第二十九回
「執政開始」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 貞治六年(1367)末、二代将軍・足利義詮は38歳の若さでこの世を去った。死に際して義詮は幼児・義満と幕府の命運を、39歳の細川頼之に託した。頼之は義満の父代わりとして、また幕府の最高権力者として、一国の政治を掌る立場となったのである。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川了俊(貞世)

楠木正儀

渋川幸子

三島三郎 後村上天皇

細川頼有 細川頼基

春屋妙 長慶天皇(寛成親王)

山名師義 吉良満貞 土岐頼康

細川氏春 細川業氏 佐々木氏頼

近藤盛政 教司 定山祖禅

張士誠 今岡通任 村上義弘

斯波義将

河野通直(通堯)

紀良子

朱元璋(洪武帝)

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役)

細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
比叡山衆徒のみなさん 瀬戸内海賊のみなさん
ロケ協力:等持寺・比叡山延暦寺・京都御所
室町幕府直轄軍第12師団
大明国江南電影公司

赤松則祐

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 日本で足利幕府の二代将軍がこの世を去ったそのころ、大陸でも新しい時代の幕が開かれようとしていた。江南の強敵・張士誠を滅ぼして長江下流域を支配下に収め、着々と統一事業を進めつつあった朱元璋が、新年(日本の貞治7年、1368)の正月をもってついに帝位につき国号を「明」、年号を「洪武」と定めたのである。ここにモンゴルの元朝に代わる新たな中華帝国の成立が宣言されたのであった。

 貞治六年12月7日。第二代将軍・足利義詮は息を引き取った。政権の移譲措置はそれまでに完全に済まされており義詮がなくなったこと自体による混乱は無かったが、今後の幕府を実質的に一人で背負うことになった管領・細川頼之は改めてその責任の重さを痛感するのだった。
 頼之は親友であり、幕府の宿老である佐々木道誉、そして引付頭人である今川貞世ら首脳たちをただちに呼び集めた。義詮の死に貞世も深い哀しみを露わにしていたが、「幕府のために身を捨てて働き、ご遺志を汚してはならぬ」と自らと頼之に対して言う。頼之はただちに全国の武士に義詮の死を公表して動揺を抑えるとともに、これを幕府転覆の機とみた南朝勢力などの攻勢に警戒するよう指示を出すことにした。そこへ道誉が、「特に九州に力を入れねばなりますまい」と口を挟んだ。道誉は外国との窓口でもある九州が南朝の懐良親王の支配下にあって幕府の威勢が及んでいないことが、幕府そのものの威信に関わる大事であると頼之に進言し、九州の幕府方・阿蘇氏にとくに書状を送って励ますよう勧める。幕府はさきに義詮の正室・渋川幸子の甥である渋川義行 を九州探題として派遣していたが、彼は九州に入ることすら出来ず山陽に足止めされている有様で、幕府としてより実力のある新たな武将を九州に送り込まねばならない状況にあった。頼之は道誉の意見を受け入れ、阿蘇氏に義詮の死去と新たな九州探題の派遣が近いことを知らせる書状を送ることにした。
 さらに頼之は義詮の死去から間もなく新年を迎えるに際して倹約令を発し、近ごろ華美に走り贅沢に慣れた武士達の心を引き締めたい、との意向を示した。「そりゃわしに対するあてつけか」と道誉が笑うが、頼之は「今は幕府にとって非常の時でござる。我ら武家がそろって身を引き締めねば、幕府は簡単に瓦解いたしましょう」と厳しい顔で言い、「とくに婆沙羅では並ぶものなき佐渡判官どのには率先してこれを実行していただきたい」と道誉に言い渡した。道誉は頼之に対して一礼し、「かしこまって候」とだけ答えた。

 やがて義詮の葬儀が、等持院で盛大に執り行われた。これには子の義満、妻の渋川幸子や紀良子斯波義将などほとんどの有力大名、さらに公家や高僧なども参列し、頼之の妻の慈子もやって来る。そして頼之自身は義満の父代わりとして葬儀全般の指揮をとった。その様子を見ていた山名時氏「あやつめ、すっかりおのれが次の将軍になったつもりか」とひそかに息子の師義に向かってささやく。師義は頼之が義詮の死の直後に九州の阿蘇氏に書状を送っていることに触れ、頼之が九州探題の更迭に踏み切る腹ではないかと父の時氏に言う。巷では渋川義行の後がまに師義自身の名が挙がっていたのである。
 この葬儀に出席した直後、今川貞世は主君の死を悼む意図から出家・剃髪してしまった。その法名を「了俊」と言う。

 年も押し迫った12月29日、細川頼之は管領として最初の法令を発した。義詮の死の直後に年始を迎えるにあたっての、五箇条からなる倹約の禁制である。年始の贈答を停止すること、華美な衣装を禁止し倹約をなすべきことなどを示したもので、義詮の死をうけたものとは言え、それは頼之の政治方針を武家全体に示すものであった。武家の中で最も華美にふるまい、婆沙羅の代表と言われた佐々木道誉がこの法令におとなしく従ったことから、頼之の威信が武家たちに示されることとなった。

 年が改まった貞治七年正月十七日、頼之は家臣の三島三郎を伴って東寺を訪れ、秘蔵の仏舎利を一粒奉請(ぶじょう)した。管領として幕政を進めていくにあたって御仏の助けを求めるとの信心からであったが、仏舎利の収められた宝殿を見るうち、頼之は以前この扉を従兄弟の清氏が破壊して仏舎利を取り出していったという話を思い起こしていた。「清氏…」と思わず遠い目になる頼之。「いまわしが置かれた立場は、かつて清氏が置かれた立場でもある。わしは清氏をこの手で討った者として、清氏の為しえなかったことを為そうとしているのだ」と頼之は三郎に言う。と頼之は三郎にだけ心のうちを明かす。「殿ならば、必ずおやりになれましょう。殿は負けると分かっている戦はせぬお方と承知しておりますからな」と三郎が言い、頼之は笑う。そこへ東寺の僧侶が話しかけてきて、二日前に今川了俊がやはり仏舎利を奉請しに訪ねてきたことを明かした。「そうか…思うところは同じかもしれんな。了俊もこの頼之も…了俊にはわしの片腕として大いに働いてもらわねばならぬ」と頼之はつぶやくのだった。

 正月28日、幕府では義満の臨席を仰いで「評定始」が行われた。管領細川頼之および評定衆の今川了俊、吉良満貞土岐頼康ら幕府首脳が顔をそろえ、今後の政治方針などを話し合う。上座に臨席する義満に頼之は「若君には何も仰せられず、ただそこにいて我らの話し合いをご覧あれ。ただし、私どもの話すことをよくよくお聞きになられませ」と言う。「わかった」 と義満はうなずく。かくして始まった評定では義詮の逝去を受けて心機一転を図るべく改元を朝廷に勧めること、また幕府の長である義満の元服を急がせ、その日取りを早く決定すること、などが話し合われ、頼之がそれらの議論をまとめあげていく。義満は頼之に言われたとおり、いっさい口を挟むことなくただ飛び交う言葉に聞き入っていた。
 新管領・頼之が打ち出した政治方針は、公家・武家・寺社のそれぞれの世界で見えていた乱れを規制し、秩序だったものに整理しようとするものであった。前年末に出された武家に対する倹約令に続き、2月12日には「諸山入院禁制条々」を発令して幕府と結びつきの強い禅宗の五山寺院に贅沢を禁じ、人事を厳密にする方針を示した。さらに頼之は所有する荘園を武士達に侵略され続けている公家や旧寺社に対する保護の姿勢を示し、とくに斯波政権時代に対立が深まった旧寺社勢力との和解につとめようと試みていた。

 2月18日、北朝は年号を「応安」と改元した。
 管領として幕府を仕切り、新たな政策を次々に打ち出す頼之に、道誉が面会を求めてきた。「就任早々、たいへんなお働きじゃが、あまりことを急ぐと敵を増やしますぞ」と道誉は忠告する。道誉はとくに頼之が古い公家や寺社の領地を保護する姿勢を示していることは、乱世の中で勃興してきた武士達を敵に回す恐れがあると警告した。「長い乱世も終わろうとしているのです。いや、終わらせねばなりますまい。それがしが考える政は乱から治へと移る時代の政でござる」 と頼之は道誉に語り、治の時代を迎えるにはまず公家も武家も寺社も秩序が保たれねばならぬ、と説いた。「乱の時代が終わると申されるのか…いや、わしのような古入道にはもはや分からぬことかもしれぬの。わしはもはや右馬頭殿を見込んで幕府の将来を託した。もう何も言うまい」と道誉は笑って立ち上がった。「だが、一つだけ申しておこう。乱を鎮めるには、やはり帝が二人おわすという状態を早く終わらせねばならぬ」と道誉は言い、自分が握っていた但馬道仙を通じての楠木正儀との連絡ルートをそのまま頼之に譲ろうと申し出る。「正儀と右馬頭どのは、知らぬ間柄ではないはず…お若いころに面識があるとかうかごうておる。なおかつ正儀はお父上・頼春どのを討った張本人じゃ。だが、ここは怨讐を越えて手を取り合ってもらいたい」と言って、道誉は頼之に正儀との接触し南朝のとの和睦交渉を勧めるのだった。

 その南朝では、3月11日に後村上天皇が住吉の行宮で急死していた。享年41歳。くしくも幕府も南朝もともに世代交代の時を迎えていたのである。後村上のあとを継いで即位したのは、長男の寛成親王で、後世「長慶天皇」と呼ばれることになる。楠木正儀も住吉に駆けつけたが、長慶天皇は型どおりに彼を扱うばかりで、幕府との和平交渉を進める正儀に対し露骨な嫌悪感をも示していた。長慶は「我らも先帝を失ったばかりであるが、逆賊の長の二人、京も鎌倉も代替わりして、おまけにいずれも幼いわっぱに過ぎぬ。これは天佑ぞ。関東の新田や畿内の宮方、さらには九州の征西将軍府にも号令を下して一挙に天下を奪回するのじゃ」と側近の公家達に向かって気勢を上げる。
 南朝の天皇交代の知らせは間もなく頼之ら幕府首脳の耳にも届いた。頼之は以前清氏との対決の折に策謀をめぐらした寛成親王が皇位に就いたことを知り、南朝における正儀の立場が危うくなることを予想した。「しかしこれは逆に南方を平定する機会となるやもしれぬ」と道誉は頼之に言う。

 四月十五日。まだ十一歳の義満の元服の儀が、幕府の総力をあげて盛大に執り行われた。この日をもって頼之は幕府の執事の多くが任じられた「武蔵守」の官位を授与され、義満の親代わりとして加冠の役をつとめ、義満の頭に烏帽子をかぶせた。義満の理髪は従兄弟の細川業氏がつとめ、従兄弟の細川氏春、さらに頼之の弟で頼之の養子となっていた頼基もそれぞれ儀式で役割を務め、義満の元服の儀はさながら細川一族の独占の観があった。
 さらに三日間にわたり盛大な祝儀が続けられた。初日は頼之ら細川一族が取り仕切り、頼之から義満に剣・鎧・弓・鞍馬などが献上され、義満が返礼として頼之に剣と鞍馬を与えた。二日目は今川氏が祝儀を仕切ったが、了俊は法体であるため弟の国泰がその代理をつとめた。三日目は山名氏が祝儀を仕切り、やはり法体である時氏に代わって息子の氏冬がその役をつとめた。
 幕府の実力者たちによる連日の盛大な祝儀は、将軍の権威の高揚を狙って頼之が指揮したものであった。二十七日には義満の臨席のもとに「評定出仕始」が行われ、幕府が「義満の時代」に入ったことを改めて天下に示したのである。

 新たな幕府の長として権威づけをされていく義満であったが、いまだ十一歳の少年であるに過ぎない。頼之は義満の父代わりとして、その教育にも気を配らねばならなかった。頼之は義満を幼児より育てた慈子に義満の教育について相談する。少年義満の学問の師として春屋妙や山名時氏がそれぞれに当代随一とも言われる博学の名僧を推挙していたが、慈子は「ただ博学を追うだけの学問であれば、わざわざ高名の師を必要とするとは思われませぬ。いずれ将軍となり、天下を治めるお方はまず人として学ぶべきことを学ぶべきかと思われます」と言い、世に埋もれた、無名ながらも徳のある師をつけるべきと意見する。頼之はこれに同意し、讃岐の隠士・近藤盛政や奈良の遁世者・教司といった人物を見いだして義満の学問の師とする。

 6月17日、頼之は「寺社本所領の事」なる法令を発布、諸国の守護にこれの遵守を命じた。これは長引く乱世の中で臨時の措置として行われていた「半済」(公家・寺社の所領の年貢の半分を、その国の守護が軍事費として徴収し配下の武士するもの)の規定を細かく定めて規定化すると同時に、皇室・摂関家・寺社の領地に関してはこれを保護するという、利権を拡大する武士の要求と、その侵略を受ける供花・寺社の要求を折衷した法令であった。
 後世「応安の半済令」と呼ばれるこの法令は、長引く動乱の中での武士たちの地位向上を既成事実化すると共に、それ以上の公家・寺社領への侵略を規制して秩序化を図るという狙いがあった。言い換えれば、動乱と混乱の時代が終わり、幕府のもとで秩序だった世の中がやって来つつあることを、頼之が全国の武士に向けて示した法令であった。

 就任早々から次々と新政策を打ち出す頼之であったが、間もなく大きな政治問題への直面を余儀なくされた。前年より続いていた比叡山延暦寺と、禅宗の南禅寺との対立がいよいよ激化し、京を揺るがす騒動にまで発展してしまったのである。
 閏六月、南禅寺の僧・定山祖禅がその著『続正法論』の中で延暦寺の僧を猿、その系列の園城寺の僧を蝦蟇(ガマ)と罵倒したことに、延暦寺側が激怒、南禅寺楼門の破壊と祖禅の流刑を北朝朝廷に要求した。これに対し禅宗界の最高実力者であり幕府にも影響力のある天竜寺の春屋妙も激しく反発、管領の頼之に対し「比叡山側の要求を受け入れれば禅宗の衰退だけでなく朝廷・幕府の権威失墜にもつながりますぞ」と強く訴えた。頼之ら幕府首脳もこの問題の処理には頭を痛める。
 8月に入り、比叡山側は改めて妙及び祖禅の流刑と南禅寺楼門の破壊を朝廷に要求、これを受け入れねば日吉(ひえ)神社の神輿をかついで入京すると脅迫した。恐れをなした朝廷はついにこれを受け入れる意向を幕府に示した。幕府でも協議が行われ山名時氏、赤松則祐佐々木氏頼らも比叡山の要求を受け入れることもやむなしとの意見を述べるが、頼之は「たとえ朝廷のご意向であろうと比叡山の言うままに従っては幕府および将軍の沽券に関わる」として、比叡山の要求を拒絶すると表明した。
 8月29日、怒り狂う僧兵らが日吉神社の神輿をかついで京への突入を図った。これに対し頼之は山名時氏ら諸将の軍を賀茂河原に、細川・赤松・佐々木・土岐などの軍を内裏近くに配置して僧兵らの阻止を図る。ところが山名軍などの兵士達が神輿の霊験を恐れてこれを平伏して見送り、神輿をかついだ僧兵らは難なく京市中へ突入する。内裏周辺では細川軍らがこれと揉み合いなんとか阻止したため、僧兵らは神輿四基を洛中に投げ出して抗議の意志を示し、比叡山へ引き返していった。

 9月。頼之に伊予を追われ九州の懐良親王を頼って逃亡していた河野通直(通堯から改名)が、懐良親王の応援や瀬戸内海賊の村上義弘今岡通任らの助力を受けて兵を整え、頼之が四国を留守にした隙をついて伊予に舞い戻ってきた。やむなく頼之に臣従していた伊予の武士達は旧主の帰還に喜んで呼応し、たちまち通直は伊予の国府を奪回、一気に旧領を回復する勢いを見せた。頼之の留守を守り讃岐を治めていた弟の細川頼有は事態の急変に驚き、兄の頼之にこのことを知らせる一方、自ら伊予へ攻め込む準備を始めた。

 河野一族が伊予に勢力を回復したとの報に接した頼之であったが、幕府の管領として自国領のことに気を回している余裕は無く、弟の頼有に任せるほかはなかった。その一方で南禅寺問題は依然としてくすぶっており、朝廷は祖禅の流刑で事態の解決を図ろうと頼之に提案していた。頼之はやむなくこれを飲み、結局11月27日に祖禅は遠江への流刑に処せられたのである。
 「天下の政事とはつくづく苦労の絶えぬものよ。なぜみなこのような立場に争ってまでなりたいと思うのであろうな」頼之は慈子にひそかに漏らす。慈子が笑って「ならばいつでもお好きな時にお辞めあそばしませ」と言うと、頼之も「むろん、それもできぬ。先の将軍と、そして清氏との約束じゃ…わしには逃げ出すことは許されておらぬのじゃ」と笑い返した。

 この年の末、義詮の一周忌の法要が盛大にとり行われた。義満の服喪が明けたことを受けて、十二月三十日に朝廷は正式に義満を征夷大将軍に任じた。その翌日の応安二年元旦に勅使が幕府に派遣され将軍就任の宣旨を伝える。頼之は義満が新将軍となる一連のイベントを盛大に行い、幼い新将軍の権威の高揚につとめるのだった。
 そしてその翌日の正月二日。頼之が進めていた工作がひとつ実を結ぶこととなった。南朝の軍事的支柱ともいえる楠木正儀が幕府に帰参を申し出たのである。

第二十九回「執政開始」終(2002年8月8日)


★解説★

世阿弥第三弾 えーどうも、またも放送が遅れてました、いつも作者に代わって謝らされる解説担当の世阿弥でございます。
 前回ついに管領、いわば一国の首相とも言える立場に主人公の頼之さんはなってしまいました。それを受けて今回は「執政開始」のタイトルどおり、「細川新政権」の発足が物語のメインであります。発足していきなり難題続発で頼之さんだけでなくドラマの作者も頭を痛めておりまして、遅れた理由も半分ぐらいそれでございます。

 冒頭いきなり中国大陸の情勢が入ります。そう、ついに「明帝国」が成立するのでありますね。このドラマではあくまで脇の話なので細かく追ってこなかった朱元璋さん周辺を補足しておきますと、以前描かれた「ハ陽湖の戦い」で陳友諒を破ったのち、朱元璋さんの当面のライバルは豊かな蘇州の地に本拠を置く張士誠の勢力となりました。この張士誠さんといいますのは朱元璋さん同様に元末に割拠した群雄の一人でありまして「呉王」を称し(ややこしいことに朱元璋さんも呉王を称していた) 江南の富裕層の支持も受け経済力も文化レベルも高く、ポスト元朝の本格王朝を開く最有力候補とも目されておりました。朱元璋さんは長期にわたる戦争の末、至正27年(1367)9月に蘇州を陥落させて張士誠の呉国を滅ぼし、ここにポスト元朝の新王朝建設者の地位をほぼ確定するのであります。なお、これと前後して朱元璋さんは自らの出身であった紅巾党=白蓮教徒の教祖・小明王を殺害してこれとの縁を切るのでありますね。まだ北方には元朝勢力が残存しておりましたが「北伐」も順調に進んでいるということで、この年の12月に家臣達が朱元璋さんに帝位に就くことを求め、朱元璋さんが断るということを三度繰り返し(もちろん儀礼的な手続き) 、ついに年明けに新王朝「明」の建国宣言をすることになるわけです。日本の幕府が義詮さま死去と義満さまの継承、頼之さん管領就任と大騒ぎしているそのころに海の向こうではこんな事態が起こっていたんですね。なお、このとき朱元璋さんが「洪武」という年号を定め、これが皇帝一代の間ずっと変えられることの無い「一世一元制」(明治以後の日本もこれをまねた)の始まりであったということはご記憶いただきたいところ。のちのち義満さんがこの件に絡んできますんで。

 義詮様が死去した翌日の12月8日に、早くも管領・細川頼之の政治活動の第一弾が発せられています。ドラマ中にも出てきた九州の阿蘇氏への書状と言うのがそれ。義詮さまの死去と近く九州に新たな探題を派遣する意向を知らせるという内容で、頼之さんが九州平定を幕府の早急の課題として重視していたことを示しています。もっともこの九州探題の人事はなかなか決定できず、義詮さまが亡くなったこの12月に斉藤素心さんという武士が阿蘇氏に向けて「山名師義(時氏の子)に決まるようだ」と書状で伝えたりしています。結局頼之さんの盟友・今川了俊さんに決定するわけですが、それはもうちょい先の話。
 12月29日に発布された倹約令は頼之さん最初の公式法令。義詮さま死去直後の新年に向けて出されたものですが、これは決して一時的なものではなく、たるみ始めていた武家社会をビシッとひきしめようという頼之さんの政治姿勢が色濃く出たもののようです。さらにその武家と関係の深く俗化の傾向を強めていた禅宗界に対しても頼之さんは強い引き締め政策をもって臨み、これがのちのちまで禅宗界と対立するキッカケともなっています。
 そんなあわただしい新年の中で頼之さんは東寺に仏舎利を奉請しています。以前清氏さんが扉をブチ破ったあれですね(笑)。その清氏さんも一粒奉請し、了俊さんも頼之さん訪問の直前に一粒奉請しています(なお、この時の東寺の記録が「了俊」の名が確認できる最初のもの)。以前にも描いたことですが頼之さんの仏舎利奉請はこの時を手始めに、計八回、全21粒に及び、当時の武将の中でダントツ最多の記録を保持しております。

 どういうわけか足利家だけでなく南朝でも死去に伴う世代交代が起こっております。後醍醐天皇のあとを受けた後村上天皇が3月に住吉で死去、長子である寛成親王が即位することになります。ただし、このあたり記録が判然としなかったようでありまして長い間この寛成さんが即位したのかどうか議論があったのですな。特に南朝正統論が強まった江戸時代からこれは大きな問題となり、大正15年(1926)にようやく在位が実証的に確認され、「長慶天皇」はやっと皇統譜に加えられたというわけでして。ま、それだけ当時の南朝もすでに問題視されてなかった、ってことなのかもしれません。
 この長慶天皇がかなりの強硬派だったようでして、幕府との和平交渉を進めていた楠木正儀さんの立場は急激に悪くなってしまったわけです。結局この年の年末までに正儀さんは幕府への投降の腹を固め、年明け早々に正式表明することになります。この辺については次回で詳しく。

 義満さん元服の儀はここにも書いたとおりでとにかく大々的かつ盛大に執り行われました。頼之さんは武士全般や禅宗界に対しては倹約・引き締めの方針で臨むのですが、義満さんの権威高揚のためにはとにかく金も惜しまず盛大にやるんですね。義満様がまだ幼かったからという事情もありましょうが、やはり将軍の権威を強めることが幕府の安定につながると確信してやっていたフシがあります(義詮さまの時代を見ているとそれは良く理解できます)。こうした扱いを受ける中で少年義満様がともすれば尊大な性格になっていったのも無理はないのかもしれません。
 その義満様の教育に関して「父」の役もつとめている頼之さんがあれこれ画策するくだりがありますが、これは『細川頼之記』という資料に出てくるもの。以前にも触れましたようにはっきり言って史料的価値はかなり怪しい本なのですが、この教育のくだりはドラマとしては面白いので採用させていただきました。ただ、この本にはさらに頼之さんが義満さまの「帝王教育」をあれこれやったというお話が出てくるんですが、それについてはまたいずれ。

 とにかくこの年の頼之さんは休む暇が無い。6月には有名な「応安の大法」「応安の半済令」を発布しています。その内容についてはドラマ本文の中で書いてますんで、ここでは特に解説しません。歴史的には重要なことなんだけど、歴史ドラマでは描きにくいんですよね、こういうのって。
 さて、今回の一つの大ヤマになっているのが「南禅寺問題」。前回から引き続いた紛争がさらに拡大して頼之さんを悩ませるわけです。比叡山側が自分達の要求を通すために比叡山付属神社である日吉神社のお神輿をかついで都に乱入するというのは平安時代から見られたデモンストレーションですが、単なるデモではなく宗教的な呪詛の意味が含まれているだけにかなりの実効性があり厄介なのです。この手のパターンは、斯波高経さん執政時代にも奈良の興福寺・春日大社が「神木」をかついで都に乱入し斯波邸にそれを投げ込むという形で起きています。この問題にさらに幕府と結びついて勢力を拡大する禅宗界の圧力も加わりまして、幕府は板ばさみ状態で苦しむことになるわけです。このときは頼之さんが比叡山との対決姿勢を示し軍を動員して追い返すわけですが、このとき山名軍の兵士などは神罰を恐れて手出ししなかったと言いますから、神輿の効果はやはり絶大なものであったわけです。もっとも頼之さんと対立関係にある山名軍のことだから意図的にやった可能性もありますし、頼之さん自身も実は禅宗勢力を規制しようという思惑があったらしく、実情はなかなか複雑なものであったようです。とかく政治の世界は複雑怪奇。

 とかなんとかやっている間に、頼之さんが留守にしていた四国には河野一族があっさり復活しております。このとき河野通直さんを助けた海賊に村上義弘さんってのが出てきましたが、のちの「村上水軍」のルーツにあたる人だったりします。頼之さんの留守は弟の頼有さんがつとめるわけですが、どうもお兄さんほど軍事的能力は無かったようで、しばらく河野軍相手に苦戦を続けることになります。
 
 どうにか義満さんも将軍に就任、さらに楠木正儀さんも幕府に帰順、と順調に進むかに見える細川政権ですが、またまた難題が続発するのであります。ホント、一国の首相をやるってのは楽ではありません。現代においてもみんななるまではその座をめぐって必死に競い合うけど、実際になった途端に後悔するものらしいですね(笑)。と同時に一回なってしまうとなかなかやめられない魔力もあるようで…

制作・著作:MHK・徹夜城