第三十一回
「大海の彼方」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 細川頼之が幕府の管領として様々な難題にあたっていたそのころ、九州の地は後醍醐天皇の皇子・懐良親王の支配下にあり半ば独立王国の様相を呈していた。折りしも大陸に成立したばかりの明帝国は新帝国の成立を告げると共に、沿岸を襲う倭寇問題解決のため、懐良親王に接触を図ろうとしていた。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川了俊

渋川幸子

懐良親王 趙秩

後光厳天皇 崇光上皇

土岐頼康 日野教光 柳原忠光

摂津能直 近藤盛政 教司

楠木正儀

勇魚

小波

斯波義将

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役) 緒仁親王(子役) 栄仁親王(子役)

細川家家臣団のみなさん 今川家家臣団のみなさん
京都市民のみなさん
ロケ協力:西芳寺・地蔵院
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

朱元璋

潭周皎

山名時氏


◆本編内容◆

 1368年、貧農から身を起こした一代の英雄・朱元璋 はついに中国大陸をほぼ統一し、明帝国を建設した。朱元璋は新たな中華帝国の成立を周辺各国に告げ、明を中心とする国際秩序を作り上げようと意図していた。その中で明の国土と国民に直接的に関わり早急の対処を要する問題が、大陸沿岸を跋扈する「倭寇」とその源泉地である日本への対応であった。
 当時日本の玄関口である九州は南朝の懐良親王の勢力圏であり、倭寇の根拠地も彼の勢力圏内にあった。明は必然的にこれとの交渉を求めて使節を派遣することになったが、明側が日本への武力侵攻をちらつかせたため懐良も強硬な対応をし、使者を斬り捨てたり追い返したりで交渉は一向にはかどらなかった。

 明の洪武三年、日本北朝の応安三年(1370)3月。明はさらなる使節を九州に派遣した。使者となったのは山東莱州府同知(知事)の趙秩で、有名な元の文人の孫でもある人物だった。彼を大宰府に迎えた懐良親王は「蒙古襲来をもう一度やろうというのか、ならば相手してくれよう」 などと言い、一時は趙秩を斬ろうという強硬姿勢まで見せたが、それは実は表面的なものに過ぎなかった。趙秩は明で捕縛された日本僧など十五人を送還してきており、懐良はこれに対し倭寇によって日本に連れてこられていた明の住民を送還することを約束する。懐良は九州における自らの独立勢力を維持するために、大陸の新帝国を後ろ盾に持つことを考え始めていたのである。結局、趙秩は数ヶ月大宰府に滞在したのち、明に帰って行った。

 明と懐良親王の交渉の事情は瀬戸内海を行き来している勇魚小波らにより管領・細川頼之のもとに報告されていた。頼之は大陸に新帝国が出来たことを知ると同時にそれが懐良親王と交渉を図っていることを知り危惧を抱く。「早く九州を幕府の支配下に置かねばならぬ。この日本を治めるのはこの京におわす帝であり、そのもとで政を行う将軍、そして幕府であるのだ」と頼之は言い、かねて懸案であった九州探題の人事の決着を急がねばと決意するのだった。このとき頼之の頭の中には盟友の今川了俊にこの大役を任せる構想が固まりつつあったが、前任者である渋川義行のおばであり前将軍・義詮の正室、つまり将軍・義満の義母である渋川幸子とその一派である斯波義将山名時氏などが反発してくることは必至であった。

 当年十三歳となった義満は頼之につけられた近藤盛政教司らを師として学問を修めていた。しかしまだまだ遊びたい盛りの年齢である。義満はしばしば勉学をさぼって近習たちと蹴鞠などに興じることもあった。乳母の慈子が諌めたりもするが、義満は言うことを聞かない。
 近習たちや弟の満詮と蹴鞠に夢中になっているところへ、渋川幸子が姿を現した。あわてて義母に対して挨拶する義満に、幸子は「武家の棟梁である将軍が、蹴鞠に精を出しておいでとは…」とさげすむような目線で言う。「義満どのは生まれながらに将軍と思って研鑽を怠っておいでなのではありますまいな。そなたは我が子・千寿王が夭折したためにたまたま将軍と成ったに過ぎぬのじゃ。本来は側室の子、将軍どころかどこぞの寺の僧となって一生を終える立場ぞ」と言い捨てる幸子に、さすがに義満も憤る。「お言葉ですが、私の母は皇室の血を引いておりますぞ。また母の姉は当今の帝にお仕えし、皇子を生んでおられる。その皇子が次の帝となれば、私は帝の従兄弟となるのです」こう言い返す義満を、幸子は「母方に皇室の血が入っておろうと武家の棟梁には関係のないこと」とあざわらい、「よいか、義満どの。そなたが将軍にふさわしくないと分かれば、代わりに立つ足利の者は関東にもおるのじゃぞ。それをお忘れ無きよう」と言い捨てて笑いながら立ち去っていった。その後ろ姿を憎悪の目でにらみつけ見送った義満は、腹立たしげに鞠を蹴り飛ばした。

 六月、頼之は了俊を自邸に招き、酒食を出してこれをもてなした。そしてその席で「九州の平定を、お主に一任したい」と切り出す。「そのことではないかと思って参った」と了俊。 「これは…言うまでもないが大変な役目だ。これまで一人として成功した者がおらん。だが九州を平定せねば、天下は治まらぬ。また九州は異国とつきあう上での我が国の戸口じゃ。近ごろ九州は独自に異国と交渉し始めたという。九州平定を急がねばならぬ…これだけのことをわしが一任できるのは、了俊入道、お主だけだ」と、頼之は了俊の目を見て言う。了俊は「ありがたい…武将としてこれほどの大役を任されるとは、末代までの誉れよ」と微笑む。頼之は了俊に向かって深々と頭を下げ、そして酒を了俊の杯に注いだ。
 斯波・山名を中心に激しい反対意見もあったが、結局管領である頼之が押し切る形で了俊を九州探題に任じることが決定された。了俊の出陣はひとまず翌年初めということにされたが、新探題の来訪を待ちかねている九州の幕府方の武士達には「了俊派遣」の知らせがただちに送られた。

 頼之の盟友である了俊が九州探題に任じられたことは幕府内の細川派の勢力拡大を意味してもおり、幸子や斯波義将・山名時氏らは露骨に警戒感をつのらせていた。折もおり、崇光上皇の側近である中納言・日野教光が幸子のもとを訪れる。「近々、当今の帝は譲位のお心づもりのようで…その際はぜひ上皇の皇子・栄仁親王を、との上皇のご叡慮で…」と教光は幸子にささやく。
 このとき、皇室は皇位継承で複雑な事情を抱えていた。現在皇位にある後光厳天皇は「正平の一統」の際に光厳・光明・崇光の三人が一斉に南朝に拉致されたときに緊急の措置として即位させられたものであり、兄の崇光にしてみれば「本来は自分が天皇」という意識があり、「次の天皇は当然我が子」という希望があった。しかし後光厳も自分の子の緒仁親王に皇位を譲りたいと考えており、上皇・天皇兄弟の反目に公家達も二派に分かれ与し、武家にもなにかとはたらきかけていたのである。
 8月19日、ついに後光厳は譲位の意向を固め、権中納言・柳原忠光を幕府につかわして管領の頼之に書簡を送り、内々に「緒仁を東宮と定め譲位を行いたいが、どうか」との諮問を下した。頼之はひとまず即答を避けて「差し支えないと存ずるが、幕府内で宸翰を披露した上で返答を」と使者を送り返した。即答を得られなかった後光厳は「管領では決断できぬのか。やはり幼いとはいえ将軍に問うべきであったか」と忠光相手にぼやくと、忠光が「武家では前将軍夫人の禅尼の意向がものを言うようですぞ…聞くところでは上皇は禅尼にしばしば使いを送られ働きかけておられるとか」と後光厳にささやく。この話に後光厳はますます焦りの色を濃くする。
 
 幕府はひとまず直接的な介入を避け、後光厳天皇の意志に従うというとだけ朝廷に回答した。ところが後光厳の譲位の意向を知った崇光上皇側が日野教光を幕府に送り「栄仁こそ皇統の正嫡である」として栄仁親王への譲位を強く主張してきたのである。頼之は幕府として不介入の立場をとろうとしたが、崇光側は再三にわたり使者を送り込んでくる。それでも頼之は「あくまで譲位を決めるのは帝ご自身である」として崇光の要求をやんわりと退けた。
 頼之にかけあってもらちがあかないと分かった崇光はますます幸子に接近し、幸子に様々の贈り物を届けて「栄仁を皇位につけるべく諸大名に働きかけてもらいたい」と工作を依頼した。幸子は「緒仁親王とは…確か母上は良子どのの姉君であられたな。義満どのとは母方の従兄弟というわけか」と一人口にしてニヤリと笑い、崇光の使者に諸大名への工作を約束する。
 かくして9月にかけて後光厳・崇光両派の対立と運動は激化の一途をたどった。幸子は斯波・山名らを中心に有力諸大名に声をかけて「栄仁即位」の声をますます広めていった。そしてそこには明らかに「上皇をさしおいて帝を贔屓(ひいき)する頼之は不当である」との非難の声が含まれていた。
 「困ったものよ。一歩間違えれば持明院・大覚寺両統分裂の再現ぞ」と頼之は事態の成り行きに困惑する。ことは天皇家の問題だけでなく幕府内の権力闘争という側面も見せていた。それだけに頼之はこの問題の解決に知恵の限りを絞らねばならなかった。

 このころ、頼之は政務の息抜きに鷹狩をしてみたり、あるいは京の西の西芳寺に住持の碧潭周皎を訪ねて問答などをしていた。碧は密教を修めた上に夢窓疎石について禅を学んだ高僧で、頼之は幕府評定衆の摂津能直を通じて彼と親しくなり、政務の合間に足しげく西芳寺に通い相談ごとなどしていたのである。頼之は碧のために西芳寺の隣に地蔵院を創建し、そこについ最近、自らの四十二歳の寿像を納めてもいた。
 頼之は現在頭を悩ませている皇位継承の問題について碧に意見を求める。「武蔵守どののお心はすでにお決まりなのでしょう」とだけ答える碧。頼之はうなずき、あくまで後光厳の子である緒仁親王を即位させ、その系統に皇位を継がせることで再度の両朝分裂の愚を繰り返したくないと明言する。ただし、それを幸子ら反対派に納得させる手立てがほしいと頭を悩ませていると打ち明ける。これを聞いた碧「上皇は帝の兄ぎみ…そのお言葉が重みを置かれるのは当然でございましょうな。しかしそのさらに上のお方のお言葉がありせば、上皇もこれに従わずばなりますまい」と頼之に言う。「さらに上の…?」といぶかしむ頼之に、碧「お二人のお父君のお言葉があれば」とささやく。二人の父といえば光厳上皇のことにほかならないが、すでに光厳上皇はこの世を去っている。それを思ったとき、はたと頼之は碧が何を言わんとしているか悟った。

 10月1日、頼之は摂津能直を朝廷に派遣し、柳原忠光を通して後光厳天皇に「幸いにも皇位継承に関して光厳院のご遺勅(遺言)が残されていると承る。その拝見を許され、禅尼(幸子)以下に示したく存ずる」と願い出た。これに対し後光厳天皇は早速その遺勅を用意させ、箱に収めて摂津能直に預け、幕府に届けさせた。
 「光厳院の遺勅じゃと?」これを聞いた幸子は愕然とした。「そのようなものを、あの出家して山寺にこもられた院がいつの間にお書きになっておられたのじゃ!」と幸子は頼之に厳しい顔で問いかける。頼之はそ知らぬ体で、「院は今日の事態があることを予見されておられたのでしょうな」と答え、その箱を開けて遺勅を取り出し、うやうやしく拝んでからその内容を読み上げ始めた。その内容は後光厳の系統が皇位を継いでいくよう命じたもので、崇光にとっては致命的なものであった。「頼之どの、それはまこと、光厳院の遺勅であろうな」と幸子は頼之をにらみつけるが、頼之は「帝がお預けになったものをお疑いなさるか」と言い返し、ただちに遺勅を箱に収めて天皇のもとへ送り返してしまった。
 この遺勅をてこに頼之は崇光上皇派、そして幸子や斯波派の諸大名を押さえ込んで、緒仁親王の皇位継承を決定的なものとしてしまった。この一件で後光厳は大いに頼之への信頼を厚くしたが、崇光上皇派はもちろん幸子や斯波派も頼之への深い恨みを残すものとなってしまった。

 11月に入り、河内の楠木正儀に対する南朝軍の攻勢がまた激しくなっていた。頼之はこれを救援するべく畿内周辺の諸大名に呼びかけるが、斯波派に属する守護大名らはこれに応じず、非協力的な姿勢をあからさまにした。中でも尾張・伊勢の守護で幕府創設以来の重鎮として評定衆に名を連ねる土岐頼康は、頼之の執政を独断専行と非難して対立を深めており、とうとう12月25日に父の法事を理由に領国の尾張へと引き上げてしまった。頼康の弟・直氏もこれに呼応して領国に引き上げてしまい、京では土岐一族が幕府にそむいて南朝と手を結ぶのではとの憶測も広がっていた。

 そんな年も押し迫ったある日、頼之は自宅に今川了俊を招き、連歌を詠んだ。頼之が発句を「人は来て雪のまたるる夕(ゆうべ)かな」と詠むと、了俊がそれに「冬を忘るる常葉の木かげ」と脇句を詠む。「この冬が終われば、お主は九州へ発つ。長い別れになるのう…」とつぶやく頼之。「わしがおらずとも、大丈夫か?」と了俊が問うと、頼之は「安心せい。わしにも味方は大勢おる。それにわしは将軍の父代わりじゃ。京のことは心配せずにお主は九州平定に邁進してほしい」と答え、笑顔を見せた。これに了俊はうなずいてから、「もう一つ心残りがあるのだが」と言って「何となく心にかけて思うかな 浜名の橋の秋の夕暮れ」と歌った。了俊が自分の領国である遠江のことを頼む、と暗に言っていることを察して、「お主の分国のことはわしが保証する」と頼之は答えた。感謝の意を表す了俊に、頼之は言う。「お主は将軍の名代じゃ。そしてわしの分身でもある。わしは京、お主は筑紫の地と遠く離れる立場になるが、心は常に一つぞ」

 年が明けて応安四年(1371)2月19日。今川了俊は頼之の期待を一身に担って、九州平定のために京を発った。一族郎党を引き連れ不退転の決意で京を発った了俊は、こののち二十年の長きにわたり九州平定の大事業を進めていくことになる。見送る義満や頼之に対し、了俊は無言のまま礼をして立ち去っていく。京を出て初めて振り返った了俊は、感無量の思いで歌を詠む。
 「中々に分かれの際はともかくも いはれざりしぞ今は悲しき…」
 

第三十一回「大海の彼方」終(2002年9月1日)


★解説★

世阿弥第四弾 
 ゼーッ、ハーッ…ゼーッ、ハーッ…今回からお面が変わった解説担当の世阿弥でございます。ゼーッ、ハーッ…なんかこのお面かぶってると喘息症状が、ゼーッ、ハーッ…起こるようでございまして、ゼーッ、ハーッ…わたくし世阿弥も能のダークサイドに落ちてしまったようで、ゼーッ、ハーッ…この格好で「お前の父は私だ」とか息子に言ってみたら、ゼーッ、ハーッ…息子が「NO〜ッ!」とか言ったりしてさすがは能の家ですね…ゼーッ、ハーッ…ああっ!鬱陶しいっ!!以下効果音省略ッ!
 えーとまた更新が遅れてすいませんでした。今回はかな〜り遅れてしまいましたねぇ。ま、ぼちぼちと本家大河に追いついていきたいと思います。
 それにしても頼之さんが管領になってからというもの、難しい政治ばなしばっかりで退屈だとの意見も聞かれそうな展開でございますねぇ。確かに作者も悩んでいるようでして、遅れの一因ともなっているようです。華々しい合戦とかじゃなく陰でごぞごぞと暗闘する場面ばっかやってますしねぇ。ただこれもやっておかないと、今後の展開に関わってくるのでして…

 さて、今回はタイトルにもなっております大海の彼方から使者がやってまいります。明帝国は成立するとただちに周辺諸国にこれを告げ、新たな中華世界の国際秩序を作り上げようとするわけなんですが、とくに日本は元の末から問題化していた倭寇の存在がありまして、その禁圧を日本の支配者に求めるという意味でも重大懸案だったのですね。ドラマではそこそこカットしましたが、もうちょっとこの明の対日外交について補足しておきましょう。
 明が最初に日本に使節を派遣したのは洪武元年(1368)の十一月だったと言われています。しかしこれは五島付近で使者が殺されてしまったらしく、詔書も海に没したと記録されています(交渉が不調だったのをごまかすためにそう報告した可能性もある) 。翌年には楊載を正使とする第二回の使節団が組まれ、これは無事九州に上陸してこの地の支配者の懐良親王に会えたまでは良かったのですが、彼らの持参した詔書に「倭寇を禁圧しないと軍勢をもって日本を攻めるぞ」との脅し文句があったためか、懐良親王が激怒、使者七人のうち五人が斬られ、楊載自身も三ヶ月にわたり拘留されてしまいました。しかし結局この人は無事に帰ったようですし詔書の内容もしっかり記録に残っているところをみると懐良親王の対応はかたくなとはいえ完全拒絶ではなかった可能性をにおわせます(使者を本当に斬ったのかもちょっと怪しい) 。そしてこのドラマの今回冒頭に出てきた趙秩らの第三回使節団の派遣となるわけですが、こう連年立て続けに使者を派遣したあたりは明朝廷が倭寇対策に懸命に取り組んでいたとも言えますし、また懐良親王側も徹底拒絶というよりはどこか期待をにおわせるものがあったのかもしれません。
 この趙秩と懐良親王(明側の記録では全て「良懐」となぜかさかさま)の交渉は明の実録に記されていまして、ちょっと面白いんですな。原文は難しいんで簡単に書きますと、まず懐良親王が蒙古襲来の話をし、蒙古が「趙」姓の者を使者として送ってきて言葉巧みに臣従させようとしたが、結局その軍勢が暴風雨のために壊滅したと語ります。そして「今中国に新しい皇帝が立ったというが、使者は趙姓ではないか。蒙古の使者の子孫ではないのか?また言葉巧みに我らをだまそうというのか」と言い、左右の者たちが刀を抜いてまさに趙秩を斬ろうとします。ところが趙秩が平然として「今の皇帝は蒙古の比ではない。私を信じられぬなら殺してみよ。ただちに我が国の強力な軍勢が攻めてくるぞ」と答えると、途端に懐良の態度が改まり(というか明側の描写だとビビって)彼を厚くもてなしたというのですな。
 もちろんこれは明側に都合よく、また使者にとっても自らを誇る報告でありましょうから全面的には信用できません。ただしこのとき明側が国内で捕らえた日本僧など十五名を懐良側に送還したこと(当時、両国の外交とは無関係に禅僧などで元・明に渡る僧は結構いた) 、そして翌年そのお返しとばかりに「良懐」側から倭寇の捕虜となっていた中国人の送還が行われていることなどから、両者の交渉がまずまず順調にいっていたことは確かなようです。南朝の皇子でありながら九州に独立王国を築いていた懐良が室町幕府に対抗するために明帝国を後ろ盾に持とうとしたのではないか、との推測はこのあたりから出てくるのですね。この件については次回以降でも触れます。

 この明と懐良親王の交渉を幕府が知ったのかどうか確証はありませんが、この交渉の直後に幕府で今川了俊さんを九州探題にする決定がなされているのは事実。この年の六月にこの人事が決定されたことが、赤松則祐さんなどの書状により明らかです。なお、ドラマではややこしいんで「九州探題」としていますが、実際には「鎮西探題」「鎮西大将軍」などと呼ばれる地位で、了俊さんが赴任してから九州探題と呼ばれるようになったようです。なにせ前任者の渋川義行(幸子さんの甥です)さんなんか九州に一歩も踏み入れられない有様でしたからね。この人事に管領であり、了俊さんの長年の盟友である細川頼之さんの意向が大きく働いていたのはまず間違いのないところでしょう。

 この人事でも見受けられますが、細川頼之政権は常に斯波義将さんを中心とする斯波派、そしてその背後にいる渋川幸子さんとの対立を抱えているのですね。それが絡んで一時大変なことになっちゃったのが今回のテーマの一つでもある皇位継承問題です。
 詳しくは「正平の一統」の際の展開を読み返していただきたいんですが(このドラマですと6、7、8回あたり)、京を占領した南朝は北朝の復活を阻止するために光厳・光明・崇光の三上皇(崇光は天皇だがこの時点で廃されたので上皇扱いにします)と皇太子の直仁親王を河内の山奥へ拉致してしまいました。京を取り返した幕府はやむなく僧籍に入るはずだった光厳上皇の第三子・弥仁王を超法規的緊急措置で新天皇に即位させたのです。そのため皇位継承問題がここで噴出しちゃったわけですな。
 この件では後光厳天皇側が頼之さんを頼り、崇光上皇が幸子さんを頼るという構図ができてしまい、皇位の問題がそのまま幕府内の派閥抗争とリンクする形になってしまいました。このときの幸子さんの運動は相当なものだったようで、実際頼之さんを「えこ贔屓」として非難する諸大名も少なくなかったといいます。ドラマ中で後光厳天皇が幼い義満様や幸子さんに頼むべきかと悩むくだりがありますが、これも実際に後光厳天皇自身が日記に書き記していることなのです。前将軍の未亡人という立場ながら幸子さんという女性が相当に影響力を持っていたことがこれらのことで良くわかります。
 ドラマでは幸子さんが義満さまの母系の従兄弟にあたる緒仁親王の即位を阻止しようと図る、という個人的動機をくっつけてみましたが、これはあくまでドラマ上の方便というやつです(笑)。
 さてこの問題に頼之さんはどう対処したか。深入りすると危ないというのは良く分かっていたようで、あくまで「天皇の意思を尊重する」という立場をとりつづけました。そして最後の決定打が「光厳上皇の遺勅」でした。この件も後光厳天皇自身の日記に出てくる話なのですが、どーも怪しいアイテムに見えてしまうのは否めません。だいたいそんなものがあったのなら、最初から出せよってな話でしょ。そこで作者はこれは頼之さんの謀略だったという解釈で描いています。これでこの件は決着を見たのですが、崇光上皇のお孫さんが『椿葉記』という本で頼之さんの措置を「贔屓」として非難をこめて書いてますから、相当な恨みがこちらには残ったもののようです。
 なお、この話の中で碧さんという僧が出てまいりましたが、もちろん実在の人物。西芳寺に頼之さんが政務の合間に良く出かけていたことは史料にも残っています。次回でちょっとドラマに絡んできますよ。またこの寺の隣に頼之さんが地蔵院を建て、そこにまさにこの年の本人の寿像を納めています。この頼之さん四十二歳の寿像はもっとも良く頼之さんの面影を伝えていると言われるものなのですが、ちょっとドラマの主人公には不向きな顔でしてねぇ(笑)。丸顔でぽちゃっとしていて、温厚そうな人柄は伝わってくるんですが。

 土岐一族のことも含めて何やら行くところ敵ばかりの感のある頼之さんですが、そんな中で親友であり力強い味方であったのが了俊さんだったようです。ドラマ中にも出てきた二人の連歌は秀作として朝山梵灯庵の『長短抄』という連歌論書に収録されています。梵灯庵はこの頼之さんの「人は来て…」の句は来客を見下しているようにも見えるから「友の来て」とすべきだ、と批評を加えているそうで。ともかく、この連歌は頼之さんと了俊さんの日ごろの交友をしのばせてくれます。
 九州への出発を前に遠江のことを頼むと了俊さんが頼之さんに「何となく…」の歌を送り、頼之さんがそれを保証すると返事の書状を返したというのは今川家の記録『今川記』に残る話。なお、了俊さんは次男でして範氏さんというお兄さんがいました(ドラマでもチラッと出てきましたよね) 。二人の父である範国さんは了俊さんを愛してこれに駿河守護職を譲ろうとしたのですが、了俊さんはお兄さんに遠慮してこれを辞退しました。ところがこの範氏さんが早く亡くなりまして、範国さんは改めて了俊さんを駿河守護にすえようとしたのですが了俊さんはまたも辞退し、範氏さんの息子の氏家さんにこれを譲ります。ところが氏家さんには子がなく、また了俊おじさんへの感謝の意もこめて了俊さんのご子息の貞臣さんに譲ります。すると了俊さん、出家していた範氏さんの子の泰範さんを還俗させてこれを駿河守護にする、とまぁややこしい親戚間譲り合いのドラマを展開していました。このことを頼之さんが「世にためしなし」と絶賛したという話が伝えられております。ドラマにどうしても組み込めなかったエピソードなので、解説で書かせていただきました。

 その了俊さんが遠く九州へと旅立ちます。その使命に臨む決意と共に長年暮らした京の人々との別離の寂しさもあったでしょう。ラストに掲げた和歌は了俊さんのこのときの紀行文『道ゆきぶり』に出てくるもの。別れを惜しむ歌には違いないんですが、頼之さん向けだったかどうかは怪しいです。もう一つある「今更に知らぬ命を嘆くかな かはらぬ世々といひしちぎりに」なんかは奥さんとの別れの歌に思えますし。

制作・著作:MHK・徹夜城