第三十回
「昨日の敵は」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 幕府の管領として、また幼い義満の父代わりとして、細川頼之の新たな戦いの日々が始まった。頼之は乱れのある幕府政治を秩序だったものにするべく次々と新政策を遂行していく。しかしその一方で旧仏教徒と禅宗の対立、自らの所領である四国に南朝系の河野氏が復活するなど、頼之の執政には難題が相次ぐ。
 その中で初めて大きな成果を上げたのが対南朝問題であった。南朝最大の軍事勢力であった楠木正儀が幕府への帰順を申し出てきたのである。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川了俊

渋川幸子

三島三郎 細川頼有 

細川頼基 懐良親王

春屋妙 長慶天皇

後光厳天皇 土岐頼康 佐々木氏頼

赤松光範 橋本正督 和田正武

楠木正儀

斯波義将

河野通直

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役)

細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
比叡山衆徒のみなさん
ロケ協力:比叡山延暦寺・京都御所
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 楠木正儀細川頼之の間の和平交渉は、応安元年(1368)の間に極秘のうちに進められていた。北朝との和平に前向きの姿勢も見せていた後村上天皇が亡くなり、強硬派の長慶天皇が後を継いだことで南朝朝廷自体との和平は困難と判断した頼之は、和平派で長慶天皇に煙たがられていた正儀自身に投降を呼びかけることにした。工作は佐々木道誉の腹心である医師・但馬道仙および頼之の家臣である三島三郎によって進められ、応安元年秋には正儀も幕府への投降を決意した。この動きを察知した長慶天皇は危険を感じて十二月に長く南朝の皇居が置かれた住吉を放棄し、皇居を吉野の山奥へと移していた。

 そして応安二年正月二日、頼之は楠木正儀に対し幕府への帰参を認めるとの新将軍義満の名による御教書を発した。これにより正儀の足利幕府への投降が公式に認められたのである。父・正成以来、南朝に忠節を尽くしてきた楠木一族棟梁の幕府への投降は公家・武家を問わず世間に少なからぬ衝撃を与えた。
 さらに頼之は二月に河内・和泉の武士達に向けて正儀が幕府に帰参し河内・和泉の守護に任じられたことを通知し、これをよく助けるよう求めた。しかし、従来南朝に忠節を尽くしてきたこの地方の武士達の多くには、正儀の幕府への帰参は「裏切り」ととらえられ激しい反発を引き起こしていた。特に橋本正督和田正武といったこれまで楠木党を支えてきた武士達は正儀の裏切りを断固許さずと兵を率いて正儀に対し攻撃を仕掛けてきた。これを知った頼之はただちに幕府として正儀を支援せねばと決断する。
 この問題については幕閣でも意見が分かれた。今川了俊は頼之の意見に同意するが、土岐頼康ら大多数が正儀支援に反対、もしくは消極的という立場を取る。「そもそも楠木は尊氏公以来の仇敵でござるぞ。それが行き詰まって降参してくるただけでも虫のいい話であろうに、それが裏切ったかつての仲間に攻められるのをなぜわしらが助けねばならぬ?」と頼康は言い、この工作を極秘に進めた頼之を独断専行と批判する。頼之は「そうではない。正儀は頑迷な吉野の帝らをついに見限って、我らの力になりたいと申しておるのだ。これを助けねば、幕府の、そして将軍の面目が保てまい」と反論。頼康が「お主は将軍、将軍と言うが、将軍がまだ幼く、その後見を先代より任されたのをいいことに、まるで己が将軍であるかのようにふるまってはおらぬか」と鋭いまなざしでにらみつけると、頼之は「わしは無論将軍などではない。わしがもし失政をしたなら即座にこの地位を去る覚悟だ。だが、御先代より重任を託された者として、その失政をするまでは幕府の管領として大いに働かせていただく。そのためには諸大名の皆様がたにもわしに従うてもらわねばならぬ」と断固とした態度で言い切った。結局頼之の決断に従い、正儀支援のために兵を出すことが決定される。
 頼之は義満のもとを訪れて幕府評定での決定を報告した。義満も当年十二歳。世間のことが多少分からぬでもない年頃であり、頼之は義満に楠木降伏についての説明を行った。すると義満が不審そうに言う。「…聞けば頼之、そなたの父・頼春はその正儀に討たれたというではないか。何ゆえ、親の仇を助けようと思うのだ?」この質問に頼之は「正儀もまた父を将軍の祖父ぎみに討たれております」と答えた。 「この長い乱世の中で、多くの者が仇を持ち、またその仇を討つことで己自身が誰かの仇となってまいりました…しかしそれでは果ては無く、乱世はいつまでたっても終わりませぬ。仇を乗り越え、怨讐を捨てねば太平の世は見えますまい。正儀も、この頼之も、思いは同じと心得ます」と諭す頼之に、義満は黙ってうなずいた。

 三月、幕府の決定を受けてまず赤松光範、さらに頼之の養子である細川頼基が兵を率いて正儀援護のために河内へと向かった。しかし橋本・和田ら南朝軍の攻勢は凄まじく、正儀軍および赤松・細川軍は押されまくり、摂津天王寺、さらに榎並までの退却を余儀なくされた。形勢不利の中、正儀は頼之の呼び出しに応じて戦線を離れ、京へと向かった。
 四月二日。ついに京に入った正儀は頼之と対面した。「こうして顔を合わせるのは実に20年ぶりのこととなりますな…」と頼之は正儀を見つめて感慨深げに言う。「何やらご縁があるようだ、と清氏殿も申しておりました」と正儀。「清氏も、わしも、正儀どのも、いずれもあの日には思いも及ばぬ運命をたどってきたものよ」と頼之は言い、「昨日の敵は今日の友じゃ。わしと共に、新しき太平の世を築くために働いてもらいたい」と正儀に頭を下げた。「過分のお言葉じゃ…それがしも、武蔵守どのが築こうとされる太平の世を見て見たいと心から思う。お互い…あまたの身内を戦の中で死なせもうした…頼之どのならば、私と心を同じゅうできると信じております」と正儀も頼之に深々と礼をした。
 翌日、正儀は頼之に伴われて将軍邸に赴き、将軍義満に謁見した。楠木一族の棟梁が足利家に服従の意を示したことを、天下に示す狙いである。「河内、和泉のことはそちを頼りに思うぞ」と義満が声をかけ、正儀は黙って平伏した。
 正儀が義満に謁見して忠誠を誓ったことを知り、吉野の長慶天皇は激怒した。「父兄二代の忠節を汚す不忠・不孝の逆賊め!これを滅ぼさずにおくものか!」と長慶は南朝方の武士達を叱咤し、自ら吉野を出て河内・天野に進出し、正儀に対する攻勢を強めた。

 正儀支援に奔走する頼之だったが、もう一つの難題、南禅寺問題がまた火を噴いていた。昨年、幕府と朝廷は南禅寺の定山祖禅を流刑に処すことで問題解決を図っていたが、比叡山側はあくまで南禅寺の楼門の破壊を要求して譲らず、ついに4月22日に再び僧兵達が日吉神社の神輿をかついで京の内裏への突入を企てたのである。「断固、阻止せよ」との頼之の指示のもと昨年同様に諸将の軍が京の各所に配置されたが、比叡山と事を構えたくない諸将はほとんど僧兵らを素通りさせてしまい、ついに僧兵らは内裏へと襲い掛かった。ここには佐々木氏頼が守備にあたっており逆茂木(さかもぎ)を組んで侵入阻止の構えを見せていたが、僧兵らは逆茂木を突破して佐々木勢と乱闘に及び、双方に多くの死傷者を出した末に僧兵らは神輿を内裏の門前に放り出して引き上げていった。この騒ぎのために後光厳天皇も一時内裏を避難しなければならぬはめとなった。
 この騒ぎを横目に正儀は摂津の戦場へと戻っていく。「頼之どのも大変な時に大変なお役目を任されたものだ」とつぶやきながら。

 比叡山の僧兵らが内裏に突入を図り、なんとかこれを阻止したとはいえ神輿を内裏の門前に放り出され、天皇自身も避難する事態に陥ったことは幕府にとって大きな失点であった。内裏守備に功のあった佐々木氏頼が頼之に比叡山との和解を勧め、みずから比叡山との和解交渉を買って出た。朝廷も比叡山の要求を呑んで神輿を戻してもらうよう幕府に強く要求したため、頼之はやむなく比叡山の要求に屈することを決断する。かくして7月の末に幕府は南禅寺の楼門破壊を実行し、これを受けて比叡山側も神輿を日吉神社に撤収し、南禅寺問題は比叡山側の圧勝という形で決着を見たのである。
 むろん、収まらないのは南禅寺を始めとする「五山」の禅宗寺院である。五山の住持たちは8月7日に幕府に対する抗議を示すべく一斉に引退を表明し、禅宗界の最高実力者である春屋妙も天竜寺の住持を辞して勝光庵に籠もってしまった。こうした禅宗界総力をあげての抗議ボイコットは、禅宗と結びつきの深い幕府を窮地に追い込むものであり、頼之の政治基盤を揺るがすものであった。
 「頼之どのもご苦労の絶えぬことよの」渋川幸子は私邸に招いた山名時氏斯波義将を相手にほくそ笑んでいた。「頼之どのの将軍の名を借りた独断専行には幕府の中でも非難の声が多うござる。その地位も長くはもちますまい」と義将が言い、「そうなれば次の管領は義将どのか」と時氏が笑う。「まぁ今しばらくその手並みを拝見しようではないか…頼之どのが自らの首を絞めているならば我らが慌てて動くこともあるまい」と幸子は言った。

 その後、摂津・河内・和泉方面での南朝軍と正儀ら幕府軍の戦いは、勢いで南朝軍が勝り、正儀らは防戦一方となりつつあった。また四国では南朝についた河野通直が伊予をほぼ奪回しており、8月に頼之の弟・頼有 が軍を率いて讃岐から伊予に入ってこれと交戦したが連戦連敗し、河野軍優勢のまま事態が推移していた。こうした軍事作戦の不調はそのまま頼之に対する批判となって幕府内に噴き出してくる。頼之は激務と政治運営の難航から来るストレスを、それまではなじまなかった鷹狩に興じることで晴らしたり、また帰宅して妻の慈子に日々の鬱憤をぶちまけたりしていた。「それほどお困りなのでしたら、いっそ戦いをやめようと申し出られてはいかが。頼むからもう喧嘩はやめくれ、と」と慈子は夫をからかうように言う。「天野の帝がそのような話を受け入れるものか」と頼之が言うと、「ダメでもともとでございましょう。こちらが泣き言を言えばあちらも手加減してくださるかもしれませぬ」と慈子は笑う。
 頼之はダメもととは知りつつ天野の長慶天皇に和平の提案を密かに送りつけた。その内容には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に皇位に就くという鎌倉時代の状態に戻すこと、南朝天皇が京に帰還し三種の神器を北朝に引き渡すこと等々があった。当然これを読んだ長慶天皇以下南朝首脳は「この期に及んで何を泣き言を」と一笑に付したが、河内・摂津の戦闘が一時的に小康状態になったのは事実だった。

 極秘に南朝に和平を提案したことを、頼之は佐々木道誉にだけは打ち明けていた。結局すげなく拒絶されるという結果ではあったが、道誉は「決して無駄なことではない。戦ばかりで事が解決するならとっくにこの戦乱は終わっておるわ…今後も繰り返し、呼びかけられるが良かろう」と頼之に言う。そして 「天下を治めるとは、いかに苦労を強いられるものか、身に染みてお分かりになったであろう…まして頼之どののなさっていることは乱を治に変えようという大仕事じゃ。これからもさらなる難題がふりかかろうが、これを乗り越えられねば、この道誉の目にかなった武将とは申せませぬぞ。よりいっそうお励みなされ。この道誉も陰ながら見守りましょうぞ」と道誉は頼之を励ますのだった。

 このころ、まだ頼之らは察知していなかったが、前年大陸に成立した明王朝が建国を知らせると共に「倭寇」の禁圧を求める使節を日本に向けて発していた。彼らは倭寇の拠点でもある九州の地に上陸し、その地の支配者である懐良親王と接触していたのである。新たな時代の波は海の向こうからも押し寄せてきていた。

第三十回「昨日の敵は」終(2002年8月11日)


★解説★

世阿弥第三弾 はい、前回とは打って変わって早期の更新でございました。わたくしは次回でお面を更新する予定の解説担当、世阿弥でございます。
 今回は前回ラストの引きを受けて楠木正儀さんの幕府への投降を中心に、頼之さん苦闘の政権運営を物語っております。なんかこの辺りを見ておりますと、当時マスコミがあったらそれこそ連日のように「細川政権一年で息切れ」とか「抵抗勢力に屈した」とか「細川政権崩壊か」「斯波新党結成か」などと騒がれたことでございましょう(笑)。

 さて楠木正儀さんが南朝の柱石から幕府方に鞍替えしたことについては古来いろいろと言われておりました。とくに江戸時代に入ってからの水戸史観では南朝正統論に基づきこれに殉じた楠木正成・正行父子を民族的大忠臣にまつりあげちゃったわけですが、そこで大問題になったのがその大忠臣の息子であり弟である正儀さんの存在でした。この時期の南朝については断片的な記録しか無いのですが(長慶天皇の在位自体が確認できなかったぐらいで) 、どうも正儀さんが幕府方に寝返っていたと思われる史料がある。大忠臣の楠木家の棟梁がそんなことをするはずがない、との非常に観念的な意見が出てくるわけでございます。水戸学の中心である『大日本史』はさすがに正儀さんの二度の「とんぼ返り」を確認して記述しましたが、市井の歴史本の中には正儀さんの帰順そのものを否定し、頼之さんが正儀さんを領地をエサに誘ったけど正儀さんがこれを拒絶したなんていう「美談」をデッチ上げちゃったものもあります。そんな中で正儀さんが幕府に投降したのは十分ありえることだと実証的な意見もあり、その見解を持った一人に「南総里見八犬伝」で知られる作家・滝沢馬琴さんがいたりしました。
 明治時代に入り実証史学が導入されますと、久米邦武さんらが『太平記』に頼らぬ実証的な南北朝研究を行うようになり、その中で正儀の幕府投降も事実として確認されていきます。正儀さんの「寝返り」は、もともと和平派であった彼が強硬派の長慶天皇の即位により南朝内で立場を失った結果だとの見解を最初に示したのがこの久米さんで、今日までほぼ不動の見解となっております。
 思い返せば「正平の一統」の際に北畠親房さんらの強硬姿勢に呆れて「吉野を攻められるなら正儀が先陣を務める」と義詮さんに申し出たとも伝えられますし、『太平記』の記す清氏さんと共に京を占領したときの佐々木道誉さんとの心温まる(?)やりとりなど、彼が南朝を見限るに至る伏線は十分あったものと見ていいでしょう。父や兄を南朝系の公家サンたちの無謀な作戦で殺されて、よくここまで我慢したもんだという気もするところがありますし。もちろん人間関係とか意見の相違ばかりが原因ではなく、彼にとっての最優先事項であろう楠木家の存続、河内・和泉の勢力圏の維持という現実的な理由もあっただろうと思われます。しかし彼の「寝返り」は和田・橋本といったそれまで一緒に戦ってきた地元武士らの大反発を招き、彼らの猛攻の前に正儀さん押されまくることになっちゃうのでありますね。

 こんな正儀さんを全面バックアップしたのが管領である頼之さん。もちろん正儀さんに幕府への帰順を呼びかけたのも頼之さん自身であったでしょう(考えてみればやはり南朝方であった山名・大内両氏の帰順工作をしたのも頼之さんだと言われてますね) 。窮地に陥った正儀さんを支援することについてはドラマ内でも見えますように幕府内でもかなり異論があったようですが、頼之さんはそれを押しのけ独断専行と批判されながらも正儀さんを支援し続けます。この構図は頼之さんが政権の座にある限り変わることはありませんでした。
 思い返せば、頼之さんのお父上・頼春さんは正儀さんの兵に討たれているわけで、頼之さんにとって正儀さんは十分「親の仇」と呼べるのです。そんな正儀さんを頼之さんが徹底して支援し続けたことは、もちろん南朝圧倒のために私情を捨てたものと見ることも出来ますが、今後の展開をみていくと頼之さんの個人的な感情の中に正儀さんへの共感があったりしなかっただろうか…というのがこのドラマの作者の想像です。第一回で若き日の頼之・清氏・正儀のお三方が出会う創作がありましたが、これはこうした後日の展開への伏線であったわけですね。事前に会っていたほうがこの辺り、すんなり説明できるのです。あくまでドラマとして、ですがね。

 さて一国の宰相というのは気の休まるヒマのないもののようでして、南朝対策と同時進行で例の南禅寺事件がまた火を噴きます。4月から8月にかけてドラマのような展開がありまして、頼之さんはさんざ抵抗して見せたものの結局比叡山の要求に屈し、南禅寺楼門を破壊。比叡山側はこれに満足しておとなしくなりますが、今度は「五山」の禅宗寺院が頼之さんに対しボイコットで抗議活動を行います。とくに春屋妙さんとは修復不能の対立関係を生むことになってしまいました。もともと夢窓疎石国師を奥さんともども尊敬していた頼之さん(第一回参照)なので、その実の甥であり後継者である妙 さんも十分尊崇しており、父・頼春さんの菩提寺落成には必ず妙葩さんを招いておりました。だからこの展開には相当苦悩したようです。この妙葩さんとの対立はのちのちまで尾を引くのですが…ま、それは後日。とにかくあちらを立てればこちらが立たず、政権のトップというのはいつの時代も辛い立場のようであります。そういえば頼之さん、このとき御年41歳(もちろん数え年)「41歳の春だから〜♪(中略)〜冷たい目で見な〜いで〜♪」ってな気分でありましたでしょう。
 ただもう少し補足しておきますと、このとき頼之さんが最初から比叡山と妥協する気だったんじゃないかとの見解もあるのですね(佐藤進一『南北朝の動乱』はこの見解をとる) 。というのは、管領就任直後から頼之さんは禅宗の「五山」の寺院に対して統制の姿勢を強めており、前年とこの年の神輿乱入についても徹底的に阻止する気は無かったフシもあるのです。むしろこれを機に、近ごろ権力と結びついて俗化しおごりたかぶる禅宗勢力を規制し本来の姿に戻そうとの意図を持っていたらしい、というんですね。頼之さんが応安元年2月に出した五山統制の法令を聞いた鎌倉の禅僧・義堂周信さん(あとでドラマにも出てくるはず)などは「快なるかな、快なるかな」とこれを絶賛してるんですが、こんなのは少数派でして五山側はこの統制に反発を覚えていた、そこへこの南禅寺楼門破壊ですから、五山側は全山一斉ボイコットという強硬手段に出たわけです。
 頼之さんが禅宗規制の意図を持っていたことは確かでしょうが、比叡山側の要求に朝廷も諸将も屈しようというときに拒絶の姿勢を示してもいますから、実のところどっちも規制する、という腹だったんじゃないでしょうか。それがうまくいったかどうかは別として。

 目を四国に転じますと、頼有さんが河野通直さんに連戦連敗。どうも軍事的才能はお兄さんのほうがあったみたいですね。のちにお兄さんが四国に戻ってくるとあっさり形勢逆転しちゃいますから、やはりこの手の才能の有無というのは大きいもののようです。
 なお、この時期に頼之さんが南朝に和平案を示したという話は『桜雲記』『七巻冊子』などの史料が伝えているもので、信憑性は今一歩というところもあるのですが、取り入れて見ました。南朝が割と強気だったこの時期に持ちかけるかなぁという気もしなくは無いですが、正儀さんも南朝を見限ったことだしやるだけやってみたというところかもしれません。この時に頼之さんが南朝に提示した条件が実際にあったものだとすれば、非常に興味深いのはこの諸条件が明徳三年(1392)に南北朝合一が成立した際のものとほとんど変わらないという点でしょう。これが実現するわずか8ヶ月前に、頼之さんはこの世を去っておりました。

 ラストにちょこっと入りました、明王朝と懐良親王の接触ですが、これについては次回以降で。

 さて次回もまたまた頼之さんの頭を悩ませる新たな大難題が持ち上がります。お楽しみに(←人の苦労を楽しむなって)

制作・著作:MHK・徹夜城