第四十二回
「親子の絆」


◆アヴァン・タイトル◆

 康暦の政変から三年が過ぎた。将軍・足利義満は武家のみならず公家の世界にもその権勢をふるい、その勢いは「治天の君」たる上皇すらも圧迫するほどであった。そんな中、政変で京を追われた細川頼之が、法事のためとして久々に京へと向かっている。


◎出 演◎

足利義満

細川清氏(回想)

今川了俊

今川仲秋 藤原慶子

長慶天皇 後亀山天皇

義堂周信 絶海中津

夢窓疎石(回想) 春屋妙把 

鄭道伝 無学 天竺聖

観阿弥 世阿弥 陳宗寿

斯波義将

小波

魏天

大内義弘

後円融上皇

李成桂

世阿弥(解説担当)

後小松天皇(子役) 足利義持(子役) 河野通之(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ協力:奈良市観光協会 天橋立観光協会
協力:朝鮮王朝放送教会

細川頼春(回想)

二条良基

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 1383年(日本の永徳三年)、高麗北辺で防衛にあたっていた将軍・李成桂のもとを一人の文人が訪ねていた。その名を鄭道伝という。鄭道伝は高麗内外における情勢変化と矛盾の蓄積を李成桂に説き、「高麗の命脈はすでに尽きております」と率直に言う。「なぜそのようなことをわしに話す?」と問う李成桂に、鄭道伝は「将軍こそ次代をになうお方と見込んだからです。わたくしはそのお力になりたく参上いたしました」と答える。李成桂は「めったなことを言うものではない」とたしなめつつ、その目には野望の光を浮かべていた。
 当時、高麗は南は倭寇の侵攻、北は中国の元から明への交代に伴う混乱から女真族の活動が活発化していた。高麗の朝廷自体も親元派と親明派の対立があり、非常に不安定な政治情勢にあった。このような状況の中で軍事的成功を次々と収めていた李成桂への待望論が広がりを見せつつあったのである。

  その高麗から日本の室町幕府に対して倭寇鎮圧の要請は繰り返されており、高麗との交渉役も務めていた九州探題・今川了俊も九州平定事業と並行して倭寇鎮圧、被虜者の送還に力を注いでいた。。小波魏天の夫婦は了俊の配下として水軍を率い、主に高麗と九州の連絡に走り回っていた。
 小波と魏天の耳にも李成桂の名と彼に対する待望の声が聞こえてきていた。二人は高麗の寺で無学という僧侶と出会う。無学は二言三言話すなり魏天が中国の人間であることを言い当てた。無学は賤民の出身ながら独学で仏法を学び、元にも留学していた経験があったのである。「実はわしの両親も倭寇にかどわかされたことがあってな。…わしは対馬の地で生まれたのじゃ。魏天どののお立場は身に染みてよくわかるつもりじゃ」と無学は語り、「日本にも、そして明国においても新しい君主と強い政権が生まれつつある。わしらのような悲劇を根絶するためにも、この高麗にも新しい国が生まれねばならぬ。わしはそう考えておるのじゃ」と言って、以前将軍・李成桂が自分を訪ねてきたことを語りだした。李成桂は自分が見た夢の意味を占ってもらうべく無学を訪ねてきたことがあったのである。無学の見立ては李成桂が将来この国の王になるであろう、というものであった。
 小波と魏天は九州に帰り、了俊に半島の情勢その他を報告した。了俊は弟で養子の今川仲秋、そして片腕と頼む大内義弘も集め、「海賊どもの智略は並大抵のものではない。しかし彼らを押さえ込まねば、幕府は、足利家はこの日本国の支配者とは異国に認めてもらえぬのじゃ」と言って、特に南九州方面からの倭寇活動を根絶させるべくいっそう励むことを誓うのだった。

 9月30日。久しぶりに京に入っていた細川頼之は、妻の慈子ともども若き日に師と仰いでいた夢窓疎石の三十三回忌の法要を景徳寺で執り行っていた。夢窓の甥で、頼之とは政敵の間柄である春屋妙把もひとまず旧怨は忘れて導師として招かれていた。それは両者の和解を世間に印象付けるものでもあったが、一方ですでに頼之が中央政界において完全に権力を失っていたということでもあった。
 頼之は法要の中で、むかし夢窓疎石に言われた言葉を回想する。「人間、この世に生まれたるはそれぞれ何らかの宿命(さだめ)があってのこと。頼之どのにも何か定まったお役目があるのでございましょう。だからこそ危難に出会うとも道がおのずと開ける」「では、わたくしの役目とはなんなのでございましょう?」「それを見つけるのも、また人生」
 「あれから三十年以上の歳月が流れたのか…わしはいまだにおのれの役目を見つけられずにおる…」と頼之は慈子に語る。

 翌年の二月まで、頼之は久しぶりの京での政治とは一切無縁の生活をのんびりと過ごした。この2月20日には同じ景徳寺で、やはり春屋妙把を導師として、頼之の父・細川頼春の三十三回忌法要が執り行われた。この目でその最期を見ることはなかったが、京都に突入した南朝軍との戦いで壮絶な戦死を遂げた父の面影に、頼之は思いを馳せる。そしてその面影は、いつしか自らの手で討った従兄弟の細川清氏の面影とも重なっていく。(思えば、多くの人の命が失われ、このわしも奪ってきた…前将軍がいまわの際に命じられた、太平の世は、まこと来ているのであろうか…)頼之は法要のさなか、父の位牌を見ながらそんなことを思い続けていた。
 この法要には将軍・足利義満も出席し、御簾の向こうから法要の様子を聞いていた。義満の家庭教師的存在でもある禅僧・義堂周信も同席し、ここに頼之は公の場で名誉を回復することになった。
 法要が終わって、義満は義堂を交えてひそかに頼之と慈子に面会した。「長らく苦労をかけてしもうた…薄情な男と思ったであろう」と義満は頭を下げ、頼之夫妻を「もったいないお言葉」と慌てさせる。「あのころは、わしもまだ若く、力も足りなんだ。今もこうして頼之を都に入れることは出来ても、幕政に参与させることは出来ぬ。だが着実に、わしは力をつけてきておる。いつか必ず、そなたとともに天下を治めようではないか」と義満は言う。「わたくしはもはや出家して隠居の身…」と頭を振る頼之に、「いや。そなたの力無くしてこの義満の天下はありえぬ。わしと頼之は、あの日から父と子の間柄ではないか」と義満。頼之と慈子は感激の涙を流した。
 父の法要を終えた頼之は、間もなく四国へ戻るべく京を離れた。頼之の在京と義満との関係修復は政敵である斯波義将一派にとってはやはり気がかりなことであり、彼らの警戒を解くための離京でもあった。


 永徳四年は至徳元年と改元になり、この年はいたって平穏無事な一年となった。前年激しい抵抗を見せた後円融上皇もすっかりおとなしくなってしまい、公家・武家ともに義満の権勢は高まる一方であった。
 この年の5月4日、駿河の浅間神社で能が奉納されていた。演ずるは52歳の観阿弥である。22歳になる息子の世阿弥 が見守る中、観阿弥は見物人たちを感嘆させる見事な舞を披露した。この月の19日に観阿弥はこの世を去り、この舞が彼にとって人生最後の舞となった。その最後の舞の華やかさを、世阿弥はしっかりと目に焼き付ける。世阿弥は義満の庇護を受け、その芸にますます磨きをかけているところだった。

 一方、南朝勢力は各地を転戦していた後醍醐天皇の皇子・宗良親王が吉野で七十五歳の生涯を閉じ、もはや軍事的な活動を見せることも出来ず、先ごろ皇位に就いた後亀山天皇はもっぱら幕府との和平交渉に望みを繋ぎ、ひそかに接触を図ろうとしていた。これに対し長慶上皇 は依然として主戦論を唱えており、楠木氏のあとに和泉・河内に入った山名氏をなんとか南朝方に組み込めないかと画策をしており、南朝の公家たちも天皇・上皇両派に分かれて内紛を起こしている有様であった。長慶にいたってはこの年の九月に後亀山派に対する勝利を祈る願文を神社に収める行動にでたほどである。

 さて義満の周囲には義堂周信のほかに元に留学した経験のある絶海中津など有能かつ国際性に富んだ禅僧が仕えて義満に漢学・詩文の知識を授けていた。また義満は相国寺にいる天竺聖(ひじり)や元からの亡命者である陳宗寿(=外郎(ういろう))など外国人も好んで側近におくなど、異国趣味のはなはだしいところもあった。
 この義満にとり良き師であった絶海が、この至徳元年に義満に直言をして怒りを買ったため京を離れ、摂津に庵を構えて隠遁した。この絶海を讃岐にいた頼之が招いたのは至徳二年(1385)の七月のことであった。絶海は土佐の出身でその一族は頼之の家臣となっているという縁があり、自らの領国に立派な寺を創建したいという頼之の意向で招かれたものであった。
 讃岐に絶海を迎えた頼之は大いにこれを歓迎する。「お互い、島流しにでもおうたようなものですからな、気が合いましょう」と笑う絶海。「将軍は幼い頃からこうと決めたらなかなか言うことを聞かぬお人柄でござった。しかし過ちは過ちとして素直に反省される方でもござります。いずれほとぼりがさめるまで、この四国に落ち着かれませ」と頼之は絶海を慰める。絶海は頼之の故郷でもある阿波・秋月の地に宝冠寺を創建してその住持となるなど、しばらくの間頼之のもとで過ごすこととなる。
 
 翌至徳三年(1386)2月、義満は管領・斯波義将らを従えて南禅寺に義堂を訪ねた。「ときに、絶海はいまどうしておる」と義満が話を向ける。義堂が「ただいま四国の田舎にこもって静かに修行しておると聞きまするが」と答えると、「絶海を追い出してもう一年になる。そろそろ呼び返しても良かろう」と義満。義堂がそばに控える斯波義将らにも気を使って「もうしばらく田舎に置いて懲らしめましては」と笑って言うと、「それは和尚の老婆心よ。さっそく使いを出し、絶海を呼び寄せよ」と義満も笑って答えた。このやりとりに、斯波義将などは内心面白からぬ表情を見せていた。
 義堂はただちに絶海と頼之に向けて手紙をしたため、使者を四国へと送った。帰京の命を受けた絶海は頼之との別れをお互いに惜しむが、「こたびの急な動きは、将軍に何か思惑がおありなのでしょう。わたくしも常久(頼之)どののために尽力を惜しみませぬぞ」と言い置いて京へと戻っていった。

 この年の2月12日。義満の側室の一人である藤原慶子が男子を出産した。後の四代将軍・足利義持である。義満には側室の加賀局との間にすでに二人の男子が生まれおり、これが三人目の男子となる。
 この頃から、義満はしばしば京を出て各地に大掛かりな遊覧旅行に出るようになる。足利将軍と室町幕府の権威を世に知らしめると同時に、各地の有力大名や寺社を視察と同時に牽制する目的で行われたこうした遊覧は、世の人々を驚かせるほどの規模と豪華さであった。至徳二年八月には二条良基と共に奈良の寺社をめぐり、至徳三年十月には丹後の天橋立を遊覧しているが、これはそれぞれ興福寺や山名氏といった有力者の本拠地に自ら乗り込む行為でもあった。

 この至徳三年、義満の斡旋で河野鬼王丸が頼之の義子として元服し、頼之の一字をとって「通之」と名乗ることとなった。元服に立ち会った頼之は「この年でこれほど立派な息子を持つことになるとは…」と目を細めて喜ぶ。
 翌嘉慶元年(1387)正月三日、後小松天皇(数えで11歳)の元服の儀が執り行われた。摂政・二条良基が加冠をつとめ、義満は理髪の役をつとめる。義満の幼い後小松を見つめる目には、どこかただならぬ輝きがあった。

第四十二回「親子の絆」終(2003年1月21日)


★解説★世阿弥第五弾  
 今回は何と言うんですかねぇ、出演リストの二番目にいきなりすでにお亡くなりの方が回想出演で登場しているなど、大河ドラマ終盤によくある「一足早い総集編」の内容となっているところもありますな。史実的にもこの時期は今ひとつ事件がなくてドラマ的に盛り上がらないんですよね(今回だけで足掛け四年の時間が流れてます!)。まぁそれだけ世の中平和になってきたということでもありますが。

 さて冒頭はいきなり李成桂さんの話から始まってます。このとき李成桂さんのもとを訪れた鄭道伝さんなる人物ですが、のちに李成桂さんによる朝鮮王朝の立役者の一人となる儒学者であります。家柄が重んじられることが多いこの国において下級役人の出身だった鄭道伝さんはそのことで同窓生であった鄭夢周さん(覚えてます?了俊さんと焼酎飲んでるシーンがあったでしょ) などから馬鹿にされたこともあって、早い段階から「易姓革命」を構想していたとも言われてます。それでこの段階で李成桂さんに接近しているわけで。後に李成桂さんが革命を実現し朝鮮王朝を開くと鄭道伝さんは王太子の家庭教師になるなど権勢を極めるんですが、漢の高祖に天下をとらせた張良に自らをなぞらえるなどして敵を増やすところもあったようでして、間もなく起こった「王子の乱」で暗殺されることとなってしまいます。
 もう一人、無学という坊さんが登場しますが、もちろんこちらも実在人物。倭寇に両親がさらわれていたり(対馬で生まれたことにしたのは創作です、念のため) 元に留学したりとなかなか波乱に富んだ坊さんなんですが、なんといっても李成桂さんとのかかわりが有名です。無学さんは夢占いと文字占いで名を知られており、この時期より数年前ぐらいに李成桂さんが彼の元を訪れ占いをしてもらうんですね。文字占いで李成桂さんが「問」の字を選ぶと無学さん、「“問”の字はどこから見ても“君”である」と占い、李成桂さんが錘(おもり)三つを持って現れたと言う夢の話をしますと「それは“王”の字を意味する」と占いまして、いずれ李成桂さんが王位に就くことを予言したと言われます。この人ものちに朝鮮王朝成立後「国師」として崇められる名僧となったのでありました。

 ちらりと九州の今川了俊さんの動向に触れておりますが、この時期実際に了俊さんは倭寇対策に重きを置いておりまして、高麗からの要請もさることながら永徳元年(1381)には幕府からも「大隅の悪党人」らの鎮圧を命じられていたりします。「海賊どもの知略は…」というセリフはのちに了俊さんが朝鮮王朝に出した文章の中の「その智略は聖賢といえどもいまだ及ばず」と海賊達の智略の高さに手を焼いていることをぼやく表現から拝借したものです。
 なお、ドラマ中では触れませんでしたが、至徳三年(1386)に明にまたもや「日本国王良懐」の使者が到着し、追い返されております。懐良親王はすでに亡くなっておりますし、ここまでの経緯からすると島津氏が怪しいところですかね。

 久々に京に戻ってきた頼之さんですが、夢窓疎石さんと父・頼春さんの法事以外事実上何もしなかったみたい。もちろんそれ以外の何かを出来るほど自由な立場ではなかったのですが…しかし確かにこのあたりから着実に頼之さんは義満さまとの関係を修復して復権を進めていくことになるんですよね。

 ひょっこりとわたくし世阿弥とその父・観阿弥の話が挿入されておりますね。まぁもうドラマ上あまり関係のない部分ではあるんですけど、解説者の特権(笑)で挿入させていただきました。この観阿弥最後の舞台のことは拙著「風姿花伝」に載る話であります。詳しく知りたい方はお買い求めください(笑)。

 ひょっこりともう一つ挿入されているのが南朝のみなさんの動向。ああ、ホントに見る影もない状態になっちゃってますねぇ。この中で出てくる長慶天皇の願文と言うのは高野山丹生高野明神に納められているものでして、「今度の雌雄、思いの如くば殊に報賽の誠を致すべし(今度の雌雄を決するに当たって思い通りになれば厚くお礼をいたします) というやや穏やかならぬ文言があるものです。この「今度の雌雄」とは何を意味するのか古来議論がありまして、「幕府との決戦」と見る説と「後亀山天皇派との対立」と見る説があります。どちらも決定打には欠けるところですが、この時期の南朝は幕府との決戦どころではないのでドラマ的には後者をとらせていただきました。
 
 そのあと絶海中津さんにまつわるちょっとした話が入ってますが、これはおおむね史実のまんま。絶海さんを呼び戻そうかと義満様と義堂さんが話すやりとりも記録に残るものをほぼそのまんまセリフにしてあります。絶海さんが義満様の不興を買った直言ってのが何だったのか分かりませんし、一年後に驚くほどのすばやい手続きで帰京していることなどから、どうも頼之さんと示し合わせた政治的な動きだったような気もするんですが…この絶海さんは後に応永の乱でも一役を演じることになる「政治僧」でもありますからね。なお、頼之さんのセリフ中にある「将軍は幼いときからこうと決めたら…」のセリフは頼之さんが後に弟の頼有さんに宛てた手紙の中で実際に書いているものでして、幼少から義満様の親代わりを務めた頼之さんならではのセリフとして注目されるところです。
 なお、絶海さんも元からの留学帰りでありまして、この時期義満様周辺はなかなか国際的な顔ぶれがそろっております。本文中にチラッと出てきた「天竺聖」というのはほとんど正体不明なんですが、「天竺=インド人」と言われる外国人で(東南アジアの人ではないかとの見方が多い) 、相国寺に入って早いうちから義満様に気に入られ常にその側に置かれていたと伝えられる人物。彼の子の楠葉西忍はのちに日明貿易で活躍するなどこれまた波乱の生涯を送ることになったりします。この辺、もうちょっとドラマ内に組み込みたいところだったんですが、やや構想期間が足りませんでした。
 陳外郎(ういろう)こと陳宗寿については以前博多の場面でチラッと触れていましたね。朱元璋に敗れた群雄の一人・陳友諒の一族の亡命者で、父親が母国で「員外郎」の地位にあったことから「外郎(ういろう)」と呼ばれるようになった…と言われてるんですが、正確なところはほとんどわかりません。少なくとも彼のニックネームが「ういろう」だったのは確かなようですが。後に彼も日明貿易に携わり「透頂香」という薬を持ち帰り、この薬が彼のあだ名をとって「ういろう」と呼ばれることになるわけです(咳止め、痰きりの薬らしい)。江戸時代になってこの「ういろう」と似た形のお菓子が作られ、いつの間にやらこちらが本家をのっとってしまい、名古屋名物になってしまうという不思議な展開になるんですね。

 今回はたるみ気味な展開なので話がポンポンと飛び飛びになっているのでありますが、その中で後の将軍・足利義持さまがお生まれになっております。母親の藤原慶子さんは義満さまの侍女だったらしいんですが、「藤原」の姓からも察せられるように家柄も悪くはなかったようで、それが義持さまが跡継ぎになった理由でありましょうね。なお、六代将軍でくじ引きで選ばれたり暗殺されたり(おっと、この放映時点ではこれはまだだった)で有名な義教さまもこの慶子さんのお子さんです。だからあのくじ引き、八百長だった可能性が高いと言われてるんですが…。

制作・著作:MHK・徹夜城