第四回
「戦雲」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 観応元年(1350)、将軍・足利尊氏は自分の実の子で弟・直義の養子である直冬を討つため大軍を率いて九州へと出陣した。しかしその間に直義が幽閉先から脱出し南朝と和睦して挙兵、細川顕氏をはじめこれに呼応する有力武士たちも動き出し、事態は緊迫する。この間に細川頼之は父・頼春の代理として阿波国に渡るが、細川氏の支配に抵抗する地元勢力が頼之の前に立ちふさがっていた。



◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

今川貞世

慈子

細川頼有 安宅頼藤

三島三郎 細川顕氏

桃井直常 斯波高経 

新開真行 光吉心蔵

速波

勇魚

足利義詮

小笠原頼清

世阿弥(解説担当)

小波(子役)
細川家家臣団のみなさん 阿波国人のみなさん 
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:室町幕府直轄軍第33師団・第34師団

足利尊氏

利子

細川頼春

佐々木道誉


◆本編内容◆

 観応元年(1350)12月。足利直義は南朝に降伏し兄・尊氏と執事・高師直に対する兵を挙げた。この情勢に各地の武士たちは動揺する。それは 細川頼之が父に代わって治めることになった四国の阿波国でも同じだった。阿波にはもともと細川氏の支配を良しとしない国人層が多数おり、有力者・ 小笠原頼清のもとに結集しつつあった。
 頼之は守護代の新開真行や味方に馳せ参じてきた 光吉心蔵らとともに情勢を分析する。小笠原は阿波の西方、吉野川上流の三好郡を本拠にしており、ここに小笠原氏に呼応する山間部の国人衆の兵が集まりつつあるという。一方で、阿波南部海岸沿いの諸豪族にも南朝とつながりを持つ者が多く、これも兵を集めて不穏な情勢という。 「周囲はみな敵ばかりですな」と真行が言う。阿波の西部と南部から守護所のある秋月を含む徳島平野へ同時に押し寄せてくるものと真行と心蔵は読んでいた。そうなっては一大事、と頼之も重苦しい顔になる。
 頼之は軍勢を整えるよう命を出し、退出して家族たちのところへ顔を出す。母の利子、妻の 慈子、そして頼春の側室たちやその子供たちが頼之の様子を心配そうにうかがう。「心配はご無用」 と明るく答える頼之だったが、慈子と二人きりになると大きくため息をついて天を仰ぐ。「わしはとんでもない安請け合いを父上にしてしまったのかも知れん。今となっては三郎が頼りよ…」 と頼之は慈子に言う。

 一方、頼之に命じられて紀伊に渡ったその三島三郎はかつて虜になっていたこともある 速波たちのいる村にやって来ていた。三郎は速波と勇魚(いさな)に状況を説明し、この村の船乗り達の主筋になる水軍の大将・ 安宅(あたぎ)頼藤に会わせて欲しいと頼み込む。「安宅様のお力を買い取るのは、そう安い値段ではできぬ」 と勇魚が言う。
 安宅氏を含む熊野水軍の大将たちはかつて足利尊氏から熊野沖から瀬戸内海一帯の治安管理を義務付けられるのと引き換えにその海域の支配権を認められている形だが、実際のところ以前から実力でその海域に影響力を持っていた彼らは依然として南朝方と深く繋がり、幕府側の支配に対抗していた。そんな水軍の大将を味方に引き入れるというのはそう簡単なことではない、というのだ。しかし三郎の必死の懇願に、速波が自ら三郎を安宅頼藤のもとへ連れて行くことを請け合う。速波は社の留守を 小波に言いつけて村をあとにする。

 熊野水軍の将、安宅頼藤はこのとき淡路島近海の海賊退治に出陣していた。足利義詮の要請を受ける形だったが、もとよりその実力でこの海域を我が物とするための軍事行動である。海戦を終えた頼藤が淡路島の拠点・由良に戻ってきたところ、速波と勇魚、そして見慣れぬ武士が待ち受けていた。航海の無事を祈る巫女である速波を、頼藤は丁重に迎え入れる。速波は三郎を細川家の家臣であると頼藤に紹介し引き合わせた。
 三郎は「我が主人が安宅一族の助力を求めている」と頼藤に告げる。「主人とは誰か?」と聞く頼藤。 「細川弥九郎、頼之にござりまする」と三郎が答えると、「阿波の守護は頼春であろうが。頼之とはその倅でまだ二十を過ぎた若造、しかも先にそこにいる勇魚たちにかどわかされるという失態まで犯したそうではないか。聞くところでは阿波の国人すら押さえることも出来ておらぬとか」 と頼藤は笑う。「我が主人は、なんとしても海の道を押さえたい、そのためには何としても安宅どののお手を借りねばならぬと申しております」 と三郎は頭を下げ、その見返りとして淡路や阿波の土地を与える用意があると頼之の意向を伝えるが、「海の道が押さえたくば、おのれの力で押さえてみよ。我らは全ておのれの力でこの海を切り従えているのじゃ。それを気軽に力を貸せとは虫のいい。陸(おか)の上の侍どもはこれだから好かぬ」 と頼藤はせせら笑う。三郎はこれを聞くと、「では私も陸の上の武士の意地を見せよう。安宅どのがウンというまで、ここは動けぬ!」 と刀を手に座り込みを始める。「勝手にせい!」と頼藤は部屋を出て行ってしまう。

 12月13日、吉野の南朝は正式に直義の降伏を受け入れ、尊氏討伐の勅命を直義に与えた。これを受けて直義軍はその数を増し、京都ののどもと八幡へと迫る。これに呼応して北陸から 桃井直常斯波高経といった直義派の有力者たちが軍勢を集めて京へと攻め上る。讃岐に渡った 細川顕氏も讃岐国内で兵を集めて京へ向かう態勢をとった。
 ついに阿波国内でも戦乱の火の手が上がった。頼之たちの予想通り、阿波南東部の諸豪族が一斉に蜂起し、頼之たちが押さえる徳島平野へ向けて動き出したのである。頼之は新開真行らを集めて作戦を練る。その結論はこの秋月の守護所にじっとしていては自滅するのみ、というものであった。 「こちらから先手を打って動き、機先を制する」と頼之は言い、出陣の支度をさせる。真行が西の小笠原一族の出方を気にかけるが、頼之は 「お主にこの秋月を任せる」と言うだけ。利子や慈子、その他の家族も不安げに頼之の出陣を見送る。

 頼之は光吉心蔵らを伴って吉野川下流の平野の中央に位置する八万城(現在の徳島市)に入った。12月27日、さっそくそこへ南から押し寄せてきた阿波国人衆の軍勢が殺到する。頼之はひたすら防戦に努めることを命じ、殺到してきた敵軍を城の中から眺める。 「いくさは、初めてでござりましたかな?」と心蔵が尋ねた。「十二の時に父に連れられて伊予での戦に立ち会ったことがある…」 と頼之は答え、「わしは恐ろしゅうて陣屋の中に籠もり、父に叱られたものだ。それ以来だな」と自嘲するように言う。心蔵はそれを聞くとニッと笑い、 「誰でもそのようなものでござります。戦は命のやりとり。臆病であることも時に強みとなることもござりましょうよ」と励ます。そして今は攻め寄せてきている敵のほうに勢いがあるが、これは篭城することでその疲れを待ち、機を見て逆襲するべき、と進言する。 「機を見て、な…」と頼之は三郎の工作の首尾いかんに思いを馳せる。

 そのころ、備後まで進軍していた将軍尊氏はついに事態の深刻さを悟り、急遽軍を京目指してUターンさせていた。顕氏を追って讃岐に渡るよう命じられたが様子をうかがっていた 頼春と甥の清氏は引き返してこれに合流する。
 年が明けて観応二年正月。京の都は比叡山の桃井直常軍、八幡山の直義軍の両軍に挟み撃ちされる格好になってしまった。尊氏の留守を預かっていた息子の 義詮は恐慌状態に陥ってしまう。佐々木道誉らの進言を受けて義詮は京をいったん敵に明け渡し、自らは尊氏軍と合流するという策に出た。この混乱の中、京の館の留守を任されていた頼之の弟・ 頼有も都落ちを決断、館に火を放って義詮ともに京を脱出することになる。慌しい細川館に 今川貞世がこっそりと姿を現し、頼有にささやいていく。「我が父(範国)は直義殿につくことをお決めなされた…」 と。「これも乱世の身の振り方かのう」と貞世は苦笑するように言い、 「頼之どのと、清氏どのによろしゅう…」と言い置いて立ち去っていった。

 八万城の篭城戦は十日以上続いていた。そこへどこからもぐりこんだのか、勇魚が頼之の前に姿を現した。勇魚は三島三郎が安宅頼藤のところでかれこれ二十日ばかり粘り続けていることを頼之に伝えた。 「飯を食うのと用足しだけはさすがにするのですがな、あとは頼藤さまの行く先々に現れて座り込んでいるばかり。体も洗わぬからいい加減匂って参りましてな…まあ船乗りは割りあい匂いには辛抱強いのでござるが、頼藤さまも辟易しているご様子」 と勇魚は苦笑する。そして「本来なら斬り捨ててやるところだが、それは速波どのの顔をつぶすことになる。扱いに困っているから引き取ってもらいたい。 その見返りとして阿波のあたりでちと暴れてやろう」という頼藤の言葉をそのまま伝えた。頼之は阿波の守護である父・頼春には事後承諾をもらうことにして、独断で安宅氏に阿波南部の土地を与えることを約束する。
 勇魚が帰っていって間もなく、阿波南部の沿岸各所に安宅一族の軍船が押し寄せ、上陸してその地の荘園を荒らし始めた。留守にしている自分の土地が攻撃を受けたことに驚いた国人衆はあわてて八万城の包囲を解き、撤退を開始。すかさず頼之らは城から出てこれを追撃、平野南部の敵の拠点を焼き討ちすることに成功する。頼之は勝利に浮かれる暇も無く、ただちに西の小笠原頼清の動きを牽制するべく秋月へととって返す。

 そのころ、京では激戦が繰り広げられていた。義詮が京から脱出すると桃井直常軍が京へ突入。しかしただちに義詮と合流した尊氏、師直らの軍が京に再突入し、市内で激闘が繰り広げられる。尊氏の軍に属していた清氏はここぞとばかりに先頭に立って桃井軍相手に奮戦する。
 激戦が続いていると、桃井軍の裏手の山に潜んでいた数百の軍勢が飛び出し、桃井軍の背後を突いた。佐々木道誉 の率いる軍勢である。たちまち桃井軍は混乱状態に陥り、「逃げるな!」と叫ぶ直常の声も空しく算を乱して撤退していく。道誉の奇襲によるあっけない決着に、清氏は 「また、あの婆沙羅入道か」と面白く無さそうにつぶやく。
 桃井軍を京から追い出した尊氏らであったが、今川範国をはじめ多くの有力武士が直義側に寝返ってしまったため京を保つことは無理と判断、再び京を捨てて丹波から播磨に向かい、赤松一族が押さえる播磨へと入った。ここで、それまで尊氏に付き従ってきた頼春は頼有と清氏を呼び、 「顕氏が讃岐の軍勢を率いてこの播磨へ押し寄せてくる。将軍は危うい。直義どのに味方するなら今しかない。このままでは道連れで滅亡じゃ」と告げる。頼有と清氏は驚き、特に清氏は 「叔父上、そうフラフラとされてはいかん」と語気を強めて言う。頼春は思い悩んだ表情を見せるが、なんとか言い訳をこしらえて尊氏のこもる書写山への合流に遅参して様子をうかがう、という中途半端な策をとることにした。

 2月末。秋月に戻った頼之のもとへ、三島三郎がようやく戻ってきた。三郎は京周辺の情報をついでに探ってきていたのである。三郎が伝えたところによれば、去る2月17日に摂津で尊氏・直義両軍の決戦があり、尊氏側が敗北。その後師直らが政務を直義に返すことを条件に和議が成立した。しかしその直後、師直・師泰兄弟は上杉の一党によって暗殺されてしまったという。
 頼之が父や弟、清氏らの無事を確認すると、三人とも決戦には参加せずうまく立ち回って無事であると三郎が告げた。頼之は安堵の表情を浮かべつつ、まだ混迷する情勢に暗澹たる思いでもあった。


第四回「戦雲」終(2002年1月27日)


★解説★

 
 はーい、皆様、毎度おなじみの世阿弥でございます。お面の新調はただいま慎重に検討しているところでございますのでもう少々お待ちくだされ。

 今回はタイトルの通り、やたらに戦雲たなびくスペクタクル巨編(?)であります。まぁ永享十年度大河ドラマといたしましては、幕府に動員をかけていただければ鎧武者の大軍団もあっという間に整います。そして予算の少ないMHKのこと、ギャラはもちろん出やしません。完全なるボランティア出演でございまして、その見返りとして「協力」のところにお名前を出さして頂いているわけで…まぁいいや、そんなことは。

 とにかく今回は錯綜しておりましてねぇ。この一回の中での時間はほとんど二週間程度しか進みませんで、ラストに報告だけで二ヶ月ほど経過をダイジェストで済まさせて頂いています。まともにやるとこの辺だけで数回かかってしまうのですが、それでは一年のうちにこの「ムロタイ」の構想を終えることが出来ませんので、あくまで細川一族の動きを中心にまとめさせていただいております。まぁそれにしてもシナリオまとめるのが大変ですね、観応の擾乱って。

 今回のメインとなっております細川頼之さま初めての軍事行動でございますが、このあたりは今回登場しております光吉心蔵さんの軍忠状が現存しておりますためにその経過がかなり分かるのでございますね。観応元年の12月27日に頼之さんが徳島市内の八万城に立て篭もったというのは史実として確認される頼之さん最初の活動でもあります。そして年が明けた正月中に敵の要害を焼き討ちしたということも心蔵さんの軍忠状に書かれていることでございます。
 ただし、その背後で安宅頼藤さんの水軍が暴れていた、というのは全くの作者の創作でございます。ただし、元ネタはございまして、この観応元年に安宅頼藤が義詮様の命で淡路近海の海賊を退治し、淡路島由良に土地をいただいているという事実があります。そして翌観応二年正月7日というこのクソ忙しい日付に細川頼春さまがこの安宅氏に阿波の竹原荘本郷の地頭職を安堵しているという事実もありまして、この時期に細川氏が紀伊水道を押さえるべく安宅氏に働きかけを行っていたのは確実です。このドラマではその辺をいささかいじって創作キャラまで絡ませてお話に仕立ててしまったわけですな (少々込み入っていて分かりにくかったとは思われますが)。安宅頼藤さんという人物は、熊野水軍の一角をなす (熊野水軍と一口に申しましても多くの水軍の連合体みたいなもんだったと申します)大将で、これ以前にも建武政権崩壊時に播磨の赤松円心を攻めたらしいなんていう話もございます。この安宅さんは頼之さんとはいささか複雑な関係を持ち、今後のドラマの展開にも影響を与えることになりそうですが、まぁそれは後の話。
 なお、チラッと文中に言及がありましたが、熊野水軍は南朝側と密接な関係をもつ一方で、その一部には足利幕府から瀬戸内海一帯の船の警護の義務と引き換えに「櫓別銭(ろべつせん)」という船の櫓一本につき百文を警護料として受け取る権利を認められている者もおりました。思い返せば足利尊氏さまも一度九州まで逃れて大逆転で東上した折にも海路を使っておりますし、足利幕府もまた政策上も軍事上も海賊衆を無視できなかったことがうかがえましょう。

 先ほども申しましたように観応の擾乱における有力武士たちの動向はかなり複雑であります。今川貞世さんの父、範国さんは第2回の師直クーデターでは師直派についていたはずなのですが、この時の詳細な記録『観応二年日次記』という資料によりますと範国さん、この時期に直義派に鞍替えしているのでございます。このあとまた尊氏派に戻ってしまいますし、いろいろ見極めが大変だったんでしょうねぇ。ついでながら武将としての今川貞世さんの活動はまだこの時点では確認されておりません。たぶんお父上と一緒だっただろう、という程度で。
 頼春さんもよく分かりません。『太平記』や『観応二年日次記』なんかの記述から一貫して尊氏さまについていたとみる意見もあるのですが、この時期の政治情勢の貴重な証言者である公家の洞院公賢さんの日記『園太暦』には細川刑部大輔、すなわち頼春さんが顕氏さんと一緒に書写山の尊氏様を攻めたらしい (あくまで伝聞ですが)という記述があるのですね。公賢さんの勘違いかデマという可能性もありますが (実際、当時の情報は大変混乱していたらしい。こんなややこしい情勢じゃ無理もないですが)、状況からするとかなりフラフラとした態度をとっていたことも十分考えられます。そんなわけでこのドラマではこんな展開になってるんですが…。
 なお、清氏さんが京都での桃井直常軍との戦いに参加していたのは『太平記』に書かれていること。このとき佐々木道誉さんがまたしても奇襲作戦で桃井軍を打ち破ったと言うのも『太平記』に書かれていることでございます。やっぱりなんか因縁があるんですかね、このお二人は。

 師直さんも殺されて、一段落つくかに見えた擾乱は間もなく再び再燃。そしてそれは頼之さんをまたしても窮地に追い込むことになるのですが、それは次回で。

制作・著作:MHK・徹夜城