第四十四回
「復活」


◆アヴァン・タイトル◆

 将軍・足利義満は武家・公家の双方の上に君臨し、絶対的な権力を手にしつつあった。義満はおのれの権威を世に知らせ、かつ自らに対抗する勢力を牽制すべく、各地に盛大な遊覧旅行を挙行する。義満は西国への遊覧旅行を催すにあたって、十年前の政変で四国に追われた細川頼之に接触を図る。それは頼之の政界復帰への道が開かれたことを意味していた。


◎出 演◎

足利義満

今川了俊

山名氏清

和子

細川頼有 三島三郎

細川頼元 細川頼長

山名満幸 絶海中津

今川仲秋 佐々木高秀 山名義理

土岐満貞 山名時義 今川氏兼 山名氏冬

細川満春 斯波義種 畠山基国 畠山貞清

日野資衡 山名時熙 山名氏幸 土岐康行

斯波義将

大内義弘

世阿弥(解説担当)

細川弥九郎(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍十四師団
ロケ協力:厳島神社 高野山金剛峰寺
協力:瀬戸内観光フェリー

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 康応元年(1389)三月四日、将軍・足利義満は厳島参詣、さらには九州への上陸を企図して京を発った。付き従う武将は斯波義種細川頼元細川満春(頼之の従兄弟・氏春の子)、畠山基国、同貞清山名満幸土岐満貞、そして九州探題の今川了俊、その弟の仲秋氏兼らも加わるそうそうたる面々である。武家だけでなく義満の正室・業子の一族である公家の日野資衡も義満の側につきそい、このほか旅の途中で歌枕を巡っていくとして多くの歌人や絶海中津のような詩僧までがこの一行に加えられていた。その行列の壮大華麗さは前年の富士見物旅行をしのぐもので、世の人々の耳目を驚かせるものであった。
 京を発った大行列は兵庫の港に向かい、ここで大小百余艘の船団に分乗して瀬戸内海に漕ぎ出した。船団の準備すべてを取り仕切ったのは前年のうちに義満から内々に下命を受けていた細川頼之である。そして兵庫を出航した船団は、その頼之の本拠地である讃岐国・歌津(宇多津)へと直行した。

 義満の大船団が宇多津に到着したのは三月六日夜半のことである。夜が明けて七日早朝になってから上陸した義満一行を、前夜から歓待の用意を整えて待ち受けていた頼之とその家臣一同が出迎える。船を降り立った義満に、頼之が静かに歩み寄る。「将軍…よくぞ讃岐の地においでくださりました…」頼之はそう言って義満の前に膝をつき、かしこまった。義満はそれを助け起こし、「武州入道、出迎え大儀じゃ!」と力強く声をかけた。「ははぁっ!」と感激して頭を下げる頼之。
 その日一日がかりで義満一行の歓待の催しが行われた。頼之はその行事全般の指揮を自ら執り、会場のあちらこちらを忙しく走り回って家臣達に指示を出し、何が足りぬと言ってはあたふたと駆け回っていた。夫のそんな様子を見た慈子が家臣の三島三郎「殿はすでにお年じゃ。あのようにおんみずから走り回らずとも…そなたたち家臣がお助けすればよいではないか」と言うと、三郎は「それがしも殿と同じ歳ゆえ分かりまするが」と言って、「殿はあれが楽しくてしょうがないのござるよ…家臣として、お邪魔をしてはご迷惑かと」と笑った。そんな親友・頼之の奔走ぶりを、了俊は微笑んで見つめていた。

 歓待の行事が一段落したところで、宇多津の館の中で義満は頼之と弟の頼有、頼元、そして義満の乳母でもある慈子ら、頼之の近親だけを集めてささやかに宴を催した。義満はここでは「将軍」としての公式な立場から離れ、父母代わりとも言える頼之と慈子を相手にくつろいでいた。「これより厳島、さらには筑紫まで足を延ばしたい。頼之も来てるれるな」と義満が言い、頼之はかしこまってこれを受けた。見ると、一座の中に十歳ぐらいの少年がいる。義満が「あれは誰か」と問うと、「弥九郎と申し、我が末弟の満之の子を養子としてひきとって育てておるもの…慈子がぜひ子育てをしたいと申しましてな。この年で孫のような子を持つことに成り申した」と頼之が目を細めて弥九郎をそばに呼び寄せた。義満は弥九郎の頭を撫でて、「そうか、お前もこのわしと同じ父母に育てられておるのじゃのう…いわば兄弟じゃな」と微笑んだ。

 翌八日、頼之も加わった船団は厳島へ向けて宇多津を出帆した。十日に厳島に到着し、十一日に諸大名ともども厳島神社に参詣。ここで周防・石見・長門の大名・大内義弘が到着して義満と対面した。義弘の先導を受けて一行は周防に向かい、周防下松で大内氏の盛大な歓待を受け、十三日に周防国府、十五日には赤崎まで船団を進めた。
 「なんとしても筑紫の土をこの足で踏むのだ」と意気込んでいた義満だったが、この赤崎で暴風雨のために出航を阻まれ、頼之と了俊の意見もあって義満自身の九州入りは中止されることになった。また未確定ながら高麗軍が対馬に攻め込んだとの情報があり、義満は今川氏兼を陸路九州に向かわせ、自らは周防の竈戸に引き返すこととした。「またいずれ来ることもあろう」と言ってはいたが義満はかなり無念がっていた。
 竈戸で河野一族らの面会をしたのち、義満一行は瀬戸内海を東上する帰路についた。備後尾道を経て再び讃岐の宇多津に入港したのは三月二十二日のことである。
 翌二十三日の丸一日、義満はこの宇多津で停泊を命じた。そして宿舎となっている寺に頼之一人を呼び寄せたのである。この二人だけの会見が重大な政治的意味をもつものであろうことは、一行に加わっている諸大名の誰の目にも明らかなことであった。

 寺の一室で、義満と頼之はたった二人で向かい合った。「武州入道…都へ上ってこぬか」義満がまず口火を切った。「土岐頼康も死んだ。実は山名時義も病で床から上がれぬ。斯波義将はそつなく管領をこなしておるが、これからの大事には役に立たぬ男だ。そちに再び管領となり、わしを助けてもらいたい」義満の言葉に、頼之は目を見据えて「これからの大事、とは…?」と静かに尋ねた。「足利の家と幕府をより盤石のものとせねばならぬ。そのためには大きな力を持つ者の力を削がねばならぬ。…その者とは何者か分かるか?」との義満の問いに「土岐…山名…大内…鎌倉…そして吉野でござりましょうか」と頼之は答えた。「吉野を加えたか?」と義満が意外そうに言うと「あなどってはなりませぬ。吉野の帝自体にはもはや力はござりませぬが、いったんことあれば、必ず担ぎ出されましょう」と頼之は言う。義満はこれにうなづいた上で「土岐は分裂を始めた…間もなく追討をすることになろう。山名においてもことは同じじゃ。惣領の時義が死ねば、必ず乱が起こる。その時手を下すことになろう…」と言った。
 「土岐はわしの手で片づこうが、山名は比べ者にならぬほど大きい。その時は頼之、そちの力が必要となろう」と義満は言う。「では、その時が来たらば、なんなりとお申し付けくださりませ。老骨にむち打って、お助けいたします」との頼之の言葉に、義満はふと思いついたように「そのほう、今年いくつになる?」と聞いた。「六十一…暦も一回り致しました。この年になってこのような大きな仕事を仰せつかるとは身の果報というもの」と頼之は笑った。
 会見が終わり、頼之は寺から一人歩み出てきた。外に控えていた三郎が主君のそばに駆け寄る。「との…」三郎の声に答えず、空を見上げる頼之。その両目からは大粒の涙があふれ出ていた。

 義満一行は宇多津を出航し、頼之は播磨の室の津までこれを見送って讃岐に戻った。義満自身は三月二十六日に京都に帰還し、二十日以上に及んだ大旅行を終えたのである。留守を守っていた管領・斯波義将 とその一派にしてみれば、この旅行は細川頼之の幕政復帰への地ならしにほかならぬと警戒したが、これといって動きを見せることも出来ない。康暦の政変時に頼之失脚に動いた有力武将や高僧の多くがこの世を去り、指導者を欠いていたのである。それを見透かしたかのように、帰京した義満はただちに美濃の土岐康行を討伐するよう、周辺の武士達に命じていた。
 山名一族の惣領・時義が死去したのはこの年の五月四日のことである。山名一族は一代の梟雄であった時氏の没後も中国・畿内に守護国を増やし、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・但馬・出雲・隠岐・備後・和泉・紀伊の合計十一カ国を支配するに至っていた。全国六十六カ国のうち六分の一を領有する山名一族を、世の人は「六分一殿」と呼ぶほどであった。
 しかしその山名一族にも内紛の火種がくすぶっていた。時氏の死後その主な領国は嫡子の師義が受け継ぎ、庶子である氏清氏冬義理らがそれぞれ一、二カ国を相続した。師義の嫡子に義幸があったがこれは病弱で、師義は自らの弟の時義(時氏の五男)を養子に迎えて山名惣領の地位を継がせた。しかし師義には庶子の満幸がいて義幸の代官として丹後・出雲の守護となり、内心叔父の時義の惣領相続に不満を抱いていた。同様の不満は時義にとっては兄である氏清にもあった。満幸は氏清の娘を妻に迎え、お互いに連帯を強めていた。このような時に時義が死に、その子・時熙が惣領の地位を継ぐことになったが、それは山名一族内の内紛の種に火をつけるものに他ならなかった。

 和泉国・堺。山名氏清はこの港町に本拠地を構えていた。かつては楠木氏ら南朝勢力が支配したこの地に彼らを駆逐して入った氏清は、堺の町の整備に力を注いでいた。「ここはやがて兵庫をしのぐ港町になるぞ」と氏清は妻の和子を連れて整備が進む港を見せて歩きながら言う。「瀬戸内の船はみなここに集まるようになる。さすれば、遠く異国の船までもこの港に入り、またここから異国へ向けて船が出ることになろうぞ」と氏清は明るい顔で和子に言う。「領国の備後と結びますれば、山名の力はいっそう強まりましょうな」と言う和子に「いや…備後は時義の息子達が継ぐことになろう」と氏清は顔を少し曇らせる。「殿は河内・和泉であの楠木を相手に武勲を上げたお方…まだ若く何の手柄も立てておらぬ時煕どの、あるいは氏幸どのに六分一殿の惣領が引き継がれるとは何とも悔しゅうござりますな」と、和子は言う。それを聞きながら氏清は黙って海の方をにらみつけていた。

 九月十六日、義満は今度は紀伊・高野山への参詣に出発した。義満の高野山参詣旅行もやはり単なる物見遊山ではなく、かつての南朝勢力の拠点ともいえたこの地に将軍自ら足を踏み入れて権威を示す狙いもあったが、経由する和泉・紀伊の地はいずれも山名一族の守護国であり、氏清(和泉守護)・義理(紀伊守護)の兄弟に対する信頼を示す挙行とも言えた。氏清と義理は当然のごとく義満への接近を図って盛大な歓待ぶりを示したのである。

 年が明けて明徳元年(1390)三月、義満は突然「山名時義には将軍の命を聞かず、無礼のことが多々あった」として、時義の子の時煕氏幸を討伐するとの意志を示した。これはかねて時義の息子二人に恨みを持っていた山名満幸の讒言によるものであり、義満は満幸と氏清の二人を室町第に呼びつけて「それぞれ兵を率いて時煕・氏幸を討て。討伐に功あらば彼らの守護国のうち但馬を氏清に、伯耆と隠岐を満幸に与えよう」と言い渡した。氏清は「いま突然の、しかも既に死んだ時義のことでの討伐とは合点がゆきませぬが…」と時煕のためにとりなしをしたが、満幸が目で合図してそれをやめさせた。退出しながら満幸は「叔父上、この良き機会を逃してはならぬ。うまくすれば山名の惣領は叔父上でござるぞ…そのためにわしが常々将軍に働きかけておいたのじゃ」と氏清に言うが、氏清は「どうであろうの…わしはどうも時々将軍が何を考えているのか図りかねて空恐ろしくなるときがある…」と義満のいる方を見やる。「そういえば、時煕の守護国の備後は誰が押さえるのじゃ?」と氏清はつぶやく。

 讃岐・宇多津にいる頼之のもとに、幕府からの御教書が届いたのは三月も半ばのことであった。内容はこのたび山名時煕らを討伐するにあたり、頼之を備後の守護に任じ、四国から軍を率いて備後を平定せよとの命令である。「備後のことは頼有に任せたいと内々に申し上げていたのだが…わしが備後守護にされてしもうた。不満があるなら備後平定の後に改めて申せとある」と頼之は御教書を手に慈子に語る。「それだけ将軍は殿を頼りと思われておいでなのでしょう」と言う慈子に、「将軍はご幼少のころから一度こうだと決めたら他人が口を挟むのを嫌うお方じゃった…近ごろますますそのような」と頼之は苦笑する。「久しぶりの出陣じゃ…頼有にも出てもらおう。兄弟そろってこの歳で戦とはなぁ」と慈子に言いつつ、頼之は頼有宛の文をしたため始めた。

 三月十七日、義満は正式に山名時煕・氏幸討伐の命を下した。同族の氏清・満幸の軍の攻撃を受けた時煕らは敗れて備後へと落ち延びたが、そこには四国から海を渡って来た細川頼之・頼有・頼長 (頼有の子)の軍勢が待ち受けていた。時煕らは備後の国人たちに恩賞を約束して抗戦しようとはかったが、かつて若き日に「中国管領」としてこの備後に地盤を築いていたこともある頼之は優勢に戦いを進めた。時煕らの軍勢は散り散りとなって備後はあっさりと平定され、時煕・氏幸の兄弟はいずこへともなく姿をくらましてしまった。
 この戦いと同時に、義満は近江の佐々木(京極)高秀に命じて美濃の土岐康行を討たせ、この閏三月に康行を完全に没落せしめた。土岐一族の領国三国のうち美濃は康行の従兄弟の土岐頼益が、尾張は弟の満貞が、伊勢は仁木満長(義長の子)に分割されることとなった。

 「備後のことはお前に一切任せるぞ」備後の平定を終えた頼之は頼有に言う。「兄上には、やはり幕政に戻られるおつもりで…?」と問う頼有に、頼之はうなずく。「もうお互いこの年じゃ…これが最後のご奉公のつもりでの…」

第四十四回「復活」終(2003年3月5日)


★解説★世阿弥第五弾  
 長い中断のあとはえらくハイペースの更新となりました。まぁどうせ週刊ペースからは逸脱しておりますしねぇ…。ともあれ本編には全然出てこなくなったくせに解説にはしゃしゃり出てくるムロタイのナビゲーター、世阿弥でございます。
 今回はなんだか異様に文章量が多かった気がしますねぇ…やはり元となる史料が多い部分はドラマ的にもいろいろと助かりますな。

 さて康応元年の義満様の厳島参詣大旅行でございますが、幕府の要人から九州探題の了俊さんの兄弟や大内義弘さん、そして四国の頼之さんまで参加するという日本史上でも稀に見る一大参詣イベントでございましょう。もちろん義満さまがこの時期やたらに挙行している参詣旅行はいずれも政治的な意図を強く持っていたことは明らかですが、これほど頻繁に(戦争以外の用事で)あっちこっち出かけた最高権力者というのも近代以前ではかなり珍しい人なんじゃないかと思われます。

 前回解説でも触れましたが、この義満様の厳島紀行は参加していた当事者の一人・今川了俊さんが『鹿苑院殿厳島詣記』という紀行文に詳しく記しています。それにしても了俊さんはさすがは当代きっての文人、『難太平記』にしてもそうですが時代の当事者自らの証言をいっぱい書き残して本ドラマの製作にずいぶんご協力してくださってますねー。あの『徒然草』だってこの人のおかげで世に出たようなもんですし。
 このドラマ中で宇多津に到着した義満様一行を、頼之さんが自ら走り回って歓待するシーンがありますが、実はこれもズバリその『鹿苑院殿厳島詣記』に書かれていることなんですね。原文から引用しますと「かの入道(頼之)こころをつくしつつ、手のまひ足のふみ所をしらず、まどひありくさま、げにもことはりとみゆ。いかめしき御まうけとは見ゆれども、心ざしの程にはなをよび侍らぬとやおもひけむ、ありがたかりき…」といった様子だったそうで。
 この頼之さんの歓待シーンで「弥九郎」さんという養子が出てまいりますが、これは『尊卑分脈』や『系図纂要』に出てくる細川基氏さんという人のこと。『尊卑分脈』には頼之さんの子としか記されてないのですが『系図纂要』のほうで頼之さんの弟の満之さんの子(つまり甥)で頼之さんが「子に擬した」ものと確認される人でして、通称「弥九郎」というのも頼之さんの通称を引き継いだものなんですね。長い間「弥九郎」という通称のみで呼ばれていて、応永七年(1400)にようやく兵部大輔の官位が記録されていますから、この時点ではまだ頼之さんの孫ぐらいの少年だったのだろうという年齢設定にしてあります。

 厳島参詣を終えた義満さまは九州まで上陸するつもりだったようなんですが、結局風雨のために断念しています(少なくとも了俊さんはそう書いてる) 。ここでチラリと「高麗軍対馬襲来」の情報が出てまいりますが、これはこの年の二月に倭寇の拠点を攻撃し被虜高麗人を奪還するべく実際に行われたもの。この情報が微妙に影響したかも…とここに混ぜてみたんですね。義満さまの次の義持さまの時代にも同じ目的で朝鮮軍による対馬攻撃が行われてますが(朝鮮では「己亥東征」、日本では「応永の外寇」という)今日の我々でもビックリするぐらい情報が早く中央まで伝わるんですね(どのくらい早いかというと攻撃実施以前に京に噂が伝わっていたりする(笑))。先走った余談ながらこの事件の後始末の日朝交渉でこのドラマでは現在行方不明中の魏天さんが一役買ったりするんですねぇ。
 ともあれ九州上陸は中止して引き返した義満さまは讃岐の宇多津に再び停泊、ここで頼之さんだけを呼んで二人きりで密談を行っています。この模様も『鹿苑院殿厳島詣記』から引用しますと「廿三日はここにとどまり給て、武蔵入道(頼之)めされて遥に御物がたり有けるとかや。何ごとにか有けむ、涙をさへてまかでけるときこゆ」とあり、了俊さん自身は伝聞のみであったようですが頼之さんが何か感激するほどの重みを持つ会見であったのだということが知られます。ともかくこの会談が頼之さん政界復帰の道を事実上開くことになるのです。

 さて今回の内容で大きなウェイトを占めているのが山名一族…なのですが、やたらに人名と血縁が出てきてグチャグチャに頭が混乱された方も多いかと思います。そこで山名一族を系図にいたしますと、

時氏----師義==時義(養子)---時熙---持豊(「応仁の乱」で有名な宗全)
    |    |        |
    |     -義幸      -氏幸
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    |     -満幸
     -義理
    |
     -氏冬--氏家
    |
     -氏清
    |
     -時義(師義の養子となる)

 といったぐあいになります。そして今回の後半、時熙・氏幸追討直前の守護国は、時熙(但馬・備後)、氏幸(伯耆・隠岐)、義理(美作・紀伊)、氏家(因幡)、氏清(丹波、和泉)、満幸(丹後、出雲)となっておりました。合計十一カ国を支配する山名氏は「六分一殿(六分一衆)」と呼ばれるほどの勢いであったわけですが、もとをたどれば「上野の山名というところで百姓同然の暮らしをしていた」 と語った苦労人の時氏さんが一代でその基礎を築き上げたものなんですよね。その経過についてはこのドラマでも見てまいりましたが、その時氏さんが「それに比べて息子どもは苦労を知らん」と嘆いたと伝えられるように、ここに来て一族内紛の種を抱えることになったわけです。家系図を見ても分かりますが、そもそも時氏さんの五男である時義さんがお兄さんの師義さんの養子となって惣領を継いだところにやや無理があったみたい。師義さんの実子は三人いたようなんですが母親の出自が低かったせいなのかどうなのかいずれも跡を継がせてもらえず(長子の義幸さんが病弱だったのは確からしい)、実力はかなりあったらしい満幸さんなんかはかなり不満を持っていたようです。こうした事情は土岐氏の内紛にも見ることが出来ましたが、ホントこの時代って基本的に兄弟分割相続なのでこうした争いが絶えないんですな。

 山名氏清さんが今回から特にクローズアップされてまいりました。もちろんこのあとの「明徳の乱」の主役の一人だからなのでありますが…奥さんの名前を「和子」にしたのは例によって作者の勝手な創作です。このあとこの奥さんもいろいろとドラマがありまして…。
 堺の町を氏清さんが整備しているシーンがありますが、たぶんやったろうな、という程度の話です。この時点での堺はまだその後の戦国時代のような一大貿易・商業都市にまでは成長しておりませんでしたが(少なくともその後の義満さんの貿易拠点は兵庫=神戸でした)、ぼちぼちその芽が出てきているというところでした。「明徳の乱」の主役・山名氏清さん、そして「応永の乱」の主役・大内義弘さんが共にこの堺の町を拠点にしているというところは、これらの戦乱を語る上で注目されるところでしょう。
 この年に義満さまは高野山参詣も実施。高野山詣でについては嘉慶二年春にも行われ、このとき楠木氏の軍勢の攻撃があったという話もあるんですが、信憑性に乏しいので本ドラマでは採用しませんでした。それにしてもホントよく出かけてますよね、この将軍さまは。

 明徳元年(1390)、ついに山名時熙さんに対して追討の命が下りました。ほとんどいいがかりに近い理由で、これは山名満幸さんの讒言に基づいていたことはほぼ確実のようです。その一方で氏清さんなんかは時熙さんたちのために一応弁明をしたと言う話もあります。ともあれ、義満さまは満幸さんの讒言を讒言と知りつつ乗って、わざと一族内の内紛をけしかけさせたというところが真相でしょう。次回に進みますと義満さまの作戦のエゲツナサがよりいっそう見えてくるかと思われます(笑)。
 そして!この戦乱に際してついに細川頼之さんに備後平定の命が下ります。本文中での頼之さんと慈子さんのやりとりは、頼之さんがこの三月十六日付で頼有さんに出した手紙(現存する) の内容に基づいて構成されています。その内容によればもともと備後のことは頼有に任せてやってほしいと幕府に言っていたのにどういうわけか自分に備後守護の命が下ってしまった。備後平定を終えたら備後のことは一切頼有に任せよう、といったもの。この手紙の中で面白いのが義満様の性格に触れるくだりで、「御所さま(義満)の御やう、一ど仰出されたる事を、人がなにかと申候を、御い(意)にちがい候事、御をさなく候し時より御わたり候しが、いよいよさやうに御ざ候ほどに、てもちからも無く候」 と書いてるところなんですね。そのままでも何となく読めるかと思いますが、要するに「御所様は一度おおせになったことに人がなにかと口を挟むことをお嫌いになる、幼いときからそうでいらしたが、いよいよそうなっているようで、手の施しようも無い」と苦笑しているというところでしょうか。子供のときから父親代わりで義満さまの面倒を見てきた頼之さんならではのコメントといえましょう。
 頼之さんがこのとき四国から兵を率いて備後に上陸したことは、「明徳の乱」の一部始終を記録した「明徳記」に「又細川の武蔵入道常久は、四国より中国に押渡り、備後国を退治して」とあり、また家譜などにこのとき頼有・頼長父子が参陣したことが知られます。
 さて、いよいよ頼之さんの幕府政治復帰の時が近づいてまいりましたが、それについては次回で。

制作・著作:MHK・徹夜城