第四十八回
「世の変わるとき」


◆アヴァン・タイトル◆

 南北朝動乱がほぼ終息するのを見届けるように、細川頼之はこの世を去った。その遺志を受け継いで足利義満は南朝の完全吸収を実現しようとする。日本が新たな時代を迎えていたころ、海の向こうでも新しい時代の幕開けが始まっていた。


◎出 演◎

足利義満

渋川幸子

大内義弘

細川頼元 後小松天皇
 
馬和 朱標 良成親王

鄭夢周 鄭道伝 覚鎚

吉田兼熙 吉田宗房 阿野実為 日野資教

紀良子

後亀山天皇

長慶上皇

絶海中津

小波

魏天

李芳遠

李成桂

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 細川家家臣団のみなさん
ロケ協力:大覚寺
協力:大明国北京電視台 朝鮮王朝漢陽放送局

洪武帝

慈子

今川了俊


◆本編内容◆

 日本の明徳三年(1392)は明の洪武二十五年にあたる。明に帰っていた魏天洪武帝の命で北平(現・北京)に赴き、この地域の防衛にあたっている燕王・朱棣のもとにあった。当年三十三歳の朱棣は洪武帝・朱元璋の四男で、朱元璋の息子のなかにあって特に武勇のほまれ高く、北平にあって北方のモンゴルと対峙していた。朱棣は魏天を連れて壮大な北平の町を見せ、「この町は前朝の世祖(クビライ)が全世界の中心として築いた都だ。ここにいるだけで気宇壮大な気分になるではないか」と語る。
 広く世界の話に興味を朱棣は魏天に日本・高麗の話を根ほり葉ほり聞きだしては愉快がっていたが、そうした朱棣の海外への関心に影響を与えている人物が彼の側にいることに魏天は気づく。朱棣の側近の宦官に馬和 と呼ばれる、およそ宦官とは思えぬほど偉丈夫の二十歳ぐらいの若者がいた。彼の祖父や父は遠くメッカまで赴いたという代々のイスラム教徒の家柄であり、彼自身も広く海外の情勢に詳しく、朱棣の海外への関心をいっそうあおっていたのである。彼こそがのちに艦隊を率いて大航海を行うことになる「鄭和」その人である。
 そんな北平に南京から急報がもたらされた。かねて病に伏していた洪武帝の長男で皇太子の朱標 が四月ついに亡くなったというのである。洪武帝は最愛の息子に先立たれたことを嘆き悲しみ、朱標の子、つまり洪武帝の孫を新たな皇太子に立てた、とのことであった。この知らせを受けた朱棣自身は表面的には平静をよそおっていたが、この皇太子の死が彼の立場を非常に微妙なものにしたことは間違いなかった。

 そのころ高麗政界では大きな動きが起こっていた。四年前の李成桂による「威化島回軍」のクーデターののち親明派が政権を握っていたが、その内部にはあくまで高麗王朝を維持した上で改革を目指す鄭夢周らの一派と、李成桂の腹心・鄭道伝ら「易姓革命」によって新たな国家建設を目指す急進派が対立、ついにこの年の四月に対立が頂点に達し、政変が勃発したのである。鄭夢周らは鄭道伝の出自が卑しいことなどを理由に弾劾してこれを流刑にしたが、李成桂側が軍事クーデターでこれに反撃、鄭夢周は李成桂の五男・李芳遠に善竹橋で殺害されて、ここに李成桂の完全独裁体制が完成した。間もなく李成桂は王位に推戴され、七月に即位して五百年にわたる「朝鮮王朝」を創始することになる。
 高麗での政変の情報は九州探題の今川了俊のもとにもただちにもたらされた。了俊はかつて来日して共に酒を酌み交わした鄭夢周が高麗に殉じる形で非業の死を遂げたことを悼み、「世の変わる時にどう生きるかでその人間の価値が決まる…鄭夢周どのは立派に節を通された。大丈夫とはかくありたいものよ」小波たちに言う。

 六月。京では細川頼之に続き、六十一歳の渋川幸子が死の床についていた。死期を悟った幸子はたっての願いとして義満の実母・紀良子と頼之の妻・慈子を枕元に呼び寄せた。「この世を去る前にそなたたちと会って言って置かねばならぬことがござりました」と、やって来た二人に幸子は言う。「…かつてのことを詫びようなどと言うことではもちろんありませぬ…ただ、このままそなたたちと心を通わせぬまま逝くのは、あまりにも心残りだと…」そう言って幸子はまず良子の手を取り、「良子どのは義満殿に命を与え、この世に生み出された」と言い、次に慈子の手を握って「慈子どのは義満殿に乳を与え、大きゅうなるまで真心をもって育んで下された」と言った。「そして…のう、お二方。この私めも義満殿をお育てしたつもりじゃ…これは、決して義満殿には申されるでないぞ…お二人の心のうちにだけしまっておいてくだされ…」と幸子はかすかに微笑む。「…私は前将軍の妻として、幼い義満殿を強くたくましく、さらには国を背負う者として非情にもなりうるお方に育てねばならなかった…私は義満殿の心を鍛え、征夷大将軍にふさわしい武将に育てようと思うていたのじゃ…そして、それは思うた以上に実を結んだ…」幸子はそう言って満足そうな笑みを浮かべた。「われらは三人とも…義満殿の母であったのじゃ…ではお二方、お先に前将軍や頼之どののところへ参り、お待ちしておりますぞえ」とつぶやいて目を閉じる幸子を、良子も慈子も感慨深く見守っていた。
 明徳三年六月二十五日、渋川幸子もまた義満の権勢の完成を見届けたかのようにこの世を去った。義満はこの義母を頼之の時と同様手厚く葬り、仏事を執り行ってその冥福を祈った。

 頼之に続き幸子がこの世を去り、義満は今さらながら世の移ろいの早さを感じずにはいられなかった。「もはや誰も助けても見守ってもくれはせぬ…わしは己の手で我が道を開いていくほかはない…」そうつぶやいて義満は大内義弘を室町第に呼び出した。義満は明徳の乱の論功で和泉・紀伊の守護となった義弘に、南朝との和睦の折衝に当たるよう命じた。「その方の家はもともと吉野方にあった時期もある。何かと話がもちかけやすかろう」と義満は義弘に言い、南朝との講和に当たって各種の条件を出した。「形の上では京の朝廷との『御合体』ということでのうては話がまとまるまい。そうでなければここまでこの乱が続きはせぬわ…山名が討たれた今なら吉野も乗ってこよう」との義満の言葉に、義弘はかしこまって早速交渉に入ることを約した。

 義弘が仲介者となって講和を呼びかけたところ、思いの外素直に南朝側は交渉に応じてきた。すでに講和の機会をうかがっていた後亀山天皇はもちろんのこと、長慶上皇をはじめとする強硬派も明徳の乱の敗北であてになる軍事力が消滅したこともあって、もはや「京奪回」などあきらめる他はなく、今となっては大覚寺統の皇統と体面を保つために講和に応じるほかなかったのである。
 南朝が交渉に応じる意向を見せたので、義満は北朝の公家・吉田兼煕を吉野に派遣して交渉を開始させた。対する南朝側は吉田宗房阿野実為が交渉役にあたった。あくまで形式は南北両朝廷の「合体」とされ、義満と幕府は表面には出ない講和交渉であったが、講和条件や交渉の流れは実質的に義満の主導で進められていった。
 義満が示した条件は「一、三種の神器を京へ戻し譲国の儀式をもって後亀山天皇から後小松天皇に引き渡す」「二、今後は持明院統と大覚寺統が交互に皇位につく」「三、諸国の国衙(こくが)領は大覚寺統(南朝)の所有とする」「四、諸国の長講堂領は持明院統(北朝)の所有とする」 といった大きく四箇条であった。この条件は基本的に細川頼之が管領時代に提示した講和条件と変わるところはなく、もはや山奥の弱小勢力に過ぎない南朝に対して「対等合体」の体面を保つべく最大限の譲歩をしたものといえた。後亀山天皇はこれを受け入れ、三種の神器と共に京都に帰ることを宣言したのである。

 十月十五日、北朝朝廷では後小松天皇臨席のもと南朝との「御合体」の審議があり、当然ながらこれが全員一致で決定された。十月二十五日に北朝が後亀山のための駕輿丁(かよちょう)ら四十五名を南朝に贈り、大内義弘が後亀山天皇を迎えるべく吉野に赴き、二十八日に後亀山が三種の神器をたずさえ供の者たちを引き連れて吉野を発った。「これでは降参ではないか…このようなことで後醍醐の帝に顔向けができようか…わしは行かぬぞ。決して京へは入らぬ!この山奥で朽ち果てるまでじゃ!」と長慶上皇は言い放ち、とうとう入京を拒んで吉野山中に居残ることになった。
 後亀山天皇の一行は奈良を経て、三日後の閏十月二日、雨の中をおして京都嵯峨の大覚寺に入った。形こそ天皇の「行幸」として行われた入京であったが、後亀山に付き従うのは皇子や公家十七名、名和・楠木党や大和山間部の武士ら十六名、さらに名の知れぬ武士十名という寂しいものであった。後亀山が大覚寺に入って三日後の閏十月五日、日野資教 ら北朝側の公家が大覚寺に赴いて三種の神器を受け取り、これを土御門東洞院の内裏へと運ぶ。講和条件にあった「譲国の儀」などいっさい行われぬ「神器奪取」であったが、後亀山たちには半ば予想していたことでもあり抗議の声も上げなかった。神器が戻ってきた土御門内裏ではこれを祝う神楽が三晩にわたって続けられ、ここに京都の天皇は皇位のしるしである神器をようやく手に入れてその正統性の不安を払拭することになったのである。
 後醍醐天皇の建武政権が崩壊し南北朝分裂状態が始まってから五十七年。ここに二つの朝廷は統合され、南北朝の動乱は名実共に終焉を迎えた。形式こそ「南北合体」であったが北朝による南朝の一方的吸収というべき実態であり、こののち後亀山に対して一応「上皇」の尊号が贈られはしたものの、両皇統の交互即位の約束も踏みにじられ、南朝は歴史の闇の中へと埋もれていくことになる。

 明徳の乱の勝利に続いて南北朝統合という大きな成果を挙げた義満の勢いはとどまるところを知らぬ有様であった。このころ高麗から倭寇鎮圧を求める使者として僧・覚鎚(かくずい)が来日しており、十二月二十七日に義満は絶海中津に返書の作成を命じ、その中で倭寇の禁圧を高麗国王に約束している。「のう、絶海。高麗では先ごろ国王が変わり、新たな王統が立てられたそうだのう」と義満は絶海に問う。「これまでの高麗は王氏が王として治めること四百年以上でありましたが、このたび李成桂なる者が取って代わり申した。『革命』でござりますな」と絶海の答えに「革命か…孟子じゃな。存じておるぞ。徳無き者から徳有る者へと天命は変わる。民がもっとも貴く国家はそれに次ぐ…」と義満は言う。「唐土でも元朝の命運が尽き明朝が起こった。我らは面白い世に生まれたものよな。ときに我が国の帝は何代、何年続いておるのじゃ?」との義満の問いに絶海は考え込んで「幾年とは、もはや定かではありませぬな。神武以来二千年とも申しますが…代数は当今の帝で百一代とか言われますが」と答えた。
 すると義満は「『百王説』というのを聞いたことはないか」と言い出した。「梁の宝誌和尚の『野馬台詩』に「百王の流れことごとく竭(つ)き、猿犬英雄を生ず」とある。長元四年(1031)の伊勢斎王の託宣でこの「百王」が帝の御代が百代まで、と示されたことがある…」義満の言葉に絶海は「確かにそのような面白げな話はわたくしも耳にしてはおりますが…しょせんは怪説のたぐいではござりませぬか」と笑い飛ばそうとするが、「異国でもほぼ時をおなじゅうして天命が変わった…ひるがえって我が国の今の有様を見よ。我が国だけが例外ということがありえようか?」とつぶやいた義満は、驚く絶海の顔を見てニヤリと笑い、「戯れを申したまでよ。気にするな」と言って立ち去っていった。

 十二月の末、明徳の乱の内野合戦から一周年を期して、義満は戦死者の霊を慰めるべく敵味方を合わせた戦死者の数と同じ千百人の僧侶を内野に集め、十日間にわたって一万部の法華経を読ませる盛大な経会を挙行した。義満も自ら参じて敵将であった氏清らも含めた戦死者の冥福を祈り、以後この大経会は幕府による年中行事として定着していくことになる。
 「この一年、なんとも事の多い一年であったわ」と経会に参列した義満は管領の細川頼元に語る。「山名を討ち、朝廷を合体させ、これで天下は泰平に帰した。全ては頼之の計らいであった…頼之も満足であろう」

 年が明けて明徳四年。前年の南北朝合体を受けて九州や伊勢など一部で旧南朝勢力の抵抗は続いてはいたが、もはや劣勢は覆いがたく、それらも次第に義満の幕府に膝を屈していった。今川了俊が治める九州では良成親王らの勢力が講和の誘いを拒絶して南朝復興を叫び抵抗を続けていたが、長年それを支えていた菊池氏・阿蘇氏もこの年ついに幕府に帰順し、了俊による九州平定事業はほぼ完成したと言えた。
 その了俊に、九州に久しぶりにやって来た大内義弘が会いに来た。義弘は九州平定の完成を喜び了俊を讃えたあとで、了俊と二人きりになって話し始める。「近ごろの御所様の勢いはとてつもないものじゃ…かつてこの国にあれほどの権勢をふるった者がいたであろうかと思えるほどじゃ…」「めでたいことではないか」という了俊に、義弘は「めでたくもあるが、わしは空恐ろしくも思えましてな」と言う。「土岐にせよ、山名にせよ、将軍のやり方は巧みなものであった…相手が強いうちは例えご自身の意に逆らっていても何もなされぬが、相手が弱いとみるや罪がなくてもこれを討ち滅ぼしてしまう。強き相手に対してはじわじわと弱めるような策謀をおめぐらしになる…」義弘はそう言って「そんな将軍の策謀が、我らに向かわぬとも限りませぬぞ」と了俊の目を見すえた。「何を言いだす」と了俊は義弘をにらみつけるが、「考えてもみられよ。山名が滅んだ今、将軍家の次に大きな勢力を持つのは関東の鎌倉殿、九州の了俊どの、そしてこの大内じゃ。土岐や山名とていつの間にやら将軍に力を弱められ、討たれたではありませぬか」と義弘は言って盃を干した。
 「裏返せば…将軍は隙を見せぬほど強きものには手を出されぬ。鎌倉殿がまさにそれでござろう。我が大内と了俊どのと、九州の島津や大友といった武士達とが手を組んで力を合わせれば、西国に幕府と対抗できるほどの強力な兵力を持つことが出来る。高麗や明と交易をして利を上げれば財力においても幕府に対抗しえますぞ。決して絵空事ではござらぬ…」と迫る義弘に、了俊は一喝する。「めったなことを申すな!わしは二十年前にこの九州に入って以来、将軍の名代を自負して参った。わしの今日があるのは全て将軍の御威光のたまものじゃ。そなたはわしに謀反をせよと言っているに等しい…今の話は、聞かなかったことにいたそう」了俊はそう言って義弘の前から立ち去っていった。一人残された義弘は自らの盃に酒をつぎつつ、「…頑固なお方よ。もう七十に近い…頭も古くなるはずじゃて」とつぶやいていた。

第四十八回「世の変わるとき」終(2003年3月20日)


★解説★世阿弥第五弾  
  はい、あと数回でお役ご免の世阿弥でございます。物語は主役の頼之さんも亡くなり、いよいよエピローグ編であります。いちおう義満さまも主役なんではありますけど、お話としては当初から決まっていた終幕に向かっているわけでして。
 
 最初はいきなり海外情勢。永楽帝とか鄭和さんとか、このあたりは作者の趣味炸裂でございますな(笑)。もちろん魏天さんがこの人達と会っていたなんて史実はございません。まぁあえて申しますれば『老松堂日本行録』に見える魏天さんに会ったという「帝」が永楽帝さんのことだと拡大解釈しちゃえば出来なくはないんですけど。
 のちにインド洋を越える大航海を行うことになる鄭和さんはもともと雲南方面に住むイスラム教徒の「馬」姓の家の出身で、お祖父さん、お父上ともにメッカに巡礼したことがあったと言われています。「鄭」という姓はこののち永楽帝さんが帝位を奪取する「靖難の変」での活躍を称えて賜ったものです。
 この鄭和さんの家は元朝においては特権階級といえた「色目人」(ウイグルなど西域系の民族) に分類されておりまして、元朝崩壊後の混乱の中で彼は捕虜とされ、宦官にされてしまったのだと言われています。宦官と言いますと男だか女だか分からない不気味な外見になるなどと言われておりますが、記録によりますと鄭和さんはまるで宦官とは思えぬ大変な眉目秀麗の偉丈夫だったそうであります。実際「靖難の変」では軍勢を率いて戦闘に参加してますし、だいいちあの有名な数度にわたる大航海をしちゃって「明代表大使」みたいなことまでしたんですから、かなり恰幅のいい人物であったのでしょうね。なお、この鄭和さんが日本に来たとしている本などがあったりしまして「このあと義満に会わせる気だろー」と深読みする方がおられるかもしれませんが、それは後世の誤解でありそんな史実はありませんので、よろしく。ここに登場したのはホントに作者の趣味です(笑)。一応この時期に彼が北京にいて燕王に仕えていたのは事実ですけどね。
 さて本文中でも触れましたように、この年の四月に明の皇太子・朱標さんが亡くなります。お父上の朱元璋さんとはかなり性格を異にする真面目かつ優しい性格の方で、ともすれば暴君化しがちなお父上をよく諌めていたと伝わります。朱元璋さんの方はそんな息子を「柔弱」と感じて叱りつけたこともあり不安も持ってはいたようですが、帝国の後継者として期待していたのも確かなようです。この前年秋に長安への遷都を計画して皇太子みずからその調査に赴かせているのもそのあらわれでしょう。ところがその調査から帰った途端に皇太子は病床につきそのまま亡くなってしまったんですね。新たな皇太子をそのお子さん、つまり自身のお孫さんである朱允ブン(火+文)さんにしたのも朱標さんを愛していたがゆえでしょう。
 まぁ皆様もご存知の通り、これは結局裏目に出ることになっちゃうんですけどね…

 一方の高麗ではついに「革命」が起こります。だいたい書いたとおりの展開で解説のしようもないんですけど…一つ先の話をばらしておきますれば、ここに登場した李成桂さんの五男・李芳遠さんというのは朝鮮王朝第三代国王となり(というか奪取してしまう) のちに「太宗」と贈り名されることになる、大物であります。偶然ながら永楽帝さんとポジションが似ていなくもないんですな。李芳遠さんにこのとき殺された鄭夢周さんは後世「高麗に殉じた忠臣」と称えられることになったりしますが、この人が今川了俊さんと焼酎飲んだりしていたらしいという話は案外知られておりません。
 なお、李成桂さんが創始した新王朝が「朝鮮」という国号になるのは即位の翌年のこと。たぶん初めから決まっていたことだと思うんですが、洪武帝さんに使いを送って「“和寧”か“朝鮮”か、どちらかをお選びください」と、まぁ平たく言えば臣従の挨拶をしまして、「朝鮮」と名づけられることになるんですね。

 さて日本に目を移しますと、久しぶりに出たと思ったら幸子さんお亡くなりです。この辺のやりとりはもちろん作者の勝手な創作でございますが、これについては幸子さん初登場時からほぼこのまんまのシーンをやることが決定していたという、この無計画な作者にしてはかなり計画的に創られたシーンでありました。途中完全に出てこなくなっちゃったのは無計画ぶりが出ているところでありますが(笑)。

 そしてついに「南北朝合体」です。仲介をしたのは明徳の乱の結果紀伊・和泉を守護することになった大内義弘さんで、いちおう南北両朝廷の代表が交渉して進められた講和でしたが、実質的には全て義満様の主導により進められています。北朝朝廷自体にはまるっきり相談もなかったとの見方もあり、神器の扱いなど直後から各種の約束が北朝側に完全に無視にされているのもそのせいと言われます。まぁ後亀山さんはじめ南朝側ももう諦めていたみたいですけどね。いちおう後亀山さんにはこのあと「上皇」の尊号が贈られ(それでも北朝内にはかなり異論があった)、後亀山さんのお孫さんが皇太子に決められた時期もあるんですが、結局これも反故にされます。もっともそれは義満さまの死後のことなので義満様自身がどう考えていたかは不明の点もありますが…。
 かくして歴史の彼方に埋もれていく南朝でありましたが、生活困窮を理由に後亀山さんがまた吉野に逃げ込んだり、伊勢の北畠氏などが約束反故に怒って挙兵したり、嘉吉三年(1443)に南朝復興を唱える勢力が御所に乱入、神器(剣と勾玉)を奪っていった「禁闕の変」なんてのが起こったり、その神器を赤松氏復興を狙う遺臣たちが奪い返したり(1457)、とまぁ、室町時代を通じて「南朝の影」じたいは延々と存在し続けたのであります。20世紀になってから太平洋戦争敗戦直後に「南朝の後胤」を称する人たちがワラワラ出てきたなんて珍現象にもつながっていきますな。

 南北朝合体を果たしたあとに義満様が何やら凄いことを言い出しておりますが、この辺は半分創作、半分元ネタあり。義満様が明や朝鮮の「革命」に刺激を受けたかどうかは、これはあくまで想像上の話。ただ時期的に確かにあたってるんだよな〜と思うところはありますね。このあとの「靖難の変」のこともあるし。
 「百王説」うんぬんの話は実際に平安時代から存在した「皇統は百代で絶える」という一種の終末思想で、慈円の史書『愚管抄』なんかでもそれとなく示唆されているとか。ドラマ本文中に「当今の帝が百一代」というセリフが出てきますが、これは当時の数え方でして、現在の皇室系図なんかでは後小松天皇はちょうど百代ということになってます。このズレは現在の皇室系図では明治以降の「南朝正統説」によって南朝側をカウントしていることと、壬申の乱のおりの弘文天皇(大友皇子)を当時はカウントしていないために生じています。だから問題の第百代の天皇は、あの義満様とすったもんだがあった後円融天皇、ということになるのであります。
 義満様がこの「百王説」を意識していたのではないか…との見解については中世史研究者として有名な今谷明さんの御著書に詳しいので調べたい方はそちらをお読みください。このドラマでもやった疑惑、後小松天皇はひょっとして義満様のお子様では…というのを思い浮かべると余計にこの「百王説」に重要性が増してきたりするんですよねぇ。
 なお、文中で『孟子』のことに触れてますが、義満様が若いうちから義堂周信さんなどから漢学の講義を受け、とくに『孟子』についてその解釈に関する質問を繰り返した事実があります。『孟子』には民を本として社稷(国家)はこれに次ぐといういわゆる「民本思想」、天命は無徳の者から有徳の者に革(あらた)まるという「革命思想」が含まれています。この内容ゆえに洪武帝さんなんかは『孟子』を目の敵にしてさんざん攻撃し、孔子廟から孟子の位牌を撤去させたりしてるんですが(笑)、そんな本に義満さまが早い段階から関心を持っていたというのは、いわゆる「皇位簒奪説」からすると大変注目されることであるわけです。ただこの時繰り返し質問したのは『孟子』だけではなくさまざまな漢文古典全般に及んでいるので「決定的証拠」にはなりえないところでしょう。ただ義満さまの漢学・中国趣味が相当なものであったのは事実のようで、それがこの人の行動にも現れている、とは言えましょう。

 十二月の末に明徳の合戦の戦死者を慰める「法華万部経会」が挙行されてますが、これは次第に行事として定着して行き、応永五年(1398)ごろから十月七日から七日間行われる毎年恒例の行事になります。応永八年には万部経会のための「経王堂」が北野社前に
氏清さんのお墓の上に礎を置いて建設され、ほぼ連日義満様も参席して諸大名と共に氏清さんらの冥福を祈ったと伝わります。やっぱり内心後ろめたさがあったんじゃないですかね、義満さまにも。この万部経会の行事は義持さまの時代には十月五日からの十日間に変更され、大永年間まで続いたそうであります。

 最後につけたしのように、というか次回へのヒキとして了俊さんと義弘さんの対話が入ってます。この対話の趣旨は例によって了俊さん自身の著書『難太平記』に記述されています。大内義弘さんが語ったという「義満さまは強い相手に対しては意に沿わぬことがあってもとがめようとはされないが、弱い相手に対しては罪が無くてもその面目を失わせてしまう」 という「義満評」は、義満様の政治テクニック(?)を語る上で必ず紹介されるものですね。佐藤進一氏『南北朝の動乱』(中公文庫)ではこの義満評を「弱きをくじき強きを助ける」と翻訳してますね(笑)。義満様のこの倣岸と卑屈ないまぜの政治的姿勢は、義母の渋川幸子さんとの少年時代の軋轢のなかで生まれたのでは、というのが同書で佐藤氏が披露している推理。その推理がこのドラマにおける幸子さんのキャラクター、ひいては今回の幸子さんの死の床のセリフのヒントになったりしているのであります。


制作・著作:MHK・徹夜城