第三十五回
「美しきもの」


◆アヴァン・タイトル◆

 幼くして父の跡を継ぎ、管領・細川頼之を父代わりとして育った三代将軍・足利義満も十八歳となった。青年に達した義満は自ら政治にも関わり始め、生まれながらの将軍として大物ぶりを発揮し始める。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

慈子

三条厳子

渋川幸子

島津氏久 大友親世 

少弐冬資 今川頼泰

観阿弥 日野資教

宣聞渓 廷用文珪 山内某

斯波義将

大内弘世

大内義弘

後円融天皇

世阿弥(解説担当)

世阿弥(子役)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ協力:京都御所 新熊野神社

今川了俊

日野宣子

二条良基

細川頼之


◆本編内容◆

 永和元年(1375)。三代将軍・足利義満も18歳となり、幕府の政務にも管領の細川頼之の補佐に大きく頼りつつも積極的に関与するようになり、また初参内も済ませて公家の一員として朝廷にも影響力を持ち始めていた。
 その義満のもとへ前年に洪武帝への使者として明に派遣された僧侶・宣聞渓らが帰ってきた。宣聞渓らは自分たちが「日本国王・良懐」の使者でなかったために交渉も出来ずに追い返されたことを義満と頼之に告げた。「かの国はいにしえより礼と序列を重んじますからな、一筋縄ではいきますまい」と言う頼之に対し、義満は「まぁ確かにわしは国王ではないからの、相手にされぬのも無理はないか」と笑い、「ならば、今度は国王の使いということで使いを出してみようではないか」と言い出す。どういうことかと頼之がいぶかると、「我らにはこの京の帝がおわすではないか。帝の使者ということで使いをだせばよいのよ」と義満はすました顔で言う。
 かくして、北朝・後円融天皇と関わりの深く、以前にも高麗と大蔵経を求めて交渉を行ったことがある外交僧・廷用文珪が明への使者として選ばれた。形としては「日本国王」である後円融が派遣する使節であるが、実質的には幕府の長である義満が派遣するものであった。

 「異国への使いを、わしの名を使って将軍が出すというのか」明への使節派遣の経緯を聞いた後円融天皇が、妃の一人である厳子 に向かって、不機嫌そうにつぶやく。後円融は義満とは母親同士が姉妹のいとこで年齢も同じ。若い天皇にとって義満は嫌でも我が身の比較の対象として意識せざるを得ない存在だった。むろん地位は天皇と将軍という大きな隔たりがあるが、実質的に権力を振るうのは将軍の方であり、後円融は内心鬱屈した感情を義満に対して抱いていた。その鬱憤は八つ当たりとなって周囲の女官たちに向けられ、その被害を受けた女官の中に典侍の日野業子(なりこ)がいた。業子はこのときすでに25歳、やや年の離れた後円融には特に気になる女性でもなかった。

 「帝におかれては何やらまた御不興のご様子よのう…困ったお方じゃ」後円融が業子ら女官達に当たり散らしたことを業子本人から聞いた日野宣子 は嘆息した。宣子は先帝・後光厳の寵妃で、後光厳の死後出家して「岡松二品尼」と呼ばれていたが、後円融の実母でこそ無いが人脈が豊富で、その後宮における影響力は絶大なものがあった。業子はこの宣子の兄弟の娘、つまり姪に当たるのである。後円融は若い厳子に夢中であり、業子が後円融に寵愛される可能性はほとんど無かった。宣子はそのことでも頭を痛めていたのである。
 「業子、そなたいっそのこと帝が目の敵にされている方に嫁ごうとは思わぬか?」いきなり意味深な笑いを浮かべつつ、宣子は業子に言う。話を飲み込めぬ業子が首を傾げると、宣子は「武家の棟梁…足利将軍家の嫁になってみようとは思わぬか?」と言って微笑んだ。「そんな…将軍のお年も確か帝と同じで18。私のような年増などは相手になさりますまい」と業子は狼狽する。しかし宣子はすでに日野一族の者たちと密かに縁談話を進めていたのである。

 話は当然ながら義満の父代わりである頼之のところに主に持ち込まれていた。幕府が京にあり、武家政治を行う上でも朝廷・公家と深く関わらざるを得ない状況の中で、将軍の正室に公家の娘を迎えるというのはお互い悪くない話だと頼之は考え、また妻の慈子もこの縁組みに賛成した。あとは義満本人の気持ち次第である。
 「日野家の…?公家の姫君を、か?」頼之から縁談の話を聞いた義満はさして興味なさそうな反応を見せた。しかも自分より7歳も年上であると聞かされてはさらに乗り気になってこない。しかし頼之がその業子がすでに数年宮中に仕えていることを話すと、不思議と義満は興味を持った様子を見せた。「あの帝のお気に召さなかったと言うことか…はてさて、どのような女性(にょしょう)か、これはぜひ一度会っておきたいものよの」と言う義満。思わぬところで義満が興味を示したので、頼之はやや当惑しつつ、義満に業子を近々会わせると約束するのだった。
 日野業子と義満の縁談の情報は、義満の義母である渋川幸子の耳にも入ってきた。「祖父ぎみ父ぎみ共に武家の棟梁として、名のある武家の娘を正室にお迎えになった…しかるに義満どのは公家の姫をお迎えになるか。もしや公家におなりあそばす気なのかのう」と幸子は腹心でもある斯波義将につぶやく。義将が業子が宮中に仕える女性であると教えると、幸子はふむふむと何かたくらんでいる様子。

 義満と業子の見合いは、業子が他の宮中の女性達と共に寺参りに出かける際に義満も同じ寺に出かけてこれに偶然巡り合わせる、という形で行われることになった。義満には乳母である慈子が同行したが、慈子は我が子同然でもある義満の見合いに大いに浮かれて、いささか義満を閉口させる。
 義満達が寺に着くと、そこにはすでに何台かの女房車が止まっていた。義満は寺の僧に案内されるままに奥へ通され、「こちらのお部屋にくだんのお方がおられます」 と言われてその部屋に入った。そこには数人の侍女らしき女達がいて、その奥に仕切が立てられその向こうに身分の高い女性がいる様子がうかがえる。いきなり入ってきた男に侍女達が驚く中、義満はズカズカと踏み込んでその仕切をのけて、その向こうにいた女性に直接顔を合わせた。その女性はあっと驚いて義満の顔を見上げる。義満はまじまじとその美しい顔を見つめ、「おお…これはお美しい…このようなお方を帝が放って置かれるとは…」とニヤリと笑ってから「義満でござる」と名乗った。ところがその女性は唖然とするばかりで一言も答えず、扇で顔を隠してしまう。呆然としていた侍女達がようやくわらわらとその女性の周りを守るように取り囲み、「お人違いでござりましょう!この方は帝ご寵愛の厳子様でござりますぞ!」と告げた。義満はようやく事態に気がつき「これはご無礼」と赤面して引き上げるが、引き上げ際に振り返って「まぁ我らがお会いできたのも何かのご縁と言うことでござろう」と厳子に笑いかけた。自嘲気味に高笑いしながら立ち去っていく義満を、厳子は恐れと驚きと、そして興味をないまぜにした複雑な表情で見送っていた。

 このちょっとした寄り道騒動の末に義満は業子に対面した。先に着いていた慈子と業子の兄の日野資教が同席し、いずれもすっかり乗り気で意気投合していたが、当の業子は不機嫌そうな顔で黙りこくったまま義満を迎える。やがて慈子と資教が別室に下がり、部屋には義満と業子だけが残された。
 しばらく冷え切った沈黙が続いたあと、義満がしびれを切らしたように「先ほど違う部屋に通されて厳子どのにお会いしましてな」と切り出した。厳子の名に業子はハッと顔を上げる。「さすがは帝もご寵愛の、愛らしいお方じゃ。業子どのとはやはり大きく違う」と義満が続け、業子は(何を言い出すのか)と怪訝な顔で義満をにらみつける。「だが業子どのは厳子どのとは違った意味で美しいお方じゃ…帝には分からなんだ美しさが、この義満には見えまする。わしは美しいものが好きでござる。この義満にしか分からぬ美しいものが…」そう言って義満は業子の手を握り「この将軍の“妃”になって、帝を見返してみようとは思われませぬか」と業子の耳にささやく。「将軍の…きさき…?」その言葉に業子は愕然とし、目を見張って義満を見つめた。
 帰り道、義満は慈子に業子を正室に迎えることを決めたと告げる。「この義満は将軍として育ったために世事に疎い。姉のような女性を妻にするのも好都合かと」と笑う義満に慈子も安堵する。義満は業子と会う直前に厳子と出くわしたことを慈子に語り、「おおかた、さるお方の小細工でござろうよ…ま、目のこやしになりましたが」と笑う。

 数ヶ月のち、義満は日野業子を正室として将軍邸に迎えた。業子の実家・日野家はこれにより公家達の中でも大きな地位を占めるようになり、後に室町幕府の歴代将軍の正室が日野家から迎えられる端緒となった。婚礼の儀では頼之も義満の父代わりとして参席し、若い将軍夫妻の門出を祝うのだった。

 そのころ。九州では今川了俊が懐良親王の征西将軍府への圧迫をますます強め、九州平定の事業を順調に進めていた。この永和元年7月、了俊は平定事業を一気に決着させるべく、菊池一族の拠点近くの肥後国水島に軍を進め、九州の有力大名であるいわゆる「九州三人衆」、島津氏久大友親世少弐冬資 の三名に水島への参陣を求めた。8月上旬のうちに大友親世と島津氏久がそれぞれ軍を率いて水島にやって来たが、ひとり少弐冬資だけは姿を見せなかった。もともと鎌倉以来「九州の支配者」を自認してきた少弐氏は南北朝動乱の中で幕府方と南朝方とを遊泳してなかなか中央のコントロールに服そうとせず、了俊とも激しく対立していたのである。なかなか来ない冬資に怒った了俊は、島津氏久に冬資の説得を頼んだ。
 氏久の説得に負けて冬資がようやく水島に参陣したのは8月26日のことである。了俊は早速歓迎の酒宴を催し、冬資をおのれの陣中に招いた。宴がたけなわとなったとき、冬資の酒の相手をしていた了俊がさりげなく周囲に目配せした。それに応じて、了俊の家臣・山内某が冬資に襲いかかってこれを組み伏せる。「了俊ッ!謀ったな!」組み伏せられながらも暴れる冬資を、了俊の実弟で養子の今川頼泰が刀で刺して絶命させた。
 「冬資謀殺」の知らせに島津・大友の両陣は驚愕かつ憤激した。了俊はただちに両陣営に使者を送り「冬資は宮方と組んで謀反を起こす動きがあったので処置した」との弁明を伝えさせたが、島津氏久は「騙し討ちとは…我ら九州の三人、面目を失った!もはや今川殿に協力は出来ぬ」 と激怒して、そのまま陣を引き払い、薩摩へと帰っていってしまった。慌てた了俊は大友親世を説得にかかりかろうじて引き留めることに成功したが、大友氏も了俊に強い不信を抱くこととなった。その後の合戦でも今川軍の戦意はあがらず、懐良・菊池軍も相手の弱体をみて反撃に転じたため、了俊は肥後からの撤退を余儀なくされた。了俊の九州平定事業は突然の頓挫をきたしてしまったのである。

 了俊の苦境は幕府にも知らされた。頼之は盟友・了俊を救いたい気持ちはやまやまであったが、幕府が畿内から兵を送れるはずもなく、ひとまず周防の大名・大内氏に了俊へ援軍を送るよう要請することとなった。
 しかし大内弘世も水島の陣の一件を知って了俊に不信感を募らせており、援軍など送る気はさらさら無かった。しかし息子の大内義弘「ここで了俊を助ければ、彼に恩を売るだけでなく九州に勢力をのばすことができましょうぞ」と出兵を主張し、父・弘世の反対を押し切って独断で兵を率いて九州に渡り、了俊に加勢した。この義弘の救援によって一時窮地に陥っていた了俊は一息つくこととなる。

 そのころ、京の新熊野(いまくまの)では観阿弥の一座が猿楽の興行を行い、京の人々の大変な評判を呼んでいた。中でも今年十二歳になる観阿弥の一子の美童ぶりは多くの熱狂的なファンを生んでしまうほどのものであった。関白の職にあり公家の中でも当代最高の文化人として知られ、義満に公家作法の指南役にもなっていた二条良基もすっかり観阿弥の子の美しさのとりことなり、自ら「藤若」の愛称を贈ってその美しさをたたえていた。良基は会う人ごとに藤若の話をし、当然義満も聞かされるところとなる。「それほどの者ならば、このわしもひとつ見物してまいろう」と義満はわずかばかりの供を連れて新熊野へと赴いた。
 将軍自らの観劇とあって観阿弥一座は大いにはりきり、藤若も華麗な舞を見せて観衆を魅了する。義満もまた藤若の顔かたちを見て「美しい…まことに、世に超えたる美しさじゃ」と呆然と見入ってしまう。

 見世物が終わって後、義満は観阿弥と藤若の父子を面前に呼び出した。美少年・藤若を間近に寄せて義満はしげしげと見つめる。「関白どのも言っておられたが、こうして舞台を降りて眺めてみても、まこと神仏の下したもうたかと思われるばかりの美しい童じゃ。関白殿は藤若の名を賜ったそうだが、わしも名をくれてやろう」と義満は言い、藤若を見ながらしばらく考え込む。「…そうじゃ、その世に超えたる美しさ、“世”の字をとって“世阿弥”と名づけよう」と言って、義満は世阿弥の頭を撫でた。「わしは…美しいものがことのほか好きじゃ…お前の美しさは他の誰よりもわしが一番分かるという自負がある。今後、さらに精進に励め。一座の面倒はわしがみさせてもらおう」と義満は言い、今後将軍邸にもたびたび来て芸を見せて欲しいと言い残して去っていった。息子が気に入られ、将軍の全面的な後援を得られたことに観阿弥は大いに喜ぶが、少年世阿弥は「なにやら空恐ろしさを感じるお方でござりまするな」と不安げな表情も見せていた。
 義満が猿楽見物から帰ってくると、新妻の業子が不機嫌な面持ちで待ち受けていた。「猿楽舞の美しい童を見に行かれたそうですな」と業子はむくれ、「猿楽など卑しい河原者の所業ではありませぬか」と露骨に嫌がる。これに対し義満は「いやいや、面白いものだぞ。近くこの館に呼ぶゆえ、業子どのも見るがよい。世阿弥はまことに美しいぞ」と笑って言いながら、「むろんそなたの美しさとはまた別じゃ。わしは美しいものがことのほか好きでのう…」と業子を抱き寄せ、機嫌を直してくれるようささやき続けるのだった。

 間もなく世阿弥は将軍邸だけでなく二条良基など公家の屋敷にもしばしば出入りし、歌会など社交の場にも顔を出すほどの「名士」となっていった。芸人である世阿弥を「身分の卑しい乞食」とさげすむ声も無いわけではなかったが、将軍・義満や関白・良基といった実力者の熱狂的ともいえる支持を受けていることもあって、そうした声も大きくなることは無かったのである。

第三十五回「美しきもの」終(2002年10月9日)


★解説★世阿弥第四弾  

 はい、またまたしばらく更新ストップしてました「ムロタイ」の解説者、世阿弥でございます。ドラマを一回ぶん飛ばして次の回を放送しちゃったような放送局もございましたが、作者の都合で定期放送をしない大河ドラマってのも困ったもんです(笑)。
 まぁ作者もいろいろと悩ましいところがあったのですね。そのあげく今回から主役を義満様に移してしまおうということになり、ご覧の通りの出演リストになっております。この主役交代はもうちょっと先の予定だったのですが、思い切って今回からやってしまったほうが今後のためかと思ったわけです。実際、前回から「本役」に変わった途端に義満さま、ふっ飛ばし始めてますしねぇ。

 さて、冒頭は前年明に送った使者の帰国と次なる使者の派遣の話が出てきます。この中で出てくる圭庭用らの使者は明側には「日本国王・良懐」の使者として記録されているのですが、この圭庭用という人物、本文中にもあるように北朝朝廷と関わりが深い「外交僧」であったことが日本側の史料で分かるのですね。これがなんで明では「良懐」の使者と記録されているのか…については次回解説で。

 この話にからめて後円融天皇と義満さまをめぐる二人の女性が登場してきます。一人は三条公忠の娘・厳子(読み方が分からないので「げんし」とルビをふられることが多い)さん。後円融天皇が最も寵愛した女性であり、その後義満さまを絡めて大変な騒動を引き起こすお方です。そしてもう一人が後宮に上がっていながら義満さまの正室となる、日野業子さんであります。
 業子さんに限らず女性関係の話ってあまり記録に残らないもんで、ドラマとしては勢い創作で穴埋めすることになるのですが、この業子さん、実際に後円融天皇と義満さまより7歳ほど年上であったようです。そのせいもあってか、後にこの業子さんの姪・康子さんが義満さまの側室に迎えられ、業子さん亡きあと正室の座を引き継ぎ、後小松天皇の「准母」になることになります(たぶんドラマはそこまでは行きませんので先走って書かせていただきました) 。7歳年上、しかも宮女経由で将軍正室となった背景にはいろいろあったんじゃあないでしょうか、とこの回ではいろいろ創作させていただいています。って言うか、この回の義満さんがらみはほとんど創作ばっかりですね。どうしてこういう創作になったのか、については今語るとネタばれになりますので、ドラマの進行にしたがって追い追い明かしてまいりましょう。

 一方の九州では今川了俊さんが起こした突発事件、いわゆる「水島の陣」が起こります。まぁ解説の必要がないほどドラマ本文でほぼ史実に即して説明しちゃっているのですが、とにかくあの用意周到の戦略家・了俊さんにしてはずいぶん無茶なことをやったもんだと思う事件ですね。
 この事件を理解するには了俊さんに殺された冬資さんの一族、少弐氏の歴史について知っておく必要があります。この「少弐」という姓は「太宰少弐」という日本の外交の窓口・大宰府の役職から来たものでありまして、古代の官制が消滅していた鎌倉時代にあっては実質的に九州を統括する最大の豪族となっていたのでありますね。北九州を押さえる少弐、東九州の大友、南九州の島津を合わせて「九州三人衆」などと称するようになっていましたが、少弐氏はその中でも「俺が九州の統治者」という非常に高いプライドを持っていたようです。
 ところが元寇をきっかけに鎌倉幕府は「鎮西探題」を九州に置いて北条氏による九州直接統治をはかるようになります。これには少弐氏も面白くなく、後に元弘の乱の際に彼らが大友氏らと連合して鎮西探題を滅ぼすことにつながります。しかしその直前に菊池氏が後醍醐方で挙兵した際には探題側について菊池氏を破ったりしておりまして、およそ節操と言うものがないというところもあります。まぁこの時代においては自分の家の勢力拡大が最優先、というのが常識なのでありましょうが、少弐氏の場合へたに「九州の統治者」という自負があるだけにその節操の無さには喜劇的な空気さえ漂います。
 足利尊氏さまが反建武の新政の挙兵を起こし、いったん敗れて九州に下った際、少弐氏はこれに味方して菊池氏を逆転勝利で打ち破ります。これで万々歳、と思っていたら尊氏様はしっかり九州統治のために一門の一色氏を鎮西探題として九州に残していきました。これには少弐氏は例によって面白くなく、この鎮西探題を追い払って自らが九州の統治者たろうとあの手この手の方策を練ることになります。尊氏様の実子で直義さまの養子になった直冬さんを婿に迎えてみたり、時には宿敵の菊池氏とも手を組んだり、かと思えば隙を突いて菊池氏に戦いを挑んだり、と情勢が変わるごとにめまぐるしく対応を変えて遊泳し続けたわけです。
 そんな少弐氏ですから、九州探題として中央から派遣されてきた今川了俊さんと対立するのは当然の成り行きであったのですね。了俊さんとしては「幕府による九州平定のためには変転常無き少弐氏を実力で排除せねばならない」 とこの人らしい冷徹な判断をしたわけで、結果から言えばそれは確かに正解だったのですけど、やはり「水島の陣」はだまし討ち以外の何ものでもなく、九州の武士たちに深い不信を抱かせることになってしまいます。これによって順調だった了俊さんの九州平定事業は一大頓挫をきたしてしまい、さらに時間がかかることとなってしまうのです。
 この時に、父親の反対を押し切って九州に渡ってきたのが大内義弘さん。はるか後に「応永の乱」で義満様と天下をかけて対決するあの人であります。ここで初登場、レギュラー化いたします。
 
 さてお話はいよいよわたくし世阿弥と義満様の馴れ初めで…(赤面)。解説役としては余り語れるところがないのでございますが。今は老いぼれて暗黒面に落ちている(違う、違う) この私もこんな「絶世の美少年」だった時代があったのでございますよ。当時いろいろと記録があるのですけれど、当時最高の文化人である二条良基さんが私を見て「心空なる様」だったと記されていますし、義満様が「世にこえたるこゑ有り」として「世阿弥」と名づけたという話も史料に残っているものです。当時は美童趣味というのがごく普通に行われておりまして(人類史を見渡せば全然珍しいことではございません)、わたくしのような美少年芸能人は男女を問わずアイドル化しちゃうところがあったようです。もちろんドラマ中にも出てきますが、こうした芸能人を「乞食」と卑しむ声があったのも事実ですが…。
 それにしても大河史上初の「やおい」的展開が待っていたりするんでしょうか、というところで愛憎渦巻く次回をお楽しみに(^^;)。

制作・著作:MHK・徹夜城