細川頼之
細川清氏
今川貞世
慈子
細川頼有
後村上天皇 北畠親房
足利直冬 少弐頼尚
三島三郎 細川顕氏
今川範国 持明院保世
新開真行 正子
楠木正儀
小笠原頼清
世阿弥(解説担当)
細川家家臣団のみなさん 阿波国人のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
足利尊氏
利子
細川頼春
◆本編内容◆
1350年(観応元年)春。京のある下級公家の娘が消息を絶ち、巷の話題となっていた。話によると正子
というその娘は美人との評判が立っていて、ここ数ヶ月ほど武士らしき若い男が時折夜中に訪れてきていたという。その若い武士が娘をさらったのではないかと人々は噂しあっていた。
そんな中、細川頼之は公家の持明院保世
の娘・慈子と婚儀を挙げた。父の頼春
はもちろんのこと母の利子や弟の頼有
も阿波から上京してきて婚儀に参席し、細川顕氏など細川一門の面々も顔をそろえる。
今川範国とその息子貞世も席に連なり、貞世は婚礼を祝う自作の歌を披露する。かための杯が交わされ一同やんやと騒ぐ中、甥の
清氏の姿が見えないことに頼春は不審を覚える。
宴もたけなわとなったころ、頼春の屋敷にいきなり清氏が馬に乗って駆け込んでくる。清氏は馬に乗ったまま門番を振り切って邸内に駆け込み、
「清氏、遅参いたした!」と大声を上げる。一同が驚いて庭に出てくると、清氏は馬上に若い娘を一緒に乗せている。頼之が驚いて尋ねると、
「わしが妻にもらいうけた正子どのじゃ」と馬上で笑う清氏。「嫁取りで弥九郎に負けてたまるかよ。一緒に婚儀をあげてしまおうぞ」
と清氏は馬から下りて正子の手を引っ張って宴の席へと乗り込んでいく。頼春は呆れ、頼之は苦笑しながら清氏につきあう。清氏は慈子にも挨拶して正子を引き合わせる。
騒がしい宴をあとにして、頼之と慈子は二人で語り合う。話が清氏のことになり、頼之は「あれはあの通り無茶な男だが、気のいい奴でな。わしにはああいう真似は出来ん。時折やつがうらやましくもある」 と慈子に語る。「あれは無茶だが、武士というのはそれを良しとするところもあってな。公家の出のそなたにはいろいろと戸惑うこともあるだろうが…」 という頼之に、慈子は「武士とは面白いものだと思いました。清氏さまのような方もいれば貞世さまのような方もいる。そして頼之さまのような方もいるのだと…」 と言う。「わしのような…とは?」と頼之が尋ねるが、慈子は 「さあ?」ととぼけたような顔をする。
同じころ、遠く九州の大宰府では足利直冬が北九州の有力豪族・ 少弐頼尚に迎え入れられ、頼尚の娘と結婚してその婿となっていた。直冬のもとには九州各地の武士たちが味方に馳せ参じ、あっという間に九州は直冬の支配する独立国の様相を呈してしまう。その勢いは九州にはとどまらず、長門・石見・周防といった中国地方でも直冬に呼応する動きが出てきた。驚いた幕府は、高師泰を大将として大軍を九州へ向けて派遣する。しかしこの師泰軍は石見で直冬党勢力に苦戦し、完全に足止めを食ってしまうこととなる。
このような情勢の中で、四国を押さえる細川一族にも戦争に備えた態勢をとることが要求されつつあった。頼春は頼之を呼びつけて父子二人で酒を酌み交わしながら新婚生活の様子など聞きつつ、今後の対応について話し合う。頼春は中国地方の備後(広島県東部)の守護でもあり、今後直冬党の動きいかんでは備後に出陣しなければならぬと言う。
「そこで問題は本拠の阿波を誰に任せるか、よ」と言う頼春。「この頼之に行け、と申されるのですね」
と父の意図を見透かして頼之が言う。「そうだ。さすがに飲み込みが早い。では、聞こう。阿波に行ったらまず何をする?」
と問う頼春。頼之はしばらく黙ったのち、「手始めに海の道を押さえましょう」と答える。
「その通り。さすがはわしの息子よ…もっともお前は身をもって海賊どものことを知ったわけだがな」と苦笑する頼春。本拠・阿波と畿内を結ぶ紀伊水道は吉野方の息がかかった熊野水軍が握っており、この海上ルートを確保することが頼春らにとっては緊急の課題だったのである。
「あとは阿波の国人衆のことだな。連中はともすれば守護に逆らい、吉野方に通じてしまう。これをどう潰していくかだ」
と頼春は言って、「まずは阿波に渡れ。そしてそこからはお前のその頭で考えるのだ」と頼之の頭をつつく。頼春は次男の頼有、甥の清氏の二人を手元に置き、利子と慈子らは阿波に向かわせると言う。
「慈子もですか?」という頼之に「どうも都の方が不穏だからな。それと、お前と慈子どのには我が家のためにしなければならぬ大切な仕事があろうが」
と頼春は言う。一瞬ポカンとする頼之の顔を、頼春は「早く孫の顔を見せろ」と笑いながら軽く叩いた。
間もなく頼之は妻の慈子・母の利子そして三島三郎を連れて阿波へと旅立った。清氏や貞世、頼有が摂津の堺港まで同行して見送る。
「父上を頼むぞ」「兄上もお元気で」と兄弟同士声をかけあってから、頼之たちは船に乗り込んだ。
海路、阿波に無事に渡った頼之は秋月の守護館に入った。阿波守護である頼春の代理として来た形の頼之に挨拶するため、阿波の有力武士たちが次々とやってくる。一同を前にして頼之は父の代わりにこの国の管理を行うこと、そしてそれを支えて欲しいと要望する。
しかし阿波の武士たちの中には挨拶に来ようともしない者も少なくない。中でも三好郡に拠点を置く有力豪族・
小笠原頼清は完全に頼之を無視する姿勢をとっていた。守護代の新開真行が頼之に言う。
「小笠原は鎌倉以来阿波・淡路の守護をつとめた家柄…細川などよそ者に頭を下げるなど面白くない、ということでございましょう」
と。頼之は「小笠原にしても元はといえばよそ者だろうに。早く来たか遅く来たかの違いだ」と真行に言う。
一方の小笠原の館では頼清が同調する国人衆を集めて吠えていた。「細川のこせがれが秋月に入ったそうじゃのう…まだ二十二のこわっぱがこの阿波一国を仕切ろうとは、片腹痛いわ!」
と吠える頼清に国人衆もどっと盛り上がる。頼清は間もなく勢力を拡大している直冬党が京都へ攻め上り、畿内の南朝勢力も蜂起して事態が混沌としてくると読んでいた。
「その時が、阿波を我らの手に取り返す機会ぞ!」と一同は気勢を上げる。
はじめて一国の管理を任された頼之であったが、その一国の管理こそがまさに前途多難の状態だったのである。
十月となったが直冬討伐に向かった高師泰軍は中国方面で足止めを食ったままである。業を煮やした将軍
足利尊氏は自ら大軍を率いて九州へ向かうことを決定する。細川一門にも出陣の命が下り、直義党だった細川顕氏、そして頼春も尊氏に同行することになる。頼春は清氏を伴い、頼有には京の留守を任せて出陣する。
尊氏出陣の前日、前年の失脚以後出家して監禁状態にあった足利直義が突然姿をくらませた。幕府は大騒ぎになるが、尊氏は予定通りに出陣を行う。頼春、清氏は内心不安を覚えつつこれに従った。
脱走した直義は河内に入り直義党の畠山国清と合流。そしてそこから賀名生(あのう)の南朝に和議を申し入れ、尊氏・師直を討つ勅命を求めようとする。仲介役を頼まれたのは河内の
楠木正儀であった。「あの直義どのがのう…世の流れとはわからんものだ」
とつぶやきながら、正儀は書状を賀名生へ届けさせる。
直義の申し入れの対応をめぐって賀名生の南朝朝廷はやや紛糾する。まだ若い後村上天皇などは、いままで散々父の後醍醐天皇を苦しめてきた直義の要求に
「虫が良すぎる!」と怒りをあらわにする。しかし南朝の総帥ともいえる北畠親房
は「我らの宿願は京の奪回・皇統の一統でござります。足利が割れたのは好機ととるべきでござりましょう…今は一方に味方しておき、彼らが共食いをするのをじっと見ており、漁夫の利をとればよいのです」
と意見し、直義の申し出を受け入れ勅命を下すことが決定する。
直義挙兵の報告がまだ入らないころ、播磨まで進軍していた尊氏の軍から、細川顕氏がその部隊もろとも姿をくらませた。播磨から海を渡り、顕氏が守護をつとめる讃岐国(香川県)へ向かったのである。この異変に尊氏は慌て、頼春・清氏を呼びつけて
「頼春を讃岐の守護に任じる。ただちに顕氏のあとを追い、これを討て!」と命じた。かしこまって命を受けた頼春だったが、顔には明らかに困惑の色がある。清氏が
「叔父上、どうなさる?」と聞くと、頼春は「そりゃ命を受けた以上は行くしかあるまい」
と答えつつ、「だが…直義殿が挙兵されたとなると…将軍は危ないぞ…」
とつぶやくように言う。
間もなく、頼春は清氏とともに軍を率いて尊氏軍から離脱、海路讃岐に向かう態勢をとった。しかしその動きは、どこか緩慢で、情勢の変化を見極めてようとしているかのようであった。
刻一刻の事態の推移は阿波・秋月の頼之のもとにも届いていた。直義と南朝の和睦、顕氏の讃岐入りで阿波の武士たちの間にも不穏な動きが見られていた。頼之は三島三郎を呼びつける。
「三郎、紀伊へ行け。あの速波という女がいた村、覚えておろう?」と頼之は言い、「あそこは熊野水軍の安宅一族の所領だ。あの村を手がかりに安宅の大将と連絡をとれ。何としてもこちらの味方につけるのだ」
と命じる。三郎はただちに出発した。