第四十回
「雌伏」


◆アヴァン・タイトル◆

 康暦元年(1379)の政変により、細川頼之は管領職を辞し、四国へと下った。政敵・斯波義将一派に牛耳られた幕府は頼之討伐を伊予の河野氏に命じたが、頼之はこれを逆に撃破、四国における勢威の揺るぎないところを見せつけていた。頼之は幕府に対し恭順の姿勢を示しつつ、中央政界復帰への野心を秘め雌伏の態勢に入っていく。


◎出 演◎

足利義満

日野業子

渋川幸子

三条厳子

細川頼元 細川正氏

山名氏清 山名時義

三条公忠 日野資康 日野資教 

橋本正督 満仁王 小少将

胡惟庸 豆蘭 阿只抜都

楠木正儀

斯波義将

紀良子

加賀局

後円融天皇

日野宣子

世阿弥(解説担当)

亀王丸(子役) 鬼王丸(子役) 幹仁親王(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
細川家家臣団のみなさん 倭寇集団のみなさん
室町幕府直轄軍第11師団
協力:大明国中央電子台 朝鮮王朝観光局・朝鮮王朝陸軍

洪武帝

李成桂

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 日本の室町幕府で大きな政変が起こっていたころ、明帝国の政界も変動と混乱の状態が続いていた。建国の皇帝・洪武帝(朱元璋)は次第に皇帝独裁の傾向を強め、これまで自分を支持してきた江南の地主層、創業の苦労を共にしてきた功臣たちに対し、激しい弾圧を加えるようになっていた。この洪武帝に取り入り、政敵の粛清に狂奔していた重臣に胡惟庸 という者があったが、洪武13年(1380)正月、今度はこの胡惟庸自身が謀反の疑いで逮捕され、即刻処刑されてしまう。そしてこの胡惟庸の陰謀に加担した「胡党」に対する密告・粛清の嵐が吹き荒れ、江南の地主層を中心に一万五千人にものぼる人々が処刑されるという事態になった。これを史上「胡惟庸の獄」と言う。
 胡惟庸処刑の翌日、洪武帝は唐以来の制度である行政中枢「中書省」の廃止を発表し、以後皇帝が直接政務にあたる真の意味での皇帝独裁体制が成立した。洪武帝はさらに里甲制や六諭など、皇帝が万民を直接統治するような画一化された帝国の建設に邁進していく。
 このような情勢の中、9月に日本から派遣された使僧が南京を訪れていたが、皇帝に捧げる正式の外交文書である「表」もなく明の丞相(宰相)にあてた形式の書状を持参しただけで、使者を派遣した当事者も「日本国王」名義で無かったため追い返された。書状の差出人の名は「征夷将軍・源義満」と記されていたのである。

 この年、高麗南部はまたも激しい倭寇の侵攻を受けていた。この時の倭寇は大規模なもので、九州・対馬方面からやってきた海賊ばかりでなく、済州島・高麗南部の貧民層も加わった大軍をなしていた。中でも、元(モンゴル)によって牧場が作られていた済州島からやって来た数千の倭寇騎馬軍団は、高麗軍を震え上がらせる勢いであった。
 9月、南原城をめぐって倭寇軍と高麗軍の激闘が戦われた。高麗軍を率いるのはすでに歴戦の勇将として武名を轟かせていた李成桂である。激戦の中で李成桂は敵の矢で負傷しながらもものともせず、自らの矢で数人の敵を射殺して士気を鼓舞していた。このとき、倭寇軍の中に15、6歳の容姿端麗の若武者がいて、白馬にまたがって槍を振り回し向かうところ敵無しといった有様で、高麗側では彼のことを「阿只抜都(アキバツ)」と呼んで恐れていた。李成桂は阿只抜都の勇猛を惜しみ「あれを生け捕りにできぬか」と部下の豆蘭 に命じるが、生け捕りにするには味方の犠牲者が多く出るとの彼の意見を受けて、李成桂自ら弓を取って阿只抜都の兜を射落とし、豆蘭がこれを射殺した。阿只抜都の戦死で倭寇軍は総崩れとなり、これをピークに高麗南部における倭寇の勢いは次第に衰えていくことになる。そしてその倭寇鎮圧に大功のあった李成桂の名声はいやがうえにも高まることとなった。

 一方、日本では。
 前年の政変で細川頼之が失脚し、斯波義将新管領の主導に移行するという大異変のあった室町幕府であったが、将軍・足利義満の地位と幕府の勢威そのものは揺るぎなく、軍事的にもこの年の7月に和泉守護・山名氏清が南朝方の橋本正督を討ち取り南朝勢力への圧迫を強めていた。ただ山名氏清のこの地方における勢力拡大は、もともとこの地方を勢力圏としていた楠木正儀にとっては死活問題であり、唯一の味方ともいえた頼之の失脚で後ろ盾を失っていた正儀は再び南朝に帰順する道を選ぶことになる。
 康暦の政変では屈辱を味あわされた義満だったが、朝廷・公家たちに対する彼の影響力は勢いを増すばかりであった。康暦二年の正月には従一位に昇進し、武家の棟梁であるだけでなく有力公卿の一人として朝廷の人事にもしばしば介入するようになり、公家達はその顔色をうかがって動かざるを得ない状況となっていた。
 そしてこのころ、義満は前年に見初めた筝の名手で公家の中山親雅の妻である加賀局を、筝の演奏のためと称して何度か自邸に招いていたが、そのうち加賀局が義満の子を宿してしまうという事態になってしまった。中山親雅が暗黙に加賀局を義満に差し出す形で、彼女は事実上義満の側室に迎えられた。
 そして翌永徳元年の正月11日に、加賀局は義満にとって初めての男子を出産したのである。義満自身は大いに喜ぶが、加賀局がつい先ごろまで他人の妻であったこと、また正室の日野業子に対する遠慮もあって、この男子はあくまで庶子として扱われることになる。

 四国に下った頼之は伊予の河野氏を撃破する一方で、清氏の遺児・細川正氏が幕府に帰順して阿波国内で反頼之の活動を進めていたのを封じ込め、土佐にも一族を守護代に送り込んで統治させるなど、四国における勢威をますます磐石のものに固めていった。その一方で各種のルートを通じて幕府に接触をはかり、和解の実現を探ってもいた。
 頼之を憎む斯波義将一派も四国における頼之の勢いを恐れて追討に及び腰であり、義満はそれを利用して頼之の政界復帰こそ認めないものの、追討令は撤回して赦免する方向で幕府内の意見をまとめた。康暦二年の末には義満は頼之の弟で養子の頼元(頼基から改名)に対して河野氏との和解を命じる御教書を与えるという形で、事実上細川一門を赦免したのである。

 永徳元年(1381)三月。前年ついに完成をみた「花の御所」・室町第に、義満は後円融天皇 の行幸を仰いだ。この行幸は6日間にもわたる盛大なセレモニーで、3月11日に後円融が廷臣らを従えて室町第に入って義満に天盃を与え、翌12日には舞御覧、13日は三席御会、14日は蹴鞠の会と歌会、15日はまた蹴鞠の会および舟遊びに詩歌管絃と連日に渡り豪華絢爛な催しが執り行われた。そして最終日の16日にこの室町第で臨時の叙位が行われ、日野宣子(業子のおば)および義満の義母である渋川幸子に従一位、義満の実母・紀良子と正室の日野業子に従二位が授けられた。皇居などはるかに凌駕する壮麗な邸宅で行われたこの盛大な行幸行事は、室町幕府および将軍の権威を天皇や公家たちだけでなく、満天下に見せ付ける一大イベントだったのである。
 大いに連日の宴を楽しんでいたかにみえた後円融だったが、内心では義満のあまりの威勢に、嫉妬と恐れの入り混じる思いを抱いてもいた。内裏に戻った後円融は寵妃の厳子を呼び寄せ、「朕は帝、義満は将軍じゃ。しかし同い年の義満はわしをまるで子ども扱いしおる…」と愚痴ってみせた。

 その盛大な室町第行幸から間もなく、義満の赦免を受けた細川頼元は上洛を果たした。そして6月5日に自邸に義満を招いて赦免を感謝する宴を催した。この宴には義満に率いられて管領の斯波義将、山名時義・氏清ら細川氏の政敵らも出席し、さらに業子の兄弟の公家・日野資康資教らの面々も顔をそろえた。「それぞれ遺恨もあろうがの、思い返せばどの大名も一度は幕府を追われたり、浮き沈みをしたものよ。追ったり追われたりは、お互い様というところであろう。今後、同じようなことを繰り返さぬためにも、ここでお互いに遺恨を水に流せ。のう、義将」 と、義満は言って、義将と頼元に自ら盃を与えた。この将軍訪問により、細川家は少なくとも頼元については完全に名誉回復がなされ、また細川派と斯波派が表面的にせよ和解したことが世に示されたのである。以後、頼元は幕府政治には関わらないまでも京にとどまり、義満の側にしばしば付き添う大名の一人となった。このため、その兄・義父である頼之もまた幕府に復帰するのではないかとの憶測も広がった。
 こうした義満の処置に、いちおう服した形の斯波義将だったが、9月16日に突如管領を辞する意向を表明するという椿事が起こした。頼元をしばしば同行させる義満に対する牽制の行動である。このときも義満は自ら義将邸に赴いてこれを慰留し、「頼之を復権させることはない」と確約して義将の辞意を撤回させた。
 秋に入り、義満の意向を受けた頼元が、讃岐にいる頼之に連絡をよこしてきた。それによれば、義満は頼之に対し伊予の河野氏と和解を勧めており、河野氏側にも幕府から働きかけているとのことであった。頼之はこれを承知したが、義満から頼之自身に対する赦免の話が来ないことに寂しさも感じていた。「頼元をお側に置いておられるほどなら、このわしを都へ呼び戻してもよかろうに…」と愚痴る頼之を、妻の慈子「将軍も斯波殿や山名殿らのことを慮ってのことでございましょう。内心お辛いのではありますまいか」と慰める。

 この9月に、宮中ではささやかな、しかしやがて大事件につながっていくことになるトラブルが起きていた。後円融天皇が寵妃の厳子に対し、「今後お前をもう呼ぶことはない、わしのもとに顔を出すことも許さぬ」と怒りの言葉をぶつけていたのである。きっかけは厳子の父・三条公忠が四条坊門の土地を入手するために義満に取り入り、結局この土地を手に入れていたことにあった。元来、京の土地は朝廷の公家が管理するものであるはずなのに、武家の長である義満がこれをほしいままにした、と後円融は激怒し、その怒りを公忠の娘の厳子に向けたのである。
 結局天皇の怒りを受けて公忠は慌てて四条坊門の土地を返却し、後円融も埋め合わせに代わりの土地を公忠に与えることで事件は落着した。このごろ京市中の警察権だけでなく土地裁判権なども幕府が朝廷から接収していることに後円融天皇が焦りを感じていたこともあったが、京の人々の間ではこの騒ぎの裏には厳子が義満と密通していると天皇が疑いをもっていることがあるのではないかとの声が、密かにではあるが広くささやかれていた。
 このほかにも亀山天皇の玄孫の満仁王というかなり格の低い皇族に、この頃になって「親王」の名が贈られるということがあったが、これは満仁王が自らの愛妾の小少将という女性を義満に差し出したためだと噂されていた。また義満が室町第で催した宴に遅参した公家が左遷されるなど、公家社会に対する義満の専横ともいえる行動はあとを絶たなかった。
 
 11月15日、頼之は伊予・和気郡福角に赴き、そこの寺で河野氏側との和議の会談に臨んだ。河野氏側の代表は戦死した河野通直の次男の鬼王丸という少年である。通直には二人の息子があり長男の亀王丸が当主となっていたが、この会談には弟の鬼王丸が名代としてやって来たのである。それだけ三代にわたり細川家に当主を殺され続けた河野一族の、この和議に臨む思いは複雑きわまるものがあった。
 鬼王丸は親の仇である頼之に対しつとめて冷静に対応して、領土問題の決着を話し合った。その結果、伊予の守護職そして伊予の主要地である西部は河野氏のものとし、伊予東部の宇摩・新居両郡は細川家の所領とすることで合意をみた。頼之はまだあどけない童顔の鬼王丸が一族を代表して気丈に振舞う様子を見て、「お名に似ず、落ち着かれたご立派なお振る舞いじゃ」とさりげなく褒めた。だが、その途端鬼王丸の目に涙と、そして怨みに燃える炎が見て取れた。「それがしも“鬼”でござります。二年前に父を討たれたときは生涯かけても細川武州殿の首をとると誓いもうした…」と鬼王丸は頼之をにらみつけたが、「じゃが、その後知り申した。武州殿もお父上を楠木に討たれておられた。しかしその楠木を、武州殿は重く用いて良き味方とされていた…仇にも学ばねばならぬことがあると、兄と語らってこの場に参りました」と言って頼之に一礼した。頼之は感動し、「通直どのも良きお子をもたれた…わしには子がないゆえ、それが何よりうらやましい」と鬼王丸の手を握った。
 ここに長年にわたった細川・河野の確執は一応の終結を迎えた。鬼王丸はのちに義満の仲介で頼之と父子の契りを結び、頼之の一字をとって「通之」と名乗ることになる。

 この年の末、後円融天皇はまだ六歳にも満たない子の幹仁(もとひと)親王に皇位を譲り、「治天の君」たる上皇になる意向を日野宣子を通じて幕府に伝えた。このとき後円融は義満と同じで間もなく25歳という若さである。余りにも若い譲位の意向に、近ごろの後円融が何かと示す義満への対抗意識があるのでは、との憶測も公家・武家ともに流れていた。天皇よりもより自由度のある上皇になり院政を敷くことで、義満の勢いに対抗しようとしているのではないかというのである。
 その見方は義満の耳にも入っていた。だが義満は後円融の思惑をさして気に留める様子も無く、「さきごろ光明院もおかくれになったことではあるし、院も帝も若返るというのも悪くはあるまい」と側近らに言う。そして「それに…次の帝になられるお方はなにやら噂もあることだしのう」と意味ありげに笑って見せた。

第四十回「雌伏」終(2002年11月10日)


★解説★世阿弥第四弾  
 いよいよ四十回。このお面とも今回でお別れなのですが、まだ次のお面が決まっていないことに不安を覚える解説担当の世阿弥でございます。
 あと十回、ということになるのでございますが、果たして当初の目標地点までいけるのやら、作者も不安を感じているそうでございます。大河ドラマ脚本担当のシナリオ作家の皆様、ご構想は計画的に(笑)。

 さて、冒頭には話が一区切りすると挿入される海外情報。それにしても不思議と同じ時期に明でも高麗でも画期的な事件が起きているというのが面白いところ。

 まず明の情勢ですが、このころから洪武帝(朱元璋)さんの独裁ぶりが濃厚になってまいりまして、この「胡惟庸の獄」にいたって最大規模の粛清の嵐が吹き荒れることになるのです。どうも洋の東西を問わず、低階級から成り上がって天下をとった初代君主ってこのパターンに陥りやすいようでして、中国史ですと漢の高祖、この明の洪武帝、そして中華人民共和国を建てた毛沢東の三人が典型的にこのパターンにはまっていると言われます。特に毛沢東の「文化大革命」と洪武帝の大粛清の共通性はしばしば指摘されるところですね。
 ただ洪武帝の場合、その粛清もかなり計画的・意図的であるところに特徴があります。「文革」もある程度意図的なものはありましょうが、洪武帝のやったそれのほうがより冷徹な計算が感じられます。本文に書きましたように結果的にこの「胡惟庸」の獄を通じて皇帝による独裁体制が制度的にも確立し、皇帝を頂点とし万民を組織的に統括するという、妙に理念的・人為的秩序にこだわった帝国に明はなっていくのですね。これを外国にもあてはめると明を中心に世界各国が序列付で周囲に配置されるという「華夷秩序」と「朝貢体制」になっていくわけです。
 なお、そんな慌しい中にひょっこり来て追い返された日本使節団(笑)。このときの手紙の差出人の名として、初めて「源義満」の名が中国側史料に登場します。もちろん征夷大将軍の肩書きでは相手にしてくれないんですけどね。

 ところでドラマでは描かない可能性大なのでここで補足しておきますと、この胡惟庸事件はのちに日本も絡めた疑獄事件に発展します。六年後に発覚した「林賢事件」と呼ばれるものなんですが…ちょっとややこしいんですけど、暇な方は我慢してお読みください(笑)。
 このとき謀反を図った胡惟庸は、日本とモンゴルに密使を送ってその協力を得ようとしたというんですね。で、日本に遣わされたのが寧波にいた軍人の林賢という人物。胡惟庸は林賢にわざと罪を着せて日本へ流させ、日本の王と明への軍勢派遣の話をつけさせます。やがて胡惟庸が林賢の赦免を願い出て許され、林賢は日本の兵より一足先に明に帰ることになります。そして日本王は如瑶を使者とする偽の朝貢使節団を仕立てて献上品の中に火薬や刀剣を隠して400余の兵を明に送り込みました。ところが、如瑶が明に着いたときには胡惟庸の陰謀が発覚しており、計画は未遂に終わった…というのですね。
 このお話、どう考えてもデッチ上げですね。そもそもの発端の胡惟庸の陰謀ってのがデッチ上げの可能性が高いですし、彼らが日本くんだりまで行って援軍を求めるという時点で不自然きわまりない。林賢らを「胡党」として粛清するために、当時沿海に跳梁していた倭寇のイメージと日本をだぶらせて、それと結託したという陰謀話を創作したものでしょう。ダシにされた日本としてはいい迷惑ですが(笑)。如瑶なる「日本国王・良懐」の使者は確かに1381年に明に来て追い返されているのですが、例によってどこの誰が遣わした使者か分かったものじゃありません。義満さんが連年すぐに出したとも考えにくいので、作者などは島津氏が派遣したんじゃないかと疑っています。一応懐良親王はこの時点でまだご存命なのですけど、一応第一線から引退したうえ後継者の良成親王や菊池氏も了俊さんに押されまくっている時期で、とても明に使者を派遣できたとは思えないんですよね。

 一方の高麗では同じ年に大規模な倭寇の侵攻があり、李成桂さんの武名を不動のものにしたといってもいい「阿只抜都」との南原城の戦いが起こっています。倭寇史上における重要な戦いであり、またのちに朝鮮王朝を建てる李成桂さんの栄光を称えるという意図からも詳しい戦記が後世記されているわけですが(『高麗史節要』など)、誇大に書いてることも考えられ、どこまで事実なのかはわかったものじゃありません。一応このドラマ本文での描写はその『節要』に基づいていますけど。
 この李成桂と戦った「アキバツ」、白馬にまたがった勇猛な美少年武将という、まぁアニメヒーローみたいなキャラなので昔から有名なのですけど、これが実際のところ何者なのかは全くの謎。「倭寇」に加わっているというもののおよそ日本人とは思えない名前です。倭寇専門の歴史家・田中健夫さんらの説では「アキ」は朝鮮語で「幼児・少年」、「バツ」はモンゴル語の「batur=勇猛無敵の士」ではないかと分析されています。「なぜそこにモンゴル?」と疑問に思われる方もおられましょうが、日本征服を企図したモンゴル帝国はその前哨基地として朝鮮半島の南に浮かぶ済州島に牧場を作っていたりするんですね。実際、倭寇にこの島の住民が加わっていた可能性は大ですし(この島は長い間「耽羅」という独立国だった歴史もある。日本における沖縄みたいな存在とも言える)、アキバツの倭寇には数千もの騎馬軍団がいたと高麗史節要などは記しています。とても松浦・対馬などの海賊がやれる真似ではないのは確かで済州島の住民および残留モンゴル人が絡んでいたんじゃないかとも思えるのですけど、確定的なことは言えません。

 さて、外国話の解説が長くなりましたが、一方で国内の話はそんなに補足解説することがないんですよね。本文中にほぼそのまんま書いたりしてますから。これがこの文章ドラマ形式のいいところで(笑)。
 それでも補足しておきますれば、まず人妻・加賀局が義満様のご長男を生んでしまったというとんでもない展開について。これはもちろんフィクションではなく、史実。ただこのご長男は次の将軍の義持さまではありません。その名を尊満、のちに出家して法名如勝、友山禅師と呼ばれることになるお方です。義満さまのお子さんはその多くが出家しお寺に入っているのですけど、このご長男からしてそのトップバッターになっておられるわけです。この方が跡継ぎの候補にすらならなかった理由は、やはり母親のことがあったとみるのが自然でしょう。後に義持さまが亡くなった際に有名な「将軍のくじ引き」が行われてますが、このときもまだ存命だったこの方は候補にのぼることがありませんでした。でも、そのぶん平和な人生を送れたという見方もできます。なお、この方は義満様の「兄」と言われている柏庭清祖さん(このドラマでは「柏王」の名で子供時代に出ていただきました)に弟子入りし、その門跡を引き継いでいます。

 義満様のお公家業界への介入(っていうより義満さま自身が公家の頂点に立とうとしているわけで) のエピソードの数々は、いちいち書いていたらドラマが終わっちゃう(笑)、ってぐらいのものなのでほどほどにカットしてます。それらは当時の公家さんたちが苦々しげに書いていることなので初めっから悪意を持って書いていることを考慮しなきゃなりませんけど、確かに義満様は公家さんたちに対し高圧的かつ恣意的にふるまいまくっております。それは天皇に対してすら向けられてまして、これがこの次の回の「宮中某重大事件」(笑)につながっていくことになるわけです。義満さまの一連の行動は、どうも性格というより意図的にそう振舞っている節もありまして、もしかすると幕府内のドタバタの鬱憤を晴らす、ってなものだったのかもしれません。弱いものイジメとも言う(笑)。

 この間に、いつの間にやら着々と復権している細川家。ただし、ドラマにもあるとおり赦免され京に復帰したのは頼元さんだけで、頼之さんには正式な赦免はなかなか出ませんでした。のち(明徳元年=1390年)に頼之さんが弟の頼有さんに送った手紙の中でこのことを「不思議なことだと思った」と記しているので、頼之さん自身はやはり不満だったみたい。お子さん同様に育てたつもりの義満さまに無視されたみたいで、寂しかったのかもしれませんね。
 そして頼之さんは長年の因縁の間柄である河野氏とついに和解します。と言っても、事実上河野氏側が細川に折れた形です。このときの河野氏は亀王丸(のちの通能)・鬼王丸(のちの通之)というまだ若い(というより幼い)二人がいるだけでしたから、和議に応じざるを得ないところだったでしょう。ここで登場した鬼王丸さんは、ドラマでも書いたとおりのちに頼之さんと「父子」の契りを結び(正式な養子ではなく気持ちの上で、ってことみたい)「通之」と名乗ることになるわけですが、実のところ三代続けての親の仇とそんなスンナリと和解できたとはちょっと思えないんですよね。ドラマ的にはこう綺麗にまとめてみましたが…でも頼之さんって妙に人徳のあるところもあったようだから、案外分からないかもしれません。
 ここで一応の決着をつけた細川・河野両氏なのですけど、結局このあと室町後期にまた衝突するんですよね。

制作・著作:MHK・徹夜城