第四十五回
「老骨鞭打つ」


◆アヴァン・タイトル◆

 康応元年三月、足利義満は壮大な厳島参詣を挙行、西国に将軍の権威を示すと共に、四国で細川頼之と会合して頼之の復権を世に示した。その一方で義満は幕府に対抗しうる外様の守護大名・土岐氏と山名氏の内紛に火をつけて挑発、その勢力を削ごうと策謀をめぐらしていた。


◎出 演◎

足利義満

今川了俊

山名氏清

和子

細川頼有 三島三郎

細川頼元 山名満幸

山名義理 山名時熙 山名氏幸

良成親王 菊池武朝 張阿馬 河野通能 

斯波義将

大内義弘

勇魚

小波

魏天

世阿弥(解説担当)

後小松天皇(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍15師団
ロケ協力:気比神社 春日大社 興福寺
協力:大明国南京電影公司

洪武帝(朱元璋)

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 明徳元年(1390)9月、各地への遊覧を続ける足利義満は今度は越前国・敦賀の気比神社へ参詣に赴いた。越前は管領・斯波義将の守護国である。このところ土岐・山名とかつての斯波派の有力大名が力を削がれる一方で細川頼之はじめ細川派に復権の動きが顕著となるなかでの越前訪問は、義満が両派のバランスをとるため斯波義将に対して懐柔策に出たものではとの見方が諸大名の間に広がっていたが、義将自身は「先の土岐、山名をみよ…将軍のお心のうちは誰にも読めぬ…空恐ろしいばかりよ」と側近に語り、義満のこの行動をむしろ自分に対する威嚇と受け取っていた。

 一方九州に戻った今川了俊は、肥後に残存する良成親王菊池武朝らの南朝勢力の拠点宇土・河尻を攻め落としてこれを八代に追い、九州の平定をいよいよ確固たるものとしていた。その一方で倭寇による被虜者を高麗に送還すると共に献上品を送って独自の外交交渉も進めていた。この事業にはもともと海外貿易に携わっていた大内義弘も積極的に協力し、了俊・義弘はますます高麗との結びつきを強めていた。
 その了俊・義弘のもとで水軍を率いて働く勇魚小波であったが、魏天の行方が杳として知れず不安な日々を送っていた。博多に来る商人たちの噂で、近ごろ倭寇を仲間に引き入れて明の沿海を荒らしている張阿馬という海賊がいて、そこに三言語を操る明人らしき男がいるとの話を聞くが、その確かな消息は分からぬままであった。

 この年の九月に細川頼之は備後に加えて備中の守護にも任じられ、以前のように中国地方にもその勢威を広げるようになっていた。明けて明徳二年(1391)三月には頼之および弟・頼有に対して備後平定の論功行賞があり、頼有は備後に所領八カ所を与えられ、なおかつ後小松天皇から「錦の御旗」までが下賜されていた。これをはじめとして義満の細川一族に対する肩入れはより露骨なものとなり、頼之の幕政復帰が公然とささやかれるようになっていく。

 「もはや、これまでじゃ」この動きに斯波義将も観念した。側近達の中には「同心の大名達と兵を募って将軍に迫っては」と「康暦の政変」の再現する強攻策を唱える者もあったが、あの時と違って土岐や山名といった大大名が内紛のために力を削がれており、細川の軍勢も山陽にあり、しかも義満自身が「奉公衆」なる直属部隊三千を擁していて軍事的圧迫は通用しない状況となっていた。「頼之もそうじゃったが…このわしも一度は都落ちした身。生きてあれば、また復帰の機会もあろう」と義将はあきらめたように言った。
 三月十二日、斯波義将は突如として管領の辞任を義満に表明し、まるで逃げるように領国・越前に下ってしまった。義満はただちに頼之に上洛の命を下す。

 「ついに、来たか…」義満の上洛命令を受けた頼之は感無量の思いでつぶやいた。「おめでとうござりまする!」と涙し喜ぶ慈子三島三郎に、頼之は力強く頷く。「そちたちも来い。わしもこの年じゃ…もはや四国に戻ってくることはかなわぬかもしれん…これが最後のご奉公と思って都に上ろう」
 明徳二年四月三日。当年六十三才の細川頼之はついに入京した。康暦の政変で管領の職を失い幕府を石もて追われて以来、およそ十二年。頼之は再び幕府の宰相の地位に返り咲いたのである。「前将軍のお召しを受けて上洛したときを思い起こすな…あのときはわしはまだ三十九…二十四年も前のことなのか…」馬上から都の景色を眺めながら、頼之は三郎に言う。「わたしくも同じ歳ゆえ…わたしくも感無量でござりまする…」と三郎は涙していた。

 さっそく頼之は室町第に上洛の挨拶に出向いた。義満もまた感無量の面もちで頼之の挨拶を受ける。「苦労をかけたのう…じゃが、その甲斐あって、そちはこうしてこの室町に戻ってきた。これからは常にわしのそばにあってわしを助けてくれい」義満のかける言葉に頼之は涙し「この頼之、老骨に鞭打ち、最後のご奉公と思うて微力を尽くしまする」と深々と頭を下げた。
 義満は頼之に、越前に逃れた斯波義将の後任として管領職を引き継いでくれと言ったが、頼之は「それがしは出家の身、幕府の中核の地位に就くことは控えるべきでござりましょう」と言って、弟で養子の頼元を管領に任じてほしいと申し出た。義満はそれを認め、四月八日に頼元を管領に任じた。
 これ以後、頼元は管領として幕府の評定を主催し各種の命令も彼の名の下に出されるようになったが、頼元が仕事を終えて幕府を退出したのち入れ替わるように頼之が幕府に出仕して義満の前で評定の結果を報告するなど実質的に政務をみるという形がとられた。実際の管領職にはないとはいえ頼之が実質的な管領として幕府の政務を見ていることは誰の目にも明らかであった。

 細川頼之が返り咲き、幕府の執政を行うようになっていたころ、明沿岸各地は張阿馬の率いる倭寇集団の襲撃を受けていた。明官軍はこれの鎮圧を図って何度となく彼に破られていたが、ついにこの年の八月、杭州付近の海岸にいた張阿馬一味を襲撃し彼らを一網打尽にすることに成功した。
 張阿馬らの捕縛はただちに洪武帝(朱元璋)のもとに報告された。洪武帝は張阿馬ら幹部の処刑を命じたが「捕らえた者の中に変わった男がいる」との報告に興味を引かれた。その男はもともと中国の生まれで倭寇にさらわれ、高麗と日本の間を行き来して双方の言語に通じているというのである。洪武帝はその男を自分のところへ召し出すよう命じた。
 かくして魏天は洪武帝その人とまみえることとなった。魏天は怪異な容貌をした洪武帝に初め恐れも抱くが、「そう堅くなるな。わしも元はと言えばお前と変わらぬ庶民の出じゃ」と言って異国のことにひどく興味を持ってあれこれと質問攻めにしてくる皇帝の態度に次第に緊張がほぐれて、日本や高麗のことを知る限り話し尽くした。洪武帝は「遠き海の彼方のことを話しておると気がほぐれるのう…」と愉快げに、それでいてどこか寂しげな表情で言う。このころの洪武帝は九年前に良き忠告者であった馬皇后に先立たれていっそう気持ちをすさませ、官僚・地主層や功臣たちに対する大粛正を何度となく繰り返していた。
 「いろいろ苦労があったであろうが、こうして命あって帰ってこれたのじゃ。故郷へ戻って親に孝行せよ」と洪武帝は言うが、魏天は「すでに私の肉親は故郷にはおりますまい。今の私の肉親は日本にあり、もはや海の彼方が故郷と思っております。かないますることならば日本へ行かせていただけませぬか」と申し出た。しかしこれには洪武帝も首を縦には振らなかった。倭寇の問題や先ごろ粛正した胡惟庸の一派が「倭と結んで謀反を図った」とされたこともあって日本との交渉は一切禁じられていたのである。「高麗の言葉が出来るのであれば、北平の燕王のもとへ行き、通事をつとめるがよい」と洪武帝は魏天に命じた。燕王とは洪武帝の四男・朱棣(しゅ・てい)のことで、北方のモンゴルに対する備えとして北平(現在の北京)に封じられていたのである。

 実質的な管領として政務に励む毎日を送っていた頼之は九州探題・今川了俊に対抗する島津氏に帰順を働きかけたり、四国の河野通能を京に呼んで義満のそばに仕えさせるなど幕府の権威を強める方策を次々と行った。この間にも義満は兵庫へ足をのばし、また奈良の春日社を参詣するとして興福寺など大和の諸勢力に圧迫と懐柔を仕掛けようともしていた。頼之はそれらの準備にも追われていた。
 その義満の奈良訪問の直前、突然の不幸が彼を見舞った。弟の頼有が九月九日に急逝したのである。享年六十歳であった。慈子と共に頼有邸に駆けつけた頼之は弟の遺骸の側で静かに涙した。「頼有…弟のお前が兄に先立つのか…まだまだお前に手助けしてもらおうと思っておったに…」頼有の戒名はむかし帰依していた禅僧・無涯仁浩につけられた道号「無敵」をとって「勝妙院無敵通勝」とされ、無涯ゆかりの永源庵に葬られた。
 頼有が亡くなって間もなくの九月十五日、義満は諸大名・公家などを多数引き連れ壮麗な行列を仕立てて春日社参詣の旅に出た。春日社・興福寺ともにかつては僧兵や神人を京に繰り出して強訴などで幕府に圧迫をかける手強い勢力であったが、このころには義満の権威の高まりと共にすっかり懐柔されてしまっていた。義満は武家・公家だけでなく宗教界の上にすら君臨する人間となりつつあったのである。

 十月、義満のもとに一通の訴状が届いた。差出人は先ごろ義満の命で追討を受けた山名時煕氏幸の兄弟である。同族の氏清満幸らに領国を追われた彼らはいったん備後に逃れていたが、ここでも頼之ら細川軍の攻撃を受けて落ち延び、ひそかに京に舞い戻っていたのだった。清水付近に身を潜めた二人は出家したうえで義満にあてて訴状を書き、「我らに決して野心は無く、全ては満幸の讒言によるもの」と無実を訴えたのである。
 おりしも、山名氏清から義満に「宇治のそれがしの別邸で紅葉狩りなどいかがでござりましょう」との誘いがあり、義満はそれを受け入れていた。義満は頼之と頼元に時煕の訴状を見せ、「そちはどう思う。わしは時煕の嘆願あわれむべし、その罪を免じて追討を取り消してはと思うが…」と問うた。頼之は義満の顔をじっと見て「そのようなことをすれば、今度は満幸・氏清の立場がありませぬな」とだけ言う。義満はニヤリと笑って「今のと同じ問いを宇治の紅葉狩りの際に氏清にぶつけてみようと思うておる。あやつがどう出るか、それが見物よ」と言って笑いながら歩み去っていった。残された頼元は「将軍は恐ろしいお方じゃ…土岐に仕掛けたことと同じ事を山名になさろうとしておられる」と頼之に言う。頼之は 「考えてもみよ。将軍は幼い時には都を追われたこともある…大きゅう成られても諸大名の武力の前に屈辱を味わったこともおありじゃ。強い力がほしい、その思いは天下の誰よりもお強いのじゃ。公家も院も寺社も押さえ込んだ今、将軍は敵となりうる大名の力をどのような手を使っても削いでいかれるおつもりなのじゃ」と弟に語った。

 十月十一日、宇治の氏清の別邸での紅葉狩りのために義満は公家や大名を率いて京を発った。同じころ主催者である氏清も妻の和子に見送られながら本拠地の和泉・堺を出発して宇治へと向かっていた。
 氏清の一行が淀まで達したときである。京の方向から馬を馳せてくる者があった。ほかならぬ氏清の甥で婿でもある満幸である。「叔父上、宇治へ行かれてはなりませぬ!」満幸は馬から下りて氏清に向かい、叫んだ。「時煕と氏幸がひそかに京に舞い戻り、将軍に赦免を願い出ておる。将軍は御赦免のお心を決めて今日宇治で叔父上にその話を持ちかけるおつもりじゃ」この満幸の言葉を聞いて氏清は愕然とする。「時煕を赦免じゃと…では、我らに与えられた領国のことはどうなるのじゃ!?」「ともあれ、今日宇治へ出向いてその話を将軍の口から持ち出されては我らがそれを拒むことはかないませぬ。今日の所は堺にお引き上げになり、将軍の出方を見定めるべきでござろう」満幸の言葉に氏清はうなずき、ただちに堺へとって返した。
 まもなく宇治の義満のもとへ氏清からの使者がやって来て「氏清は急に風気の気味にて」と病を理由に欠席する旨を伝えてきた。出席していた武家や公家たちは主催者の欠席に驚いたり呆れたりしていたが、義満は「ふむ…察しおったか」と一人含み笑いをしていた。

 その事件からしばらくたった十一月八日、義満は突如、満幸の出雲守護職を奪い、満幸に京から離れて丹波に下向するよう命じた。理由は満幸が出雲の上皇領を横領しその地の代官を追い出すような行為を行ったためとされていた。満幸はただちに京から離れたが、丹波へは直行せず和泉の堺へと馬を走らせた。
 堺の氏清の館に入った満幸が氏清の前に姿を現したとき、その目はすでに血走り、頬は怒りで紅潮してた。「叔父上、もはやこれまでじゃ!将軍は我ら山名をつぶす気ぞ…!そもそも昨年の時煕追討の時からこのはかりごとを決めておられたのじゃ…初めは我らをそそのかして時煕らを討たせ、今度は手のひらを返して奴らを赦免してこのわしを討とうとされておる。次は必ず叔父上じゃ」満幸は氏清の前で一気にまくし立てた。「あのような将軍に思いのままにされ座して滅びの時を待っていてよいのか?叔父上、もはや将軍と一戦交える他はありますまい。丹後・丹波を押さえるわしと和泉の叔父上、紀伊の義理どのの軍勢を合わせ、向こうの不意を突けば我らに勝ち目がある」氏清はしばらく黙って満幸の言葉を聞いていたが、「将軍を敵に回すのか…?それでは山名に味方する者はおるまい。われら山名の力だけでは将軍を敵としては勝てぬぞ」とささやいた。満幸は「将軍を敵に回すのが体面上まずいというのであれば、細川武州(頼之)に対する恨みということにすれよいではござらぬか。細川の敵ならば数多くおりましょう」と言い、氏清の決断を迫った。

 氏清はしばし目を瞑り、思案に暮れた。ひとまず満幸を待たせて奥に入った氏清は妻の和子のもとへ赴いた。事情を全て打ち明けられた和子は氏清に言う。「満幸どのご懸念はわたくしも同じ。山名の家は将軍の策謀の前に風前の灯火…座して滅びを待つよりは…」そう言って和子は背筋を立てて氏清の目を見据えた。「山名の家は時氏公の折には南の帝を仰ぎ、いくたびか天下をかけて足利と戦ったものでござります。殿にもその血が流れておられるはず…」妻の言葉に氏清は「さすが我が妻よ、よう言うてくれた…わしの心をしっかと読んでおる。わしの気がかりはそなたや子らのことであったが、その言葉でわしも吹っ切れた。武将として、天下をかけた戦に臨めるは、そうはめぐりあえぬ誉れよ」と言って立ち上がった。
 満幸の前に戻ってきた氏清は挙兵の決意を伝え、紀伊の義理を説得し山名の総力を上げた戦いをすべきと言った。「将軍を相手にするからには、我らも旗印を用意せねばなるまい。山名の名だけでは味方は集まらぬ」と言う氏清に、「旗印とは?」と問う満幸。「やはり南方の帝よな…おちぶれたりと言えどもいざとなれば“錦の御旗”じゃ」氏清はそう言ってから「この世には帝も二人おるが、足利の当主もいま一人おられる」と付け加えた。
 間もなく満幸は丹後へ去り、氏清も紀伊へと出発した。「六分一殿」の山名一族が総力を挙げた反乱が、ここに開始されたのである。

第四十五回「老骨鞭打つ」終(2003年3月9日)


★解説★世阿弥第五弾  
 前回に続きハイペースの更新でありますな。しかも文章量がまた妙に多いし。やはり史料が詳細にあるところは作者も書いていて楽ですなー。

 前回に続いて今回も主な内容は細川頼之さんの政権復帰であります。代わりに追われていくのが斯波義将さん。思えばこの人もお父さんの代から浮き沈みの激しい人ですねー。このドラマは頼之さんをメインにしているのでどうしても敵役としての印象ばかりが強くなっちゃって彼の政治手腕はあんまり出てこないのですけど、客観的に見ると義将さんが管領をつとめていた時期に幕府と将軍の権威が確固たるものになっていったとも言えるのですね(その基礎は前任者の頼之さんが築いたとも言えますが)。ここで攻守ところを変えて頼之さんと入れ替わって身を引いた義将さんですが、その後また復権し、義満さまの次の義持さまの時代にまで幕府の重鎮として影響力を保ち続けることになります。

 頼之さんに上洛の命令が出る直前に頼有さんに後小松天皇から「錦の御旗」が下賜されたと言う話が出てまいりました。これ今なお現存しているそうでございまして、「天照皇太神・八幡大菩薩」と金箔で記された、恐らく現存最古の「錦の御旗」なんだそうです。前にも書きましたがこの頼有さんの家系がその後ながく命脈を保ったため、この手の各種の史料・家宝がこの家で保存されることになったようで。
 明徳二年四月三日に上洛した頼之さんですが、出家の身ということもあって管領職じたいは弟で養子の頼元さん(このとき47歳説と51歳説がある)に任せます。しかしこれは形式上のことで実質は頼之さんが執政を行っていたようでして、この四月二十日の記録に頼元さんが評定を行って退出したあと、入れ替わるように頼之さんが輿に乗り騎馬六騎に守られて室町第に出仕し、評定衆(まぁ内閣みたいなもんです)と共に義満様に報告を行っていたことが伝えられています。このため「頼之が管領職に復帰した」と誤解する人も多かったようで、『明徳記』ほか当時の資料のいくつかにそうした記述が見えます。

 さていきなり話が明に飛んでおります。魏天さんのその後の行方ですね。
 前々回から登場しました、「張阿馬」という海賊ですが、やはり実在の人物です。明『太祖実録』洪武24年(1391)八月癸酉の記事によりますと、もともと台州黄巌県(浙江省海岸部)の無頼の出で、「倭国に潜入し、その群党を導いて海辺を剽掠した」とあります。官軍を一度は撃破するんですけど結局この八月に海岸で捕らえられ斬首されてます。ついでながらこの時期には朝鮮国民で「詐って倭国人服を為し」ていた海賊も明で捕まってますし(この翌々年)、さらについでながら当時の明や朝鮮の記録を見ていると「日本」と「倭国」がなんだか別の国みたいな扱いになっているときがあったりして(もそっと後の永楽帝の時代に「日本との交渉を倭が邪魔してる」との認識が出てきます)、まぁそういう面白い時代であるわけですねぇ、と作者の専門趣味丸出しですな、このへんは(笑)。
 そこに魏天さんがからんでいるのは作者の勝手な創作です。ただこの時期に魏天さんを明に行かせておかないと困る(笑)という事情があり、この張阿馬さんにからめて明に行ってもらうことにしました。
 ここでぼちぼち「魏天」という人物について説明しておきましょう。1420年に朝鮮王朝から室町幕府との交渉のために日本に派遣された宋希mという人が記した『老松堂日本行録』という旅行記がありまして、その中の京都のくだりでこの魏天が日本語と朝鮮語をバイリンガルに話す七十を過ぎた老人として登場するのですね(年齢的なことはドラマではちょいとごまかしてます(笑))。それによればこの人はドラマでも描いたとおり倭寇にさらわれて日本に来て、そこから高麗に渡って李崇仁という文人のもとで奴として仕え、高麗からの使節に加わって日本に戻ったとあります。その後「江南の使いがたまたまやって来て彼を見つけ、中国の人だとしてこれを奪って江南に連れ帰った」と書かれているんです。実はここらが作者が苦しんだところでして、この「江南の使い」って明の使者だろうとは思いつつ、いつの使者なのかわかんないんですよね(懐良親王との交渉の時とするとちょっと話が合わない気がする)。それに奪って連れて行ったというのも納得しにくいところなので、ドラマ的には海賊にさらわれたことにさせていただいた次第。
 『行録』にはその後魏天は明の皇帝と対面し、「皇帝は彼を日本に送り返して通事とした」とあります。この「皇帝」ってのが洪武帝を指すことに間違いは無いのだろうと思うのですが、洪武帝の治世後半は日本との交渉を表向き一切断っておりますので送り返すことができたのかどうか疑問もあります。だからここでは北平(現北京)の燕王のもとへまず行かされる事になりました。燕王って、誰のことだかお分かりですよね…?

 九月九日、頼之さんの三つ下の弟で長らく頼之さんのよき補佐役であった頼有さんが急逝します。思えばこのドラマでも第一回から出演されてたお方なんですよね…。序盤以外あまり出番が無かったような気もしますが。ああ、長い年月が経ったのだなぁと思わされることしきりです。前回も書きましたけど、この人の子孫が戦国、江戸、近代まで続くメインの細川家となり、平成に総理大臣を出すことにもなるわけですね。

 義満さまが次々と仕掛ける「山名つぶし」の策謀に、ついにキレた山名側が挙兵にいたる過程は、「明徳の乱」のてんまつを記した軍記物『明徳記』からほぼそのまんまドラマ化してます。『明徳記』は義満さまの側近が乱の直後に執筆したものと言われ史料的信頼性はかなり高い史料であり、当然ながら義満さまサイドの視点から乱を記述しているわけなんですけど、どうも読んでいると義満様のエゲツナサが目に付いて山名側に同情してしまうのはなぜでしょう(笑)。
 挙兵をうながす満幸さんのセリフに「将軍を敵に回すのが体面上まずいというのであれば、細川武州(頼之)に対する恨みということにすれよいではござらぬか」というのが出てまいりましたが、これも『明徳記』にそのまま出てくるもの。この長いドラマを読み返せば、山名氏と細川氏はいろいろと因縁がございましたからねぇ。思えばこれが後に「応仁の乱」にまでつながってきたりしますな。
 次回はいよいよ「明徳の乱」。久々の大合戦シーン込みでお送りしたいと思います。

制作・著作:MHK・徹夜城