第二十八回
「管領誕生」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 執事として数年間幕政を牛耳った斯波高経・義将父子も、貞治5年8月、佐々木道誉ら有力守護のクーデターにより幕府を追われた。ひとまず将軍義詮自身による親政が行われるが、倭寇対策、南朝との和睦決裂など難題が相次ぐ。苦闘が続く幕政を打開する切り札として、細川頼之の出馬のときが刻一刻と近づいている。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川貞世

渋川幸子

三島三郎 新開真行

足利基氏 春屋妙 

上杉憲顕 但馬道仙 尊道親王

斯波義将

紀良子

赤松則祐

斯波高経

世阿弥(解説担当)

春王(子役) 金王丸(子役)
細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
ロケ協力:京都御所・青蓮院
室町幕府直轄軍第12師団

足利義詮

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 貞治六年(1367)4月末、鎌倉公方・足利基氏は急な病に倒れていた。死期を悟った基氏は長子・金王丸(氏満)と執事をつとめる上杉憲顕を枕頭に呼び寄せ、後事を託した。「将軍には…実力ある者を執事にたて、幕府の土台をしっかりと固められよと伝えよ…以前、今川伊予守が推していた細川頼之を、幕政に参加させるよう、伝えよ…」と基氏は苦しい息の下から憲顕に言う。そして基氏はまだ少年の氏満に足利の二本柱の一本として幕府を支えよと諭し、「もし…将軍家が世を乱し、幕府の存立を危うくすると思うならば、それに取って代わってでも幕府を守るのじゃ、よいか」と小声でささやく。氏満はこっくりとうなづく。
 4月26日、基氏は息を引き取った。享年わずかに28歳。後事を託された執事の上杉憲顕はただちに急使を京に走らせ、基氏の死と子の氏満の後継承認を求めた。
 年若い弟の急死に将軍・義詮はショックを隠しきれないでいた。義詮は佐々木道誉に自分の名代として鎌倉に弔問に赴くとともに、基氏死後の関東に動揺が走らぬよう、憲顕を助けて事務処理をしてきてくれるよう命じる。「この老いぼれにそのような大事を…」と当年72歳の道誉は言うが、義詮は「このような大事、そちにしか頼めぬ」と聞かない。道誉が関東行きを承知すると、義詮はつぶやくように言う。「基氏とはいささか行き違いもあったが…わしはあやつの関東での政を聞くにつけ、ほとほと感服しておった。わしに似ず、よく出来た弟よと妬ましく思うたこともある。いま、その弟に急に先立たれて、わしは無性に心寂しい」そう言って義詮はため息をつき、「命とははかないものよ…わしとていつどうなるかは分からぬ…」と言うのだった。
 5月末、道誉は老体を押して鎌倉へと旅立った。鎌倉に入った道誉は基氏から氏満への継承を見届け、関東の武士達に幕府の威光を示して動揺を防いだ。

 6月、京では延暦寺系の園城寺(おんじょうじ)と禅宗系の南禅寺との間で激しい紛争が起こっていた。きっかけは南禅寺が設けた関所の通行料を園城寺の小僧が払おうとしなかったために起こったトラブルだったが、幕府と結びついて勢力を伸ばす「五山」と呼ばれる有力禅宗寺院と旧来の権威の維持をはかる天台宗寺院との激しい対立が背景にあった。
 6月18日、ついに園城寺側の僧兵が南禅寺の関所を破壊し僧侶を殺傷する行為に及び、南禅寺および五山側は幕府に園城寺の横暴を訴えた。五山側は夢窓疎石の甥である春屋妙葩ら政界に強い影響力を持つ高僧がおり、義詮も五山側の要求を受け入れて6月26日に園城寺の関所数箇所を破壊する措置をとった。この関所破壊には幕府の侍所の頭人(長)として京市中の治安維持を務める今川貞世があたり、大きな混乱も無く破壊作業を終えた。貞世はこの時期、父・範国の隠居を受けて引付(裁判処理)の頭人ともなり、幕政における重要人物の一人となっている。
 この騒動はこれでひとまずおさまったが、旧仏教系寺院の禅宗、および幕府に対する不満は根強く残ることとなった。

 7月13日。前年の政変で幕府を追われ、越前の杣山城にこもっていた斯波高経が63歳で病死した。息子の斯波義将はひそかに義詮の正室・渋川幸子 に連絡をとり、高経の死を知らせると共に、これをしおに幕府に赦免をはたらきかけてほしいと要請する。もともと斯波父子と関係が深い幸子はこれを受け入れ、義詮に義将の赦免を願い出た。義詮としても昨年の政変の原因は高経の専横に対する諸大名の不満にあり、その元凶・高経が死んだ今はむしろ足利一門の結束を固めるべきとの判断から、義将の赦免を認めることにした。
 8月、関東の処理を終えた佐々木道誉が帰京したが、留守中に義将が赦免されたことを医師の但馬道仙から聞いて道誉は眉をひそめる。幸子の仲介であるらしいとの道仙の話に「さもありなん」と道誉は言い、「幸子様は恐ろしいお方よ…この道誉をも上回る妖怪やもしれぬて」と幸子とその一派が赦免された斯波義将を執事に立てようと画策していると警戒する。「幸子様には実家の渋川、斯波、そして山名、さらには朝廷や春屋妙葩さまにまで人脈がございます…また、ご自分のお子ではない春王様を憎んでおいでとの噂もございます。幕府にとって危険なことになりはすまいかと」と道仙が医師として得た情報から道誉に忠告する。道誉もうなずき、「わしも手は考えておる。そろそろ呼ぶべき人物を呼ぶときが来たようだ」と言う。

 8月19日、またも寺がらみの騒動が起こっていた。宮中で行われた最勝講の儀式で延暦寺と興福寺の衆徒たちが乱闘に及んだのである。侍所の今川貞世も駆けつけて事態は収まるが、宮中での乱闘という前代未聞の騒ぎに、「さきの園城寺に続き、今度は…まったく坊主どもは!」と義詮は頭を抱える。そこへやって来た道誉が「これも幕府の力が足らぬため。実力のある者を執事にすえて幕政の管領を掌らせよ、と左馬頭(基氏)さまのご遺言でござります」と義詮に言う。「実力のある者、とは…?」と問う義詮に、道誉は威儀を正して答えた。「先に細川清氏を討ち、中国・四国を平定しこれをよく治める、“四国大将”たる細川右馬頭頼之でござります…!」

 これに先立って道誉の密命を帯びた医師の但馬道仙は四国に渡り、讃岐に入っていた細川頼之に面会していた。道誉は密書で頼之に対し「ただちに軍勢を率いて上洛されたし」と伝えてきていた。「上洛はかまわぬが、軍勢を率いて、とは穏やかではないな」 と頼之は言い、さらなる情報を求める。道仙は頼之に京の昨今の情勢を伝え、道誉が斯波派および幸子の勢力を押さえ込むためにも頼之の幕政参加を求めていると説明、さらに斯波派には山名一族が加わっており、それに対抗するにはその山名と戦った経歴もある頼之が軍勢を率いて上洛することが必須、と説いた。「佐々木様は申しておられました…右馬頭さま出馬の時が来たのだ、と。この機を逃しては二度と機会はない、と」と道仙は語気を強めた。これを聞いた頼之は目を閉じてしばし黙然としたのち、「そうか…道誉入道がわしの出馬の時が来た、と…そうか」と言って立ち上がり、新開真行三島三郎ら家臣たちに向かって声を上げた。「ただちに三千の兵を調えよ。上洛じゃ!」頼之の声に、一同は「ははっ!」とかしこまる。

 9月4日、斯波義将は上洛して義詮と対面、ここに義将は公式に赦免されることとなった。しかしこの義将を執事にたてて幕政を取り戻そうと画策していた幸子ら斯波派の面々は心穏やかではなかった。細川頼之が四国から軍勢を率いて京へ向けて進軍しているとの情報が伝わってきていたのである。「こは、恐らく道誉入道の画策ぞ…昨年と同様、兵の力で義将殿を追い払うつもりじゃ」と幸子は呼び寄せた山名時氏に向かって言う。「あの頼之とわたくしはいささか悪しき因縁がある。それは山名殿も同じであろう」と幸子は言い、時氏に山陰の軍勢を集めて頼之に対抗しては、と持ちかける。時氏は 「頼之は知恵者でござる…直接戦うたこともなく顔をよく見たこともござらぬが、遠くから互いにやりおうたことは何度もござりましてな、良く分かるのです。あの者、道誉入道の話に乗せられただけで来たわけではありますまい。ここが勝負どころと見定めましたのじゃ。なればこれは容易な覚悟ではありますまい」と言い、兵は調えてみるがあまり期待しないで欲しいとだけ答える。

 9月7日、頼之の軍勢は京の西・嵯峨に到着した。頼之はここで数日都の様子をうかがうように滞在する。この動きに京の市民達は都で戦乱が起きるのではないかとまで噂しあっていた。このような情勢の中、義詮は側室の紀良子と子の春王を伴い賀茂方面へ珍しく親子そろっての遠出をしていた。これには春王の乳母であり頼之の妻である慈子も同行しており、道すがら義詮は慈子に頼之の動向などを質問する。「基氏や道誉は頼之を執事にせよと勧めておる…が、幸子や斯波、山名は軍勢を率いて上洛した頼之に警戒の念を抱いておる…そうたやすくはいかぬ」と義詮は嘆息し、ひとまず頼之には軍勢は嵯峨にとどめて頼之自身は慈子の私邸に入って待機するようにと慈子に指示した。
 14日、頼之は六角小路・万里小路にある慈子の私邸に入った。久しぶりの夫婦の再会に、頼之も慈子も万感の思いを抱く。「慈子…わしはもう四国には戻らぬ覚悟で参った。我らは何かと離れて暮らしていた夫婦じゃが、今後は、世話になるぞ」と頼之は笑う。笑いながらもその言葉の裏に頼之の幕政参与に対する意欲と覚悟を感じた慈子は「どうぞ、ご存分のお働きを」と頼之を励ました。

 頼之上洛ののちしばらく事態は動かず、騒乱が起こるのではと不安がっていた京の人々も10月に入ると平穏を取り戻しつつあった。しかしこの10月の初めから、義詮はふとひいた風邪をこじらせ、次第に病状を悪化させていったのである。
 11月に入ると義詮の病状はいよいよ重く、義詮の周囲や幕府中枢でも事態を深刻に受け止めるようになった。義詮の病床には幸子がつきっきりで看病にあたっていたが、良子や春王が見舞いにやって来ると、幸子は「将軍にはご不快であらせられる」との一言ですげなく追い返してしまっていた。幸子は義詮の愛情を取り戻そうとするかのように懸命に看病に努め続ける。
 11月20日、義詮の回復を祈る大々的な祈祷が青蓮院で執り行われた。この祈祷に春王が父の代わりとして参列し、佐々木道誉、細川頼之、今川貞世、山名時氏、赤松則祐 ら多くの有力諸大名がこれにつき従う。これはもはや回復の望みが薄くなってきた義詮のあとを継ぐ者が、少年春王その人に他ならないことを世間に示すデモンストレーションでもあった。この席で貞世は頼之に声をかけ、義詮の病状次第では山名や斯波らがどう動くかわからぬから警戒せよ、と忠告する。一方でこの青蓮院の門跡・尊道親王は頼之だけを特別に呼び出して対面し、「すでに執事職につくことが内定しているようで」と話しかけてきた。

 11月25日。義詮はそばで看病する幸子に声をかけた。「幸子…春王を…そして、頼之を、呼べ…」との義詮の苦しみながらも強い意志のこもった声に、幸子はハッとする。「…言わねばならぬことがある…春王と、頼之を…呼べ…」義詮は手を伸ばして幸子の腕をグッとつかんだ。
 ただちに春王が、そして頼之が三条坊門の将軍邸に馳せ参じた。頼之が緊張した面持ちで邸内に入り、義詮の寝所のそばへとやって来ると、寝所の前に春王が控えていた。春王もまた緊張した面持ちで頼之の顔を見つめる。頼之はその顔を見てから、ぱっと春王の前に平伏し「細川右馬頭頼之でござりまする…」と挨拶した。その声が聞こえたのか、義詮が頼之を呼んでいると寝所の中から医師が声をかけてきた。
 頼之が寝所に入ると、げっそりとやせ衰えた義詮の顔が目に飛び込んできた。頼之はいたたまれない思いで義詮のそばへ近づく。「頼之…分かっておろうが…わしは、もう…いかぬ…」と義詮。 「将軍…」沈痛な顔で瀕死の主君を見つめる頼之。「父・尊氏から幕府を引き継いで、わずかに10年…世が一向に治まらぬまま、わしは逝かねばならぬ。案じられるは春王よ…」 やや自嘲するかのようにつぶやく義詮。「頼之。今日より、そなたを執事に任じる。春王を、幕府を頼む」 義詮は右手で頼之の手をとった。「頼之、命を賭して若殿をお守り申し上げまする!」 頼之は震えながらも力強く答えた。義詮はこの答えにうなずき、「春王を、これへ…」と命じた。
 春王も部屋の中に入ってくる。春王は義詮を挟んで頼之と反対側に控えて「父上…」と涙ながらに声をかける。義詮は春王の手を左手で握った。「頼之…汝に一子を与える…春王は、今日よりそなたの子じゃ…」 頼之は義詮の手を握りしめて体を震わせる。「春王…汝に一父を与える。今日より、頼之がそなたの父じゃ。その教えに違うてはならぬ」 春王も父の言葉に涙してうなづく。「そなたたち二人で力を合わせ、天下を太平ならしめよ…。わしの見ることの出来なんだ太平の世を築くのじゃ…これが、わしの遺言ぞ…」義詮は頼之と春王の手を両手で握り締めながら、思いを伝える。頼之と春王は義詮の手を握りつつ平伏し、「ははっ」と答えて涙した。この様子を隣室からうかがう幸子も声を押し殺して泣いていた。

 貞治六年(1367)11月25日。この日をもって足利義詮は足利家の家督と幕府の政務をわずか十歳の息子・春王=義満に譲った。そして同時に細川頼之を、幼い義満を補佐し実質的に幕府の最高権力者たる執事に任じたのである。幕府政治の中枢となった執事職を、人はいつしか「管領」と呼ぶようになる。
 足利幕府第二代将軍・足利義詮が息を引き取ったのは、それから間もなくの12月7日のことである。享年わずかに38歳であった。

第二十八回「管領誕生」終(2002年7月28日)


★解説★

世阿弥第三弾 やれやれ、ようやく第一回冒頭のシーンに到達いたしました。解説役のわたくし世阿弥もホッといたしておりますが、28回もかかるとは到底思わなかったなぁ…。

 この回は冒頭から大物が亡くなります。初代鎌倉公方であった尊氏様のお子様・足利基氏さんが4月26日にわずか28歳でご逝去。死去の前に頼之さんを執事に、と兄の義詮さまに推したというのは『細川頼之記』という史料に出てくる話で、割と良くものの本にも書いてあることなんですが、この『細川頼之記』というのがかなり後世に執筆されたいささか問題の多い伝記本でございまして、ハッキリ言ってあてになりません(このズバリのタイトルのくせに本仮想大河の解説でこれまで全く触れてないのもそのせい) 。そこでは佐々木道誉さんが執事の座を狙っていたので基氏さんがこれを阻止するべく頼之さんを推したって話になってるんですけど、実際には道誉さん自身が頼之さんを推した張本人であるようでして、信憑性はほとんどありません。ただ、本仮想ドラマではあえてこの話を一部取り込み、道誉さんが頼之さんを推薦する補強材料に使ったということで処理してあります。
 なお、御年72歳の道誉さんが基氏さま逝去後の関東に乗り込んで事後処理にあたったというのは史実です。つい先日、南朝との交渉不首尾で義詮さまから叱責されたばかりなんですが、義詮さまの道誉さんに対する信頼自体が揺らぐようなことはなかったということのようですね。
 なお、この関東へ赴く直前に前回から登場しております但馬道仙という医師が道誉さんに薬を納めたという事実があります。この道仙という医師、ただの医者ではなかったようで貿易業にも関わるビジネスマンでもあり、また南朝の使者を自宅に泊めるなど恐らく南朝との交渉も彼が連絡役だったと推測される、なかなか謎な人物であります。道誉さんの周辺に登場しますので恐らく道誉さんのブレーンの一人だったんじゃないかと思われます。あ、頼之さんのところへ密使に向かっていますがこれはドラマ上の創作です。

 6月と8月に寺院関係の騒動が相次いで起こっていますが、別に今川貞世さんの出番をつくるために無理に挿入したわけではありません。このあたりの宗教界の揉め事はやがて頼之さんの執政時代にも尾を引いて重大な政治問題になるんですね。武士の権力機構である幕府が京都にやってきたことで宗教界でも武士と結びつきの深い禅宗が京でも勢力を伸ばし、奈良・京都の旧宗教系が激しくこれに反発するという構図があったわけです。
 これと同時進行で、京都市中の治安警察・裁判権も次第に朝廷から幕府の手中に収められていくのですね。この年の宗教界の騒動でも幕府の侍所が京の治安維持のため騒動鎮圧にあたっております。この侍所と引付衆の頭人を務めることで今川貞世さんは幕府中枢の重要人物となっていくわけですね。そして親友である頼之さんの政権が発足すると当然のようにその重要なブレーンの一人となるわけです。

 7月には前年に政権を追われた斯波高経さんが越前で亡くなっております。高経さんを憎悪しその政権打倒に一枚加わった興福寺などは神罰・仏罰にあたって死んだものと盛んに宣伝したそうでございますけどね。しかし父親が死んでしまえば子に罪は無いとばかりにお子さんの義将さん(ドラマ上では今回から子役と交代することになってます) のほうは即座に赦免され京に舞い戻ることになります。この赦免に渋川幸子さんがかんでいたというのは作者の創作ですが、人脈的には十分考えられることかと思われます。斯波義将さんを執事にして斯波系政権復活というシナリオを書いた人は幸子さんではないにせよ実際にいたものと推測されます。
 義将さんが上洛し義詮さまと対面したのは9月4日。そのわずか三日後の7日に頼之さんが讃岐の軍勢を率いていきなり上洛してくるのです。この動きは明らかに反斯波派が斯波政権復活を阻止するために画策したものとみてまず間違いないでしょう。だとすればその黒幕は例によって佐々木道誉さんであったと推理するのはいたって自然なことだと思われます。
 なお、『太平記』はじめいくつかの史料は頼之さんの上洛を義詮さま死後、あるいは病床に就いてからと記していたりするのですが、実際にはまだ義詮さんが急死するとは誰もが思ってもみない段階で上洛されているのですね。この上洛が執事(管領)就任のためではないかとの観測は当時京の人々の間でも実際にあったようでして、山名時氏さんがこれに反対していたため騒乱が起こるのではないかと人々が不安がったという話が『愚管記』という史料に残っております。
 この上洛にあたって、頼之さんが六角小路・万里小路にある「細川局(ほそかわのつぼね)」という人の私邸に入り、ここを自らの邸宅としたとの話が『師守記』に記されています。この「細川局」とは誰のことなのか一切分からず、タネ本『細川頼之』の著者・小川信氏も「頼之の近親であろうが関係は未詳」と記すのみなんですが、作者はこれは彼の妻であり義満様の乳母、つまりドラマ中における「慈子」さんだったのではないかと解釈しております。夫が細川だから「細川局」と呼ぶというケースがあるかどうかはちょっと危ぶんでるんですけどね。

 運命のいたずらとは恐ろしいもので、頼之さんが上洛した直後の十月はじめに義詮さまは風邪をこじらせ、次第に重態に陥ってしまいます。高血圧だったんじゃないかとの説もありますが、義詮様自身が「荒淫の限りを尽くしていた」と鎌倉側の史料などは伝えています。ともあれあまり業績も残さないまま亡くなってしまい「影の薄い二代目」の典型みたいな将軍になってしまった義詮様ですが、その唯一の業績と言われているのが亡くなる間際に細川頼之さんを管領に任じ、義満様の補佐を命じたことなんですから皮肉なモンです。
 11月25日の家督譲渡及び管領任命の経緯についてはいろいろと資料がありますが、『愚管記』では義詮様がまず頼之さんを枕頭に呼び寄せて義満さんに家督を譲ることを告げ、続けて義満様を呼んで三献の儀を行い剣一振りを与えたと言います。ドラマでも採用した有名な「一子を与える、一父を与える」という義詮様の名セリフは細川家側に伝わる記録に出てくるものです。この日のうちに幕府には諸大名が参集し義満さまに忠誠を誓い、頼之さん管領就任を祝賀しています。12月3日に朝廷は義満様を正五位下・左馬頭に叙任し、政権の移譲が完全に終わるのを見届けたかのように、12月7日に義詮様は息を引き取ります。

 ドラマでは展開上入れなかったお話を一つ。亡くなる間際に義詮様は遺言として「楠木正行の墓の隣に葬ってくれ」と言い残したと伝えられ、実際にその通り京都・宝筐院では正行さんのお墓の隣にお墓があるんですね。楠木正行さんとはもちろん正成さんのご子息でお父上同様に戦死を遂げた後世「小楠公」とも呼ばれるあの人です。北朝の総帥である義詮さんから見ればまさに敵の大将そのものですが、偉大な父親を持ってしまった二代目同士として個人的に共感するものがあったみたいなんですね。あんまり良く言われない義詮さんですが、その隠れた人となりを伝えるちょっといい話です。

 さて、古典『太平記』はこの頼之さんの管領就任をもちまして「中夏無為の代に成って、めでたかりし事どもなり」 (国内は平和になりました、めでたしめでたし)といきなり物語を締めくくります。その直前まで園城寺騒動や宮中の延暦寺・興福寺の乱闘、基氏さんや義詮さまの死去をつづって世の中どうなるんだと不安をかきたてておいて頼之さん登場でいきなり平和になってしまうという、全四十巻の超大作にしてはなんとも唐突な締めくくりです。その後もあれこれと紆余曲折が続くわけですが、『太平記』の作者はなぜこんな半端なところで物語を打ち切ったのか、一つの謎ではあります。一つの解釈として『太平記』の最終段階の編集に頼之さん自身が関わっていたからかもしれないというのもあります。
 良く引き合いに出される話ですが、『太平記』は巻二十二をその初期段階から欠いておりまして、後世の刊本では巻二十一と巻二十三から一部をいただいて「巻二十二」を作っちゃったりしているわけです。この巻二十二は新田義貞戦死直後の内容で弟の脇屋義助が北陸から吉野に向かう過程が記されていたと推測されるのですが、かなり早い段階からこの巻は事故あるいは人為的に失われたものと推測されています。『理尽抄』という史料がこの件について「武州入道(頼之)が焼き捨てたらしい」と記しており、そこに頼之さんの介入があった、少なくともそうした噂があったことを明らかにしています。じゃあなぜ焼き捨てたとかというのはその内容が分からないだけに推測するしかないのですが、頼之さんの父上・頼春さんか、あるいは将軍になった尊氏様に関して何かまずいことが書いてあったのではないかと言われております。
 推測の積み重ねでしかないわけですが、『太平記』が頼之さんの登場で唐突に終わっているのも頼之さん自身がこの『太平記』の編集に関わっていたからではないかとの見方は可能なわけです。自分が政権をとってからのことは書いてくれるなという圧力でもかけたのかもしれません。
 ただ後世から見たとき、未曾有の乱世・南北朝動乱を描ききった超大作軍記物語『太平記』が頼之さんの管領就任と義満さまの時代の始まりをもってその筆を置いているというのは、乱世の終わりの始まりを示すという点で妥当だとも思えるのですね。『太平記』は乱世の引き金となった後醍醐天皇の登場をもって物語を始め、乱世を締めくくる役割を担った頼之・義満の登場をもって物語を終えているわけです。

 さてさて、とうとう古典『太平記』の時代も終わり、いよいよこのドラマは完全オリジナルの世界、「室町太平記」に突入していくわけです…って、もう28回かよ(汗)。


制作・著作:MHK・徹夜城