第三十二回
「宰相の孤独」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 細川頼之が管領として幕府政治をつかさどるようになってから三年の月日が流れていた。頼之は政敵の渋川幸子、斯波義将、山名時氏らとの対立をはらみつつ、朝廷・寺社との関係、南朝との戦いなど次々と寄せ来る難局に対処していた。盟友・今川了俊に九州平定の大任を託して九州へ派遣し、対外関係をもにらんだ日本統一の事業を進めていく頼之であったが、難題を一身に背負ってしまった宰相は心身ともに限界に達しようとしていた。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川了俊

三島三郎 細川頼基

細川満之 今川頼泰

懐良親王 後光厳天皇

山名師義 山名義理

山名氏冬 山名氏清 山名時義

佐川某 佐々木高秀 命松丸

四条隆俊 和田正武 祖来

楠木正儀

勇魚

小波

斯波義将

春屋妙

朱元璋
(洪武帝)

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役) 緒仁親王=後円融天皇(子役)

細川家家臣団のみなさん 今川家家臣団のみなさん
京都市民のみなさん
ロケ協力:西芳寺
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

赤松則祐

潭周皎

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 応安4年(1371)年3月末、前年の激しい抗争の末に次期天皇と決定された後光厳天皇の子・緒仁親王の践祚(せんそ)の儀が執り行われ、新天皇となった。これが後円融天皇である。幕府の長である将軍・足利義満と年も同じ14歳で、しかも母親同士が姉妹である母系のいとこ同士であった。
 上皇となった後光厳は緒仁即位に尽力してくれたとして管領・細川頼之に礼を言う。「今後も何かと頼みに思うぞ」と後光厳は頼之の肩に手を置いて言った。

 それから間もなく、幕府の重鎮の一人でもあった山名時氏が死の床についた。時氏は息子の師義(もと師氏)義理氏冬氏清時義らを枕頭に集めて死後のことなどを言い残す。「わしは上野の田舎侍から一代でここまでのし上がった…武士としてこれ以上の果報はあるまいよ。あとは山名の一族と所領をお前たちがしっかりと受け継いでくれることを祈るばかりじゃ」と言う時氏に、嫡子の師義をはじめ息子たちは「必ずや我ら力を合わせて、山名の家を父上以上に大きくしてみせまする」と声をそろえる。しかし時氏は言う。「…わし一代で出来すぎたのじゃ。これ以上多くを望むな。もはや乱世は終わろうとしておる…苦労知らずのお前たちが下手に多くを望むと、山名の家はつぶされるぞ…」
 3月28日、驍将・山名時氏は享年73歳でこの世を去った。その知らせを受けた頼之は、一時は幕府の強敵であり、またおのれの最大の宿敵であった男の死に内心安堵を覚えつつ、一代で五カ国の守護にまでのし上がった下克上武将がこの世を去ったことに世の移ろいを感じて寂しくも思うのだった。

 幕府に帰参した楠木正儀に対する南朝勢力の攻勢はいよいよ激しく、頼之は正儀を支援し、なおかつ南朝軍に決定的な打撃を与えるべく、河内と伊勢の二方面で同時に軍事的攻勢をかけることを決める。頼之は細川一族みずからの総力を挙げてことに当たらねば他の諸大名がついてこないと考え、弟で養子の頼基を河内へ、息子同様に育ててきた末弟の満之を伊勢へ出陣させる。そして細川一族の領国である土佐からも被官の武士たちを上洛させ南朝攻略への参加を命じる。
 ところが土佐から上洛させた武士の中にはもともと南朝と通じていた者も多く、中でも佐川某という武士は息子が南朝方ということもあって頼之の命に従わぬ姿勢を露骨に示した。これを三島三郎から聞かされた頼之は激怒する。「総大将であるわしの被官でありながら命に背くか!放っておいては他の大名に示しがつかぬ!…三郎、ただちに兵を率いて佐川を討て!」苛立ちのあまり絶叫する頼之に、三郎が「しかし被官をお討ちになっては他の者たちにも動揺が…」と頼之をなだめようとしたが、頼之は断固として佐川を討つよう言い渡す。
 やむなく三郎は細川家の軍勢を率い、佐々木道誉の息子である佐々木高秀 の協力を得て佐川討伐に向かった。佐川も危険を察知して寺に隠れたが、三郎らの軍勢はこれを襲撃し、佐川の家臣たちを殺害する。佐川自身はいずこかへ逃れ去ったが、この事件は今回の軍事作戦にかける頼之の決意を示すものとして細川家臣たちの心をひきしめることとなった。しかし三郎だけは頼之の精神がかなり切羽詰ったものとなっていることを察してひそかに案じる。「了俊どのを旅立たせたのが今となっては惜しまれる…」と三郎はつぶやく。

 その今川了俊は兵を率いてゆっくりと山陽道を西へ下っていた。吉田兼好の弟子だった命松丸 を連れて、「源氏物語」や和歌のゆかりの地などを訪ねて歌を詠み、紀行文を構想しながらの一見風流な旅を続けつつ、了俊は頭の中で九州平定の戦略を着々と組み立てていく。備後・尾道に入った了俊はそこから九州の阿蘇・島津・大友氏ら、安芸の熊谷・毛利氏などに連絡をとって九州平定に協力するよう呼びかける。
 そこへ頼之の密命を受けた勇魚小波がやって来た。頼之は了俊の戦略に水軍の協力が必須と見て二人を送り込んできたのである。了俊は「さすがは我が友はわしの心を良く分かっておる」と笑い、二人に肥前の水軍・松浦氏と連絡をとりたいのだと打ち明ける。了俊の戦略は、自らは東から、阿蘇や島津が南から、そして松浦氏が西からと三方から同時に攻めかかり、懐良親王の拠点である大宰府を一挙に奪取する、というものであった。「松浦の水軍の手をなんとしても借りたい。海の者のことは海の者に頼みたいと思う」と了俊は言い、弟で養子となっている頼泰(のち仲秋と改名)を勇魚と小波につけて松浦へと向かわせることにする。
 小波が頼之がいま南方攻略で孤独な闘いをしていると了俊に告げると、了俊は顔を曇らせつつも何も言わずに東の空を仰いだ。

 5月8日、頼之の号令のもと、その養子・細川頼基を主将とする河内遠征軍が京を発った。山名・畠山・一色・仁木・佐々木・土岐・赤松などそうそうたる諸大名の軍勢が加わった大軍である。ところが山名や土岐など反細川派の諸将をはじめとして多くの武将たちが長年の敵である楠木氏を救援することに消極的で、河内に入る淀川の手前で進軍を停止してしまった。
 諸将が進軍を停止して非協力の姿勢を見せていると、頼基からの泣きつくような急報がもたらされ、頼之は愕然とする。「わしは前将軍から将軍と幕府を託された管領ぞ…それが、ここまで軽んじられるのか…」頼之はがっくりと座り込み、頭を抱えた。「これも全てはわし自らの不才不徳のいたすところ…まさに、そうじゃ…所詮天下の管領などわしには荷が大きすぎたのじゃ…皆がついて来ぬのも無理のないこと…そうじゃ…身に合わぬことを引き受けたわしが悪いのだ…」頼之がすっかり落ち込んでしまってブツブツとつぶやき続けるのを見て、三郎はたまらず頼之の妻の慈子を呼び寄せた。慈子は夫を慰めようとあれこれ話しかけるが、頼之にはそれが聞こえないようで、ますます思いつめた表情を見せている。
 夜半にいたり、やおら頼之は立ち上がった。「もう限界じゃ。わしは管領も武士もやめて出家遁世しようと思う。そうと決めたらさっぱりした」と頼之はきっぱり言い放ち、驚く慈子や三郎を尻目に厩舎に走って馬を引き出し、そのまま夜の闇の中へ走り去ってしまった。慈子は慌てて「将軍にこのことを告げよ」と三郎を将軍邸に走らせる。

 「頼之出奔」の急報を受けた義満は驚き、「なんたること。何としても頼之を思いとどまらせるのじゃ。早まってはならぬと」と、三郎に頼之の行方について案内を頼む一方、頼之と並んで父親代わりである赤松則祐を急遽呼び出す。則祐も事態を知って驚き、義満になんとしても頼之を止めねばと言う。三郎が頼之の走り去った方角や日ごろの行動から西芳寺かその隣の地蔵院に向かったのではないかと言うと、義満は「では案内せよ」と自ら馬にまたがる。則祐も同行を申し出て、三郎と義満、則祐の三人はわずかな近習たちばかりを連れて夜の京を西へ向けて疾駆した。
 三郎の読みどおり、頼之は西芳寺に身を寄せていた。住持の「このような夜中においでとは…何ぞ急ぎの御用か」と微笑みながら迎える。「とり急ぎ、出家遁世を思い立ったのじゃ。和尚に一切を頼みたく、こうして押しかけて参った」と頼之。「なんとせっかちな…夜の夜中に頭を丸めたいと申し出る宰相とは前代未聞ですな」と碧は呆れたように笑う。「笑うな。わしは考えに考えた末に心を決めたのだぞ」と憤慨する頼之だが、碧は巧みに話を避けて、「まぁ落ち着かれよ」と茶を一服すすめる。茶を飲んで頼之が少し人心地ついた様子を見せていると、門前に馬が馳せつけてきた物音がする。間もなく義満、則祐、三郎らが寺に入ってきて頼之の前に立った。頼之は驚いて平伏し、「将軍のお心をお騒がせし、罪は万死に値しまする」と体を震わせて謝罪する。
 「頼之」義満は頼之の前に腰をかがめ、頼之の肩に手を置いた。「わしはそなたを実の父と思えと先の将軍から言い渡された。それに従うてわしはそなたを父と仰ぎ、その子と思うようにしてまいった」と義満は前置きして、「子として、父に言おう。父上はいささか働きすぎじゃ…全てを一身に負いすぎておられる。もそっと気を楽に持たれよ。子のそれがしが手助け致すほどに、な」と頼之の目を覗き込むようにささやく。頼之はその言葉に体を震わせ、目に涙をあふれさせた。「将軍…もったいないお言葉を…」と嗚咽する頼之。義満は立ち上がって碧「世話になった。武蔵守を連れて帰るぞ」と言い、則祐と三郎に頼之を助け起こさせ寺から連れ出した。

 頼之の出奔騒動はこの一夜で治まり、頼之は出家をあきらめ管領職にとどまりって将軍・義満がこれを重く信任することを諸将に改めて示したため、頼之に反抗していた諸将もようやく動き出し、淀川を越えて河内に進出し正儀を助けて南朝軍と戦い始めた。しかし2ヶ月ばかりの戦いののち、まだ十分な戦果を挙げぬまま「河内は平定された」とばかりに8月初頭に大半の軍勢が京に引き上げてしまう。
 8月15日、将軍邸で月見の宴が催され諸大名が招かれた。むろん頼之も参席し、その次席には最近はすっかり政界から身を退いて近江で悠々自適の暮らしをしていた佐々木道誉が久しぶりに姿を見せ、和歌などを披露していた。「このところ何かと大変なようじゃのう」と道誉は隣の頼之にこっそりと声をかける。「尊氏公も何かにつけ出家じゃ、遁世じゃとよく申していたものじゃ。天下を率いるというのは、まこと心身をすり減らすものらしいのう」と笑う道誉に、頼之もかすかに笑って返す。「政のこつを教えようか。将軍を立ててお主はその陰に回れ。お主はとかく正面に立ちすぎる。将軍も大きくなられたことだし、まず将軍を表に立てて諸将を従わせるのが得策と思うが」と言う道誉に、「よく分かっております」と頼之はニヤリと笑って見せる。
 宴もたけなわの中、頼之が突然義満の前に進み出て、「南方攻略のこと、はかばかしく進みませぬゆえ、ひとまず兵を引き上げたいと存ずる」と進言した。すると義満が「何と弱気なことを言うか」と大声で頼之を責める。思わず諸大名が注目する中、頼之と義満は激しく議論を戦わせ、しまいには義満が怒りの表情で立ち上がり、「わしは武家の棟梁たる将軍であるぞ!わしの意に背くというのであれば致し方ない。明日より柳営(幕府)に出仕に及ばず!」と頼之に吐き捨てるように言って席を蹴って出て行ってしまった。頼之は平伏したまま身を縮め、諸大名は義満の意外な強硬姿勢に驚いて顔を見合わせる。その様子を道誉は面白そうに眺めていた。

 この翌日から頼之は自邸に謹慎したが、結局頼之がいないと幕政がままならないので諸将が義満にとりなし、間もなく頼之の謹慎は解かれることになった。この一件で義満が初めて己の意思を強く示したことでその権威は高まり、また諸将も義満が南方攻略に積極的であることを知ってようやく軍事作戦に協力的となったのである。
 月見の宴の口論が頼之と義満の示し合わせた芝居であったことを、道誉はしっかり見抜いていた。「お主は確かに策士だが、策を弄しすぎるのも考え物だぞ」と道誉は頼之に忠告する。そして反頼之の旗頭とも言える斯波義将が越中の南朝方・桃井直常討伐に戦果を上げ名声を高めていることに触れて、「南方攻略が失敗すれば斯波一派は勢いづく。何としても勝たねばならぬぞ」と頼之に諭すのだった。
 間もなく南朝の四条隆俊和田正武 、湯浅の一族らの軍勢が楠木正儀に対し攻勢をかけてきた。これに対して頼之は再び頼基を主将とする幕府軍を派遣し、河内国内で三ヶ月の戦った末、11月の瓜破(うりわり)城の戦いで大きな戦果を上げることが出来た。これで頼之の政権はひとまず一息つくこととなったのである。
 その一方で頼之は禅宗の春屋妙 一派との和解に努めてもいた。11月に頼之は春屋の隠遁先を訪れて会談を試みようとしたが、春屋は先手を打って丹波の雲門寺へ逃亡し、春屋の弟子たちも一斉に風邪と称して頼之との面会を拒絶した。これには頼之もついに堪忍袋の緒が切れ、春屋一派全員の僧籍を剥奪する措置をとった。春屋一派は寺を捨てて逃亡し、多くの五山の禅寺が無人と化すという異常事態になったが、頼之は春屋一派に属さない禅僧たちを後釜にすえて春屋たちの復帰を断固許さぬ姿勢を示したのである。
 頼之の強硬措置には幕府内でも反発が強かった。また、鎌倉公方の足利氏満が使者を春屋に遣わしてこれを慰めるなど穏やかならぬことがあり、慈子はまた夫が自暴自棄になるのではないかと心配する。これに頼之は「案ずるな。ここでわしがやけを起こしては、筑紫に向かった了俊、そして死んだ清氏らに顔が立たぬではないか」とやや寂しげに笑いながら慈子に答えた。

 この年の10月。明帝国の都・南京に懐良親王の使者として僧・祖来が到着し、皇帝・朱元璋に馬などの産物を献じ、倭寇に捕らわれた明の男女70人を送還余りをした。懐良は「良懐」の名で朱元璋に「表」(臣従を表する外交文書)を送り、これに応えて朱元璋は「良懐」を「日本国王」に冊封した。
 そして12月19日。その「日本国王」となった懐良の勢力を打倒するべく、九州探題・今川了俊がついに九州・門司に上陸していたのである。

第三十二回「宰相の孤独」終(2002年9月5日)


★解説★

世阿弥第四弾 本家の大河に追いつくべく、急ピッチで更新しております「室町太平記」の解説者、世阿弥でございます。私本人がドラマ中に出てくるまであとちょっとですので、お待ちくださいねー。
 さてと今回は、というか今回も盛りだくさんでございますねえ。このところちと一回分に詰め込み過ぎのような気もいたしますけど、これもしょうがないんですよ。急がないと残り回数で目標点まで行かなくなっちゃうもんで。

 まず冒頭に後円融天皇のご即位でございます。前回のようなすったもんだの末に即位されたこの方ですが、母系のいとこであり同い年の義満さんとは何かと因縁の間柄になるのでございますよねー。めぐり合わせが悪かったといいますか何といいますか、ま、これにつきまして今後語られることでございましょう。

 そしてその直後に巨星墜つ。本ドラマの悪役スター的存在でありました山名時氏さんがこの世を去っております。これまでもさんざん触れましたように、元弘の乱以前は上野で民百姓のような暮らしをしていたのが動乱に乗じて五カ国の守護にまでのしあがったこのお方。この時氏さんの死に際して「当代きっての果報者」と評した公家さんもおりました。しかしご本人は常日頃「息子たちは苦労知らずだから…」とこぼしていたそうで(了俊さんが『難太平記』に記している)、いろいろ心残りもあったのではないかと思われます。ともあれ、合掌。

 今回のメインテーマとなっておりますのが「頼之首相プッツン事件」であります(笑)。まず土佐から動員した被官の武士の中にいた佐川某(名前は伝わっておりません)が息子が南朝に通じていたうえ出陣を拒否したため、頼之さんが兵を送ってこれを討たせるという事件が四月一日に発生しております(『後愚昧記』に記録あり) 。これが伏線であったようでして、そのほぼ一ヵ月後に頼之さん自身が管領を辞めて出家・遁世しようとするという騒ぎが起こるのですね。思い返してみると、尊氏さまに中国平定を命じられた際に要求が受け入れられなかったことを理由に出奔した騒ぎがありましたし、意外と頼之さんってプッツン傾向があったのかも(本ドラマでは以前の出奔騒動は意図的なものと解釈してますが) 。しかしこの時代の頼之さん、清氏さん、義将さんといった歴代管領はみんな一回ぐらい辞任騒動を起こしているのも事実でして、政治的にうまくいかなくなったときの不満表明のパフォーマンスであった可能性も大です。ちなみに頼之さんはその管領在任中に確認できるだけでも3回は辞任騒動を起こしております。
 
 この出奔騒動が起こったのは5月19日夜半のこと。詳しい記録は公家の近衛道嗣さんの日記『愚管記』にありまして、道嗣さんは「頼之一身の骨張、よってかくのごときの儀に及ぶと云々」(頼之一人の意地っ張りのためにこのような事態になってしまった) なんてコメントを記しております。結局この騒ぎはドラマにもあるように義満さんと則祐さんが駆けつけ、頼之さんを説得して連れ帰ったため一応丸く収まったのですが、頼之さんの政治的立場がいかに危ういものであったかということを再認識させられる騒ぎではありました。まぁ確かにこのあたりの諸将の非協力ぶりを見ていると頼之さんでなくてもプッツンしちゃいそうな気がしますが。

 8月15日の月見の宴で頼之さんが義満さまに進言し、わざと怒りを買って将軍の権威を高めたという逸話は室町時代末期に編纂された逸話集『塵塚物語』に出てくるお話。ドラマではもともと年代の分からないこの話(『細川頼之記』は年代も特定して話を面白く盛り上げてますが、例によって信用が置けない)をこの年に持ってきて、実際にこの年の月見の宴に出席して和歌を詠んだ佐々木道誉さんを絡めるなどのアレンジを加えております。なお、この月見の宴が道誉さんが公の場に姿を見せたことが記録上確認できる最後のものになります。

 禅宗業界、とくに春屋さんとの和解を進めようとした頼之さんでしたが、今回もまた完全に肘鉄を食ってしまった形で、ついに頼之さんもブチ切れて全員僧籍を剥奪するという挙に出ます。これで春屋さんとは完全に修復不能になっちまうわけですが、この際に鎌倉府の氏満さん、つまり義満さんのお従兄弟にあたる方が春屋さんに慰めの使者を派遣していることが注目されます。これは氏満さんがまだ少年ながら「何かあれば自分が将軍に…」と野心をちらりと覗かせているともとれるわけです。この野心はのちに現実のものとなって現れてくるのですが、それについてはそのときに。

 さて、目を西に転じれば懐良親王がついに明に使者を送り、正式な外交関係=朝貢関係を結んでしまいます。これについては昔からそもそも事実なのかどうかなど、いろいろと議論があるのですけれど、当時の懐良親王が置かれた立場を考えると事実と見るほうが自然だと思います。また明側の全ての記録では彼について「良懐」とさかさまに記しているのですけれど、これは単純な誤記ではなく(誤記だったらあそこまでそろって間違えるとは思えない)明皇帝に臣従するにあたって懐良親王が自らの名をひっくり返して彼なりの「抵抗」を示したのではないかとする解釈もあります。ともかく明側は「良懐」なる人物を「日本国王」と認定してしまい、これは後々まで日本の対明外交をしばりつづけることになっちゃったりするのです。

 こうして見ていくと、今川了俊さんの九州派遣がちょうどこの時期に行われているのはやはり偶然ではないのではないかと思えてきますね。実際このタイミングが大きな影響をもたらすことになるのですけど、それは次回の話。
 なお、ドラマ中でも描かれましたが、了俊さんは2月に京を発って12月に九州上陸というとんでもなくスローペースな旅をしております。このときあちこちの歌枕や「源氏物語」ゆかりの地を訪れた様子をつづった紀行文が『道ゆきぶり』で、了俊さんの文学者ぶりを示す代表作となっています。しかし同時にあちこちに手紙を送り、弟の頼泰さんを松浦へ向かわせたのをはじめ息子さんたちを九州へ先発させるなど着々と九州攻略の準備をしていたあたり、やはりこの人ただ者ではありません。
 次回はいよいよこの了俊さんの九州攻略。苦節三十三回目にしてようやく主役の一人に躍り出ます(笑)

制作・著作:MHK・徹夜城