第三十七回
「政変前夜」


◆アヴァン・タイトル◆

 二代将軍・義詮から後事を託され、幼い義満を補佐して幕府を仕切ってきた管領・細川頼之もすでに50歳に手が届こうとし、その政権維持もはや十年続いていた。義満が成人し政治力を増す中、しばらく鳴りを潜めていた反細川の陣営は静かに頼之打倒の計画を進めつつあった。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

渋川幸子

今川了俊

楠木正儀

足利満詮 細川頼基

山名義理 山名氏清 

足利氏満 上杉憲春

橋本正督 細川業秀

鄭夢周 吉見氏頼 信弘 

本庄宗成 土岐頼康 佐々木高秀

斯波義将

勇魚

小波

魏天

李成桂

大内義弘

世阿弥(解説担当)

世阿弥(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん

協力:朝鮮王朝南方観光局
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

二条良基

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 永和3年(1377)9月。九州探題・今川了俊は肥後に出陣し、菊池氏らの軍を相手に戦っていた。その陣営に博多から急使が到着し、高麗国の使者が博多にやって来たことを伝えた。その正使が高麗だけでなく日本でもその名が轟いていた文人・鄭夢周であることを知った了俊は、大慌てで戦場を放り出して博多へと駆けつけた。
 鄭夢周の来日の目的は、相変わらず高麗南岸で猛威をふるっている倭寇の鎮圧を日本に要請することであった。了俊は幕府を代表してこれに応対し、倭寇の鎮圧を鄭夢周に約束する。倭寇の情勢などを語る中で、鄭夢周は最近倭寇鎮圧に活躍している将軍に李成桂という者がいると了俊に語り、また文人同士の文学談義にも花を咲かせる。
 会談の席には最近ではすっかり了俊の片腕として九州平定戦で活躍している大内義弘の姿もあった。もともと高麗とは貿易を通じて縁の深い大内氏は外交面でも了俊のよき補佐役となっていた。会談の席で義弘は通訳にあたっている男の顔に覚えがあることに気づく。それは以前大内氏に仕え、高麗へ留学していた明人の魏天であった。魏天は高麗屈指の名文家・李崇仁のもとで学び、言語や文才にいっそうの磨きをかけて日本に戻ってきたのである。
 会談が終わると義弘は魏天を連れ出して、了俊のもとで働いている小波勇魚 と引き合わせた。懐かしい再会に魏天と小波は胸躍らせる。そして魏天はもはや明に帰るのではなくこの博多で日・高外交に携わり生きていこうと決心したことを小波に告げ、小波に自分と一緒に暮らさないかと申し出る。突然の提案に驚く小波だったが、勇魚の勧めもあって魏天と夫婦になることに同意するのだった。

 年が明けて永和四年。21歳となった義満は北大路室町の新将軍邸兼幕府中枢の建設現場にしばしば足を運んでいた。この壮大な邸宅は天皇のいる御所をも軽く上回る、完成までに数年を要するほどの豪勢なもので、幕府とその長である将軍の権威を満天下に示すものであった。義満は近衛家の邸宅の名物となっていた糸桜を半ば強引に所望してこれを室町第に植え替えたのをはじめ、あちこちの公家の屋敷から四季の花木をかき集めて室町第の庭を飾らせた。
 春3月10日、こうして集めた花々が一斉に咲いて見事に屋敷を彩るなか、義満はまだ一部建設中ながら大部分が完成した室町第に邸宅を移す「新第移徙の儀」を執り行った。まだ完全に生活の場を移すわけではないが、この日から公式にはこの室町第が将軍の邸宅であり幕府の中枢となったのである。この室町の邸宅が後世「室町幕府」の名の由来となり、またこの花に満ち溢れた将軍邸は「花の御所」と称されることとなる。
 続いて3月27日にはこの室町第で犬追物が開催され、管領の細川頼之、その養子・頼基、そしてその細川とは長年の仇敵とも言える山名義理山名氏清の兄弟も列席する。山名氏は時氏の後を継いだ嫡男の師義が早世したため、その弟の義理や氏清が一族を引っ張っていた。表面的には頼之と気さくに挨拶を交わす義理たちだったが、「頼之も老いたな…そろそろ管領の座をおりてもらたいところよ。将軍もすっかりたくましくなられたしのう」とひそかにささやき合う。義満は直属の奉公衆たちや頼基らを誘って自ら馬に乗り弓をとって射手をつとめ、若々しい将軍ぶりを諸将に印象付けていた。

 6月、小波と勇魚の率いる船団は今川了俊の配下の僧・信弘に率いられて九州から玄界灘を渡り、壱岐・対馬を経由して高麗南方へと向かっていた。通訳として、小波と夫婦になったばかりの魏天も同乗している。
 これは了俊が、鄭夢周からの倭寇鎮圧要請を受けて派遣した水軍であった。彼らは松浦水軍から倭寇の出没地点の情報を仕入れてこれを撃滅するべく高麗に渡ったのである。戦いはあっさりと了俊側の勝利に終わり、軍船は帰還の途についた。決して大きな戦いではなかったが、今川了俊の名を高麗にとどろかせるには十分なものであった。
 一方、高麗の使者・鄭夢周の日本における文名もかなりのもので、博多の彼の滞在先には連日多くの訪問客が押し寄せていた。了俊もまたその合間を縫うように鄭夢周と個人的に交流し、親睦を深めていた。鄭夢周は了俊から日本の酒を贈られたお返しに高麗の焼酎を了俊に贈る。その強烈な味に了俊は「一杯飲めば七日は酔いますな」と笑うのだった。
 間もなく鄭夢周は任務を果たしたということで高麗へと帰国していった。このあと了俊は再び肥後へ出陣して菊池軍と対決したが、9月の詫磨原の合戦に大敗し、なおも苦しい戦いを続けなければならなくなった。

 一方、京は祇園祭の季節となっていた。この祭りで繰り出される行列を、公家・武家の貴人たちは桟敷を作ってそこから見物することになっている。関白太政大臣の二条良基ら上級公家らとと共に義満も桟敷に上がって行列を見物していたが、この席に美少年・世阿弥 も同席していた。世阿弥はその後も良基や義満の邸宅にしばしば招かれ、踊りだけでなく連歌や蹴鞠など公家たちの遊びの席に連なり、すっかり上流階級の人々の間でアイドルのようにもてはやされる存在になっていたのである。その一方で「乞食」と卑しまれる芸人の少年を貴族の桟敷に同席させるとは、と眉をひそめる声もひそかにはあり、また評判の美少年をしばしば同席させる義満や良基の「愛童」趣味ぶりも世間の人々の口の端に上っていた。
 義満が室町邸に戻ると、妻の業子が待ち受け、「近頃は妻を放っておいて美しき童とお戯れとか」と噛み付いてきた。義満が必死に弁解して業子をなだめているうち、業子は「童をお好みになられようが、それは我が君のご勝手でござりますが、お子を産めるのは女子だけでござりますぞ」と言い出し、「実はまた身ごもりましてござります」と義満に告げる。これには義満も大いに喜び、業子を抱きしめるが、その業子の表情はどこか険しいままである。

 二度目の懐妊を告げられて、義満の業子への寵愛ぶりはさらに増した。これに伴い業子の実家・日野家はもちろんのこと、業子の周辺の人々までがその恩恵を蒙り、義満への業子の口利きで地位や財産を手に入れていた。中でも業子の乳父である本庄宗成という武士は将軍邸にまで住み込み、義満の許しを得て各地の所領を強引に入手するなど権勢を振るっていた。そしてこの年の8月にはついに能登国守護職を義満に求め、これを義満があっさりと認めてしまったのである。
 これにはさすがに管領・細川頼之も「将軍は何を考えておられる!」と義満に対し怒りをあらわにした。日野家の一家臣に過ぎない本庄宗成が一国の守護になるというのも問題だったが、現在の能登守護が有力な頼之派の大名である吉見氏頼であったことも頼之にとっては大問題だった。頼之の政敵である斯波義将 は越中・越前の守護であり、頼之にとって吉見氏はこれに楔を打ち込む存在でもあったのである。頼之は義満に猛抗議し、義満もまた自分の非を認めて守護交替を撤回したが、吉見氏頼はこの一件で義満に対して深い不信感を持つようになり、また結果的には実現しなかったものの義満が頼之に相談なく恣意的な人事を行おうとしたことは、頼之と義満の関係が微妙になってきたものととる向きも多く、反頼之派を勢いづかせることにもなった。

 業子につながる日野家関係者の増長ぶりには公家・武家を問わず眉をひそめる声は多く、そうした声は義満の義母である渋川幸子のもとにも寄せられていた。「義満どのもとんだ嫁とりをしたものよ」と幸子は呼び出した斯波義将の前でほくそ笑む。「その御台さまも近くお産のために伊勢邸にお出になるとか…こたびこそ男子出生となると…」と義将が言うと、幸子はニヤリとして「実はのう…業子どのは実は懐妊などしておられぬ、との確かな話があるのじゃ」と義将に言う。驚く義将に、幸子は業子の侍女に送り込んだ自分の手の者の情報であるから間違いない、と告げる。「業子どのは将軍の寵を得るためにひと芝居うったのじゃ…これが明らかになれば、日野家はおろか将軍家の面目にも関わろうぞ」と幸子は言う。そして幸子は義将に業子と日野家、そして細川家を義満から遠ざけねば幕府の先行きは危うい、と暗に斯波派による政権奪取をそそのかす。
 義将が幸子のもとを辞して自邸に帰ると、山名義理・氏清の兄弟、土岐頼康佐々木高秀をはじめ斯波派の有力大名数人が義将を待ち受けていた。義将は業子の件には触れず、ただ幸子から頼之打倒の了解と支持を受けていると一同に告げる。「間もなく南方から火の手が上がろう。その成り行きによって頼之を引きずりおろす機会が来よう」と義将は諸将に向かって言った。一同気勢をあげて散会したのち、山名兄弟だけが残って義将に近づき密談を続ける。義理は義将に「頼之を倒すだけでは不十分でござるぞ…一歩間違えればこちらは将軍に仇する逆臣ということにされかねませぬ。万一の時にも備えて、こちらはこちらの神輿(みこし)を用意しておいた方がよろしいかと」とささやく。「神輿…とは?」と問い返す義将に、氏清が言う。「お分かりになっておられるはず。鎌倉の氏満どのにお声をかけておくのです…ことあらば、氏満どのが新将軍じゃ、と」この言葉に義将はジロリと兄弟の顔を交互に見た。

 鎌倉。若き鎌倉公方である足利氏満は自邸のの庭で馬を責め、笠懸(かさがけ)に熱中していた。その彼の側には斯波義将がひそかに派遣した使者が控えている。「義満の驕慢ぶりはこの鎌倉にも聞こえてきておる…政では公私を混同し、日々公家どもと一緒に猿楽舞の美童と戯れておるとか…武家の棟梁とも思えぬ所業とのう」と言いながら馬を下りる氏満。「父・基氏はいまわの際に申しておった。もし将軍が世を乱し、幕府の存立を危うくするならば、これに取って代われとな。わしの心構えはとうの昔に出来ておる」と氏満が言うと、使者は「いったん事あらば、お立ちいただきたい、と義将も申しております…また、大方禅尼(幸子)様も内々に…」と声をひそめて言う。氏満はその言葉に満足げにうなずいた。ただし氏満は義満は甘く見ながらも管領の頼之のことはひどく警戒しており、頼之が確実に失脚するという保証が必要だと使者に言う。
 そこへ鎌倉府の管領(関東管領)である上杉憲春が姿を見せた。氏満は即座に使者を下がらせるが、憲春は京からの使者と聞いておおよその事情を察し、「斯波や山名などの企みに軽々しくお乗り遊ばされますな。一歩誤れば、足利家を二分し、天下を大乱に巻き込むことになりますぞ」と厳しい口調で氏満を諌めた。氏満は適当にその場をごまかして退出してしまう。

 冬に入り、畿内には俄かに戦雲が立ち込め始めていた。発火点となったのはもともと南朝の勢力圏であった紀伊国である。この紀伊にはかつて楠木氏らと共に南朝の主力として戦った橋本正督という有力武士がおり、細川頼之のよびかけで主筋の楠木正儀が幕府に帰順してのちこれに従う形で彼もまた幕府に投降していた。しかし頼之の政権の不安定化を察してか、再び幕府から南朝方に寝返り、紀伊守護の細川業秀の居城を攻撃し始めたのである。
 頼之はただちに紀伊への援軍派遣を決定、弟で養子の細川頼基を総大将に、山名義理・氏清兄弟や赤松氏らの軍勢を添えて紀伊へ出陣させた。すると正督があっさりと兵を引いたので、頼基以下もすぐに兵を京へと引き上げてしまった。ところがその直後に正督が再び兵を動かして業秀の居城を強襲したため、業秀はなすすべなく紀伊を捨てて海路淡路へと脱出してしまったのである。勢いに乗った正督率いる南朝軍は紀伊から和泉へも進出し、幕府方の楠木軍を脅かし始めた。
 
 「なんたる体たらくか!ここしばらく畿内は戦もなく、我ら武士も腑抜けになったかと見える。かくなる上は、このわし自らが出陣して南方を討つ!」義満は室町第で諸将を前にして立ち上がり、叫んだ。かくして畿内にいる諸大名に一斉に南方出陣の命がくだり、義満自身も12月15日に前例に倣って鎧兜に身を固めて東寺まで出陣し、弟の満詮と共に諸将を鼓舞した。頼之も久々に武者姿でこれに同道し、八幡まで陣を進めて細川軍を監督する。
 ところが、東寺で義満は頼之には予想外の人事を発表した。ふがいない敗北をした細川業秀を紀伊守護から解任してその後任に山名義理を、さらに楠木正儀が兼任していた和泉守護職もとりあげて山名氏清に与えたのである。細川一門の業秀と、頼之と関係の深い正儀とを排除して、頼之の長年の政敵である山名一族を用いるという、かなり露骨に対立派閥を意識した人事であると言えた。頼之、頼基は心穏やかではいられなかったが、今回の事態は細川派の失態でもあるだけに強く反発することもできなかった。
 そして頼之一派にはさらに困ったことに、この抜擢を受けた山名兄弟が大きな戦果を挙げてしまったのである。この年末から年始にかけて、山名兄弟は和泉、紀伊の各地で橋本軍を撃破し、完全にその動きを封じ込めることに成功してしまったのである。これは管領・頼之の権威をさらに失墜させるものであった。

 12月23日に義満は東寺から室町第に帰った。室町第には出産のために伊勢邸へ行っていたはずの業子が、何事もなかったかのように戻ってきていた。懐妊の件は全くの作り話だったのである。それが業子の焦りと嫉妬から生じたものであることを知る義満は、あえてそのことには触れず、「おお、戻られていたか。このごろすっかり寒くなったのう」と笑って声をかけるだけである。
 同じころ頼之も八幡から兵を引いて自邸に帰って妻の慈子と語らっていた。「将軍はすっかり大人になられた。嬉しくもあるが、それに連れてそのお心が全く分からぬようになってきた…時折、空恐ろしくなる」と頼之は慈子に言う。「もう身を引くべき時なのかも知れぬ…政のことなど忘れて、四国で安穏に暮らすか」と言う頼之に、「またぞろ例の病でござりますか」と慈子は笑った。

 それぞれの思いが交錯するなか、新しい年が明けようとしていた。その年は義満と、頼之にとって激動の年となるのである。

第三十七回「政変前夜」終(2002年11月2日)


★解説★世阿弥第四弾  
 どうもこのところ更新がすっかり毎週ペースから外れていて申し訳ないな、と思う解説役の世阿弥でございます。なお、今回登場している子役の私は「二代目」でございます(笑)。
 
 さて今回はタイトルの通り、いよいよ「康暦の政変」へ向けての動きが始まる回なのですが、そこに混ぜるように今川了俊さんを中心に九州の情勢が語られております。鄭夢周さんという高麗の名臣が博多に来たので了俊さんが大慌てで戦場からそっちに駆けつけたというのは史実でして、九州探題の了俊さんが外交面でも幕府の代表であったことをうかがわせる逸話であります。この鄭夢周さんの要請で了俊さんが家臣の「信弘」(出家の武士らしいが詳細不明)らに率いさせた兵を派遣して倭寇を討ったというのも高麗側の記録に出てくる話です。政治外交から離れて文人同士で交流を深めたのも事実でして、お互い酒を贈りあったりもしています。
 この時に高麗側から贈られたお酒について了俊さん自身が書いています。面白いんで引用しましょう。「三くわの酒とは、酒をせんじて、其いきをしづくにてうけて、それを三度までせんじかへしかへしためたる酒也。鎮西にて我等も此酒を高麗より贈りたりしを呑也。一盃のみてぬれば七日酔と云々。露ばかりなめたりしも気にあたりき。香はよき酒に似て味はさしてなかりし也。舌にいらいらとおぼえしばかり也」(『言塵集』) お分かりでしょうか、了俊さんが飲んだのは蒸留酒、要するに韓国焼酎のご先祖みたいなものだったわけですね。JINRO、それは楽しいお酒、ってなところでしょうか(笑)。鄭夢周さんって文人として名を馳せた人だったようで、了俊さんだけでなく彼のもとには多くの面会者が殺到したと記録にあり、この九州の地の文化レベルの高さ(それも結構国際的な)をうかがわせる逸話であります。
 この話にからめて魏天さんが再登場。彼が高麗で李崇仁先生(高麗末期の文人で字は子安、号は陶隠。中国にも稀な名文家と言われた) のもとで学んでいたと言うのは記録にある話です(詳しくは後日)。このバリバリの実在人物である魏天さんがいきなりフィクションキャラの小波ちゃんと結婚しちゃったのにはひっくり返った方も多かったかなぁ(笑)。いや、一応この展開は当初から考えてたんですけどね、なかなかうまくドラマに絡ませられなくってこの回で急遽ゴールインということになってしまいました。小波ちゃん、ちょっとお年がいっちゃったかな、と思いつつおめでとうございました(^^)。ああ、フィクションキャラたちは扱いが難しい。

 さて京では「室町第」が完成。ここに将軍邸宅が移され、正確にはここから「室町幕府」と呼ばれることになるわけですね(だから「足利尊氏が室町幕府を開いた」というフレーズは不正確、とうるさく言う向きもありますが、歴史用語なんてそんなもん)。「室町太平記」とかタイトル付けておいて、「室町」に舞台が移るのがようやく37回とは…(汗)。
 なお、「花の御所」という別称については従来説のまんまで書かせていただきましたが、義満さんがここに新邸宅を作る以前からこの地の邸宅に「花の御所」「花亭」といった別称がついていた、との見解もあることを補足しておきます。すでに「花亭」と呼ばれるところに邸宅を作ったから、内部を花で飾った、との見解もある程度説得力のあるものかと思います。ともあれ、以後この「花の御所」が室町幕府政界の中心となり、後世「花の乱」なんてドラマのタイトルにつながっていったりするわけですね。この「花の御所」の建設はえらく手間がかかるものでして、この永和四年(1378)にお引越しのセレモニーが行われたものの、「完全完成」になったのはなんと康暦二年(1380)のことでした。

 さて、この室町第で義満様周囲の公私さまざまなドラマが展開されるわけですが、業子さんの「狂言懐妊」は一応元ネタのある話で、この年の10月に出産のために伊勢邸に出向いたのに12月に出産の無いまま室町第に帰っているという記録があるのです。業子の「狂言」とみなしているのは、意外と少ない義満伝記本の古典『足利義満』(人物叢書)の著者臼井信義氏。他の女性に寵愛が移ったからこれを牽制しようとしたのでは、とみなしています。確かに義満さまはこのあとやたらに女性関係が出てくるのですけど、この時期は特定の女性が確認できないのでドラマとしてはこんな感じの処理になりました。なお、業子さんは終生「大樹(将軍の別称)夫人」「御台所」と呼ばれ、義満さまから相応の寵愛、配慮を受けていたことを書き添えておきます。
 
 この業子さんの実家・日野家の人々(その家臣や使用人のたぐいまで含む)が将軍の権威を傘に増長して「傍若無人」と他の公家たちの反感を買ったのでありますが、業子さんの乳父(義満さまの乳父は頼之さんになる、といえば立場がお分かりでしょうか) である本庄宗成さんが能登守護職を所望して一時義満様に認められたという事件は、のちの義満さまの独裁者ぶりをチラリと垣間見せたものといえます。結局中止にはなったのですが、このころから義満さまは頼之さんのコントロールが利かない存在になりつつあり、それが頼之政権打倒の動きにつながっていったことも否めないでしょう。

 この永和四年の暮れ、紀伊から戦火が上がります。これが翌年の政変の前兆となるわけですが…。
 橋本正督に攻められて淡路へ逃げちゃった細川業秀さんという人ですが、細川一門なのは確かなんですけど系図上の正確な位置は不明です(結構多いんですね、このころの名門の家でもこういうケース)。名前から察するに頼之さんのハトコの業氏さんのお子さんか何かじゃないかと思われるのですが…。
 この戦乱を受けて義満さまが弟さんの満詮さんとともに鎧に身を固めて東寺まで出陣します。お父上の義詮さままでは将軍もしばしば戦場に立ったものですが、この義満さまからはすっかり無くなって来るんですね。出陣といってもせいぜい東寺あたりまで出る程度で。それだけ平和な時代になったってことなんでしょうけど…後に「応永の乱」が起こった際には義満さま自ら戦場まで出かけてますけどね。ま、それはいずれドラマでも出てくるでしょう。
 この戦いで、だらしの無かった細川派に対して目覚しい戦果を上げてしまったのが山名義理さん・氏清さんのご兄弟。のちのち「明徳の乱」で義満様と戦うことになる人たちですが、このころから義満さまの「利用できる奴はとことん利用する」という政治姿勢(いずれ詳述)が芽を出しているように思えますね。

 さて、いよいよ次回は細川頼之さんおよび義満さまの人生の曲がり角となった、「康暦の政変」です。

制作・著作:MHK・徹夜城