第四十一回
「上皇乱心」


◆アヴァン・タイトル◆

 康暦の政変直後の混乱も静まり、室町幕府は全国政権として強化の一途をたどっていた。その長たる将軍・義満は朝廷においても官位を急激に上昇させ、公家の一員としても強大な影響力を持つようになっていく。そして武家・公家の頂点に立とうとする義満の権勢は、最高の権威である皇室にまで迫ろうとしていた。


◎出 演◎

足利義満

三条厳子

渋川幸子

楠木正儀

山名氏清 

懐良親王 長慶天皇

北畠顕能 後亀山天皇

三条公忠 三条実冬

日野資康 広橋仲光 

栄仁親王 按察局

勇魚

紀良子

後円融上皇

崇賢門院(仲子)

世阿弥(解説担当)

後小松天皇(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
仙洞御所職員のみなさん
ロケ協力:京都御所

二条良基

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 永徳二年(1382)正月、足利義満はついに左大臣に任じられ、祖父尊氏・父義詮をはるかに超えた、朝廷の中枢ともいえる官位にわずか25歳にして達した。
 前年末に皇太子への譲位の意向を示した後円融天皇であったが、天皇には一つの懸念があった。後円融自身が即位する際に対抗馬として名乗りを上げていた伏見宮・栄仁親王(崇光上皇の皇子で後円融には従兄弟にあたる)とその一派が、また皇位継承を主張して策動するのではないかと懸念したのである。この一派は以前には義満の義母の渋川幸子まで取り込んで運動した経緯もあり、後円融は内々にこの懸念を義満に伝えたが、義満は「まだ伏見宮を恐れておいでですか。誰がなんと申そうと、このわたくしがいる限りはご安心なされよ」と笑って返答した。斯波派と結びつきが強く、依然として義詮の正室・義満の義母として権威は高い幸子であったが、義満が成長し自ら権勢をふるう今となっては幸子にそれほどの影響力はなくなってきていたのである。

 そのころ、河内では南朝方に帰参した楠木正儀が必死の戦いを繰り広げていた。正儀を攻める幕府軍の大将は、今は亡き山名時氏の息子達の中で最も武勇の誉れ高かった山名氏清である。すでに和泉守護であった氏清は、正儀の南朝帰参によりその後釜の河内守護にも任じられ、全力を上げて河内征服に乗り出してきたのである。時氏以来の勇猛を誇る山名軍の勢いは凄まじく、まだ河内国内をまとめきれていなかった正儀は各所で苦戦を余儀なくされる。
 そんな正儀のもとへ、懐かしい人物が姿を見せていた。かねてより正儀と繋がりのあった熊野水軍の勇魚である。彼は最近は九州で今川了俊のために活動をしていたが正儀の危機を知って駆けつけてきたのである。「山名は和泉の守護となることで瀬戸内の海賊衆をも従えて、その力を増そうとしております…それは四国の細川さま、九州の今川さまお二人にとっても望ましくはないこと」と勇魚は言い、「しかし今の山名の勢いに楠木様では立ち向かうことはできますまい。今の内に海路四国へお逃れになっては…細川様も密かに受け入れてくださりましょう」と脱出を勧めた。しかし正儀は「わしはこの父祖の地である河内を守るために戦い、寝返り、人の嘲りも忍んで参ったのじゃ…今さらその河内を捨ててどこへ行けようか」と寂しく笑うだけであった。
 この年の閏正月24日、楠木正儀は河内国・平尾において楠木一族の総力を挙げて山名氏清に決戦を挑んだ。しかし勢いにまさる山名軍の前に楠木軍は壊滅、一族六名・家臣140名を戦死させてしまい、正儀は残兵を率いて赤坂山中へと逃げ込んだ。河内・紀伊・大和にまたがる山地は楠木氏や南朝勢力得意の山岳ゲリラ戦の要地であるため氏清もあえて深入りは避けた。
 かくして楠氏の勢力圏であった河内・和泉の地は山名氏清の支配下に入った。特に海上交易の拠点である和泉の堺を手中に収めたことは山名氏にとって大きな収穫であり、氏清はここに自らの本拠地を置くことになる。

 4月11日、義満の懐柔工作もあって結局伏見宮派は内心不満を持ちつつも皇位を争う構えは見せず、何事もなく後円融の皇子・幹仁親王が即位し、後円融は上皇、実質的な最高位である「治天の君」という立場に立った。このときわずか6歳で天皇となったのが後小松天皇である。義満の師で腹心とも言える公家・二条良基が後小松の摂政となり、義満自身は院の別当、すなわち後円融上皇の補佐役という立場になった。
 やがて新天皇・後小松の即位の大礼が催されたが、この儀式の日程の決定をめぐってひと悶着が起こった。義満と良基がこの日程を決定して後円融に奏聞したが、後円融は「帝の父であるわしに一言の相談もなく、左大臣と摂政が勝手にこのような重大事を決めるのか!」と激怒、義満らの決めた日程を認めず、つき返してきたのである。義満も良基も再三奏聞を行ったが、後円融は頑として認めようとはしなかった。
 「院は何をお考えか」と当惑する良基に、義満は「何やら意地になっておいでのようですな」と冷たく笑う。良基は「治天」である後円融の機嫌を直してもらうためにも彼の意向をとりいれてみてはどうかと義満に提案するが、義満は「一度発表された大礼の日程を変更するわけには参りますまい。ましてことは帝のご即位に関する大事。軽々しくは扱えますまい」とそっけなく言い、後円融の意向を無視してこのまま大礼を行うと決めてしまう。
 「よもや、とは思うが」公的な立場から離れた私人として良基は義満に話しかけた。「帝のお父上である院のご意向も無視してまで、左大臣殿が帝ご即位の礼を進めるのは…その…帝にまつわる、あの噂を気にしておいでか?」良基は言葉を選んで、ひそひそと義満にささやく。「帝が実はわたくしの子…とかいう噂ですかな」と義満はさらりと言ってのけ、良基をあわてさせる。
 結局、この即位の大礼は後円融の不満を無視する形で、義満・良基の意向のままに実施された。上皇と将軍の対立が明白になったことは、公家社会にも大きな波紋を広げていく。

 翌永徳三年(1383)正月。宮中で執り行われた白馬節会(おうまのせちえ)に際して、義満は儀式の主役とも言える内弁を務め、参列した公家たちは一様に義満に対して卑屈なまでに追従する態度を見せ、義満もまた公家達に対し尊大にふるまっていた。その有様には「まるで君臣のような」という陰口も叩かれたが、表立って義満の態度を非難できる者とてない。間もなく義満はこれまで村上源氏の久我家が独占してきた「源氏長者」と奨学・淳和両院別当の地位を獲得し、以後、この地位は足利家で独占されていくことになる。
 義満の勢いはとどまるところを知らず、公家たちは為すすべなく義満に阿諛追従するほかなかった。それに従い義満と対立を深めていた後円融上皇を公家たちは敬遠し始め、この正月29日の後円融の父・後光厳の命日の法要に大半の公家達が欠席してしまうという事態にもなった。「なんたること…!この国の君は誰ぞ!?このわしか、それとも義満か?今の公家に忠義の臣は一人もおらぬのか!?」後円融は激怒して側近に叫ぶが、側近達もうつむいて黙り込むばかりで、後円融の叫びも空しく響くものでしかない。

 そのころ、後円融の寵妃であり後小松の母・厳子は前年末から出産のために実家の三条家に戻っていた。出産は年の暮れに無事済んでいたが、産後の体を休めるためと称してしばらく三条家に居残っていたのである。後円融からは何度か帰参を促す使者が送られたが、なぜか厳子は帰参を遅らせ、ようやくこの2月1日になって院の仙洞御所に帰ってきた。
 その夜。後円融は久しぶりに帰ってきた厳子をさっそく寝所に召し出すべく、女官を使いに送った。ところが「本日は急のお召しゆえ、袴や湯巻の用意が整いませぬ」と厳子は召し出しを断ってきたのである。これを聞いた後円融は激怒した。「わしの召し出しに応じられぬと言うのか!」顔面蒼白になって怒りに震える後円融は自室にあった刀を手に取り、ズカズカと廊下へ出て、まっすぐ厳子の部屋へと向かっていった。

 厳子の部屋に刀を手にした上皇が姿を現すと、女官達は声を上げて大騒ぎするが、誰も恐ろしくてこれを止めることが出来ない。後円融はそのまま厳子のところへ突進し、そこでスラリと刀を抜いた。女官達は恐ろしさに腰を抜かし、厳子は震えながら後円融の顔を見上げる。「厳子…!正直に答えい。いい加減なことを答えれば、そちを斬る!」と言って後円融は刀を厳子の顔のそばに近づけ、女官達に退がるように言いつけた。二人きりになると、後円融は「出産が済みながら、一月以上も帰参しなかったは何ゆえか…?ちらほらとした噂は嫌でもわしの耳に入ってくる。義満が…左大臣が、そちのところに出入りしておったとの噂がな。…今宵、わしの召し出しに応じぬのも、ひそかに義満を思ってのことか!?」と厳子に問いただす。「お上、そのようなことは決して」と否定する厳子に、目にくまをつくり、恐ろしげな顔つきになった後円融はさらに問う。「以前にも問うたことだが…幹仁は、今の帝は、まこと、わしの子か?」厳子は後円融の顔を恐ろしげに見つめ、黙り込んでしまう。
 「この国の君は…まことに誰か!?わしか、それとも…」 そう言って後円融はわなわなと刀を持つ手を震わせ、その手を振り上げて「わぁーっ!!」とヒステリックに一声叫んで、厳子に向けて刀を振り下ろした。様子をうかがっていた女官達が悲鳴を上げたが、後円融が振り下ろしたのは刀の背の方で、厳子の背を「峰打ち」にしたのである。後円融は錯乱したように何度も刀の背で厳子の背を打ち据えた。これにはさすがに女官達が駆け出してきて、後円融を取り囲み、厳子を救い出した。厳子は背に血を滲ませながら部屋の外へと連れ出されていく。「待てい!」と叫び、後円融は刀を振り回すが、その前に女官達がたちはだかり、追跡を阻止した。
 後円融は厳子の追跡をあきらめたものの、そのまま一室に立てこもってしまい、刀を振り回して人を寄せ付けようとしない。そこへ駆けつけたのが後円融の母である崇賢門院・仲子である。その姿を見て、「母上…」と初めてうろたえた様子を見せた後円融に、仲子は「治天の君たる院が、何をしておいでか…情けないことじゃ」と呆れたように言って「一献お召しになって落ち着かれよ」と酒を勧めた。勧められるままに酒をあおる後円融。その隙に周囲の者が刀をとりあげた。
 この隙に厳子はそのまま仙洞を脱出し、実家の三条邸へと担ぎ込まれた。峰打ちとは言え真剣で散々に打ちすえられた厳子の背はひどい出血で、一時は命すら危ぶまれるほどの重傷であった。

 「院が、 そのような乱暴に及ばれあそばすとはのう…」仙洞御所での異変の情報は翌朝には義満のもとにもたらされていた。義満にすばやくこの変事を知らせたのは後円融の愛妾の一人である按察局(あぜちのつぼね)である。彼女は仙洞にありながら以前から義満に内通しており、院の周囲の情報を常日頃から義満に報告していたのだった。
 2月3日に厳子の兄の三条実冬が室町第にやって来て正式に事件の報告に来た。後円融に峰打ちで背を打ち据えられ、重傷を負った厳子は実家の三条邸で治療を受け、どうにか一命はとりとめていたのである。「院も恐ろしいことをなされるものよ。峰打ちであったのが不幸中の幸い…厳子さまには、お体をお大切に、早くお傷を癒されたいとお伝えを」と義満は言って薬を届けさせるよう周囲に命じ、実冬を帰らせた。「さて、どうしたものか…」と義満は一人つぶやき、二条良基のところへと相談に出かける。
 「院には正月以来お心が乱れておられたようじゃ…このたびのお振る舞いも、いわば八つ当たりと申すべきものでありましょうな」と良基は同情するように義満に語った。厳子も一命はとりとめたことであるし院の名を辱めぬよう穏便にことを収めようということで良基と義満は合意するが、「しかし穏やかならぬのは院が厳子さまを打った際に、この私のことをあれこれおっしゃったらしいということですな。院と将軍が不和であると京童の間でもすっかり噂になっておりますぞ」と義満は言って、良基に不敵な表情を見せた。

 義満の言うとおりで、周囲が穏便にことを運ぼうとしたものの、上皇が妃、しかも天皇の生母を打ちすえたという前代未聞の事件は瞬く間に京中の話題になってしまっていた。しかも中には現場の状況を詳細に語ったものまであり、側近からそれを聞いた後円融は青ざめる。「たれか、この仙洞の中に裏切り者がおるということか…義満め、わしを辱めようとわざとその噂を京中に流しているに相違ない!」怒れる後円融に、側近は院の愛妾である按察局がどうやら義満と通じているらしいと告げた。「なに、按察が…」と後円融は顔をさらに青ざめさせた。
 2月11日、按察局は後円融から暇を申し渡され、出家して尼となって仙洞御所を追われた。これは後円融の義満に対するあてつけとも言える行動であったが、口さがない京童たちは按察局が義満と密通していたことが発覚したために追い出されたのだと噂しあった。「治天の君」である上皇が将軍に愛妾を寝取られたのだと笑いものにしたのである。「これではそのうち院は位を追われてどこぞへ流されておしまいになるのではないか」との勝手な憶測まで飛び交い、このことがさらに後円融の精神を追い詰めていく。
 「京童の口に蓋をするわけにはいかぬだろうが、あれこれ勝手な噂を流されるのは院にとってもこの義満にとっても迷惑なことじゃな」と義満は苦笑しながら、公家の側近である日野資康広橋仲光の二人に上皇のもとへ仲介の使者に立って欲しいと頼んだ。「院とは直接お会いして話し合いをしたいのじゃ。それによって世間のおかしな風聞を打ち消すこともできよう。そうお伝えしてくれ」と義満に言われて、2月15日に資康と仲光の二人は仙洞へと赴いた。

 ところがこの二人の仙洞訪問が思わぬ事態を引き起こしてしまう。義満の使者としてこの二人が来訪したことを聞いた後円融は「ついに来たか!わしをどこぞへ流すという噂はまことであったか!」とヒステリックに叫び、「わしはこの国の主である!臣下の専横によって位を奪われ、流刑にされるなど…神武以来の祖霊に申し訳が立たぬわ!」とおめいて刀を手にして立ち上がった。そしてそのまま持仏堂に駆け込んでそこに立てこもってしまう。側近達が必死になって出てくるよう懇願するが、「わしにも意地も誇りもある!武士の棟梁たる義満に目に物見せてくれよう…わしをどうしても流すというなら、わしはここで見事腹を切ってみせるわ!」と後円融は刀を振り回し髪も振り乱して錯乱状態になってわめき散らすばかり。
 事態を知った資康・仲光、そして上皇の側近達もオロオロしてなす術がない。そんなところへ女官の急報を受けた後円融の母・崇賢門院仲子が仙洞に駆けつけてきた。仲子は持仏堂へ赴き、「お上、またぞろ童のように何を駄々をこねておられる!」と一喝、シュンとした後円融から刀を取り上げ、酒を持ってこさせてどうにか気持ちを落ち着かせた。
 ようやく自らの誤解を悟って気を静めた後円融は使者達に面会したが、今度は逆に二条良基を初めとする義満の腹心となっている公家たちの処罰・流刑を主張して、資康や仲光、仲子をも呆れさせた。これでは処置なしと思った仲子は「お上にはお疲れのようじゃ。この母のもとでしばしの間ゆっくりお休みになられるとよい」と提案し、息子をなだめすかしてそのまま自らの邸宅である梅町殿へ後円融を連れ帰った。

 後円融の母・仲子は義満の生母・紀良子とは実の姉妹である。上皇と将軍の和解を図るべく、仲子は良子をひそかに自邸に呼び出し、姉妹同士で相談の上、なんとか後円融の面目が立つよう計らってくれるよう良子が義満にはたらきかけることになった。仲子は「お互い、とんだ子を産んだものよの。あのような小心者が、義満殿のような大物とわたりあうことになってしまったことが不憫でならぬ」とため息をつく。
 良子はさっそく室町第に足を向け、義満に面会した。「この義満においては何の落ち度もござらぬぞ。院が勝手に思い込まれてしまっただけじゃ」と笑って言う義満に、良子は 「院は帝の父君であると同時に紛れもなくそなたと血を分かつ従兄弟じゃ。将軍である前に、人として、哀れみをかけてさしあげてはくれぬか。あのままでは院がおかわいそうでならぬ。もはや院もそなたと張り合おうとはなさるまい…勝負ははっきりついたのじゃ。これ以上院を傷つけてはそなたの名にも傷がつこう」と忠告する。義満はやや面白く無さそうな顔もしたが、しばらく考えた末母親の求めに応じることにした。
 結局義満が今後上皇になんら手出しをしないことを誓う誓文を差し出して後円融の面目を保つ形で和解が成った。3月3日になってようやく後円融上皇は母・崇賢門院の梅町殿から仙洞御所に還御した。上皇の乗る車の直後には義満が付き従い、人々に両者の和解を示すデモンストレーションを行ったのである。しかしこの一件は「治天」たる上皇の権威をいっそう地に塗れさせ、義満の権威をいっそう増す結果となった。
 事件の衝撃が落ち着きを見せた6月26日、義満は「准三宮(准后)」の宣下を受けた。「准三宮」とは三宮=大皇太后・皇太后・皇后に准ずる待遇を与えられる、臣下として破格の扱いである。摂政・関白をつとめた者や皇族の者などで前例はあるものの左大臣、しかも武家出身の者に与えられた例はなく、公家たちは陰でひそかに騒ぎ立てたが三条公忠などは「近ごろの武家においては前例など省みないのだからどうにもならぬわ」と諦め顔であった。

 北朝がその権威を義満に吸収されつつあったころ、南朝もまた衰退の一途をたどっていた。前年に楠木正儀が再起不能なまでに敗北し、この年九州ではついに勢力挽回を果たせぬまま懐良親王が筑後の山奥で生涯を終えた。またやはり南朝の軍事力の主力であった伊勢の北畠顕能も同年に亡くなり、南朝がその勢いを挽回できる見込みはほとんど消えたと言ってよかった。
 こうした情勢の中で強硬派の長慶天皇が弟の熙成親王に皇位を譲っている。これが後亀山天皇で、南朝最後の天皇となる。だが退位はしたものの長慶の北朝・幕府に対する強硬対決姿勢は衰えることはなく、これに対し新天皇となった後亀山は和睦という現実的な方策を模索し始める。
 
 秋9月。細川頼之は京に向かうべく讃岐を船で出発していた。恩師夢窓疎石、および父・頼春の三十三回忌の法要を京の寺で行うためとして義満の許可も得た久々の帰京で、康暦の政変で今日を追われてより四年の歳月が流れていた。むろん政治的に頼之が復権したわけではなく、あくまで法要を行う一時期だけの帰京である。
 この京行きには妻の慈子も同行していた。「しばらくぶりに将軍にお会いしとうございますねぇ…すっかりご立派になられていることでござりましょう。なにやら恐ろしげな噂も伝え聞いてはおりますが」と船上で言う慈子。頼之は「まずはこの坊主頭を御覧に入れて驚いていただくか」と笑いながら自らの禿頭を叩いて見せた。

第四十一回「上皇乱心」終(2003年1月12日)


★解説★世阿弥第五弾  
 ♪ど〜こ〜のだ〜れかは、誰もがみぃんな知っている〜♪
 ♪はやてのように現れて〜八戸めざして去ってゆく〜♪
 はい、二ヶ月も放送中断になっていた不定期放送大河「室町太平記」の解説者、世阿弥でございます。勝手に大河ドラマなどと言っているうちに本家の大河は先に終わってしまい、こちらの方が長期連載になっちゃいましたぜ、って単に遅れているだけです、すんません。
 今回、文量は妙に多いんですけど、上皇様ご乱心シーンのセリフと書き込みが長いからですね。このへんのくだりをどうしようかとあれこれ悩んじゃっているうちに執筆が全然出来なくなってしまったという次第でもありました。

 さて前回のヒキを受けまして冒頭には今回の「主役」とも言うべき後円融天皇の譲位問題が出てまいります。ここで「伏見宮」なる人とその一派が登場してまいりますが、覚えておられますでしょうか。後円融天皇が即位される際にも後光厳上皇と崇光上皇の兄弟が争っていたんですよね(第31回「大海の彼方」参照) 。「伏見宮」栄仁親王とはこのとき争いに敗れた崇光上皇の皇子様でございまして、これがまたぞろ皇位継承を主張するのではないかと後円融さんは懸念していたんですね。このとき義満が「わたしがいる限りご懸念無用」と大見得を切ったというのは当時の日記に出てくる話。いちおう義満様も伏見宮の邸宅をたびたび訪れてフォローしていた事実も、この栄仁親王のお子様貞成親王の記録「椿葉記」に記されております。まぁとにかくこの時もこの家系は無念の涙を呑んだのですね。
 しかし…かなり先の後日談になるのですが、後光厳系統は後円融、後小松、称光と三代の天皇を経て、称光天皇が子をなさぬまま世を去ったためここで断絶してしまいます。ピンチヒッターとして後小松上皇が先述の貞成親王の子・彦仁王を養子にとり、これが即位して後花園天皇となるのです。流れ流れて崇光系は皇位を奪取することになっちゃうんですなぁ。それは義満さまから三代後の将軍・義教さまの時代のことであります。

 南朝に舞い戻った楠木正儀さんが河内で山名氏清さんに大敗するくだりがございましたが、実はこれが正儀さんに関して確認できる最後の史実だったりします。以後まったく正儀さんは歴史上に姿を見せず、いつ亡くなったのかも不明です。ということはこのドラマにおいても正儀さんはここで退場…なんでしょうね、たぶん(笑)。そこは作者の胸先三寸。
 一方でその後釜に入ってにわかに存在感を増してくるのが山名氏清さん。出演表示も今回から一枚看板になってますね(笑)。やがて来る「明徳の乱」では主役に躍り出ますから、ぼちぼち出番も増えてくるわけで。あと、ここで和泉の堺の町を押さえていることにもご注目ください。堺の町が商人・貿易の町として発達してくるのがこの頃なのです。

 さて今回のテーマはなんといっても後円融上皇と義満さまの対決。もっとも「対決」と呼ぶにはいろんな面で一方的な展開なのでありますけどね…。
 後円融上皇のお姿は木像が残っておりまして今日に伝わるんですが、これが見るからに神経質そうなお顔なんですよ。 顔だけで全てを判断することはもちろん出来ませんが、同じく残る義満さまの迫力満点の木像と並べてみるともはや勝負は一目瞭然。相手が悪すぎたという見方も出来ますけどね。
 後円融さまの「ご立腹」事件は前回に描かれました「三条公忠土地入手事件」でもすでに発生しておりましたが、この永徳2年(1382)に自らの皇子である後小松天皇の即位大礼の日取り問題で再発します。これ、別に義満様や良基さんが勝手に日程を決めたわけではなく、普通はそうやって大臣たちが決めた日程を上皇がそのまま認めるというものなのですね。ところが何を思ったかここで後円融さんが「拒否権」を発動しようとした。その直接的な動機は不明ですが、その後の展開から考えても朝廷における権力を増してくる義満様への恐怖と反発、なおかつ同い年の従兄弟同士ということから来るライバル意識などが働いて、半ばいやがらせ的にやったことかもと思えます。厳子さんと義満さんの関係うんぬんは一応このドラマの創作ではあるんですけどね。

 そして翌永徳3年正月、白馬節会や後光厳上皇法要などで公家たちの義満様への追従ぶりを示す現象が相次いで起こります。これでますます後円融さまは焦り、ノイローゼ状態に陥るのですね。
 そのノイローゼ状態のところに発生したのが「厳子さん殴打事件」(笑)。長い皇室史上でも最大のスキャンダルだったと言って良い事件だと思われます。この事件についてはほとんど当事者の一人といっていい厳子さんのお父上・三条公忠さんの日記「後愚昧記」で詳細に記されております。ほとんどそのままドラマ内でもやっちゃいましたので特に補足することはないんですが、この峰打ち殴打の原因に義満様と厳子さんの密通があったのではないかというのはあくまで後世の人間の推測であって確たる証拠があるわけではありません。しかしここまでしちゃうからにはよくよくの疑惑があったのだろうとは誰もが思っちゃうところであります。
 ここまでにもたびたび出てまいりましたが、当時の京童(きょうわらんべ)というのはホントに情報が早く、かつ殿上人の耳にも入るぐらいワイワイと大騒ぎするものであったようで、この事件の直後から面白おかしく話をふくらませた噂がずいぶん飛び交ったようです。まだ按察局の一件が起こる前から「どうも上皇は将軍を恐れてすでに丹波に没落されたそうだぜ」などという勝手なデマまで飛んでいたみたい。これがまた上皇をいっそうノイローゼに追い込んだのかも。
 厳子さん殴打事件からわずか一週間後(もちろん当時は一週間なんて概念はありませんが)、按察局なる上皇の愛妾が出家して御所を追われます。これについて京の人々は「上皇が按察局と将軍の密通を疑ったからだ」と噂しあったと先述の日記にあります。実は厳子さんが義満様と密通していた、あるいは後小松天皇は実は義満様の子、という憶測もこの按察局のケースから来てるんですよね。ここらへん、ドラマとしては展開上ややこしいんで(厳子さんと同時に不倫関係になってるってのも面倒だったんで) 按察局が実は義満さんの送ったスパイだったという設定に変えさせてもらっています。一応作者としては先の事件との時間的関係などからも案外真相はこっちだったかもと思ってます。厳子さんのお父様もさすがに天皇の母である自分の娘の不倫疑惑を日記に書くわけにはいかなかったんじゃないかと思うこともありまして。
 按察局出家の原因が自分との不倫疑惑だと知った義満様は上皇に使者を送り込みます。これを巷の噂どおり自分を流刑にするためだと勘違いした上皇は持仏堂に立てこもって切腹すると騒ぎ立て始めます。連想余談ですが、大河ドラマ「太平記」放映時、朝の連ドラの音楽を担当した某作曲家がNHK正面ロビーに乗り込んでおんなじことをするという珍事がありましたっけ。
 面白いのがこの上皇の二つのご乱心事件とも実の母親・仲子さんが登場して解決している点です。まさに母は強し、というところでしょうか。またこのお母上が義満さまにとって叔母にあたるということも事態解決にいたった理由として重く見なければならないでしょうね。
 事件後、義満様が与えられた待遇「准三宮(准后)」ですが、近い例ですと、「正平の一統」で京都奪回に一時成功した際に南朝の北畠親房さんが与えられています。

 その南朝はまさに落日の一途。いや、北朝も同時に落日しているような気もしますが。
 楠木正儀は事実上行方不明、北畠顕能、懐良親王といった当「ムロタイ」でも意外と長く登場してきた南朝キャラたちもこの世を去っていきます。こうしてみるとずいぶん時代が経ったもんだなぁと思うばかりですね。そして長慶天皇もこの時期に譲位をしたらしく(前にも書きましたが、なにせこの人在位が確認されたのは大正時代末なので正確なことはほとんどわかりません)、世代の交代が進んでおります。

 さて、最後に頼之さんが登場、久々に京都へと向かいます。帰京の理由は夢窓疎石さん(第1回のみ登場!)およびお父上・頼春さん(懐かしー、第6回で亡くなってます)の三十三回忌の法要を行うためでした。もちろんそこにはある程度政治的な背景があったのでしょうが…
 え?あれから三十三年も経ってるのか!と一年前に始まった連載をかえりみてドラマ内時間の時の流れの速さにも驚かされるのでありました。

制作・著作:MHK・徹夜城