第四十三回
「王者の遊覧」


◆アヴァン・タイトル◆

 将軍・足利義満の権威は高まる一方であった。公家・武家共に他を圧する権力を掌握し、上皇をも屈服させた義満の次なる目標は有力守護大名や鎌倉府を牽制し、日本全土に将軍の権威を見せ付けることであった。そして幕政を追われた細川頼之にも、復活の時が訪れようとしている。


◎出 演◎

足利義満

今川了俊

細川頼有 細川頼元

陳外郎 足利氏満

今川仲秋 細川氏春 土岐頼康

義堂周信 春屋妙 今川泰範 

崔瑩 鄭夢周 張阿馬 

土岐康行 土岐満貞 土岐詮直

斯波義将

小波

魏天

李成桂

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ協力:富士山観光協会
協力:朝鮮王朝放送協会・朝鮮王朝陸軍第35師団

二条良基

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 日本で足利義満が公武両面にわたって勢威を増していたそのころ。高麗、明の沿岸には依然として倭寇の激しい侵攻活動が行われていた。対馬や壱岐、松浦から九州各地から出発した倭寇集団は朝鮮半島から中国南部まで広大な海域に活動し、各地で物資や人間を略奪していた。
 九州探題・今川了俊は九州の平定事業を進めつつ、こうした倭寇の鎮圧と倭寇にさらわれてきた被虜人たちの送還事業に忙殺されていた。了俊の麾下で働く小波魏天勇魚たちも博多と高麗を往来してこうした事業に関わっていた。特に魏天は自らも倭寇にさらわれてきた被虜人であり、被虜人たちを「他人事とは思えぬ」と小波に語る。「では、いずれ明の故郷に帰るの?」と問う小波に、魏天は「懐かしくないか、帰りたくはないかと言われれば確かにその気持ちはある。が、もはや故郷には家族も知人もない…わしにはもはや帰る家は、今いるこの家しかないのだ」と答えた。小波と魏天の間にはすでに男の子が一人産まれてもいたのである。
 嘉慶元年(1387)閏五月、今川了俊にとって最大の抵抗勢力であった島津氏久が没した。これ以後、九州で了俊に正面から対抗する大勢力はなくなり、了俊の九州平定事業は順調さを加速していくこととなる。

 この年の十月、細川頼之の従兄弟の細川氏春が死去した。日頃は讃岐の宇多津に居を定めていた頼之は妻の慈子を伴って阿波の秋月に赴き、この国の守護を務める弟の頼有と久しぶりに顔を合わせて、氏春の思い出話などを肴に酒を酌み交わしていた。氏春は頼之と清氏の対決の折には清氏側について戦ったこともあったが、その後は管領の頼之を助けて南朝軍と戦うなど、細川一族の波乱を頼之たち兄弟と共にしてきた従兄弟であった。「ぼちぼちわしらと同じ世代の知り合いが一人、また一人と逝くようになりましたなぁ…」と頼有は兄にしみじみと言う。「それがしもすでに五十六…もはや楽隠居の歳でござるよ。そこで所領を全て息子の松法師(頼長)に譲ることにいたしました」との頼有の言葉に、頼之は「弟のそなたが隠居しては、わしもつき合うしかないかのう」と苦笑する。「兄上には、まだ幕政にご復帰のお考えで?」と頼有が探りを入れるように問うが頼之は笑って「お互い、老体を大事にせねばならぬなぁ」と言うだけであった。

 了俊の命で高麗に渡っていた魏天が博多に帰ってきて、最近の高麗政界の情報などを了俊に報告した。それによれば近ごろ高麗朝廷では明帝国に対する対応をどうするかで激しく二派に分かれて争っているとのことであった。
 もともと高麗はモンゴルの元朝に服属していて、元の衰退に乗じて元に奪われていた北方の旧領を回復したりもしていたが、依然としてモンゴルにある元(北元)と新興帝国である明のどちらにつくかでは政界でも大きく意見が割れていた。このところは親明派が力を持っていたのであるが、ここに来て明側が高麗に対し領土問題で高姿勢を強めてきたため、高麗朝廷は崔瑩らを中心とする親元・反明に大きく傾いてきていたのである。倭寇対策のために来日し了俊とも親交を深めた鄭夢周や、倭寇鎮圧に功のあった将軍・李成桂はいずれも親明派であったが親元派に押さえ込まれているという情勢であった。「我が国は将軍のもとにようやく治まりつつはあるが、海の向こうではまだまだ嵐が吹き荒れとるのう」と報告を聞いた了俊はつぶやく。

 翌年の二月、高麗朝廷はついに明に対し完全に対決姿勢をとることに決し、遼東方面への出征を決定した。四月に出発した遼東遠征軍を率いる主将は李成桂その人であった。
 ところが高麗と明の国境である鴨緑江の川中島「威化島」まで進軍したところで、李成桂は進軍を止めてしまう。そして小国が大国を攻めることの非や、長雨と暑さの問題、北征の隙をついた倭寇の活動の恐れなど遼東攻撃撤回の意見を都・開城に送りつけたのである。これが崔瑩らの拒絶を受けると、李成桂は軍を率いたまま反転して都・開城へと進撃。クーデターを断行して親元派を追放し、鄭夢周らと共に親明政権を樹立した。これを史上「威化島回軍」と言う。

 高麗での政変の混乱もさめやらぬ中、この年(嘉慶二年=1388)七月に今川了俊は高麗からの被虜人二百三十人を集めて高麗へ送還していた。その見返りに了俊は高麗で印刷され日本でも重宝されていた「大蔵経」の下賜を求めていた。了俊らにとり被虜人の送還は単に人道問題だけではなく「交易活動」という側面もあったのである。この被虜人送還の船団には勇魚が乗り込み、高麗へと渡っていた。
 明と日本の間でも同様の被虜人送還事業が行われていたが、「胡惟庸事件」の余波で日明間の国交が途絶えているため、これはもっぱら民間の商人達の手により行われていた。そんな明の商人の一人、張阿馬という男が博多に来ていて九州各地にいる被虜の明人を買い集めていた。その話を聞きつけた魏天は情報の収集と提供を兼ねて張阿馬のもとを訪ねた。
 魏天は張阿馬を相手に、久しぶりに故国の人間と故国言葉で会話をし懐かしさに震える。しかし張阿馬は魏天が日本・高麗・明の三国の言語を操りかなりの教養人であることを知り、「お前は使えるな。使えず友カネにはなる」と言って、部下達に命じて魏天を拘束してしまう。張阿馬は海をまたにかけ三国の沿岸に活動する海賊商人でもあったのである。
 夫の魏天が数日経っても帰宅しないことに小波は子供を抱きながら不安な日々を送っていた。そこへ高麗から勇魚が帰ってきて小波を励ますが、小波は「もしや祖国の人と会って故郷が懐かしくなり去っていってしまったのではないか」と勇魚を前に泣く。

 そのころ、京では。
 創立以来幕府政治に関わっていた多くの人物が相次いでこの世を去っていた。嘉慶元年12月に土岐頼康が、翌嘉慶二年4月に義堂周信が、6月には二条良基、8月には春屋妙葩と武家・公家・僧侶の重要人物が次々と亡くなっていた。そしてそれはそれまで義満を支えつつ頭を押さえていた存在が次々といなくなり、結果的に義満への権力の集中をさらに確固たるものとしていく過程でもあった。
 幕府創立以来の宿老の一人であった土岐頼康は美濃・尾張・伊勢三国の守護であった。彼の死を受けて、「年寄りどもが次々いなくなって寂しくもあるが…せいせいしたところがあるというのも本音じゃな」と義満は管領・斯波義将に向かって言った。「土岐の守護職のことであるが…頼康の養子・康行に継がせるのは当然として、頼康の代人として京におって何かと働いてくれた満貞にも守護職を与えたい」と義満の言葉に義将は表情を曇らせた。「康行と満貞は実の兄弟ではありますが仲は悪い…そのようなことをなさっては康行が根に持つのでは」と義将がやんわりと諌めたが、義満は聞かず、結局土岐康行には美濃と伊勢を、その弟満貞 には尾張を、と分割して相続させることを決定した。この満貞は庶流ではあったがながらく京にあって土岐氏の代人を務めて義満に接近しており、ひそかに土岐一族の惣領を我が物にしようと野心を持っていた。義満のこの決定は土岐一族の内紛に火をつけるものに他ならなかったのである。
 五月、満貞が守護となった尾張に下ると、はたして康行派の従兄弟・詮直が黒田宿でこれを迎え討ち、土岐一族は美濃(康行)と尾張(満貞)の間で内戦状態に陥ってしまった。
 義満はその報を受けて一人ほく笑んでいた。ある日、義満は義将に「どうかの、将軍と幕府の威勢を天下に示すために、わしは関東に自ら赴こうと思うのだが」と言い出した。言われた義将は驚いて「将軍自ら、戦でもないのに遠方へへお出向きになるとは滅多に例なきこと…」と諫めるが、義満は「一国を治めようという者が、その国をおのれの目で見ずして何とするか」と笑い、もはや決意を翻す気はないとして準備を進めるよう命じた。

 この年の9月16日、義満は富士見物に赴くとして壮麗な行列を従えて京を出発した。一週間ほどの行程ののち駿河に入った義満は、この国の守護・今川泰範 (了俊の甥)の歓待を受け、名峰富士を見物した。その行列の豪華さは京から離れた地の人々にも強く将軍の権威を印象づけ、また京の人々にも将軍が物見遊山で都をがら空きにして出かけられる時代になったのだということを実感させた。そして軍勢をも従えたこの旅行は、ともすれば幕府に対し離反、ときに取って代わろうとする野心をみせる鎌倉公方・足利氏満に対する威嚇・牽制という意味合いも持っていたのである。
 「秦の始皇を知っておろうな」と義満は富士を眺めながら、同行していた側近の陳外郎(ういろう)に問うた。「もちろんでございます」と答える陳外郎に、義満は言う。「始皇は…初めて唐土を統一し、初めて皇帝を称し、自ら天下をめぐって己の存在を人々に知らしめた。わしも一国を司る者として、その故事に倣いたい」聞いた外郎が「この国にはミカドや院というお方がござりますが、都を出ることすらめったにないようですな」と言うと、「そうじゃ…わしは帝も院も上回る、この国のまことの“主”である、それを満天下に示さねばならぬのよ」と義満はそっとつぶやくように言った。
 義満は関東まで足を踏み入れることは避け、ただちに京へと帰った。義将以下幕府の首脳がホッとしたのもつかの間、義満は「次は西国じゃ。厳島神社に参詣し、九州までも足を伸ばそうと思っておる」と言い出し周囲を慌てさせる。そして道案内をさせるためとして、了俊を九州からいったん京へ呼び返すよう命じた。
 
 義満が九州下向を決意し、了俊に一時帰京を命じたことは了俊自身にとっても大きな驚きであった。義満の書状を受けた了俊は「将軍はいよいよおんみずからの手で世を動かされるおつもりじゃな…すでにお歳も三十一、ご立派になられたことであろう」と喜び、さっそく弟の仲秋と共に上洛の途につくことになった。瀬戸内海を船団で東上した了俊は、その途中讃岐の宇多津に立ち寄った。もちろん親友の細川頼之と久しぶりに顔を合わせる目的であったが、同時に義満から内々に頼之に伝える密命を帯びていたのである。
 「やれ、なつかしや…十七年ぶりか」「お主も坊主頭か…お互い、年をとったのう」宇多津の館で了俊と頼之は再会を喜び合った。了俊が九州に下向して以来の再会である。お互い顔を合わさぬ間に重ねた苦労に思いを馳せ、酒を酌み交わして夜通し語り合った。「お主も苦労してきたが…いよいよ時機が来たぞ。将軍がこのたび厳島、九州へと足を運ばれるにあたって、この宇多津にもおいでになる。その時のためにお主に船団を仕立てよとの密命じゃ」と了俊は頼之に告げた。「将軍のこのたびの西国下向は、ほかならぬ頼之、お主を幕府に復帰させるための企てじゃ」と了俊は大いに喜び、涙ぐむ。頼之はそれにはうなずくだけで何も言わず、館の外の夜景に目をやって言う。「了俊、清氏はこの土地で死んだ…あやつの霊もこの酒席にこっそり来ておるのかもしれぬぞ…」

 翌康応元年(1389)三月四日、足利義満は今川了俊や細川頼元ほか諸大名を引き連れ、例によって盛大な行列をつくって京を発ち、西国へと向かった。義満一行のために兵庫に用意された百余艘の大船団はすべて細川頼之が仕立てたものである。
 船に乗り込んだ義満は上機嫌で、「帆を上げよ!船出じゃ!」と高らかに声を上げるのだった。

第四十三回「王者の遊覧」終(2003年3月2日)


★解説★世阿弥第五弾  
 やれやれ、また長い中断の末の更新でございます。ひな祭りの季節まで続いちゃう大河というのもどうなんでございましょうか(笑)。しばらくぶりの執筆だったもんで、作者も勘をかなり忘れているようでございます。

 今回は高麗での政変の話がかなり入ってきておりますね。これについては本文中でかなり説明しちゃってるんで(そのために妙に文量はありますが映像化した場合はさらりと軽い感じでしょうね) あまり解説をこちらでつける必要がないんです。とにかくこの「威化島回軍」は文字通りこの国の歴史のターニングポイントとなりまして、これまで倭寇討伐やらなにやらで登場はしていた李成桂さんがいよいよ歴史の中心人物となり、次の王朝をひらく展開につながっていくわけです。
 了俊さんが倭寇にさらわれた高麗人を送還して、見返りに大蔵経を求めたというのはもちろん史実でして、了俊さんは何度か同様の目的の使者を高麗に送っています。この大蔵経というのは言ってみれば「仏教経典全集」みたいなものでして仏教大国であった高麗で盛んに印刷のための版木が作られ、日本でもお寺や大名などの間で大変な需要があり、何かというとこの「大蔵経」を求めるんですね。のちに幕府は印刷したやつだけじゃなくて版木も譲ってくれとたびたび要求していたりします。そういうこともありまして倭寇被虜者送還事業は一種の「交易」だったという見方も出てくるわけです。
 このドラマ中に出てくる魏天自身もそうでしたが、朝鮮半島からだけではなく中国沿岸からさらわれた被虜者も相当数いたようで、早くも懐良親王が送還をしていますし、当時の資料中にもしばしばこうした被虜中国人が九州周辺にいたことが見えます。ところで今回いきなり魏天さんが張阿馬なる海賊商人に連れ去られる展開になってますが、ほとんど作者の勝手な創作です。ただし元ネタは一応ありまして、張阿馬というのもレッキとした実在人物。これについての解説は現時点ではネタバレになりますんで、後日にまわさせていただきます。

 頼之さんと頼有さんが「お互い年とったなぁ」と語り合う場面が出てまいりますが、この会話に出てくる、この年頼有さんが嫡子の松法師(頼長)さんに所領を譲ったというのは史料的に確認できる史実です。余談になりますがこの頼有さん、頼長さんの家系はやがて和泉半国守護家となり、戦国から安土桃山にかけての細川幽斎(養子ですけど)や忠興(ガラシアの旦那として知名度高し)などを輩出して熊本藩の祖となり、その子孫には平成に入って総理大臣になる人が出てきちゃったりするわけですな。

 さて今回は中盤から顔を出す義満様。なんせ嘉慶元年は義満様がらみであまり事件がないんですよ…一応前回後小松天皇の元服で理髪の役を務めた直後に、側室の加賀局が生んだ第二の男子が夭折していたりはするんですがドラマ的に挿入しにくくって。
 しかし嘉慶二年からはいよいよ義満さん独壇場の世界になってまいります。やはりこの時期に義満の子供時代からの恩師的存在だった二条良基さんや義堂周信さん、そして夢窓疎石さまの甥で禅宗界の第一人者であった春屋妙さんなどが相次いで亡くなって義満さまの頭を押さえられる人がいなくなったこと、また義満さま自身が壮年に達して自信に満ちてきたこととがあいまっているんでしょうね。
 土岐頼康さんが亡くなった後に、わざと内紛が起こるような相続をさせた辺りなどは義満さまの真骨頂といえる展開。またこの時代って、このあとの「明徳の乱」でも出てまいりますが、「一子相続」が確立せず兄弟分割相続がまだ一般的だったため、ともすれば弟の家系、分家が本家=惣領に取って代わろうとして争いがしばしば起こるんですね。南北朝時代を通して戦乱がなかなかやまなかった理由の一つにもこうした事情がありました。だいたい足利将軍家からして観応の擾乱をやりましたし、将軍家の弟分の鎌倉公方も何かと将軍に対抗意識を燃やしてしばしばこれに取って代わろうという野心を見せていたものです。

 その鎌倉に対する威嚇のデモンストレーションであったと言われるのが、嘉慶二年九月に行われた義満様の富士見物の駿河くだり。ちなみに義満様のお子様である六代将軍義教さまも全く同じ駿河下向イベントをやっておりまして、これもやはり鎌倉公方の足利持氏さんへの威嚇であったと言われます。
 そして翌年には厳島参詣旅行が挙行されます。当初義満様が遠く九州まで足を伸ばす予定であったことは、この旅行に同行した今川了俊さんご本人が『鹿苑院殿厳島詣記』という紀行文にその動機を「つくしの国をも御覧じ」とあることにもうかがえます。九州探題である了俊さんをわざわざ一度京に呼び寄せて案内役を命じていることからも並々ならぬ意気込みであったと思われますね。
 さらに『鹿苑院殿厳島詣記』には「かつは四の国にいたりて、やまと言の葉歌つ(宇多津)といふ処をも御らむじ、又は武蔵入道頼之朝臣ふるき好(よしみ)をもとぶらはせ給はん」 としていたと書かれ、歌枕めぐりと称して頼之さんとの旧交を温めることも大きな目的の一つであったことが分かります。この旅行に先立って頼之さんは厳島詣でのための船団を仕立てることを命じられ、百余艘の大船団を用意してこれに応えました。ここから頼之さんの政界復帰が本格的に始められることになるわけです。

制作・著作:MHK・徹夜城