第三十九回
「功無きを愧づ」


◆アヴァン・タイトル◆

 康暦元年(1379)閏4月14日。斯波派の大軍がクーデターを決行、将軍・義満のいる花の御所を包囲し管領・細川頼之の解任を要求した。義満はやむなくこれを受け入れ、管領職を解かれた頼之は一族郎党と共に自邸に火を放ち、京より退去した。世にこれを「康暦の政変」と言う。頼之が管領をつとめたのは約12年間、この政変のとき頼之は51歳になっていた。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

今川了俊

楠木正儀

足利満詮 細川頼基

三島三郎 細川正氏

春屋妙 細川義之

山名時義 山名義幸

斯波義将

加賀局

勇魚

小波

魏天

河野通直

大内義弘

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団

細川頼有

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 康暦元年(1379)閏4月14日夜、政変により管領職を解かれた細川頼之は京を発ち、四国へと向かった。ひとまず讃岐に渡ることに決めた頼之一行は摂津へと向かう。
 この途中、頼之はとある寺に入り、そこの住職に頼んで剃髪・出家した。法名は「常久」と言う。法体になって姿を現した頼之に、慈子頼基らは涙に暮れる。「いや、かえってすがすがしいものよ。まさしく生まれ変わった心地ぞ!」と頼之は自分の坊主頭を叩きながら笑う。ふと見ると、三島三郎までが頭を丸めて法衣をまとっている。「どうしたのだ、そこまでわしに付き合うのか」と笑う頼之に、三郎は「殿とは幼き時から一蓮托生でござる。殿が生まれ変わるなら、このそれがしも生まれ変わらねば」と笑い返す。
 16日、摂津・西宮に到達した頼之一行はここから船に乗り込んだ。船上で、剃った頭を潮風に当たらせながら、頼之は遠ざかる摂津の陸地をじっと眺めていた。そこに慈子が寄り添う。「殿の願いがようやく叶うたわけですね…重任を投げ出して四国に隠居されるという…肩の荷が下りてお喜びなのではありませぬか?」と問う慈子だが、その言葉にはどこか頼之の内心に意地悪く探りを入れようとする気配がある。頼之は「不思議なものだな。確かに長年こうしてお前と四国に下ることを夢見ていた気がする…だが今、わしの心は喜びも悲しみも半々じゃ。出家した身ながら、まだ俗世に未練がありすぎるのかのう」と言い、詩を口ずさみ始めた。

 人生五十 功無きを愧(は)づ             人生五十愧無功
 花木春過ぎて 夏すでに中ば             花木春過夏已中
 満室の蒼蝿 掃へども尽くし難し           満室蒼蠅掃難尽
 去って禅榻(ぜんとう)を尋ね 清風に臥せん    去尋禅榻臥清風

 康暦の政変の翌日、頼之の出京と入れ替わるように、頼之と対立して丹後に隠棲していた春屋妙葩が京に帰還してきた。春屋は天竜寺に入り、数日後にこれを義満がみずから訪問して、春屋一派の復権が天下に示された。春屋一派の復権により頼之がとってきた禅宗界への統制策はくつがえされていった。また比叡山や興福寺などに対して頼之がとってきた政策もことごとく白紙に戻されていく。
 この月の28日、諸大名の要請を受ける形で義満は斯波義将を新管領に任命した。少年時代に父・高経の後見のもと管領(執事)をつとめていた義将は三十歳にして復職を果たしたのである。これに伴い摂津守護職が細川頼基から斯波派の渋川氏に交代したのを始め、露骨な派閥論理の交代人事が各方面で実施されていった。
 頼之の失脚は河内の楠木正儀にとっても大きな打撃であった。正儀が南朝を見限って幕府に帰順したのも頼之の誘いであったし、その後の南朝軍との戦いも孤立無援の状態の中で頼之が正儀を支えてくれていた。その頼之が幕府を追われたことは、正儀にとって良き友人を失うだけでなく楠木一族の存亡に関わる深刻な事態であった。
 京の政変の情報は九州にも届き、九州探題・今川了俊大内義弘、そして小波魏天勇魚など頼之に関わる多くの人々に衝撃を与えていた。頼之の腹心ともいえる了俊もその任を解かれる可能性もあり、義弘などは「もしそのような事態になれば…この九州から兵を起こすことも考えられたが良い。四国の細川勢と力をあわせれば…」と了俊にささやく。「めったなことを言うものではない!」と了俊は義弘を一喝するが、九州平定事業が水泡に帰すことも考えられ、不安は隠せないところであった。京の政変の情報をキャッチした島津氏など九州各地の勢力は早くも了俊排除の動きすらみせていたのである。

 四国に下った頼之に対し、「即刻討伐の兵をおくるべし」との強硬意見は新管領・義将のもとで早くも噴き出していた。そうした声の多くが細川清氏の前例を挙げ、「頼之も四国に下れば吉野方と手を組んで乱を起こすかも知れぬ」と警戒していた。義将はこうした声に押される形で義満に「頼之追討」の要請をおこなったが、「頼之に限ってそれはあるまい。無駄な兵を起こすことはない」と義満が突っぱねたため、ひとまず即時の追討は実行されないこととなった。
 政変の余波で騒然とした空気を振り払うかのように、義満は6月に妻の業子とともに宮中での舞御覧に出席し、その数日後に室町第の寝殿の立柱上棟の儀を行い、7月7日には室町第において盛大な管絃の会を催すなど、平和ムードと将軍権威高揚を演出する行事を続けていた。
 この管絃の会で、義満は自ら笙を吹いて周囲の喝采を受けていたが、やがて筝(そう)を弾いている一人の女性に目を留める。演奏の見事さもさることながら、その美しさがやはり目を引いてしまう。傍らの者に聞くと、もともとは後光厳上皇の宮中にいた女性で加賀局と呼ばれ、筝の名手として名高かったが今は公家の中山親雅の妻になっているとのこと。すでに親雅の子も産んでいるが、管絃の催しがあるとこうして呼ばれてその芸を披露しているのであった。義満は加賀局を側へ呼び出し、「わしのために一曲弾いていただけぬか」と頼む。加賀局がそれに応じて弾いてみせると、義満はこれをほめそやし、「今後もたびたび我が家に来てその見事な腕前を披露していただきたいものだ」と言って彼女の目を熱い視線で見つめる。その強烈さに、加賀局は顔を赤らめて目をそらした。

 この管絃の会の翌日。幕府は河野通直を正式に伊予守護に任じた。一時は懐良親王の南朝方を頼って伊予を奪回していた通直だったが、幕府の政変で頼之が失脚したことを知るや、幕府に対し帰順を申し出てきたのである。それは長年の宿敵である頼之と細川一門を敵として討ち、四国の覇権を奪い取るという宿願から出た行動であった。いまや斯波派に牛耳られた幕府は河野氏の帰順を認め、これに頼之を討伐させる方針を決めたのである。義満としても評定衆の決定に従うほかはなく、通直を守護に任じる御教書を発行する。
 同様の動きを見せたのは以前から反細川の姿勢を貫いていた阿波山間部の豪族たちであった。反細川の中心だった小笠原氏はすでに細川氏に服従してその重臣となっており、豪族たちの主君となっていたのは清氏の遺児・細川正氏であった。正氏にとって頼之は父親の仇であり、山間部で細々と復讐の機会をうかがっていたのである。頼之失脚の情報を知ると、正氏は河野氏とも連絡をとり、幕府に対し帰順の姿勢を示した。
 こうした動きに対し、讃岐に入った頼之も早急に対応策をとっていた。阿波は弟の頼有が守護として数年統治して国内をよく固めており、頼之はこれに甥の義之を送り込んで協力させ、正氏らの動きを封じさせた。そして自身は讃岐において兵を整え、河野氏の侵攻に備えていた。

 義満が乗り気でなかったためか、幕府の細川派に対する追及はさして急なものではなかった。九州探題の了俊に対しても更迭の話は無く、了俊はひとまずの安堵をしていた。この間に、了俊は倭寇にさらわれて九州にきていた高麗人たち230名を高麗に送還し、高麗国王に武具や馬などを献じるなど幕府の外交代表として高麗との関係深化に努めていた。高麗側も了俊を信用し、倭寇の鎮定を改めて要請してきたため、了俊は九州平定と同時に倭寇対策にも正面から向き合わねばならなくなっていた。小波・勇魚・魏天らが了俊の手足となって各地の海賊たちの動きをさぐったり、あるいは戦っていた。
 そんな折、大陸から情報がもたらされた。去る五月ごろ、「日本国王良懐」の使者を名乗る者が明に入貢し、正式な使節と認められたらしいというのである。しかもその使者は「良懐」こと懐良親王の使者ではなく、島津氏が「良懐」名義で送り込んだものと思われた。この事態を重く見た了俊はこのことを義満に報告する。
 このところ政治関係では鬱屈気味の義満に、こうした外交話は大いに興味をそそられる話題だった。「そろそろまた使者を送ってみるか。今度は帝の名義ではなく、将軍たるわしの名で堂々と送ってやる」と、義満は三度目の対明使節を派遣することを決定する。

 9月、ついに幕府は義満の名の下に「頼之追討」の命を下した。伊予守護・河野通直に対し、頼之を討伐せよとの御教書を与えたのである。お墨付きを得た形の通直は「これで頼之を討てる!祖父・父の無念を今こそ晴らすのだ!」と意気上がり、頼之のいる讃岐へ侵攻するべく、軍勢を動かし始めた。
 讃岐・宇多津の城に入っていた頼之も自らに対する追討令が発せられたことを察知していた。「将軍もお辛いところであろう…」と義満を気遣う頼之だったが、「だがわしもそうたやすくは討たれぬ。討たれてたまるか…この地で自ら討った清氏の二の舞になっては、清氏とて浮かばれまい」と家臣たちに向かって決然と言う。「殿、久々の戦で目が輝いておられますぞ」と三郎が愉快そうに言う。
 頼之は先手を打つべく讃岐から伊予に軍を進め、新居郡・宇摩郡に入ってここで河野勢と小競り合いを始めた。通直は世田山城(現・東予市)に入り、ここを拠点に細川軍に対する反撃を指揮した。2ヶ月ほどの間、そのまま押しつ押されつという戦況が続く。

 11月初め、細川軍が押される形で次第に讃岐方面への撤退を開始した、との報告が世田山城の通直のもとにもたらされた。「さては兵糧が尽きたか、備前あたりから攻められたか」と通直は読み、讃岐侵攻の機会とみて大軍を新居・宇摩方面へ集結させるよう指示を出した。
 11月6日。突如、通直のいる世田山城を細川の軍勢が襲った。「なにっ!どこから降ってわいたのだ、その軍は!?」 と驚愕する通直。頼之はいったん讃岐方面へ退却したと見せかけて伊予山中に軍を進め、これに惑わされて河野側が大軍を新居・宇摩方面へ進出させた隙に、手薄になった拠点・世田山城を山中突破で急襲するという奇策に出たのである。完全に不意を突かれた河野軍は壊滅し、世田山城は落城。通直自身をはじめ、河野側の主力の武将たちはこの奇襲でこぞって戦死してしまった。勝利した頼之は伊予に深入りはせず、幕府が派遣する追討軍に対応するべく、主力をすぐに讃岐へと戻した。

 河野惨敗、頼之勝利の情報は間もなく京にも届いた。義将以下、斯波派の大名たちは頼之の鮮やかな反撃に驚き、ただちに京から頼之追討の軍を四国に派遣することを決定する。追討の将に任じられたのは山名時義義幸らで、12月にひとまず戦備を整えるため守護国である備前へと出発した。しかし頼みにしていた四国の河野氏が壊滅状態に陥った状況では時義たちも海を渡る気になれず、そのままズルズルと備前にとどまるばかりであった。
 「さすがは、頼之じゃ…石もて追われながら一門・家臣に一人の寝返りも出さず、追討を受けようとも揺るぎもせぬ戦ぶり…まこと、武将とはかくありたいものよ。このわしはといえば武家の棟梁とは言いながら、大名たちの言いなりになっているだけじゃ」と義満は花の御所で、弟の満詮に向かって語っていた。「わしは力が欲しい。武家も、公家も超えてしまうほどの力がな…そうでなければいつまでたっても父代わりの頼之を乗り越えられぬわ」と義満はつぶやく。

第三十九回「功無きを愧づ」終(2002年11月3日)


★解説★世阿弥第四弾  
 さあていよいよ終盤戦に突入した「ムロタイ」の解説者・世阿弥でございます。そろそろ最後のお面の準備をしないとなぁ…。
 前回の「康暦の政変」という大変動を受けまして、今回はその後始末的な回。ふと気が付くと頼之さん、しっかり主役に復帰されているような…

 「康暦の政変」により京を追われた頼之さんは、その直後に出家したと言われています。室町幕府政治史ともいえる『花営三代記』もそう記しておりますし、近衛道嗣さんも日記『愚管記』に頼之さんが等持寺の住持に頼んで剃髪し輿に乗って四国へ向かったとの風聞を記しています。しかし『愚管記』は「でも出家してないとの噂もある」と記しており、確定情報ではなかったようです。頼之さんの法名「常久」が最も早く文書に現れるのは、この年の9月5日に義満さまが河野通直さんに下した頼之さん追討を命じる御教書で、そこには「武蔵入道常久のこと、叛逆すでに露見の上は…」という表現が見られます。まぁ普通に考えれば都落ちをした際に出家して気分一新を図った、というあたりでしょうね。
 一緒に三郎さんが付き合って出家してますが、一応これ元ネタはあるのです…ええ、ここらで分かる方は三郎さんの「正体」がお分かりになるのではないかと思うのです。

 頼之さんが四国下向にあたって詠んだという七絶の漢詩は細川家の資料に伝わるもの。頼之さんのお墓のある地蔵院の住職が江戸時代初期に編纂した『笠山会要誌』には第三句が「満室蒼蠅難掃尽」(満室の蒼蠅、掃ひ尽くし難し)となっていて字が一部入れ替わって若干異なる表現になっているそうで。この詩の大意は「人生五十年にして何ら業績を挙げていないことを恥じる。花も木もすでに春を過ぎ、夏のなかば。部屋中にいるうるさいハエを追い払っても払いきれない。ここを立ち去って禅榻(ぜんとう=寝台の一種)を求め、清らかな風に吹かれてゆったりと横になりたい」といったところでしょうか。漢詩ってのは直和訳すると全然ムードがでませんね。
 まず五十歳という、当時の感覚では人生の終盤にさしかかったというのにこうして失脚し全てを無に帰すように都落ちする我が身を嘆いているわけですが、その一方で「うるさい政治の現場を離れてすがすがしい気分だ」と、なにやらせいせいしたような気持ちが後半に強く出てきます。二つの気分はやはりこのときの頼之さんの心境をそのまま吐露したものと言えましょう。

 頼之さんが京を出た翌日に、春屋妙さんが入京。この急テンポのスケジュールは、明らかに春屋さんが早い段階から政変を起こした一派と連絡をとりあっていたことを示しています。この政変は幕府内の人事だけでなく宗教界に対する政策もまさに180度変えてしまうぐらい劇的なものとなりました。この露骨なまでの頼之さん時代の政策の否定は、各勢力がどれほど頼之さんの政策方針を憎んでいたかを如実に示すものと言えましょう。前回解説の冗談企画中、比叡山が「神罰である」とのコメントを出すくだりがありましたが、これ本当にあったことでなんですよね。ふりかえってみれば頼之さんって周囲みな敵ばかりという状況の中でよくもまぁ12年も宰相を勤められたものだと思ってしまいます。
 頼之さんの失脚は個人的にも関係の深い楠木正儀・今川了俊両氏の立場にも少なからぬ影響を与えました。特に深刻だったのは正儀さんで、後ろ盾を失った正儀さんは結局再び南朝方に復帰することになってしまいます。了俊さんの方も一時は九州探題の地位が危ぶまれたようで、どうにか留任となったものの島津氏ら了俊さんと対立する南九州の勢力などは康暦の政変の情報をつかんで斯波派に接近し、了俊さんに背後から揺さぶりをかけるような動きを見せています。

 島津氏といえば、チラリと島津氏が明に使節を送ったという話が出てきてますね。これは明側の史料には「日本国王良懐」が洪武12年(1379)閏5月に入貢したと伝えているもので、劉宗秩・兪豊らと共に「通事(通訳)尤虔」なる者が遣わされて来たと記録されています。「表」を提出し馬・刀・硫黄などを献じて何ら問題なく正式使節と認められてしまったようですが、「通事尤虔」なる人物は洪武7年に島津氏久名義で派遣された使節(第34回「青年将軍」解説参照)の中にも名前があるんです。つまりこの洪武12年の使節も島津氏が派遣したものである可能性が高い…というわけです。

 さて緊迫する情勢の息抜きをするかのように新たな女性が義満さんの前に登場します。ドラマとしては何か名前をつけてあげるべきなんでしょうが、面倒なんで(笑)「加賀局」という通称で通させていただきました。後光厳上皇の宮中に仕えた筝(和琴とも言う)の名手で、中山親雅に嫁いでその子・満親らを産んでいます。だから要するに人妻であり、お年も義満さまよりは上だったんじゃないかと思うんですが…義満さまってお姉さん好みだったのかしらん。この7月7日の管絃の会は史実なんですが、彼女がこれに出席していたという証拠はありません。ただ、この頃に義満さまと知り合っていると好都合とこういう展開になったんですな。ちなみにこの時期義満さまが笙(こちらは雅楽で使う縦笛)を学んでいたというのは史実でして、康暦元年2月から豊原信秋という公家さんについて学び、6月に「蘇合の曲」を伝授され後円融天皇がこれを祝して信秋さんに馬を賜ったりしています。

 頼之さんが四国に下ると、待ってましたとばかりに動き出したのが長年の宿敵である伊予の河野一族。忘れちゃった方は「四国統一」の回あたりを見て振り返っていただきたいんですが、なにせ頼之さんの父上・頼春さん以来の因縁の関係。それもこのところほぼ一方的に細川氏が河野氏をなぶりものにしているという展開です。河野通朝は討たれ、その父・通盛はショックで死に、通朝の子・通堯(=通直)はいったん九州に落ち延びて南朝に与し、頼之さんが管領をつとめている間に伊予を奪回していた…という展開でした。頼之さんの留守は弟の頼有さんが伊予守護としてこれに対したのですが、頼有さんはあまり軍事的才能がなかったようで、通直さんに連戦連敗してしまいます。ドラマでは触れませんでしたが、このとき頼之さんが頼有さんの問い合わせに応じて、父・頼春から教わった戦陣での作法(ドラマ中で教えるシーンがあったの覚えてます?)などを書き送った手紙が今日に伝わっております。「父上から口伝で教えられたものだから、一日でもいいから上洛してもらって直接聞かせてやりたいのだが、そうもいかないようなので手紙で書き送る」という書き出しで、旗指物の結び方については「“こより”でちょっと結んでみた雛形を同封したからそれを見てくれ」なんて細かい気遣いも見せていて、頼之さんの人柄がそこはかとなく感じられる手紙となっております。
 それにしても河野さんもそうですけど、この時代の武士の皆さんは節操と言うものがありませんねー(笑)。頼之と戦えるなら南朝だろうが幕府だろうがどっちでもいいわけです。また、そんな河野氏に「頼之追討」の命を下す幕府も幕府。ところでこうした頼之さん追討令は義満さんの名前で出ているわけですが、作者は義満さんは不本意ながら出したという解釈をしてドラマ中に書いています。ですが一方で本気で義満さんが頼之さんを疎ましく思って追い出し討たせたとの見解も無いわけではないんです。成人し自立してきた青年君主が、育ての親でもある権力代行者を鬱陶しく思って追い出すというのは歴史上珍しいことではありませんし。ただ、清氏さんのケースと比べると幕府の動きが緩慢だったのも事実で、やはり義満さんが乗り気ではなかったというあたりが真相なんじゃないかと思われます。

 9月に正式に頼之追討のお墨付きを得た河野通直さんでしたが、どうやら頼之さんが先手を打って伊予に侵攻して機先を制したようです。清氏さんなど以前のパターンだと幕府に追討令を出された武将は南朝に降伏して旗印に掲げるのですが、頼之さんはそういうことをしようとした形跡がまったくありません。まぁ南朝もこのころには完全にジリ貧でしたし、頼之さん自身幕府との和解は可能と考えていたようです。ただ四国における覇権だけは譲らない、という姿勢は確固たるものだったみたい。
 そして11月6日に世田山城を奇襲して河野通直以下多数の武将を討ち取り圧勝。頼之さんのしたたかな戦上手ぶりが発揮された戦いと言えましょうけど、可哀想なのは河野一族。まさに踏んだり蹴ったり刺されたり。河野軍の壊滅を見て慌てた幕府は山名時義さんらを派遣しましたが、頼之さんの勢いを恐れて備前でストップしてしまい、結局そのまま和解という方向に進むんですね。
 一方で懐かしい名前が出てましたねぇ。清氏さんの遺児・正氏さん。阿波の山間部の豪族たちを従えて父の仇・頼之に抵抗するとしてそれなりに頑張ってはいたんです。南朝に与して瀬戸内海賊・忽那氏と連絡をとるなど活動の痕跡がチラチラと残ってますが、この政変を受けて幕府に帰順してしばらく反頼之の活動を続けています。でもやっぱり頼之さんに封じ込められ大したことは出来ませんでした。

 ラスト、義満さまが自らの力が欲しいというつぶやきをしておりますが、これはやがて将軍直属の軍団「奉公衆」が急速に充実されてゆくことで実現していきます。やがて明徳の乱・応永の乱でその力が発揮されることになるわけです。

制作・著作:MHK・徹夜城