第三十八回
「康暦の政変」


◆アヴァン・タイトル◆

 年が明けて、永和五年(1379)。この年は間もなく改元され「康暦元年」となる。この年は室町幕府の歴史の中でも大きな節目、細川頼之と足利義満にとっての大きな試練となる政変が起こった激動の年であった。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

足利満詮 細川頼基

三島三郎 細川氏春

足利氏満 上杉憲春

山名義理 山名氏清

土岐頼康 佐々木高秀 細川義之 

十市遠康 土岐頼忠 土岐直氏 

斯波義将

渋川幸子

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍・第12師団・第15師団・第16師団

二条良基

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 永和五年は、前年の紀伊での南朝方蜂起の余波を受けて、きな臭い空気の中で年を明けた。紀伊の南朝方と示し合わせた大和の国人・十市遠康らが支配者である興福寺に対して蜂起し、興福寺は幕府に対し彼らの鎮圧を要請してきたのである。紀伊の南朝方が山名義理氏清の兄弟の活躍でほぼ鎮定されたのを受けて、足利義満は興福寺の求めに応じて大和への派兵を決定する。管領の細川頼之も長年興福寺と対立関係にあったこともあってこれに同意したが、義満は大和派遣軍の陣容を細川一門からは一切とらず、それと対立する斯波派の武将たちで主力を固めてしまった。先の紀伊・和泉の合戦で頼之の弟・頼基ら細川勢が醜態をさらしてしまい、武将たちの支持を受けられないと判断されたためであった。頼之としてもこれに不服を言うわけにはいかない。
 正月6日、第一弾として土岐頼康らの軍勢が大和へ派遣された。しかし土岐らの軍勢は奈良に入ったところで、紀伊の情勢がまだ安定していないことを理由に進軍をとめ、奈良で待機してしまう。
 2月12日、紀伊がほぼ鎮定されたのを受けて、義満は第二弾の大和派遣軍を出陣させた。主将は斯波義将で、以下吉見・赤松・佐々木六角・佐々木京極・一色など畿内の有力大名がこぞってこれに参加していた。
 「大和の国人どもを鎮めに行くにしては、ちと大掛かり過ぎるのではござりませぬか?」三島三郎が頼之に不安げに言う。頼之は「大和の国人どもはもともと吉野方の者が多い…甘くは見られぬゆえ、大掛かりになったのであろう」と説明するものの、彼自身も内心この動きに不吉な予感を感じとってはいた。

 大軍を率いた斯波義将は間もなく奈良に入った。これを土岐頼康・佐々木(京極)高秀が出迎える。「義将殿、お待ち申しておりましたぞ…いよいよ細川武州を追い落とす機会が参りました」と言う頼康は、「この南都(奈良)に集まっている同心の大名の兵で京を攻めれば、頼之もなすすべがござるまい」とこのまま京へ攻め上ろうと進言する。「そう焦るな。何と言っても向こうには将軍がおわす。一つ間違えれば我らは逆臣じゃ。ふりかえってみよ、将軍を敵にまわして勝ったためしはまずないわ」と義将は自重を促し、当面は奈良に軍勢をとどめて、京に無言の圧力をかけようと提案する。そして、鎌倉公方の足利氏満とも連絡をつけてあるから、その動きと連動して義満に迫るのだと一同に言い渡した。

 奈良に入った派遣軍が国人討伐にいっこうに出発せず、逆に京を攻めて頼之排斥の動きを起こそうとしている、との噂はあっという間に京に広まり、人心は動揺した。京の市中には戦乱の動きを感じとった武士たちが各地から集まり、頼之自身や頼之派の諸大名も軍勢を集め自宅の武装を整え始めたため、京にはいっそう物々しい空気が流れていく。
 この情勢の中で、頼之は室町第に出仕し、義満に自らの管領辞任を申し出た。「この騒ぎのもとは、この頼之にござります。それがしが身を引けば斯波・土岐らも兵を納めましょう」と頼之が訴えるが、義満は「幕府の一切のことは将軍たるこのわしが決めることじゃ!諸将の脅しにいちいち屈しては将軍の名折れぞ」と激昂してこれを退け、奈良にいる諸将に向けて「軽挙妄動を慎み、京へ帰還せよ」との命令を発した。
 義満の命令を受け、奈良では諸将がそれぞれに思惑をめぐらせていた。吉見・赤松・佐々木六角などは義満の命に従い京への帰還を始めたが、斯波義将は土岐頼康・佐々木高秀らと対応を協議する。「将軍も強気に出なされな。昔から向こう気の強いお方だが…」と義将は苦笑し、頼康も「しかしおん自らの兵力も無く、細川一派の軍勢もあてになるものではありませぬ。いずれ頭を下げられましょう」と笑う。しかし当初斯波軍についてきていた大名のいくつかが義満の命に従ったのも事実で、義将は軽々しく一挙にことは定めがたいと感じていた。そこで佐々木高秀が「土岐どのは美濃へ、それがしは近江の領国に下り、兵を挙げる。斯波殿は京に戻って様子を窺いながら工作をするということではいかが」と提案し、義将もこれにうなずいた。
 2月22日、大和に派遣された軍勢の大半は義満の命に従って京へと引き上げてきた。しかし斯波義将は奈良にとどまり、土岐頼康、佐々木高秀はそれぞれの領国へと下ってしまい、京の人々の不安をいっそう募らせることとなった。

 「義将も、頼康も戻らぬわ。もはやきゃつらの叛意は明らかとなった。かくなる上は、京に集まった兵をもって義将・頼康を討とうと思うが、どうか」 と義満が頼之に向かって言う。頼之は名門・斯波家の影響力を慮って今は穏便に事態を収拾するほうが賢明と述べ、義将には改めて帰京命令を、美濃に帰った頼康に対してはこれを討伐するとの命令を発してその動きを牽制してはと進言する。義満はこれに従い、ただちに土岐討伐の御教書を諸国に発すると共に、奈良の義将に対し改めて帰京の命を下し、これに従わねば越中の守護職をとりあげるとの脅しもかけた。
 義満の命に従って、斯波義将が軍勢を率いて帰京したのは2月24日のことである。義将は入京に当たって義満に対し叛意の無い旨を明確に表明し、いたって平静な様子で京に入ってきた。義将の万一の行動を警戒して、頼之邸では一族郎党が結集して武装しこれに備えたが、何事も起こらぬまま義将は室町第に入り、義満に謁見、改めて義満に対し叛意の無いことを誓った。反細川陣営の主将である斯波義将が入京し将軍に頭を下げたことで、ひとまず事態は収拾されるか、と義満・頼之をはじめ人々は一時の安堵を覚えたのだった。
 ところが義将入京の直後、美濃に帰った土岐頼康と近江の佐々木高秀が互いに呼応しそれぞれの領地で兵を興した。この動きに怒った義満は自ら出陣して土岐・京極を討つと断を下し、京の土岐邸・京極邸を封鎖し、山名や佐々木六角氏らに先発の出陣を命じた。三月に入ると同族である佐々木六角と佐々木京極両家の軍が近江国内で合戦に及ぶ事態となった。

 こうした緊迫した動静は鎌倉にも伝わっていた。鎌倉公方・氏満は関東管領の上杉憲春を呼び出し、「京へ向けて、兵を出すことにした」と告げる。土岐・京極の反乱に手を焼いた義満が、氏満に対し関東からの出兵を要請してきたというのである。「これに応えてわしは兵を起こすが、その兵をそのまま京へ向ける。斯波・土岐らと示し合わせて義満を討つのじゃ」と氏満は興奮した顔で打ち明ける。「なんと!」と憲春は声を上げ、「斯波や土岐らの甘言に惑わされ、足利家を滅ぼすおつもりか!」と語気を荒らげて氏満を諌めた。しかし氏満は頑として諫言を聞かず、憲春の兄弟の憲方に兵を与えて早くも出陣させてしまう。
 山内の自邸に帰宅した憲春は妻に向かって「のう、ちと思い立ったことがあるのだが、そなた尼になる気はないか」といきなり切り出す。当然ながら妻は驚いたが「賢い御殿のこと、何かいわれがあるのでしょう。たやすいこと、髪を下ろしましょう」と即座に髪を切ってしまった。「すまぬのう…すぐに合点がいくであろう」 と憲春は言い残し、そのまま持仏堂へ入っていった。そしてその場で憲春は腹を切り、果てたのである。氏満に対し挙兵を思いとどまるよう求める遺言書をしたためた上での諫死であった。憲春の死をもっての諌めには、さすがの氏満も衝撃を受け、伊豆まで出ていた憲方らの軍を停止させた。

 この鎌倉での事件の噂は間もなく京にも届き、未遂に終わったとはいえ鎌倉府のこうした動きは京の幕府を震撼させた。斯波義将は義満に面会し、「このまま土岐・京極の乱を放置しておけば、世は大乱となるおそれが」と言い、両者を赦免して京に呼び寄せることが得策と進言した。次々と押し寄せる事態に義満もややノイローゼ気味となっており、義将の進言を受け入れて、ひとまず土岐頼康を赦免することに同意した。
 しかし「頼康赦免」の方針決定は、その討伐を勧めた頼之の立場を否定するものに他ならなかった。これを聞いた頼之は「もはやわしが身を引かねば事は収まるまい」慈子に言い、義満に対し管領の辞職と四国への下向を願い出た。だが義満はこれを認めず、「案ずるな。頼之の身は、この義満が必ず守る」と頼之を励ます。

 この慌しい状況の中、3月22日に改元があり、年号は「康暦(こうりゃく)元年」となった。その直後に義満の赦免を受けて土岐頼康の弟の頼忠直氏らが軍を率いて入京し、義満に対し赦免の礼を述べ、恭順の姿勢を改めて示した。一方の佐々木高秀に対して義満は依然としてこれを討伐する構えを取り続けたが、斯波義将らが義満の師でもある関白・二条良基にはたらきかけて高秀の赦免運動を行ったため、結局4月には高秀に対しても赦免の措置がとられることとなった。表面上はこの数ヶ月の騒動を無かったことにするかのように丸く治めた形である。
 一息つく義満だったが、憤懣やるかたない感情もあった。「将軍とは、かくも力の無いものなのか…武家の棟梁と言いながら、つまるところ、諸将の力の前には何も出来ぬではないか…わしにはこれっぽっちの力も無い。ただ大名どもの駆け引きを高みから眺めていることしかできぬ…」と義満は業子に愚痴る。「御殿にも、思うようにならぬことがあるのでござりますな」と業子は義満を慰めるでもなく、その消沈した様子にやや驚いている様子。「そうよ、わしにも思うようにならぬことはある…わしは、力がほしい。将軍として思うように振舞える力がな」と義満はつぶやく。
 
 閏4月13日。赦免を受けた佐々木高秀は京に入り、義満に対して恭順の姿勢を示しつつ祇園の白堂に宿った。ところがその翌日、異変が勃発する。
 閏4月14日、各地から集まってきた数万の大軍が京の市中を駆け抜けた。情勢を調べていた三島三郎が息せき切って頼之邸に駆けつける。「土岐と、京極を主力とする数万の兵が…室町第に向けて集結しております!」との三郎の報告に、頼之も慈子も愕然とする。「よもや…将軍を滅ぼすつもりでは…?」と焦る慈子に、「いや…奴らの狙いはこのわしじゃ。将軍には手を出せまい」と頼之は落ち着いた口調で言う。
 室町第に向けて大軍が動いているとの知らせは、渋川幸子の屋敷にも届いた。幸子の前には義将がいる。「まさか、将軍を手にかけるつもりではあるまいの?」と問う幸子に、義将は「ご安心を。いくら倣岸不屈の将軍でも、大軍に囲まれては要求に応じるしかありますまい」と済ました顔で言う。「…もし、義満殿が突っぱねたら?」と幸子はやや不安げな表情でさらに問う。その表情に、おや、という顔をしながら義将は「そうならぬよう願っております」と答えた。

 昼過ぎには室町第は完全に大軍に包囲されてしまっていた。包囲軍の主将は佐々木高秀および土岐直氏らである。彼らは室町第の人の出入りを完全に遮断し、一斉にときの声を上げて第内にいる義満らを威嚇した。義満は庭に出て塀の外に見える大軍の武器、旗指物を睨みつけ「この花の御所に対し、無粋な真似を…」と歯ぎしりする。
 やがて包囲軍側から義満のもとへ、要求を記した書状が届けられた。義満が弟の満詮や側近たちとともに内容を読んでみると、頼之を管領職から解任し、ただちに四国へ下向するよう命じよ、との要求である。要求を読んだ義満はしばし黙然とし、「思えば祖父尊氏、父義詮にも同じようなことがあった。道は二つ。要求を呑むか、将軍の名を辱めぬよう斬り死にするかじゃ」と言って、満詮の意見を求めた。「それがしがどう思いましょうとも、お決めになるのは将軍でござります…武家の棟梁たる兄上が」と満詮は答え、義満の言葉を待った。義満は目を閉じ、またしばし黙然として搾り出すように言った。「わしは…今日という日に受けた屈辱を、生涯忘れぬぞ…」

 夕刻になって室町第から細川邸へ使者が走った。頼之に対し管領の任を解くこと、そしてただちに京を退出して四国へ下るようにという義満の命令を伝えたのである。頼之は「将軍のお言葉、確かに承りました。長らくお世話になり申した、とお伝えくだされ」とだけ答え、丁重に使者を送り返す。「三郎、即刻屋敷を引き払って四国へ向かうぞ。一門、郎党の者を集めよ」と頼之は三郎に命じ、屋敷の前に一族郎党300人を集めさせた。赤い夕陽が周囲を照らす中、頼之は一同に向かって言う。 「この頼之の不徳ゆえ、今日の有様となった。わしはこれより四国に下る。恐らくわしに対し逆臣の汚名を着せて討伐せんとする動きも起ころう。あの清氏のこと、みなも覚えておろう。わしは自ら清氏を討ち果たしたが、因果はめぐってわしがあの時の清氏になってしもうたわけじゃ…」と頼之は語りつつ、感慨深げに夕陽を見た。「わしの行く末が、どうなるかは全く分からぬが、いずれにせよ苦難の道じゃ。そのような者に付き従うことを、わしは求めぬ。めいめい、好きに動いてくれい。わしは見捨てられたとは決して思わぬ」頼之がそう言って口を閉じると、300人の一族郎党たちの間からすすり泣きが漏れてきた。やがて家臣の一人が叫ぶ。「どこまでも、御供いたしまする!地獄の果てまでも殿に付き従いまするぞ!」これを皮切りに郎党たちが次々と頼之に付き従うことを申し出た。頼之の脇にいる三郎も、頼之に向かって無言で深々と頭を下げた。頼之は涙を浮かべて、一同に頭を下げる。
 「慈子、そなたは残れ。将軍が必ず良い様にしてくれよう」と頼之は妻に言う。すると慈子は「いえ、わたくしも四国へ参ります。そろそろ隠居もよろしいかと…いつまでも将軍のお側にいては乳離れができぬと言われますゆえ」と笑って答える。「慈子…!」頼之は嬉し泣きの表情で妻の肩に手を置いた。

 この日の酉の刻(日没時)、頼之とその一族(頼基、氏春、義之ら)および家臣団300人余は一斉に細川邸を撤収し、京から退去していった。屋敷には火が放たれ、間もなく駆けつけてきた斯波派の軍勢によって跡形も無く破壊されてしまった。このとき細川一門および家臣の一人として頼之を見限る者は無く、うちそろって頼之に従って京から出て行ったことは、京の人々を大いに感嘆させた。
 夕闇の中、頼之は馬上から京を振り返る。火に包まれた自邸が見える。しばらく京を見つめてから、頼之は思い切ったように京に背を向け、馬を進めた。
 康暦元年閏4月14日。細川頼之が失脚し京を追われた事件は史上「康暦の政変」と呼ばれる。頼之が二代将軍義詮の遺託を受けて管領をつとめてから、およそ12年後のことであった。

第三十八回「康暦の政変」終(2002年11月2日)


★解説★世阿弥第四弾  
 
☆MHK報道特別番組☆
「細川政権崩壊、斯波新政権誕生へ」


 【おことわり】本日の政変をうけまして、予定を変更して報道特別番組をお届けいたします。今夜放送予定でした狂言ドラマ「北条時宗・蒙古ないで」は来週放送いたします。ご了承ください。
(康暦元年閏4月14日・室町放送協会)


【世阿弥】こんばんは、司会の世阿弥です。本日の政変を受けまして、この政変の原因と、今後の行方をうらなうべく、専門の方もお呼びしまして討論していきたいと思います。ゲストの政治評論家・徹夜城さんです。
徹夜城】あんた、この時点ではまだ17歳前後じゃなかったか?
【世】まあまあ、固いこと言わず(笑)。それにしても今回の政変はいずれは、と言われていたにしても突然の急展開でしたねぇ。
【徹】まぁ政変なんてそんなもんですけどねぇ。振り返ってみれば室町幕府は発足以来何度かこういう政変を繰り返してますよね。
【世】ええと、室町第前から中継が入ってます。木阿弥さーん。
【木阿弥アナ】はい、室町第前です。花の御所は夜に入ってからも周囲に兵がたむろし、ものものしい雰囲気です。将軍が斯波派の要求を受け入れたことで大方の兵は引いていますが、今日のところは完全撤収にはならない模様です。
【世】将軍側からの何か動きなどはありましたでしょうか?
【木】「細川頼之を管領から解任、四国へ追放」という公式コメントが文書で報道陣に配られただけでひっそりとしています。
【世】ありがとうございました。倣岸で知られる将軍・義満様ですが苦渋の選択だったようですね。
【徹】将軍といいましても、有力守護大名の連立政権のバランスの上に乗っかっただけの存在ですからねぇ。将軍自身の軍事的基盤がありませんから、武力で脅されたらもう終わりですよ。
【世】今回の政変ですが、斯波派の佐々木(京極)高秀さん、土岐一族の皆さんらが行動隊長で斯波義将さんが影の仕掛け人という形ですね。京極家といいますと、あの故・道誉さんのお家ですから、細川政権打倒に動いたのは意外なのですが…
【徹】これはですね、数年前に同じ佐々木一門の六角家と京極家の間に紛争が起こりまして…近江国内での親戚同士の争いでありますね。もともとは六角家の当主・亀寿丸さんが幼いので京極家の高詮さん(道誉の孫で高秀の子)が後見人になっていたんですが、六角家側が「本来は我が家が本家だ!」と反発し、また実際に高詮さんの横暴もありまして、頼之さんも六角家の要求を受け入れて高詮さんを後見から外し、また近江守護職も高詮さんから取り上げて亀寿丸さんに与えたのです。言ってみれば近江選挙区の党公認候補をすげ替えたわけで、それ以来京極家は細川派から事実上離脱して斯波派についていたのでありますね。
【世】土岐さんはもともと頼之さんの南方遠征なんかにも非協力的でしたものね。
【徹】ついでに言えば奈良の興福寺(大和国の支配者でもある)や比叡山も相変わらず細川政権とはもめてて直前まで僧兵らによる神輿デモもありましたし、思えばよくここまで潰れずにもったもんだ、という気もします。
【世】ここで、鎌倉を呼んでみましょう。鎌倉支局の金阿弥さーん。
【金阿弥アナ】はい、鎌倉です。本日京都で起こった政変についてはまだ情報が伝わっていないようで、鎌倉府は今のところ動きはありません。
【世】一時は軍を起こして将軍の座を狙ったと言われる氏満さんですが、実際に政変が起きた今になって動くということはないでしょうか?
【金】無さそうですね。やはり前関東管領・上杉憲春さんの命を投げ打った諫言が利いているようで…あ、憲春さんの未亡人のコメントが入っています。「平和を望んだ夫の遺志を無駄にしないでください。頼之さんが身を引かれたのも同じ思いでしょう」とのコメントでした。また、氏満さんが帰依しておられる瑞泉寺の高僧・古天周誓さんが義満さんとの和解のため、京に派遣されるとの情報もあります。
【世】ありがとうございます。それにしても鎌倉公方もともすれば大きな脅威になる一派閥なんですね。
【徹】先代の基氏さんの段階から将軍と何かと対立があると噂されてましたしねぇ。兄弟ですら争うんですから、従兄弟になったらもう赤の他人ですよ。このあともこうした関係は永享の乱まで延々と…おっと、「予知」をしちゃいけませんね。
【世】しかし関東管領である上杉さんの命を賭しての挙兵阻止には驚きました。上杉家と言えば尊氏公の母君のご実家ですね。そうした家柄のこともあって足利家のために忠義を尽くしたと言うことでしょうか。
【徹】そうでしょうねぇ。ちなみにこの憲春さんと奥さんのエピソードは「鎌倉大草子」という資料に出てまいります。
【世】では次に、公家界の反応です。皇居前に土阿弥さんがいます。土阿弥さーん。
【土阿弥アナ】はい、皇居前です。朝廷としてはあくまでことは幕府内の権力闘争ということで、静観の構えのようです。ただ、最近義満さんにせよ頼之さんにせよ朝廷の人事にかなり介入するようになってましたから、影響は避けられないと見られています。特に義満さんの奥方のご実家である日野家の影響力の低下が噂されています。
【世】関白の二条良基さんはこの政変についてコメントされてますか?
【土】えー、「将軍にも細川さんにも個人的に親交があるだけに今回の事態は遺憾だ。政治の世界は一寸先は闇だな」と記者団を前に語っておられました。
【世】続いて宗教界の反応を…比叡山記者クラブの日阿弥さん。
【日阿弥記者】はい。比叡山では今回の政変を大いに歓迎しております。数年前から比叡山は付属の日吉神社の神輿の新造費用問題で頼之さんと対立しており、今日の細川政権崩壊に対し、「神罰である」とのコメントを発表しています。
【世】では奈良の興福寺記者クラブの月阿弥さん。
【月阿弥記者】こちら興福寺も長らく細川政権と対立を続けており、やはり今回の政変を大歓迎で受け止めています。
【世】さらに五山記者クラブの火阿弥さん。
【火阿弥記者】禅宗界はとくに大きな影響が出そうですね。禅宗の五山内では細川派・斯波派双方の争いがそのまま人事・寺格の争いと結びついて抗争を繰り広げておりまして、今回の頼之さんの失脚を受けて親細川派の没落、親斯波派の台頭が予想されます。一部消息筋によりますと、頼之さんと対立して丹後に逃れていた春屋妙葩さんが、すでに数日前に丹後を出て京に向かっているとの情報もあります。
【世】春屋さんが早くも復権ということになるようですね。しかし数日前から丹後を発っていたとすると事前に…?
【徹】そう考えるのが自然でしょうね。斯波派の諸将と連絡がとられていたのでしょう。今回の政変はかなり早くから準備されていた節がありますね。斯波義将さんもまだお若いのになかなか…
【世】義将さんといえば以前、故・道誉さんの策謀で父上もろとも失脚した経験がおありですからね。今回はその奪回を目指したわけですからよくよく入念に計画をたてたのでしょうね。ところでこの政変を受けて発足すると思われる斯波政権ですが、どのような布陣になるか予想してください。
【徹】新管領にはもちろん義将さん。与党として今回の政変に功のあった土岐・京極家、そして山名家、幸子さんの一族である渋川家などが入閣を果たすかと思われます。各地の守護職も含めて、細川派は一掃される気配ですね。頼之さんとは個人的にも関係の深い九州探題の今川了俊さん、河内守護の楠木正儀さんも立場が危うくなると見られます。
【世】正儀さんなどは頼之さんの誘いで帰順した方ですし、幕府内で白眼視される中で頼之さんだけが支えでしたからねぇ…。南朝との関係もまた微妙になるんじゃないでしょうか。吉野の南朝朝廷は今回の政変をどうみているのでしょう。吉野の山奥に潜入しているフリージャーナリストの水阿弥さんと電話がつながっています。水阿弥さーん。
【水阿弥】…ザザ…はい、こちら、吉野です。…ザザ…イデオロギーを支えに頑張る万年野党で山奥でゲリラ的活動を続けている南朝ですが、今回の京の政変に対して長慶天皇などは「理想を忘れた武家政治家どもの醜い争い」という観点で冷たく見ているようです。現実的な関心は楠木家がどう身を振るかにあるようで…ザザ…
【世】気をつけて取材を続けてくださーい。さて、失脚し京から撤収した頼之さんですが、四国も安泰ではありませんよねぇ。
【徹】最近伊予の河野氏も勢いがありますし、阿波の山間部では依然南朝系勢力が残ってますからね。政変の影響はこちらにも出てくるかもしれません。ひょっとするとそうした反細川勢力が幕府方について、頼之さんが南朝方に…なんてこともありうるかも。清氏さんの例もありますしね。
【世】ありがとうございました。以上、政変に関する報道特別番組をお送りしました。

制作・著作:MHK・徹夜城