第三十四回
「青年将軍」


◆アヴァン・タイトル◆

 盟友・今川了俊の九州平定戦と畿内南朝勢力に対する一定の勝利により、不安定な時期が長く続いた管領・細川頼之の政権は一応の安定を得ることとなった。全国政権としての幕府の形が定まっていく中で、三代将軍・足利義満は青年へと成長していく。


◎出 演◎

細川頼之

足利義満

慈子

渋川幸子

細川頼基 細川満之

山名師義 後光厳上皇

犬王 観阿弥

宣聞渓 浄業 喜春

碧潭周皎

後円融天皇

紀良子(北向尼)

世阿弥(解説担当)

足利義満(子役) 世阿弥(子役)

細川家家臣団のみなさん 
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
室町幕府直轄軍第14師団
協力:京都御所 大明国南京電視台

朱元璋(洪武帝)

里沢尼

佐々木道誉


◆本編内容◆

 応安六年(1373)8月。佐々木道誉が隠棲する近江の館に、猿楽の一座が招かれ芸を披露していた。近江猿楽の名手・犬王が歌い、大和猿楽の出で最近めざましく頭角を現している観阿弥が舞う。彼らは芸能に造詣の深い道誉の保護を受け、日ごろから親しく交流していたのである。
 舞が終わって一同が道誉に挨拶する際、道誉は観阿弥の傍に控える少年に目を向けた。「その童は?」と問う道誉に、観阿弥は「それがしの一子、元清と申しまする」と答え、少年を道誉の傍へと進ませた。道誉は元清の顔をまじまじと見て、「なんと…見目麗しい童じゃ…これは先行き頼もしい跡継ぎを持ったのう、観阿弥」と言う。観阿弥の一子・元清、のちに世阿弥と呼ばれるこの少年、当時十歳である。「わしは立花の道にいそしんできたからよう分かる…そちには、生まれながらにして花がある…。その花を、大きく美しく咲かせてみせよ」と道誉は世阿弥少年の目を覗き込みながら語る。「…そして、どの花にも必ず枯れる時が来る。いつまでも咲き誇る花など無い…まこと、はかなきものよ。だが、だからこそ花はいっそう美しく咲こうとし、この世にその名残をとどめようとするのじゃ。それゆえに、この世は面白く美しく出来ておる」道誉はそう言って世阿弥少年の肩に手を置いて笑いかけた。

 8月25日。佐々木道誉は近江の隠棲先で静かにこの世を去った。「道誉逝去」の知らせはただちに京にもたらされ、管領・細川頼之は道誉の喪に服すとして幕府の政務を停止させた。鎌倉以来の大名で尊氏を助けた幕府創設の功臣の一人であり、また尊氏の死後の幕府政治に大いに手腕を振るった怪物政治家の死に、武家・公家を問わず人々は一つの時代が去ったと感慨にふけるのだった。頼之自身も「今日のわしを生んだのは道誉入道だ」と妻の慈子に語り、道誉から引き継いだ幕府をしっかりと育てていかねばと決意を新たにするのだった。
 道誉が死んで間もなくの8月29日、足利義満と細川頼之は明の使者と対面し、彼らの帰国に宣聞渓浄業喜春ら僧侶を同行させ、明の洪武帝に献上品を持っていかせることを伝えた。幕府から海外に使者を派遣するのはこれが最初である。

 この年の12月、足利義詮の七回忌の法要が執り行われ、義満が諸大名を従えて仁和寺や等持寺をまわった。しかしこのとき頼之と対立する山名師義 が軍勢を集めているとの噂が京の市民の間に流れ、実際にこれに対応するかのように幕府にも軍勢が集結したので、一時「戦乱になるか」と人々は騒いだ。結局何事も起こらなかったのだが、騒ぎの陰に頼之の権力を脅かそうとする山名一族の無言の圧力があったことも事実だった。頼之は実弟で養子の頼基を侍所の頭人(長官)にすえて体制の強化を図る。

 翌応安七年は年明けから頼之にとって身近な人々の死が相次いだ。頼之の心のよりどころとなっていた西芳寺の碧潭周皎が1月5日に84歳で亡くなり、さらにその同じ月には、皇位継承の一件以来頼之と懇意だった後光厳上皇が疱瘡のために危篤に陥った。危篤の上皇は特別に頼之を枕頭に呼び寄せ、「緒仁を…帝を頼む」と遺言する。その三日後の1月29日に後光厳上皇は37歳の若さで息を引き取った。

 この年の五月。義満が明に派遣した使僧たちは明の僧たちと共に無事に首都・南京に到着し、義満からの書状や献上品を明の朝廷に差し出した。しかし、洪武帝は 「朕は先に表を奉じて入貢してきた“良懐”を日本国王と認めており、これに使者を送ったのである。その使者を二年も拘留した末に“持明”なる別の王の臣下として表も持参せずに使者を送ってくるとは無礼にもほどがある。しかもこの“義満”とやらは王が幼いのを良いことに権力をほしいままにしているというではないか。このような貢物を受けるわけにはいかぬ」として義満の献上品や国書は受け取らず、ただ宣聞渓ら使者たちにその労をねぎらう絹織物などの品々を与えただけだった。
 使命を果たせず失望した宣聞渓たちだったが、驚いたことに南京には他にも日本からの使者が訪れていた。九州の島津氏久が派遣した使節が、倭寇にさらわれた明沿海の住民などを手土産に明に交渉を求めていたのである。これもやはり正式の日本国王の使者ではないことを理由に交渉を拒絶されていたが、義満の使者同様に遠路の労をねぎらう品々だけは与えられていた。宣聞渓たちは幕府が明と交渉するにはまだ数々の困難があること、なおかつ交渉の競争相手が他にも存在することを実感して帰国の途に就いた。

 自らの送った使節が海の向こうでそのような事態に遭遇しているとは全く知らぬ義満は、そのころ自らの家庭内の問題で頭を痛めていた。母の紀良子(北向尼)が「母の智泉尼の草庵に隠棲して静かに暮らしたい」と言って突然私邸を出てしまったのである。義満はただちに頼之を呼び出し、「わしと共に母上を思いとどまらせてくれ」と頼んで、わずかな供だけを連れて清水坂の草庵へ馬を馳せた。
 将軍と管領である義満と頼之がそろって草庵に押しかけてきたことには、さすがに良子も驚き、面会して義満と頼之が説得するとわりあい素直に都に戻ることに同意した。「何かお暮らしの上でご不満でも」と頼之が事情を問うたが、良子は黙り込む。義満がその様子を見て「大方禅尼(幸子)に何か言われましたか」と尋ねると、良子ははっきり肯定はしないまでもそれが図星であることを暗に示した。
 良子を連れ戻して京に帰ってきた義満は、怒りの形相で義母の幸子のもとへ駆け込んでいった。駆け込んできた義満に、幸子はさして動じた様子も見せず、「これはこれは…何やら北向殿が騒ぎを起こされたようで」と冷たく笑ってみせる。義満は怒り心頭の表情で幸子の前に座り込み、「私はあなたを実母同様に敬ってきたつもりでござる。何かご不満があれば我が生みの母ではなく私に当たられればよろしゅうござりましょう!母は何ら野心も持たず静かに世を送っているというのに…」と声を荒らげた。これを聞いた幸子は「この尼と違って、と言いたいのかな」とニヤリと笑い、 「北向殿が世を捨てようと捨てまいと、この天下にとってさしたることではありますまい。じゃが将軍おんみずからが母恋しさに京を飛び出して行かれるとは由々しきことじゃ…都では一時、将軍が管領と一緒に京を捨てて逃げ出したなどと京童どもが大笑いしておりましたぞ。将軍は天下に恥をさらしたのじゃ!それをどう思われる!」と、キッと義満を睨んで怒鳴りつけた。「なにぃ…!」と顔面蒼白となる義満に、 「まだ将軍は乳離れもおできでないようじゃ…母を恋しがり、乳母に甘え、その乳母の夫に何もかも頼っておられる…すでに御年も十七。しっかりせねば将軍の地位も危ういですぞ。そなたが将軍にふさわしくないと思えば、私だけではない、武家の多くがそなた以外の者を将軍にと望むかもしれませぬ」と幸子は追い討ちをかける。義満は何も言い返せず、憤怒の表情のままで飛び出していった。

 「思えば…将軍はわずか十歳で足利家を継ぎ、幼いながらも武家を束ねる将軍として振る舞わされ、子供らしい時を過ごせなかったかもしれぬな…父に早く死なれ、継母と実の母の板ばさみで心の休まる間も無かったやもしれぬ。富貴の家に生まれながら、実はお寂しいお立場なのやもしれぬな」と、頼之は騒動の顛末を慈子に語りながらつぶやいていた。「でもだからこそ強いお心のお方に育ったようにも私には思えます。近頃はすっかり大人びられて…あのお年であの風格は生まれながらの将軍としか申せませんわ」と慈子。「それは“親”の欲目というものではないか」と言う頼之に、慈子は「殿こそすっかり父親の目で将軍を見ておられますわ。近頃は大きくなった、頼もしくなったとおっしゃるばかりで…」とやり返す。
 翌日、出仕した頼之に「そなた、母親がまだ阿波におったのう」と唐突に義満が言った。「わしだけが母親をそばにとどめていては何かとうるさく申す者がおる。そなたもわしに付き合って母親をそばにおき、孝養を尽くせ。そうすれば少しはわしも顔が立つ」と義満はぶっきらぼうに言った。その妙な理屈に頼之は笑いを含みながらも、政務も落ち着いてきたことだし母親を京へ呼ぶのも良かろうと考えていた。
 間もなく阿波・秋月から頼之の母・里沢尼が頼之の招きで京に上り、頼之の私邸に住むこととなった。頼基や満之など兄弟たちも集まり、頼之らは久しぶりに家族団らんの時を楽しむのだった。


 翌年、年号が変わって永和元年。春3月27日に、十八歳となった足利義満は頼之以下諸大名を引き連れて石清水八幡宮に参詣した。義満は豪勢な八葉車に乗り、牛飼い五人・雑色住人を従え、剣・沓(くつ)・調度の役人もきらびやかな騎馬や浄衣でこれに続き、さらにその周囲を頼之・頼基ら諸大名が数百の騎馬を引き連れて警固にあたり、その豪勢な行列ぶりは都の人々の評判となり、道々に見物人が集まる騒ぎとなった。義満は武家風ではない公家風の意匠を凝らしてこの参詣を一大パフォーマンスとしたのである。
 約一ヵ月後の4月25日、義満は初めて内裏に赴く「参内始」を行い、同い年の母系の従兄弟である後円融天皇 に拝謁した。このときも石清水参詣同様の派手な行列を仕立て、頼之らを引き連れての参内である。参内にあたって公家風の衣冠装束を身につけた義満は、腰に下げる剣も、わざわざ近衛家の家宝の剣を借り出しそれを真似て新調させるほどの凝りようでであった。その豪華ないでたちと、若々しい公家ぶりに、内裏の人々も陰から見て騒ぎ立てる。
 「ご立派なお姿で」と参内を終えた義満に、頼之が声をかけた。義満は自らの豪華な衣装を頼之らに見せ付けるようにクルクルと舞って見せる。「わしも今日から一人前の公卿じゃ。すでに武家の棟梁になっておるのだから、今度は公家の棟梁にでもなってみるかのう」と義満は高らかに笑った。
 
第三十四回「青年将軍」終(2002年9月15日)


★解説★世阿弥第四弾  
 はい、とうとうドラマ中にも出てきてしまった解説担当の世阿弥でございます。今でこそわたくしこんなお面をつけて顔をごまかしておりますが(笑)、十代のころはそりゃーもう平成の御世のジャニーズのアイドルかというぐらい世間で大騒ぎされる美少年だったのでございますよ。
 今回から十八歳となったのを機に義満様も「本役」と交代でございます…と言いましても文章じゃピンとこないでしょうが。最後のほうの石清水八幡参詣の場面でド派手に初お目見えとなります。今後は実質的な主役として活躍されることでございましょう。

 さて、そんな新顔の登場の一方で、ドラマの第一回から重鎮として存在していた超大物、佐々木道誉さんがついに天に召されました。享年は…当時の公家さんの日記『後愚昧記』『愚管記』などでは「七十八歳」と伝えているのですが、十年違うんじゃないかとの意見もあり(今はどっちかというとこっちが優勢みたい) 、後者だとすると68歳ということになります。ま、とにかくあの北条高時さんの小姓から始まって、建武の新政の崩壊と室町幕府の成立の中で巧みに活躍し、義詮さま時代の「政界の怪物」であったこの武将が世を去ったことには当時の人々も感慨深いものがあったようでございます。このごろ山名時氏さんとか赤松則祐さんとか、南北朝第一世代がバタバタと退場していってさみしいですねぇ。
 ところで晩年の道誉さんにわたくし世阿弥が会っていたのか、といいますと、これはちゃんと証拠がございます。何を隠そう、私自身が息子・元能の著書『申楽談義』の中でコメントしているんですね。近江の猿楽の名手で「一忠」という者がいて、私の父・観阿弥が師と仰いでいるのですが、わたくし世阿弥自身は彼を見たことが無い、ただ「京極の道誉」からその様を聞いている、というコメントがあるんです。そこから年齢的にはどう考えても道誉さんの晩年に、わたくし世阿弥が道誉さんと交流があったと推測されるわけです。え?あんた本人なんだから推測の必要ないだろって?ま、まぁこの年になりますと物忘れと言うことが…(汗)。
 ともあれ道誉さんがやがて「能」に成長する猿楽という芸能に目をつけてこれを保護・育成していたというのは、たんなる武将・政治家にとどまらない道誉さんの才能を示すものですね。セリフ中でも言ってますが、立花芸術の立役者でもあるんですよねぇ、この人。なお、楽屋的な話になりますが、道誉さんが世阿弥少年に語るセリフは、わたくし世阿弥の著書『風姿花伝』の一部をヒントにしております。

 応安六年の年末、義詮さまの七回忌の際に山名師義さんと細川頼之さんの間で戦乱が起こるのでは、と噂になり騒ぎになったという話はやはり『後愚昧記』『愚管記』といった日記史料が伝えているもの。こうした日記を見ていると当時の京童たちが盛んに真偽の怪しい噂を飛ばして人々が右往左往するパターンがよく出てきて面白いですね。このときも結局噂で済んでいるのですが、全くの事実無根でもなかったようで、山名一族はこのあともいろいろと頼之さん、あるいは頼之派と目される大名とトラブルを起こしています。
 応安七年の初めに後光厳上皇が早くも亡くなってしまいました。疱瘡、つまり天然痘ですね。危篤になった上皇のところへ頼之さんが異例の呼び出しを受けたのは事実でして、後光厳上皇がお子さんの後円融天皇の即位の件で深く頼之さんに信頼を寄せていたことをうかがわせます。上皇の三七日忌に頼之さんは「すみぞめにさくてふ花も今年こそかわらぬ色に思ひいづらむ」と歌を詠んで上皇をしのんでおります。

 さて前年に義満さんが初めて明に派遣した使者がようやく南京にたどりつきますが、「お前は正式の使節とは認められない!」と事実上の門前払いを食ってしまいます。日本の複雑な政治事情は明の使僧たちも学んだ限りで洪武帝(あるいは上部官僚)に伝えたようで、このときのことを記した明の『太祖実録』には「当時、日本国は“持明”と“良懐”が両立して争っていた」との、不正確ながらそう的外れでもない記述がみられます。「持明」とはもちろん北朝の皇統「持明院統」のことです。これがどういうわけか人名みたいな扱いを受けてるんですな。
 さらに面白いことに洪武帝が出した詔勅には「幼君が位にあって臣下が国権をほしいままにし、傲慢無礼である」との文があります。ドラマ内ではあんな感じに処理しましたが、この「幼君」って誰を指すのか興味深いところ。後円融天皇のことと考えるとストレートではあるのですが、義満様も同い年の「幼君」なんですよね。ひょっとすると「国権をほしいままにする臣」とは管領である頼之さんのことを指しているのかもしれません。ま、どっちにしてもいまいち日本の政治情勢に理解が無い、ってよりは日本側が奇奇怪怪なのかもしれませんが。
 洪武帝の方針として、外国との付き合いは明側が正式な代表者と認めた者、はっきり言えば「表」を提出して明皇帝に臣従を誓った者としか認めていませんでした。たとえ九州だけの支配者だろうが「表」を奉じ、倭寇対策にそれなりの誠意を見せた「良懐」が日本国王であり、それ以外の怪しい奴とは付き合わない、ってことですね。それに義満さまの肩書きは「国王」である天皇の臣下の「将軍」に過ぎないわけですから、そんなもんが皇帝に使者を送るとは無礼千万というわけです。でも決してむげに追い返しているわけじゃなくてちゃんと労をねぎらう品々はくれてるんですよね。
 この時の明の実録を読んで驚かされるのは、この義満さんの使節とほぼ同時に、南九州の島津氏久さん(次回登場予定)までが独自に明に使節を送っていたという事実が記されていることです。肩書きは「志布志嶋津越後守氏久」 とそのまんまで、しかも書状には日本の年号で書いていたりしまして、当然ながら交渉を拒絶されています。しかしどうやら倭寇にさらわれた明人を数多く送還したらしく、わりと褒められて手土産つきで送り返されています。また同じ月には日本の僧侶七十一人がゾロゾロと南京にやってきたなんてことも記されておりまして、案外民間の交流は盛んであったようです。

 今回のハイライト的な事件が「紀良子さん出奔騒動」。まぁしかし頼之さんといい清氏さんといい、よく似た騒ぎをおこしてますなぁ。この事件は6月16日に起こったもので、義満さんと頼之さんがそろって清水坂の草庵に駆けつけて良子さんを連れ帰ることに成功して丸く収まったのですが、このとき京の人々は「将軍と管領が京を没落した!」と騒ぎ立てたそうで(やはり『後愚昧記』より)。この騒動の原因は実はまったく不明でして、幸子さんによるイジメがあったんじゃないかとしたのは作者の創作です。ただやりかねん人だな、と思わせるところはありますね。京童たちは「ヨッシー・サッチー騒動」などとはやしたそうで(もちろんウソ。もうネタが古いか)
 なお、この顛末の最後に頼之さんが母親の里沢尼さんを京に呼び寄せることになってますが、実際にはいつのことかは不明です。

 さて永和元年(1375)。いよいよ義満さんも十八歳。もうすっかり大人扱いであります(笑)。その途端にド派手なパフォーマンスを繰り広げておりますが、これはのちのち金閣なんて派手な建物を作っちゃう前兆だったのかもしれません。次回からはそろそろ恋の噂やご縁談のお話なども…などと、一昔前のワイドショー的に締めくくらせていただきます(笑)。

制作・著作:MHK・徹夜城