第三十三回
「九州攻略」


◆アヴァン・タイトル◆

 応安四年(1371)、盟友・細川頼之から九州平定の大任を託された今川了俊は京を発ち、一年近くの時間をかけ周到に準備を進めながら九州へと赴いた。このとき九州には南朝の皇子・懐良親王と菊池一族の勢いがなお盛んで、さながら独立王国の様相を呈しており、新興の明帝国とも独自に交渉を行って「日本国王」に冊封され、それを伝える明の使者がまさに日本へ向かおうとしている矢先であった。了俊の九州平定作戦は「日本国王」の地位をめぐる戦いという側面もあったのである。


◎出 演◎

細川頼之

慈子

今川了俊

懐良親王 菊池武光

細川氏春 細川満之 

今川頼泰 今川義範

陳延祐 大年宗寿

山名師義 仲猷祖闡 無逸克勤

楠木正儀

斯波義将

長慶天皇

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役) 

細川家家臣団のみなさん 今川家家臣団のみなさん
京都市民のみなさん 延暦寺衆徒のみなさん 興福寺衆徒のみなさん
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

朱元璋(洪武帝)

渋川幸子

赤松則祐


◆本編内容◆

 応安四年12月末、今川了俊は豊前・門司に上陸し、ついに九州の土を踏んだ。了俊はこれに先立って息子の義範を豊後に、弟で養子の頼泰(のちの仲秋)を肥前に派遣し、それぞれ大友氏、松浦氏といった在地豪族たちと共に兵を挙げさせていた。その一方で了俊は島津氏や禰寝氏など南九州の豪族たちにも書状を送って協力を呼びかけ、懐良親王菊池武光らの勢力を包囲する態勢を用意周到に固めていた。

 「了俊上陸」の報を受けた菊池武光はちょうど豊後・高崎城にこもる今川義範を攻撃中だったが、事態の容易ならざることを悟って年明け早々に軍を大宰府へと引き返した。大宰府でこれを迎えた懐良は肥前松浦に上陸した今川頼泰が松浦党と手を組んで肥前国内に勢力を広げつつあることを告げ、まずはこれに対応すべしと武光と協議する。
 ただちに武光の子・武政が軍を率いて肥前に向かったが、二月に烏帽子嶽の戦いで頼泰の軍勢の返り討ちにあって敗北してしまった。一方の了俊も豊前の多良倉・鷹見といった懐良方の城を次々と攻め落としていく。懐良・菊池氏側も必死の防戦につとめたものの、周到な準備と根回しの上での了俊の作戦の前に打つ手も無い。早くも四月には了俊は博多の町を手中に収め、大宰府を北から見下ろす佐野山に陣を敷いた。しかしあくまで慎重な了俊は即座に敵の本拠・大宰府の攻撃には移らず、頼泰らを各地に転戦させて懐良方の勢力をじわじわと切り崩していった。

 そんな慌しい五月、博多の港に思わぬ来訪者がやって来た。「なにっ、明国の使者だと!」と一報を聞いた了俊は驚き、ただちに博多へ急行した。博多にやって来たのは前年の懐良の入貢に応じて「日本国王・良懐」のもとへ使者として遣わされた明の禅僧・仲猷祖闡(ちゅうゆうそせん)と無逸克勤(むいつこくごん)らだったのである。彼らは「良懐」を日本国王に封じる詔書と明の暦「大統暦」を持参していた。了俊は「間一髪というところであったな。危うく大宰府の宮を我が国の王とするところであったわ」とつぶやき、明の使者たちと交渉するために誰か力になってくれる国際通はいないかと博多の商人らに尋ねた。すると「博多の聖福寺に元の末に博多に来た唐土の僧がいる」との情報を得て、了俊はさっそく聖福寺を訪ねた。
 その僧とは台山宗敬、俗名を陳延祐という者だった。陳延祐は了俊にここ数年の大陸での動きを説明する。陳延祐は元末の群雄・陳友諒の一族で、陳友諒がハ陽湖の戦いで朱元璋に敗れてその国も滅ぼされたのち日本に亡命し、この博多で僧となっていたのである。「海の向こうでも激しい戦をしておるのだのう…」と話に聞き入る了俊に、陳延祐は「それも終わりました。この日本も早くまとまらねばなりますまい」と言い、明の使者の件は自分に任せてほしいと申し出る。そして息子の大年宗寿が了俊の外交顧問として側に仕えることに決まる。
 了俊は明の使僧二人を聖福寺に預け、大宰府攻略が片付いたのちに京へ送ることにした。

 了俊がついに大宰府攻略にとりかかったのは八月のことである。肥前・筑前の懐良方を掃討してきた頼泰の軍と合流した了俊は、8月10日から攻撃に取りかかり、大宰府周辺の支城を次々と落とした。8月12日、了俊軍の攻勢に耐えかねた懐良親王らは大宰府を放棄して筑後川を越えた高良山に落ち延びた。ここにおよそ十二年に及んだ大宰府・征西将軍府の九州支配は終焉を迎えたのである。
 だが要害の高良山に拠点を移した懐良・菊池軍の抵抗も頑強で、了俊は筑後川の対岸に城を構えてじっくりと腰をすえてこれを攻略する戦略をとった。そして島津氏などの南九州の武士たちに応援を求め、懐良らを追い詰めようとする。

 了俊の九州平定戦が着々と成果を挙げているころ、京の細川頼之は相変わらず苦しい政権運営を強いられていた。前年の末に強力な味方の一人であった赤松則祐が亡くなり、渋川幸子および斯波義将山名師義を中心とする幕府内の反細川派は勢いを増していた。頼之と決裂して丹後にこもった春屋妙葩の復権を求める声も多く、さらに比叡山・延暦寺や奈良の興福寺の衆徒たちも反頼之の姿勢を強めて強訴や祈祷に明け暮れていた。
 そんな情勢の中、この年の9月24日に頼之はまたしても「所存に違う子細あり」として管領を辞して四国に帰りたいと将軍・義満に申し出た。義満は「それはならぬ、幕府を仕切れるのは武蔵守しかおるまいに」と慰留に努めるが、頼之はあくまで辞意を示し、そのまま帰宅してしまう。ただちに義満自らが頼之邸を訪れて管領にとどまるよう強く求めたので、頼之はようやく辞意を翻して管領職にとどまることを承知した。

 この辞意騒動について幸子や斯波義将、山名師義は「よくもまぁ見え透いたやりとりを」と冷ややかに見ていた。「それだけ頼之殿も追い詰められているということですな」と言う師義に、幸子は「しかし頼之殿が完全に将軍をその手に握っているということでもある。則祐どのが亡くなった今、将軍の父代わりは頼之どのしかおらぬからの。そして頼之に代わって幕府をつかさどれる者がおらぬというのも事実じゃ…」と嘆息する。義将が「わたくしは」と口を挟むが、「そなたは頼之と張り合うにはまだお若い」と幸子に一蹴され渋い顔をする。
 「やはり今度は見え透いたやり口かのう」と頼之も妻の慈子に語っていた。「しかしああでもせねばこの場は切り抜けられぬ。将軍の権威だけが今は頼りだ」と言う頼之に、慈子は「将軍もすでに十五歳…そろそろ御自分で政務を見られるお年頃です。殿はもう少し肩の荷を下ろされませ」と言って慰める。「十五か…早いものだ…」と遠い目でつぶやく頼之。「本当に…」と慈子もまた夫とともに遠い目になる。
 11月22日、義満が将軍として初めて幕府の公文書に花押(サイン)を書く「判始の儀」が執り行われた。まだ頼之の補佐を受ける形ではあるが、ここに三代将軍・足利義満の政治的活動が開始されたのである。ややぎこちない花押を文書に記し、義満はその文書を頼之以下一同に示して得意げな表情を見せた。

 翌応安六年(1373)、頼之は畿内南朝勢力に対する軍事攻勢をいっそう強めた。もはや頼りになるのは同族ばかりと、従兄弟で淡路守護の細川氏春に淡路勢を率いて河内へ向かわせ、楠木正儀と協力して南朝軍へ攻勢をかけさせる。その一方で弟の満之を伊勢に派遣してこの地の南朝方・北畠氏に圧迫をかけてもいた。

 この年の六月、九州の了俊のもとから明の使僧二人が京へと送られて来た。二人は博多で一年すごす間に日本の混迷する実情を教えられ、実質的な日本の代表政府である幕府と交渉するべく京にやって来たのである。彼らの案内役として陳延祐の子・大年宗寿が同行し通訳などを務めていた。
 彼らは義満および頼之に会見し、聞かれるままに海外の情報を義満に語る。義満は海の向こうに出現したばかりの明帝国の話に聞き入り、中でもその帝国を農民からのし上がって建国した朱元璋の話に大いに興奮する。 「頼之、胸躍る話とは思わぬか…唐土の治乱興亡は史書で読むばかりのことだと思っていたが、わしらが生きているこの世に、まさにそれが海の向こうで起こっていたのじゃ。明の皇帝が位に就いたのはわしが将軍になったのと同じ年ぞ…天命のめぐり合わせやもしれぬのう…その皇帝の使者がこうしてこの京に来ておるのじゃ…これはこちらからも返礼の使者を送らずばなるまい」義満が興奮気味に語る様子を見ながら、頼之は頼之で明との交渉が九州平定にどれほど利があるかと頭の中で計算していた。

 8月、河内での幕府軍と南朝軍の戦いはようやく幕府軍の優勢が固まりつつあった。楠木正儀と細川氏春の軍勢は南朝の長慶天皇のいる河内・天野を攻略、夜襲をかけてきた四条隆俊らの南朝軍を逆に壊滅させた。ここにいたってついに長慶は天野を放棄し吉野の山奥へと逃れていったのである。
 この軍事的成功によりようやく頼之の政権運営はひとまずの安定を得ることとなる。
 
第三十三回「九州攻略」終(2002年9月10日)


★解説★世阿弥第四弾  

 どうも、毎度おなじみの解説能役者・世阿弥でございます。今回も詰め込んでおりますねぇ。実はこのドラマ、当初は「一回で一年を描くペースで」と構想されていたりするんですが、どっかで大幅に予定が狂い(笑)、ここに来てなんとか一回に数年分入れちゃおうとあれこれ工作してるんですな。
 それにしても前回で山名時氏さん、今回で赤松則祐さん、そして次回で誰かさんと次々大物がこの世を去っていくので出演リストの「トメ」をどうするんだか、と仮想ドラマならではの悩みも抱えちゃったりしております。義満さんがそろそろ成人役となる予定なのでそうなっちゃえばあまり困らなくなるんですけどね。

 さて今回はタイトルどおり、今川了俊さんの九州平定戦にメインが置かれております。第一回から登場して苦節33回、ついに主役の座に…って前回も言いましたっけね(笑)。しかしここまで頼之さん、清氏さん共通のお友達、という程度でこれといった活躍が描かれなかった了俊さんですが、なかなかどうして、このあたりの展開を見ておりますと大変な戦略家であると驚かされます。
 京を発ってから九州に入るまではチンタラしているように見えるんですが、その間にしっかりとあの手この手を打っておいて(と同時に歌の研究も怠らず紀行文も推敲してたりする) 、自らが九州に上陸したらあっという間に大宰府陥落まで持っていってしまうのです。それまで幕府を寄せ付けない独立王国を築いていた懐良親王と菊池氏の征西将軍府もさしたる抵抗も出来ずにあっさりと本拠地を奪われてしまいました。まぁその後の抵抗は結構長く続くんですけど。なお、ドラマでは面倒なんで了俊軍の面々については書いていませんけど、周防の大内、安芸の吉川、小早川、毛利など中国地方の戦国史を彩る武士たちが名を連ねておりました。毛利元春さんなんかは了俊さんの参謀的存在でもあったみたいです。

 大宰府陥落をひかえた時期、博多に明の使者がやってまいります。前年に入貢し明の皇帝から「日本国王」と認められた懐良親王=「良懐」に詔書と大統暦(元が作った暦をもとにしたもので、これを受け入れることが中華世界の一員になることを意味する。言ってみれば時間を支配する皇帝に臣従するわけですな)を渡すべく渡航してきたものだったのです。まさに間一髪のタイミングでこれが了俊さん、つまり幕府側の手中に落ちます。偶然だとしたら恐ろしい偶然でありますね。
 彼らが収容された博多の聖福寺というお寺にはドラマにも出てきた陳延祐なる人物が僧として住み着いていました。覚えておいででしょうか?元末の群雄・陳友諒が朱元璋に敗れ去った際に「ちゃーんとこれが日本のドラマにつながってくる」と言いましたことを。これがそれなんです。そしてこの陳延祐の息子さん、大年宗寿がのちに「陳外郎(ちんういろう)」と呼ばれることになるお方。そう、あの「ういろう」の名前のルーツに当たる方なんです!ま、これについてはその後ドラマで語れるんじゃないかな、と思っておりますのでその際に。

 さて目を京に転じると、相変わらず苦労が絶えない頼之首相(笑)。なお、唐突に赤松則祐さんの死去が語られておりますが、これは前年(応安四年)11月29日のことでした。享年61歳。思い返せばあの後醍醐天皇の皇子・護良親王のお供をして吉野・熊野で生死を共にしたというところから、父・円心さんとともに尊氏さまのために戦って建武政権打倒に功績をあげ、赤松家を室町時代の名家に仕立て上げたというムチャクチャ波乱に富んだ一生でございましたね〜。いやほんと、この人一人でも十分大河ドラマになりますよ。
 前年に辞任・出家騒動を起こした頼之さんですが、この年の九月にまたやっております。ただこちらはどうも芝居くさいなぁと思うところがあるんで作者はそうしております。それを言ったら前年の騒ぎも十分胡散臭いんですが(笑)、あの時は状況が異様であることもあって本気(あるいは半分本気)だったんじゃないかなと。
 この年の11月にようやく義満さまが「判始の儀」を行って将軍としての公務を開始しています。しかしそこはまだ十五歳、実際の政務は頼之さんが仕切ります。この時点でドラマとしては義満様を成人役に交代するという手もあったんですが、まぁまだ無理があるなと先送りしてます(笑)。本家大河ドラマもそうですけど、難しいんですよね、この手の交代って。

 了俊さんにつかまった明の使者二人が応安五年六月に京に入ったことは分かってるんですが、実際のところ幕府とどのような交渉があったのかはほとんど分かりません。次回の話になりますが、彼らの帰国に同行させる形で幕府は使者を明に送っているので、このときの交渉自体は順調に進んだのではないかと思われます。しかし日本の政治構造のややこしさには明の使者たちもさぞ混乱したことでしょう。
 ドラマでは義満様が朱元璋=洪武帝さんの話に胸躍らせる場面が描かれており、もちろん全くの創作なのですが、どうも本当に義満様が洪武帝にある種の崇拝の念(あるいは親近感)を持っていた可能性はあるんですね。確かに「即位」の年が同じ(実質的にはほぼ一年の誤差があるんですけど) ということもありますし、後年「応永」の年号を決める際に義満様が「洪武」の「洪」の字を年号に盛り込もうとかなり運動している事実があります。そしてそれは義満さまの心の中に「ある野望」があったことと呼応するのですが…ま、それについても追い追い描かれることでしょう。

制作・著作:MHK・徹夜城