第三十六回
「生と死」


◆アヴァン・タイトル◆

 成人した義満は日野業子を妻に迎え、幕府はますます「義満の時代」の様相を強めていた。義満は業子、そして偶然顔を会わせた後円融天皇寵愛の厳子、そして美少年・世阿弥にも情熱を傾けていく。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

慈子

三条厳子

渋川幸子

足利満詮 島津氏久 
廷用文珪 篠山某

斯波義将

勇魚

小波

後円融天皇

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
越中国国人のみなさん

室町幕府直轄軍第12師団・第13師団
ロケ協力:越中国太田荘

洪武帝

今川了俊

里沢尼

細川頼之


◆本編内容◆

 永和二年(1376)4月。前年に足利義満が朝廷の名を借りて派遣した廷用文珪らの遣明使節は、明の首都・南京に到着し、明の洪武帝に「表」を奉じ貢ぎ物を上せた。しかし明側はあくまで「良懐」のみを正式の日本国王と認めていたため、廷用らの使節は「良懐」の使者として事務処理されてしまっていた。
 廷用らが南京に滞在している間にも、海を渡って南京にやってくる日本人は次々とやって来ていた。九州の島津氏など地方大名が送る使者や博多の商人など、廷用らの予想を超える日本と明の結びつきがそこにあった。

 そのころ、九州では今川了俊が相変わらず苦しい戦いを続けていた。懐良親王や菊池氏の勢力はなんとか押さえ込んでいたものの、前年の水島の陣の一件で敵にまわした島津氏久など南九州の勢力の抵抗が激しく、またそれに呼応して東・北九州各地の武士達の動向も不安定であった。
 そんな了俊のもとへ、管領・細川頼之の意向を受けた勇魚小波の水軍衆が送り込まれてきた。了俊は彼らに松浦、天草、大隅など九州各地の水軍の動向に目を光らせるよう命じ、なおかつ彼ら水軍が深く関わる倭寇の対策に本格的に乗り出さねばならないとの決意も語る。
 了俊は南九州各地の豪族らに手紙を送って島津氏久の動きを牽制させる一方、幕府へもさらなる援助を要請していた。これに応じて了俊の後ろ盾にと将軍・義満の弟で元服して間もない満詮を九州へ派遣するという案も出たが、結局これは中止されることとなる。

 この間、義満夫妻には喜ばしい事態が起きていた。正室・日野業子が懐妊したのである。順調なら年明けにも出産の見込みで、義満はもちろん頼之ら幕府首脳も「将軍家のお世継ぎ誕生」の期待に沸き立つ。義満の愛妻家ぶりはそれ以前からのものだったが、懐妊が判明してからはなおのこと業子をいとおしんで毎日彼女のもとに通っていた。
 しかしこの年の閏七月、義満は瘧(おこり)を病み、しばらく業子とも離れて養生にいそしまねばならなくなった。病は間もなく癒えたが、それでも妊娠中の業子に近づくことを義満は避け、気晴らしに京の郊外などに忍びで出かけて犬追物や寺社めぐりなどに明け暮れていた。

 そんなある日、義満は立ち寄った寺に女房車が止まっているのを目にした。自分の正体を隠して寺の僧侶に来訪者の名を尋ねると、宮中の典侍・厳子が参詣にやって来ているのだという。「厳子」の名を聞いて、義満は昨年に業子と間違えて顔を合わせた際の厳子の美しい顔を思い出す。義満は「三条家の者じゃ」と偽って僧侶に厳子のもとへと通させる。
 侍女達も別室に控えさせ、厳子は一人静かに仏への祈りを捧げていた。そこへ物音ひとつ立てず、いつの間にか義満が入り込んでいる。気配に気がついて義満の姿を見て「あっ」と小さく声を上げる厳子に、義満は自分の口に手を当てて「お静かに…いつぞや思いもかけずお目にかかって以来でござりますな」と微笑みを見せる。義満の堂々とした態度に騒ぎもせずおとなしくなる厳子。「あれ以来、ぜひ一度こうして二人きりで会うてみたいと思っておりました…いっそうお美しくなられましたな…」と義満は厳子の目をじっと見つめる。恐れを感じながらもその目に見入ってしまう厳子。しばらくお互いの暮らしぶりなど会話を交わす二人だったが、やがて義満の目が妖しく光り出す。「わしは…帝がうらめしい…」そう言って義満は厳子を抱き寄せる。

 しばらく何事もなく時が過ぎた。産み月の迫った業子は実家に戻って産所に入ったが、義満はしばしば将軍邸を抜け出して業子のもとへと通っていた。「前代未聞のことじゃな…市井の庶民ならともかく、将軍ともあろうお方が」と頼之は呆れ顔だが、妻の慈子「あの方には前例や世間体といった面倒なものは気になされぬのでしょう。それだけ愛される奥方とは、女子としてはうらやましい限り」と微笑ましく受け取っていた。
 確かに義満の愛妻ぶりに嘘は無かったが、夫婦の間で交わされる会話は必ずしも穏やかではなかった。「厳子さまが懐妊されたそうですね」とどこか棘のある声で言う業子に「我が将軍家同様、帝にも跡継ぎがお生まれとはめでたいことじゃのう」と笑って答える義満。すると業子は「妙な噂が耳に入って参ります…わたくしの腹の中にいる子も、厳子様の腹の中にいる子も、同じ種なのではないかと…」と言い出す。「何をたわけたことを…」と一笑に付そうとする義満だが、業子は鋭い視線で義満を見つめ白状させようと詰め寄る。「つまらぬ噂を気にして思い詰めるな、腹の子に悪いぞ」と義満は言い、そそくさと逃げ出してしまう。
 宮中においても同様の噂は広まっていた。後円融天皇も疑心暗鬼にかられていたが、天皇という立場上口にすることもはばかれる疑惑であり、それとなく厳子に探りを入れてみても「帝のお子に間違いござりませぬ」と言うばかりでかえって後円融は疑念をかきたてていた。

 様々な思いが錯綜する中、年が明けた永和三年正月十二日。やや早めに業子が産気づいた。頼之はじめ在京の諸大名は「男子誕生」に期待をかけ、将軍邸や日野家の門前に数多の祝いの品を用意して今か今かと待機していた。
 しかし、業子の産んだ子は女子であった。しかも早産であったためか、生まれてすぐに息を引き取ってしまった。業子や侍女達は大いに悲しみ、すぐそばに待機していた義満はじめ諸大名も直前までの騒ぎは雲散霧消して失望の内にめいめい引き上げていった。期待が大きかっただけに幕府にとっては不吉な予感すら漂わせる新年となった。
 不幸は続いた。3月9日に管領・細川頼之の母・里沢尼がこの世を去ったのである。死の床で里沢尼は「そなたが幕府を取り仕切り、太平の世を切り開いていくのを見てこの世を去れるとは、ありがたいことじゃ…お父上や清氏どのと会うて語らうのが楽しみじゃて…」と頼之に言い残し息を引き取る。母親を失った頼之の悲嘆ぶりは並大抵ではなく、管領の職務も放り出して嵯峨の寺に籠もってしまい、義満の再三にわたる出仕命令を受けて数日後ようやく幕府に復帰したほどであった。

 打ち続く不幸を打ち払うかのように、義満と頼之は新しい事業にとりかかっていた。新しい将軍邸宅・幕府中枢の建設である。この年の三月に北大路室町の旧崇光上皇邸が火事で焼失したので、幕府はこの土地を朝廷から譲り受け、さらに隣の敷地も合わせた広大な土地を手に入れ、ここに壮大華麗な新将軍邸を建設し始めたのである。特に若い義満はこの新第建設に熱心に関与し、賀茂川から水を引いて大きな池を庭に作るなど、新奇な試みを数々織り込む。この建設計画に業子も乗り気になり、夫婦でのめりこむことで不幸の傷を癒していくのだった。 
 そして6月26日。後円融天皇の妃・厳子が皇子を出産した。この皇子がのちの後小松天皇となる。次期天皇となるべき男子の誕生ということで宮中は大いに沸き立つが、後円融自身は依然として深い疑念にとらわれていた。

 この同じ月、北陸・越中でやがて幕府を震撼させる事件が発生していた。越中はもともと直義党・南朝方の有力者であった桃井直常の本拠地だったが、現在はこれを討滅した斯波義将が守護をつとめていた。義将の家臣が守護代としてこの地を治めていたが、在地の国人達は容易にこれに従おうとせず紛争が頻発しており、守護代は軍事力で彼らをねじ伏せようとしていたのである。
 守護代の兵に敗れ追われた国人達は太田荘に逃げ込んだ。ここは斯波氏とは長年対立してきた細川頼之の所領であったため、ここに逃げ込めば守護代の軍も手を出せまいと考えたのである。ところが、守護代の兵は構わず太田荘に乱入して国人たちを殺害し、荘内の家屋を焼き払うという強硬手段をとってしまう。
 急報を受けた頼之は家臣の篠山某を代官として越中に派遣し、情勢を調べるよう命じた。「もし、まことに斯波軍が狼藉を働いているのであれば、兵を用いるも辞さず」との意向を頼之は示し、七月中に篠山は飛騨に下って兵を整え、越中へ攻め込む体勢をとった。こうした越中の情勢が京の人々の間に伝わるにつれ、長年の斯波・細川の対立も思い合わせて「大乱が近いぞ」と人々はささやきあった。
 この情勢の中、渋川幸子は義将をひそかに呼び出し、その真意を探ろうとした。「越中の騒ぎがこの京にも飛び火しようとしておるようじゃのう…そなた、まことにこの京で乱を起こすおつもりか?」との幸子の問いに、「私は何も自ら乱を起こそうとは思いませぬが…向こうがどう出るか分かりませぬゆえ、備えをしておるだけです」と義将はすました顔で答える。「斯波殿、細川武州(頼之)の力はまだあなどれませぬぞ。将軍もまたあの方を頼りにしておる。早まらぬが良い」と幸子は義将に言いつけ、義将は黙ってこれにうなづいた。

 8月に入ると京の市中に斯波・細川双方の兵が各地から集まり、また諸大名もこれに呼応して兵を集め始めたので、京には一気にきな臭い空気が立ち込め始めた。8月6日の夜には軍勢が下京を馳せ回る音が響き、翌7日明け方には火災が発生して四条から六条にかけての広い範囲の家屋を焼き尽くす大火事となり、いよいよ人心を騒然とさせた。
 一触即発の緊張が漂う中、10日は幕府の構内で斯波派と細川派の近習の武士同士が乱闘に及び、死傷者が出るという騒ぎまで起きてしまう。すぐ目と鼻の先で殺傷事件が起こるほどの異常事態に、義満は驚き、かつ将軍としてどう対処したらよいか途方に暮れる。これまでは難局には頼之があたってくれていたが、今回はその頼之が当事者であるだけに彼に頼ることは出来ない。「このわしが、武家の棟梁としてこの場をまとめるしかあるまい」考え込んだ末、妻の業子に決然と言って義満は立ち上がり、近習の者たちに頼之と義将を直接将軍の前へ馳せ参じるようにと伝えさせる。
 義満の呼び出しを受けて頼之、義将はそれぞれに三条坊門の将軍邸へただちに馳せ参じた。義満が「双方とも合戦を望むものではあるまい。だからこそこうしてわしの呼び出しに応じて参ったのであろう。もし呼び出しに応じねばわしはそちらを逆臣として討つつもりでおった」と厳しい顔で二人に言い放つと、頼之と義将は恐縮して平伏する。「ことは都から遠い地の小さないさかいから始まったこと。天下を動揺させるようなものでもあるまい。仲直りいたせ」と義満は言って、頼之も義将も兵を引くことを互いに誓い合う。これを受けて義満は諸大名に使者を走らせて「細川・斯波和解」の旨を伝えさせ、ここに騒動は一応の幕を閉じたのである。

 戦乱はすんでのところで免れたが、この騒動を通して管領・細川頼之の権威失墜は覆い隠せないものとなった。そのことは頼之自身も自覚していたが、今回の事件での義満の対応ぶりをみて「まこと、見事な将軍ぶりであられた。もう政はお任せして、わしは身を引くべきときなのかもしれぬ」と、ある夜ひそかに慈子に漏らす。慈子は「まだまだ将軍はお若く、立場もお弱い。殿のお力が必要でしょう」と笑顔で慰めるように言う。「わしも間もなく50に手が届く。もういつ死んでもおかしくない歳じゃ。そろそろ楽隠居したい気分でもあるが…」と言いながら、頼之は星空を見上げていた。

第三十六回「生と死と」終(2002年10月14日)


★解説★世阿弥第四弾  

 はい、どうも。前回なにやら思わせぶりな事を言っておいて、結局今回どこにも子役の自分が出演していないことをおわびしながら登場の解説担当・世阿弥でございます。「やおい」的展開でございますが、今回はそれ以外の事態でくそ忙しくて挿入することすらできませんでした。その代わり(?)愛憎渦巻く展開はお約束どおり入っております。

 さて冒頭には前回派遣された対明使節団の後日談。とりたてて目新しい事件はないんですが、前回解説でも触れましたようにこの使節について明側の「太祖実録」は「日本国王良懐」からの使者として記録しています。しかしこの使節団の団長(?)の廷用文珪(明側の記録では圭庭用)なる人物は山城国宝福寺の住持で北朝に近しい人物であったと思われるのです。
 では北朝朝廷が「良懐」を偽って明に使者を派遣したのか?…これは当時の北朝の状況を考えますと考えにくいことでして(そうだと考えている学者さんもいらっしゃいます、念のため) 、このドラマの作者などは義満様が「国王」である北朝天皇の名義で使者を出したのではないかと考えている次第です。しかし明側ではこれを「良懐」の使者と記録し、ちゃんと問題の「表」も出したと伝えていますので、明に行ってから廷用が方針を転換したか、あるいは明側が勝手に記録上処理してそうなったか(以前にも触れましたが、明でも当時の日本の事情についてある程度の知識は持ってました)というあたりではないかと。
 廷用が南京に多くの日本人が来ている様を目撃する場面がありますが、少なくとも記録によりますとこの年の五月に「日本人藤二郎(原文では「藤」の草冠はない)」なる人物が南京に来て弓馬刀甲・硫黄を献じたとあり、なんとなく島津氏が派遣した使者ではないかと推測されます。またこの時期にも日本禅僧の明留学熱はかなり盛んでして、後に頼之さん義満さまと深い関わりを持つことになる高僧・絶海中津さんがこの永和二年に明から帰国しています。

 さて、当の「日本国王・良懐」こと懐良親王ですが、了俊さんが「水島の陣」で一時コケてから少しは勢力挽回したのですけれど、やはりじりじりと追い詰められることになります。むしろ了俊さんが苦労したのは九州の諸豪族、とりわけ島津氏久さんでして、島津氏の分家筋や大隅の禰寝(ねじめ)氏、さらには在地の反島津系国人一揆などに働きかけて氏久さんを牽制しようとしたり、各地の水軍の動きに警戒してあの手この手の対策を練っていたことが資料的に確認できます。とにかく了俊さんは九州各地の諸豪族に手紙を書きまくっておりまして、ちょっと前の南朝総帥・北畠親房さんと並び称される「南北朝の手紙魔」です(笑)。親房さんも相当な学識者でしたが、了俊さんも当時最高とも言える文学者の一人でもありますからお手紙による説得は得意とするところだったのかも。なお、チラリと触れられて結局中止になったと書かれている義満さまの弟・満詮さんの九州派遣は記録にある話です。
 そういえば作者もしばらく忘れ去っていた?勇魚と小波のフィクションキャラコンビまた出てますね。一応作者もいろいろ伏線張って考えていたことがあるので再登場してるんですが、ほんと一年がかりのドラマって予想通りにはいかないもんです(^^;)。

 さあて、そのあとは今回のメインテーマ。義満さん、業子さん、厳子さん、後円融天皇の四角関係(?)ドラマが展開されております。とりあえずどこまでが史実なのかを先に書かせていただきましょう。
 まず業子さんのご出産とご不幸について。これはさすがに将軍正室のお話ですから大筋でドラマどおりの史実が確認できます。義満さまの愛妻家ぶりも記録に残る話でして、業子さんの産所に押しかけて同宿し人々に「先例なし」と騒がれたと記されています。説明補足が必要だと思うのでそうさせていただきますと、前近代の日本におきましては出産というのは忌まれることでありまして(もちろん子供が生まれるのはめでたいことなんですけど、「血」に関することは徹底して忌むというところが日本にはありました) 、上流階級の妊婦は夫も含めて人を遠ざけ産所にこもるものであったようです。そこへ将軍ともあろう人が押しかけたあげく同宿したというのですから、当時の人はとんでもないこととビックリしたわけですね。このあたり、義満さまという人の性格の一端を垣間見せてくれるところです。もっともこのドラマ内ではひとひねり加えておりますがね。男子誕生を期待して祝いの品をかかえて待機していた人々がガッカリして帰ってしまったというのも当時の記録にある話です。

 続いては疑惑の厳子さんのことなんですが…。
 白状しますと史実としては後の後小松天皇になられる皇子がこの永和三年の6月26日に誕生している、というものしかありません。だから義満様とのあーだこーだという「疑惑」は全て作者のフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありませんとドラマの終わりにテロップ入れたいところであります(笑)。であります、が…「疑惑」はやはりひそかにささやかれてしまうのですね。
 あと数回先にドラマ内でも触れることになるのですが、後円融天皇は厳子さんと義満さまの関係を実際に疑っていた可能性が大です。そのことである大事件も発生するのですけど、それはドラマでのお楽しみ。ともあれ義満さまは厳子さんの晩年までしばしば交流していたことは事実です。そして後小松天皇というお方がまたなかなかにユニークなお人で、祇園祭を御所の築地の上に上がって見物して「希代の御風情」と京の人々に騒がれたり、義満さまの次の将軍・義持さまが亡くなった後に俄然政治力を発揮して皇室権力を復権していくなど、どーもあの神経衰弱気味の後円融さんのお種ではないんじゃなかろうか、と思っちゃう節もあります。義満さまがその晩年にこの後小松天皇の「父代わり」になることなどを考え合わせると、何やら限りなく疑いが生じてきてしまうのでありますね。ついでに言えばかの一休さんもこの後小松天皇のご落胤と噂されておりますな。
 ま、もちろん所詮は疑惑。でも東映の時代劇でよくやったパターンよりはよほど現実味がありまっせ(笑)。

 主役が義満様に交代しているせいもあって大きな扱いにならなかった観もありますが、頼之さんの母上、里沢尼さんがお亡くなりになっております。思えば第一回から登場していた方なんですよねえ。母上の死去に悲嘆に暮れた頼之さんが嵯峨の寺(景徳寺らしい)に籠もってしまい、数日後に義満様の呼び出しを受けてようやく出仕したと言うのは例によって『後愚昧記』が記すところ。母親が亡くなったんだから数日後に出仕というのはちと辛いのでは、と思っちゃうところですが、21世紀の今日でも首相クラスの人はそういうことになりますよね。なお、その後四十九日の間連日昼夜兼行の仏事を頼之さんは執り行い、これに駆り出された坊さんたちには粥のみを間食として出すという厳格ぶりで、坊さんたちが大変窮屈な思いをした、なんて話も『後愚昧記』は記しています。まぁ頼之さんらしいエピソードではあります。

 さて、しばらく平和ムードな話が続いておりましたが(ここらで最初から読み返すと、頼之さんの治世中にだいぶ世の中が落ち着いてきたことが実感できるかと)、ここに来てチラチラときな臭い動きが見られます。越中の騒動に端を発した細川vs斯波の対立が京市中で合戦寸前にまで及んでしまうのです。
 思い返せばこれまでにも山名師義さん(ドラマではカットしましたが永和二年三月に早世)と合戦の噂がたてられたこともありましたし、この手の騒動はしばしばあったといってもいいぐらいなのですが、なにぶん斯波と細川の二大勢力が直接対立ということもあってこの時はかなりやばいところまで行ってしまったようです。それで幕府本部内で殺傷事件まで起こる始末。結局その殺傷事件の翌日に義満さまが諸大名に平静を保つよう諭す使者を派遣して事態は収拾されるのですが、その陰で何があったのかは推測するほかはありません。このドラマでは義満さま自身がリーダーシップをとったことにしてますけど、あくまで作者の創作です。
 なんとか収まったこの騒動でしたが、これが間もなく起こる「康暦の政変」の前兆だった…ということになります。

制作・著作:MHK・徹夜城