっただろうなというただの推測ですが、次回への伏線になっていたりもします。なお、この政変ののち、それまで対立しがちだった義詮さまと関東の基氏さまが仲直りをしたというのは確認できる事実です。

 貞治5年の年末に、春王さまに「義満」の名が天皇から授けられます。なんだか年号の選定みたいな手続きですな。これによって義満さまは義詮様の後継者として公式に認められたことになります。しかしあんなに早く後継することになるとは誰も思ってなかったでしょうけど…。そういえばNHK大河ドラマ「太平記」では最終回で死ぬ間際の尊氏様が、まだ良子さんのお腹の中にいるお孫さんに「義満」って名前をつけちゃうシーンがありましたっけ。なお、この場面で初登場した関白の二条良基さんというのは当時の北朝公家界を代表する政治家であり、連歌の大成者でもあったりと何かと有名な人物です(高校の日本史教科書には必ず名前が載ってるんだぞぉ)。今回登場してませんが今川貞世さんもこの時期に良基さんに連歌を教わっています。

 阿波では初登場以来頼之さんに抵抗し続けていた小笠原頼清さんがついに頼之さんに帰順してますね。こののちこの小笠原氏は三好郡を根拠地としていたことから三好氏と呼ばれるようになり、細川家家臣団の一角として重要な位置を占めます。戦国時代に有名な三好長慶なんかを輩出したりしますね。
 その一方、清氏さんの遺児・正氏さんは依然として抵抗を続けます。いずれ再登場することとなりますので、お楽しみに。

 さて、今回は高麗国からの使節の来日が大きな事件として扱われています。このドラマでは正副使の名を金逸・金竜とさせていただきましたが、「金竜」の方は各資料で一致しているものの「金逸」に関しては「金乙」「金乙貴」「金逸如」とか日・高ともに史料によってバラバラのようです。この高麗使節来日は軍記物語であるはずの『太平記』が意外に詳しく記しておりまして(持参した国書の文面まで全文載っている) 、当時の人々の耳目をかなり集めたことがうかがい知れます。これまでにも何回か高麗の使者が来た形跡はあるのですが、本格的な外交交渉に来たのは元寇以後これが初めてといって良いでしょう。その目的は倭寇禁圧の要請であったわけですが、もちろん当時の朝廷はおろか幕府にすら倭寇を禁圧する実行力はありませんでした。なんせほとんどの倭寇の拠点は彼らの支配の及ばない九州の地だったわけですから。
 しかしこの使節来日の効果はゼロではなかったようで、この直後に倭寇が一時期おさまっていることが確認できます。どうしてそうなったかという推理は次回以降でする予定ですが、もう一つこの件の重要な側面を挙げておきますと、これが室町幕府にとって初めての本格的な外交経験であり、形の上では日本政府であるはずの朝廷から完全に外交権を奪い、幕府自体が「日本代表政府」と化していく端緒となるという点ですね。このことは今後の義満さまの外交姿勢にもつながっていくわけです。

 これと同時進行で南朝と北朝の間で講和交渉がかなり進展していました。貞治5年9月の段階でかなり話が進んでいるらしいとの風聞が流れており、かなり時間をかけて道誉さんと正儀さんが交渉を続けていたようです。そして貞治6年4月末に南朝の勅使が京に入り、義詮さまに面会するというところまでこぎつけたわけです。普通、ここまでやれば講和はまとまるはずなんですよね。
 ところがこの土壇場で後村上天皇の勅書に義詮さまの「降参」とか後村上帝のご気分を「天気」と書くといった表現があることが分かり、義詮さま大激怒。あっさり講和はご破算になってしまい、交渉にあたっていた道誉さんが義詮様から激しく叱責されたという話が『師守記』という史料に残されています。これは後村上天皇の相変わらずのかたくなな態度が交渉を破綻させたととるのが一般的ですが、こと根回しをやたらに好む日本人の行動原理からすると勅使が将軍のもとに乗り込むところまで話が進んでいるのにいきなりこんな文章が出てくるというのも不可解ではあります。そのため「南朝側が土壇場で突然無茶な条件変更を言い出したのではないか」との見解もあるわけです。
 作者はこのミステリーに、以前にも謀略家としてご登場いただいた寛成親王、のちの長慶天皇の謀略だったという解決策を与えてみました。もちろんちょっと面白すぎる展開ですけど、このころもうくたびれていた後村上天皇(翌年死去)に対し長慶天皇はバリバリの強硬論者として聞こえている人なので、案外的外れではないんじゃないかと考えてもいるそうです。
 さて、いよいよ次回は事態急展開。細川頼之政権誕生のドラマが始まります。


制作・著作:MHK・徹夜城