第四十七回
「本意至極なり」


◆アヴァン・タイトル◆

 明徳の乱の結果、幕府に対抗しうる大勢力であった山名一族はその勢力を大いに削減された。将軍・足利義満は自らの手による大きな軍事的成功を収めたことでその権威をさらに強固なものとしていく。義満による強力な幕府の体制が固まるのを見届けて、彼を育てたその人が、その役目を終えたようにこの世を去ろうとしている。


◎出 演◎

足利義満

今川了俊

山名氏清

和子

三島三郎 細川頼元 

日野業子 藤原慶子 

加賀局 山名満幸 山名義理

山名氏家 楠木正勝 楠木正元

山名時熙 山名氏幸 山名左馬助 山名七郎

足利氏満

大内義弘

絶海中津

勇魚

小波

魏天

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍第5師団
ロケ協力:西山地蔵院 勘解由小路朱雀念仏道場
協力:大明国北京電視台


慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 明徳二年の最後の日に行われた決戦は将軍・足利義満の圧勝に終わった。義満は内野の陣営で諸将と共に野宿して勝利の宴をすながら一夜を過ごし、翌日の明徳三年元旦に宿所としていた一色邸を出て室町第に帰還した。この帰宅の道のりはそのまま勝利の凱旋行列となり、京の人々が貴賤を問わず繰り出して歓呼で義満を見送り、義満の権勢をなおいっそう印象づけるものとなった。室町第でも留守を守っていた側近達や正室の日野業子や側室の藤原慶子加賀局ら妻妾らがそろって義満を迎えて勝利を祝った。
 諸大名もそれぞれ帰宅して新年と戦勝を同時に祝っていた。細川頼之も養子の頼元ともども帰宅して妻の慈子らと共に戦勝を祝った。

 三が日を過ぎた正月四日、幕府では論功行賞の評定が行われた。山名氏清山名満幸山名氏家山名義理らこの戦いで敵となった者たちの守護国は全てとりあげられることになり、山城は畠山、丹波は細川、丹後は一色、美作は赤松、出雲・隠岐は佐々木、そして氏清・義理の拠点であった和泉と紀伊は奮戦して功のあった大内義弘にとそれぞれ与えられることになった。山名一族のうち将軍方に属した山名時煕氏幸には但馬・伯耆の守護職が認められたが「六分一殿」と言われた山名氏の勢力が大幅に削減されたことには違いなかった。
 また、この時に義満への援軍と称して出兵の動きを見せた鎌倉公方の足利氏満に対して、恩賞と同時に慰撫の意味を込めて東北の奥州・羽州を鎌倉府の直轄と認めることも決定された。「鎌倉には今後も用心せねばならぬな…何かことあれば、また野心を見せて動くことになろう」と義満は頼之らに言い、反鎌倉の姿勢を見せる小山氏などにひそかに支援してこれを牽制する方策をとることにした。
 さらに逃亡している満幸と氏家、紀伊に兵を引き上げた義理など山名の残党に対する掃討戦を行うことが決定された。山名の旧領の守護となった諸大名はそれぞれの国で山名残党の鎮圧にあたることになった。

 氏清戦死の報は和泉・堺で留守を守っていた妻の和子のもとにも元旦の昼ごろには届いた。満幸は逃亡し、養子の小次郎が氏清のあとを追って死に、息子二人も丹波方面へ逃れたとの知らせに和子は嘆き悲しみ、自らも氏清のあとを追うべく自害しようとする。周囲の者たちが慌ててこれをとどめ、幕府軍の攻撃を避けるために堺を捨て、義理がいる紀伊方面へ逃れようという意見が出て、和子を輿に乗せてあわただしく堺を出発した。
 ところが途中の日根野まで来たとき、異変に気づいた侍女たちが輿の中を見てみると、すでに和子は短刀で自らの胸を刺し自害を図っていた。致命傷ではなかったが和子は治療を拒み、「このまま死なせてほしい」と訴える。侍女や家臣達はやむなく和子をそのまま輿に乗せて紀伊に入り、根来にひとまず輿を落ち着けて回復を待つことにした。
 正月七日の暮れ、その根来に氏清と和子の息子である左馬助七郎が駆けつけてきた。彼らは丹波へ落ち延びたのち摂津へ出てここで出家し、伯父の義理を頼って海路で紀伊国に入っており、そこで母が自害を図ったことを聞き「せめて一目」と会いにやってきたのである。息子二人がやって来たことを侍女が喜んで和子に告げると、和子は「武士の子としてすでに二十を過ぎながら、父が目の前で討たれるのを見捨てた上に命惜しさに出家して、あまつさえ母が死にそうだと聞いて駆けつけてくるとは…養子の小次郎は大殿に殉じたというに…そのような者を子とは呼びとうない、今生ではもはや会うことは叶わぬ」 と苦しい息の下からはっきりと言い放った。これを聞いて左馬助と七郎はやむなく母に会わぬまま立ち去り、伯父の義理のもとへ向かったが、義理はなんとか義満に許しを請おうと画策していたこともあって甥二人を受け入れてはくれず、二人は紀伊・大和の山中へと身を潜めることになった。
 和子がついに絶命したのは正月十三日の暮れ程のことであった。死ぬ間際に和子はずっと手にしていた紙を広げ、侍女に筆をもとめてそこに何かを書き付け、それをそのまま胸に押しつけて息を引き取った。侍女達がその紙を開いてみると、それは合戦の直前に氏清が八幡の陣中から和子に向けて送った手紙で、「取りずば 消えぬと思へ あずさ弓 引きて帰らぬ 道しばの露」との一首が書かれていた。和子はその脇に「沈むとも 同じく越へて 待てしばし 苦しき海の 夢の浮橋」と書き添えていたのである。

 義満との和を図ろうとした義理だったが義満はこれをはねつけ、新たな紀伊守護となった大内義弘が二月に精鋭の水軍を率いて紀伊に上陸し、義理らはこれに太刀打ちできず逃亡を余儀なくされた。義弘はあっさりと紀伊を制圧し、和泉と共に山名の南畿の旧領をその手中に収めることになった。もともと周防・長門に拠点を持つ大内氏はこれによって瀬戸内海から高麗にまでいたる海の道を完全に押さえたことになる。
 一方河内でも楠木勝元正元らが山名残党とともに千早城にこもって抵抗し、畠山軍によって鎮圧されていた。満幸らが逃れた山陰の山名勢力も二月ごろまでにあらかた一掃され、幕府の体制は新しい秩序のもとに再編成されることとなった。

 各地からの戦勝の報告に義満は満面に笑みを浮かべていた。「大きな仕事を一つ終えたのう…氏清にはやや気の毒ではあったが、これでわしに対抗しうる勢力は無くなったと言って良い」と義満は頼之に言い、今後は武家も公家にならって家格を定め、それによって管領など幕府の重職に任じられて世を治めていくべきとの方針を語った。 「帝のもとに公家達の朝廷がなぜ長く持ちこたえてきたか、わしは良基どのなど公家衆と触れ合ううちに分かってきた。動かしがたい家格を定めて、それぞれが分を守りそれぞれの勤めのみを果たすようにしてきたからだ。わしは武家にもそのような仕組みをつくり、やがては武家と公家の境をなくした新しき政の形を作りたい…細川や斯波の摂関家があってもよいようにな」と義満は言う。頼之が笑って「細川の摂関家でござりますか…足利家はどうなされますか?」と問うと、義満は「むろん、その上よ…」と軽く笑って言い、「帝になろうとは言わぬ。何かこれまでにない、もっと新しいものにならねばならぬ。この国の『王』としてな」と付け加えた。
 「それは遠大なお志でござりますが…まずは片づけて置かねばならぬことがござりましょう」と頼之が言う。「…吉野の帝か」と察する義満。「さようでござります。すでに力無き吉野でござりますが、このたびの山名といい、そこにある限りは担ごうとする者が必ず現れましょう。山名が敗れた今こそ吉野と和を結ぶ機会でござりますぞ」と頼之は言う。「もはや吉野が求めるのは体面のみでござりましょう。将軍の御威光を示すためにも、南方の顔を立てて和を結び、長く続いた乱の根を立つべきでありましょうぞ」と言う頼之に、義満は黙ってうなづいた。
 「ともあれ、やらねばならぬことは山ほどあるわ。そのためにも頼之にはまだまだ老骨鞭打って働いてもらわねばならぬ」と義満は言う。「近く戦勝を謝して石清水八幡宮に皆を引き連れて参詣するつもりじゃ。そなたも参れ」と言う義満に、「いや…それがしは失礼ながら留守を守らせていただきまする」と頼之。「どうした?」といぶかしむ義満に頼之は少し体を揺すって「どうも老体で冬の戦場に出たためか、ちと風邪をひいたようで…」と苦笑して答えた。

 そのふとひいた風邪がこじれ、六十四歳の頼之の老体はたちまちのうちに病魔にむしばまれてしまった。帰宅後に頼之は寝込んでしまい、政務は実際の管領である頼元に一任された。
 頼之は間もなく重態に陥った。それを聞いた義満は頼元に「武州入道の見舞いに行きたい」と言い出したが、頼元は「頼之はそれを望んではおりませぬ。御所さまにはやらねばならぬことが多々ある、家臣の一老人の見舞いなどするべきではない、だいいち病がうつっては一大事、と申しております」と言って義満の見舞いを拒んだ。「頼元、頼之はそなたにとっては兄にして義理の父。わしにとっては重臣にして育ての父じゃ。子として父の見舞いに行くのは当然であろう」と義満が言うが、頼元は「それがしとて政務に差し障るとして枕元にも近寄らせてもらえませぬ…いまは心静かに、今生最後の日々を送らせてやってはいただけませぬか…」と涙して義満に言った。義満はその言葉を聞いて思わず泣き顔になり、逃げるように奥へ退出していく。

 頼之は慈子と三島三郎だけに看病のためにそばにいることを許していた。「殿、お加減は…」と問う慈子に、頼之は「もう、いかぬわ」と苦笑して答える。「わしの役目はもう終わった…ということじゃな。むかし夢窓国師に言われたことがある…人間この世に生まれたからには何か役目があるのだと…それが何かを求め続けて、わしは一生を終えた気がする…いや、それもまた人生…であったな…」頼之の言葉を、慈子と三郎だけがしんみりと聞き入っている。「うつらうつらしておるとな、先に逝った人々の…父上・母上やら頼有やら夢窓国師やら…清氏の姿までが、わしの目に浮かぶのだ…どうやらわしを呼びに来ておるらしい…こっちへ来い、と…」そう言って頼之は口元を微笑ませた。慈子も三郎も涙ぐみ、三郎は耐えきれなくなったように外へ飛び出していった。
 二人だけになったところで慈子が頼之に語りかける。「殿と初めてお会いしたのは…もう四十年も前になりますな…夢窓国師のところで…殿と婚礼を挙げたときには清氏どのが馬で乗り込んでこられたりもいたしましたな」「そうだったのう…思えば忙しい日々であった…いくさ、いくさの立て続けで…父上も、そして清氏も…戦で命を落としていった」「しかしあのころを思えば世は穏やかになったものです。全ては殿が政をみられてからでござりました」「いや…それは買いかぶりよ。世が平らかになったのは御所さまの御威光のたまものじゃ。わしはその御威光を手助けしたにすぎぬ」 「その御所さまの御威光は殿がご自身でお作りになったのではござりませぬか…御所さまをあそこまでお育てしたのは、殿に他なりませぬ。殿はこの天下に太平をもたらされた…大いなるお役目を果たされたのです」妻の言葉に頼之は否定も肯定もせず一瞬黙って目を閉じた。そして見開き、「御所さまを育てたのは、わしだけではない。慈子、そなたも将軍の育ての母よ。将軍はいわば…我ら夫婦の子だったのじゃ。これほどの子をもてる親は世にそうはおるまいよ…」と頼之は笑顔で言う。「との…」慈子は涙ながらに夫の手をとった。

 いよいよ危篤に陥った頼之は、頼元を枕元に呼び寄せ、義満への遺言を伝えるよう命じた。「山名の逆臣らに天罰がくだるのを見果てて、この常久死去つかまつること、まことに本意至極なり…今や天下において上さまを軽んじる者はあるとも覚えず、ことごとに心安く、何らこの世に思い残すことはありませぬ…管領職のことは頼元はさだめてその器にあたらざる者ゆえ、上さまがしかるべきようにご沙汰されるように…」頼之は弱りゆく声を絞って義満に伝えるべきことをこまごまと頼元に告げ、「吉野とのこと、早急にとりかかられるべし」と付け加えた。頼元がさらにあれこれ問おうとすると、「あとは将軍ご自身が、思うままに、お進みになることじゃ…将軍は、わしにも見えぬ遠い先までも見据えておられる…もはや止めうるものもない…どこまでも……どこまで…も……」頼之の言葉はそこで途切れた。まもなく医師が頼之の臨終を一同に告げた。

 明徳三年(1392)三月二日、細川頼之はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年六十四歳。南北朝動乱のまっただ中に生を受け、その動乱を自らの手で終結させ、その直後にこの世を去ったのである。戒名は「永泰院殿桂岩常久居士」とされた。
 頼之の死は、早速室町第に参上した頼元により、義満に知らされた。聞いた義満は「覚悟していたことではあったが…」と天を仰ぎ、目を閉じる。義満は頼元に悔やみを言って退出させると、一人黙って物思いにふける。少年時代からの頼之との思い出が脳裏を駆け抜けていく。「頼之…わしにとって、“父”とはそなたのことでしかなかった…」義満はそうつぶやいて一筋の涙を流した。予定されていた石清水八幡宮参詣もただちに中止が発表された。
 
 このとき三郎は家来一人を連れて細川邸を離れていた。三郎は勘解由小路朱雀の念仏道場へ赴き、聖(ひじり)に十念を受けると、道場の傍らにあった古い御堂の前に立った。そこで三郎は何か熱心に祈ると、「すまぬが、寺の者を誰か呼んできてくれぬか」と家来に命じた。家来が道場の方へ立ち去ると、三郎は腰を下ろし居住まいを正して「殿…三郎も浄土までお供つかまつる」と言うや、短刀を腹に突き立てた。腹を切るとその刀を喉に突き立て、三郎は前のめりになって息絶えた。
 「三郎どのが…追い腹を…?」慈子は愕然として知らせを聞いた。「どこまでも…殿にお供するおつもりであったか…殿は良いとして、一度に二人も身内を失うは、残される者にとってはさみしいばかりじゃ…」と慈子は涙する。

 死後三日にして頼之の遺体は荼毘に付され、遺骨は頼之自身が生前親しくしていた碧潭周皎のために建てた西山地蔵院の、碧潭の墓の隣に埋葬された。葬送には諸大名や公家、絶海中津ら親交のあった僧侶が多数参列し、義満自身も出向いて嵯峨まで頼之を見送った。日頃は威勢のいい義満がこの日ばかりは悲嘆にくれた表情をあらわにし涙していることに、人々は驚きを隠さなかった。
 義満はさらに数日間鹿苑院にこもって座禅を組み、七日ごとの仏事も行い、写経一巻を納めて頼之の冥福を祈ったのだった。
 
 頼之の死は、やがて遠く九州にも届いた。報に接した今川了俊は涙にくれ、「とうとうわし一人だけが生き残ってしもうた…!」と言って、むかし頼之・清氏と共に語らった若き日々を回想する。頼之の遺言を聞いた了俊は「頼之はまこと幸せ者よ…なすべきことをなし遂げて、ただちに世を去った…思い残すこともない、よき最期じゃ…」と感嘆やむことなかった。
 勇魚小波たち、頼之に縁のあった者たちも頼之の死を知って感慨深いものがあった。勇魚はすでに七十に近くなっており、「わしもいつ死んでもおかしくない。どうせ死ぬなら紀州に帰ってそちらで死にたい」と、大内義弘を頼って紀州に行くと小波に告げた。小波は夫の魏天の消息がつかめるまでは九州を離れる気はなく、「これが今生の別れかもしれませぬな」と勇魚との別れを惜しんだ。

 そのころ、魏天は北平(現在の北京)にあった。洪武帝の命で燕王のもとへ赴き、そこで通事を務めることになったのである。
 魏天の前に現れた燕王は魏天の身の上にひどく興味を引かれたようで、燕王は「東海の異国の話をいろいろと聞かせてくれ」と目を輝かして頼む。燕王・朱棣(しゅてい)、このとき三十三歳、洪武帝の子の中でも武勇で知られた血気盛んな青年だった。彼こそがのちに「永楽帝」として歴史に知られるその人である。


第四十七回「本意至極なり」終(2003年3月16日)


★解説★世阿弥第五弾  
 
世阿弥(以下、「世」)「はい、毎度おなじみの世阿弥でございます。今回の解説はこのドラマの大節目ということもございまして、作者の徹夜城も引っぱり出しまして対談形式で言い訳がましくお送りしたいと思います」
徹夜城(以下、「徹」)「どーもー、最近怒濤の執筆作業を続けている徹夜城です。予定に反して年越ししてしまいましたが、このムロタイもようやく完結が見えて参りました…」
世「なんと今回で主人公である頼之さんがお亡くなりに…」
徹「当初はもっと前の予定だったんですけどね。その一方でこの企画じたいもともと頼之さんを主人公とする一代記だったもので、終わってみればこんな大詰めの位置になってしまいました」
世「では、今回の内容について参りましょうか。序盤は前回の明徳の乱の後始末の話が続いてますね」
徹「このへんも例によって『明徳記』の内容をほぼなぞってます。『明徳記』は上中下三巻構成で、今回の内容はその下巻に相当しますね」
世「室町第で久々に義満さまの奥さんたちが総登場しておりますが…ありゃしばらく女性陣が登場しなかった埋め合わせですね?」
徹「全くその通りで(笑)。ホントは義満周囲の女性たちをもっと描く予定だったんだけど、あれこれと展開に忙しくてそんな余裕はありませんでしたなぁ…実際のドラマだったら女優さんに気を使って出番を増やさなきゃならんのだろうけど、義満の場合正室以外がやたら多いし」
世「氏清の奥さんの「和子」さんという名前は創作だということは前に解説したんですが、今回の自害にいたるエピソードは『明徳記』に拠ってますね?」
徹「というか、このエピソードを書きたいがためにわざわざこのキャラを登場させたんですよね。本音を言えば氏清ともどももっと早く出してキャラを深めておきたかったですけど」
世「義満さまと直接には戦わなかった山名義理さんですが、結局徹底的につぶされちゃってますねぇ」
徹「義理は『明徳記』でもあんまり挙兵に乗り気じゃなくて氏清らに引きずりこまれたみたいに見えますけどね。それでも山名一族内で年長者ということもあってか義満の追及は容赦なく行われたみたいで。彼の拠点である紀伊が南朝勢力と深く関わる地域だったから、という事情もあったという見方もあります。いわゆる「南北朝合一」の交渉はこの直後から始まりますしね」
世「その後がまに入ったのが大内義弘さん。水軍で海路から攻め込んだというのも『明徳記』の記事ですね?」
徹「対する義理さんも海賊を配下に従えていたようで、『明徳記』で義理たちが逃亡する場面で「海賊梶原八郎左衛門」という人物が登場してます。義理さんは結局出家して伊勢へ没落したと言われています」
世「えーと、満幸さんはどうなったんでしたっけ?」
徹「丹波・丹後から伯耆、因幡と旧領を逃げまくってましたが各地で地元武士たちの攻撃を受け、しばらく所在不明になります。そして応永二年(1395)に京都五条坊門・高倉の宿に潜伏していたところを侍所の長官・佐々木高詮に襲撃され討ち取られてます。その一方で合戦に参加していた氏家(義理・氏清の甥)は間もなく許されて義満に謁見してますから、山名一族を何が何でも全滅させるという気まではなかったみたいですね。使い分けしているというか」
世「楠木氏がちょっと暴れてますが、これは確かなんでしょうかね?」
徹「前回解説でも出てきた江戸初期編纂の史書に出てくる話で、同時代的証拠はないんですよね…ただその後の応永の乱でも彼らが活動した節があるので、状況証拠としてはありうるだろうと入れてみました。この楠木兄弟がこの年の五月に義満の暗殺を謀って失敗、処刑されたって話もあるんだけどあんまりアテにならない」
世「そういえば、第一回以来の重要キャラであった楠木正儀さんはどうなったんです?」
徹「没年不詳…ということなんですが、まぁ明徳の乱以前には亡くなったんじゃないかなぁ…という辺りで。作者としてはここらで出してやりたい誘惑にもかなりかられましたが」
世「さて話は変わって義満さまが頼之さんに将来の政治構想を述べるシーンがありますね。これは創作シーンだとは承知してますが、そういう構想自体はあったと言えるんですかね?」
徹「これまた状況証拠(笑)。この時点で公家・武家双方の上に君臨していた義満は、このあとそれをいっそう推し進めていくんですが、どうも最終的には両者の統合をしていくつもりだったんじゃないか…と思えるところはあるんですね。それがいわゆる「皇位簒奪計画」であったかどうかは議論の余地のあるところですけど。史実かどうかは怪しいですけど『足利治乱記』という本には朝廷と人事問題で揉めたとき「ならば足利家が天皇となり、管領家を摂関家とするまで」とか発言したという話が残ってます。まぁこの件についてはこのドラマの残りの回で触れていくことになると思いますけどね」
世「ま、ここでの頼之さんとのやりとりは、お二人の「最後の対話」というドラマ的演出ということで…(笑)そしてそれから間もなく頼之さんがお亡くなりになる」
徹「明徳の乱を片づけてからわずか二ヶ月後。山名残党の掃討がひととおり済んだ直後の死でした。たびたび引いている軍記物語『明徳記』もそのラストに頼之の死を持ってきていて、当時の人にとっても頼之の死が何か戦乱の終結を象徴するように思えたのかもしれません…戦勝のお礼参りに石清水八幡宮にこぞって参詣しようと義満が準備している最中に風気(風邪)をこじらして亡くなったというのも『明徳記』の記述です」
世「頼之さんが頼元さんを通して義満さまに贈った遺言というのも…?」
徹「やっぱり『明徳記』。原文は少々いかめしてとっつきにくいのでドラマ的にかみ砕いた感じにしてみたんですが…やっぱり原文の文語調の雰囲気も残したくなっちゃって、ああなりました。原文は…」
世「近年山名ノ一族ノ者共、動モスレバ上意ヲ忽緒申由承及候間、何ニモシテ常久ガ命ノ内ニ、彼等ガ緩怠ヲ御誡メ有様ニ申沙汰仕ベキ所存ニテ侍ツルニ、此者共天罰ヲ蒙テ候ツルヲ見ハテテ、常久死去仕候事、本意至極也。今ハ天下ニヲイテハ上サマヲサミシメ申者有ベシトモ覚エズ候間、毎事心安テ思置進ラスル事モ侍ラズ。又当職ノ事ハ、頼元短慮モウマイノ身ニテ、定其器ニアタラザル者也。可然様ニ沙汰有ツテ下サレバ、畏存ベキ…と、ここまで言って事切れたそうですな。古文に自信のある方は頑張って読んでみてね」
徹「こんな難しいこと言ってガクッと死ぬというのも無粋なのでドラマとしてはもそっと情緒を混ぜてみました。この遺言の中の「本意至極なり」って部分はドラマを始める当初から頼之死去の回のタイトルに使うことに決めてました」
世「この遺言は頼元さんが義満さまに伝えたそうですが、その中でご自分のことを「短慮蒙昧で管領の器ではないから適当に扱ってください」とか言われちゃって気の毒な(笑)」
徹「頼之の死を聞いた義満は「もってのほかに御愁傷有り」という様子だったそうで葬儀の時に嵯峨まで見送った際には「御悲嘆の御気色、御涙に顕(あらわ)れしかば、御幼少より奉公の忠義をおぼしめし忘れさせ給わぬ御志の至り、有難さいかばかり、草の陰までもかたじけなく思い給うらんと、袖を濡らさぬ人も無し…」と『明徳記』も綴ってますね」
世「そして三島三郎さんが追い腹を切ってしまう。この展開もやっぱり『明徳記』ですね。ここでようやく第一回から出てきたこの人の正体を明かしましょうぜ!」
徹「というか、このたった一つ残るエピソードを描くために第一回から登場させていたというとんでもないキャラなんですよね、この人。「三島三郎」という名前は僕が適当につけましたが(本当に適当だ)、『明徳記』によれば「三島外記(げき)入道」。頼之と同年齢で、朝に夕に雑談の相手をし、武勇にも優れていたので、頼之は彼を家臣としてではなく朋友として彼とつき合っていた、とあります。この三島外記は常日頃「殿とは奉公忠勤の礼を忘れて歓楽遊興珍膳を共にする交友をさせていただいた上に永年多大なご恩も受け、とても報いることはできない。こちらが先に死んでしまった場合は仕方がないが、もし殿が先立たれたなら一日も遅れずに後を追うつもりじゃ」と語っていたそうで、頼之が死んだと聞くや館へも向かわず念仏道場へ行き、ドラマにも描いたように家来が僧を呼びに行った隙に腹を十文字に切り喉を突いて絶命したとあります」
世「なんかこの手の「追い腹」って結構あったように思えたんですが、『明徳記』の書きぶりだと戦場で戦死した主君の後を追うならともかく、平時に病死した主君の後を追ったというのは「前代未聞の振る舞い」と驚いたらしいですね…この三島外記なる者についての記録は『明徳記』にしか見えないのでどういう家臣であったのか史料は全くないんですが(だから特に重臣というわけでもなさそう)、なんとなく頼之さんと乳兄弟とか小姓とか、そんな雰囲気が漂いますね」
徹「どうせ分からない人なんだから、とドラマでは大いに活用させていただきました。ホント、第一回から頼之さんともどもご苦労様でした…ちょっと一時作者が存在を忘れて出番が激減してましたけど(笑)」
世「さて…主人公も死んじゃいました。一応途中から義満さまが主役に交代してましたが、実質的に物語はエピローグに突入、ってことになりますか」
徹「まだ処理されていない問題が残ってますしね(笑)。第一回からのレギュラー人物としてはまだ了俊さんがおりますし、実はこの人にはこれから大ヤマがあったりして。それと海外の情勢も連動して一つの時代の区切りをつけていくことになるのであります」
世「ほんじゃ皆様、残り三回もよろしく!」

制作・著作:MHK・徹夜城