第四十九回
「黄金の煌き」


◆アヴァン・タイトル◆

 山名氏を討ち、南朝を吸収し、足利義満は公武二権力の頂点に立ちますますその権勢を揺るぎないものとしつつあった。しかし義満の目指す高みはさらに上、公武権力を統合したその上に日本の国王として君臨することにあった。そのために義満は人々が思いも寄らぬ策に打って出る。


◎出 演◎

足利義満

大内義弘

細川頼元 後小松天皇

後円融上皇 今川仲秋 
 
東坊城秀長 一条経嗣

四辻季顕 中山親雅 斯波義種

渋川満頼 常盤井宮満仁

斯波義将

絶海中津

小波

魏天

小泉

世阿弥(解説担当)

足利義持(子役) 古幢(子役)
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 
ロケ協力:地蔵院 伊勢神宮 鹿苑寺金閣

慈子

今川了俊


◆本編内容◆

 明徳四年(1393)四月、後円融上皇が死去した。足利義満の同い年の従兄弟でもあったこの上皇は、往年の義満との抗争で寿命を縮めたかのように三十六歳の若さでこの世を去った。この後円融がいわゆる「百代目」の天皇であることに思いをいたし、義満のとどまるところを知らぬ権勢の高まりと重ね合わせる人々も少なからずあった。
 翌年、後円融上皇の死去を受けての改元が行われることになり、七月に新しい元号が検討されることになった。元号候補を提出する儒学者の一人・東坊城秀長は七月一日に室町第に赴き、義満にいくつかの案を見せた。すると義満は「『洪』という文字を入れるのはどうかのう。いま大明の『洪武』はすでに二十年以上も続いておる。我が国もこの吉例にならってみてはどうか」と言い出す。言われた秀長はただちに帰宅して漢籍をあたり「洪徳・洪業・洪化」の三案を絞り出してまた室町第に赴いて義満にそれを提出した。義満は喜び「『洪徳』がよかろう。ご苦労であった」と秀長をねぎらった。
 その日の夕刻、秀長は改元選定にたずさわる左大臣・一条経嗣(二条良基の実子)のもとを訪れ事の次第を報告した。「室町殿が“洪”字にこだわっておられるのは異国の例にならうべしと五山の禅僧あたりから吹き込まれているからでござりましょう…しかし室町殿のたってのご希望とあれば私としてはこの案を推さざるを得ませぬ」と秀長は嘆息して言う。経嗣も「なぜ我が国が異国の年号を真似ねばならぬのか。我が国の恥ではないか…」と嘆くが、両人とも義満に正面切って異見を唱えることは出来ぬ立場で、こうして陰で愚痴るほかできることはない。
 義満は「洪徳」年号決定に並々ならぬ意欲を見せ、元号案検討にも執拗に介入をおこなった。しかし結局「洪の字は水難を招く恐れ有り」「徳の字が続くのは不吉」といった先例を引いた公卿達の反対意見が強硬に唱えられ、「洪徳」は選に漏れ、新元号は「応永」と決定された。
 「時至らずか…まぁやむを得まい」結果を聞いた義満はやや自嘲気味に笑った。側近の禅僧である絶海中津「『洪武』が二十有余年続いているのは皇帝一代は元号を変えぬという新しき定めが出来たためでございまして、特に吉例というわけでもありませぬしな」と言うと、義満は「だいたい元号を二、三年でせわしなく変えるというのがおかしいのだ。『応永』と決まったからには当分の間この元号を使うことにしようではないか」と言う。
 このとき定められた「応永」は義満、さらにはその子義持の代まで延々と続けられ、三十五年の長きにわたり改められなかった。明治時代に中国と同様の「一世一元」の原則が定められるまではこの「応永」が最長の年号となるのである。

 この応永元年(1393)12月、義満は征夷大将軍の職を辞し、まだ9歳の嫡子・義持を元服させて将軍職を継がせた。そして自らはその数日後に公卿として最高の官位である太政大臣の地位に就いた。ここに義満は足利家による公武二つの権力の頂点の独占を達成したのである。
 このころから義満は朝廷の官位任命権を実質的に掌握し、義満の意向で官位を得た公家の中にはそれまで「治天」である上皇に対して行っていた拝賀奏慶(謝礼の舞踏)を室町第の義満の前で行う者まで現れる。もはや義満の地位は人臣としての最高位というだけでなく、「国王」たる上皇・院のそれに匹敵するものになりつつあったのである。

 太政大臣になった義満であったが、翌応永二年の前半は石清水八幡、伊勢神宮、奈良などもっぱら遊覧に時を過ごしていた。そして四月、突然出家の意向を示し周囲を驚かせる。驚いた後小松天皇は自ら室町第に赴いて翻意をうながそうとしたが、義満は等持院に出かけてこれに会わず、五月に若狭・丹後への旅にでかけ天橋立を見物して帰京後、六月三日に太政大臣職を辞してしまった。
 六月十九日、義満は出家の意向を後小松天皇に正式に申し送り、後小松は「義満がおらねば政道のことはいかがあいなるか」と言って勅使を遣わして義満の出家をとどめようとした。これに対して義満は「ご心配なく。それがし出家いたしましても政務はこれまでと変わりなく執り行いますし、参内なども変わらず行いますゆえ」と答え、翌二十日、室町第内で絶海中津の手により剃髪、出家した。
 義満の出家は珍現象を引き起こした。その日のうちに公家の四辻季顕中山親雅が義満の目の前で絶海の手により出家。翌日には管領・斯波義将の弟・義種が室町第で義満自らの剃髪によって出家。二十四日には斯波義将自身がやはり室町第で義満と絶海の手により出家してしまう。やがて義満の側近は言うに及ばず、今川仲秋細川頼元大内義弘などの諸大名、公家や親王にいたるまで多くの人々が次々と義満の剃刀を受けて出家してしまい、「このままでは諸卿みな坊主だらけになってしまうのではないか」とささやかれるほどの勢いとあった。中には義満に気に入られようと焦って出家してかえって不興を買った公家や、出家する気もないのに「あなたの法名はなんでしたかな」と義満に聞かれて慌てて出家した常磐井宮のような皇族も出るありさまであった。
 出家した義満ははじめ「道有」、間もなく「道義」と改めた法名を名乗ったが、政務では朝廷においても幕府においても相変わらず自らの手に全権を掌握していた。彼の出家の真の狙いは自らの地位を武家・公家の人事体制から超越させ、「国王」の地位である「治天」の高みへとのぼらせ、自ら「院政」を行うことにあった。実際、このころから義満に関わる各種の儀礼は「院」のそれにならうことが自然になっていった。

 義満が出家して間もない閏七月、九州探題の今川了俊に対して義満から突然の上洛命令が届けられた。「何事ならん…いまこれといって急ぎ上洛せねばならぬような大事はないはずじゃが」と了俊は渋ったが、義満の命令を拒絶するわけにもいかず、八月にあわただしく上洛した。そしてそのまま大した理由説明もなく九州探題の職を解かれてしまったのである。二十五年にわたる九州平定の労苦に報いる恩賞は遠江と駿河半国の守護職という、実に冷たい仕打ちであった。
 了俊の探題解任の裏工作を仕掛けていたのは、自らも九州探題職に野心を持つ大内義弘と、了俊の支配をかねて快く思っていなかった大友・島津などの九州豪族たちであった。これに加えて管領・斯波義将一派の人事介入もあり、了俊の後任は義将に近い渋川満頼と決まっていた。さらに義満自身も大陸との玄関口である九州に了俊のような老将が居座って独自の外交すら進めようとしていたことに懸念を抱いていたのである。
 すでに七十歳の了俊は失意のまま地蔵院に頼之の墓を訪ねた。すでに尼となっている慈子もこれに付き添う。頼之の墓の前に膝をつき、了俊は涙して「頼之よ…お主はよき時に死ねたぞ…わしなどは老いさらばえ、こうして生き恥をさらしておるわ…」とつぶやく。「御所さまは前代未聞の権勢を得て変わられてしもうた…人の情というものを無くしてしまわれたようじゃ…」と嘆く了俊に「そのようなことはござりますまい」と慰める慈子。しかし了俊は 「このところ御所様はただこびへつらう輩ばかりを重んじて諫言する者を退け、出家されてからはいっそう遊行と祈祷ばかりに明け暮れていると聞く。このままではようやく泰平になった天下も危うい。天下のためにも、わしはなお老骨に鞭打たねばならぬ…この泰平の世を築いた亡き友のためにもな…」とつぶやいて頼之の墓を見つめるのだった。

 頼之の死後、妻の慈子は出家して尼となり、頼之の眠る地蔵院や自ら創建した尼寺の法性院などに通って仏事にいそしみつつ余生を送っていた。そんな慈子のもとを、変装した義満がふらりと忍びで訪ねてきて慈子を驚かせた。「実の母上を放って置いてこの尼をお訪ねか」と苦笑して言う慈子に、「母上の方は満詮が面倒をみておるから」と義満は笑う。「聞いておりまするぞ、御出家の身だというのに相変わらず女性漁りにいそしまれ、中には東の洞院の傾城(遊女)までお側に置かれているとか」と慈子は義満をにらむ顔を見せてチクリと言った。「出家といえど、人間であることからは逃れられぬということ…まぁ生臭坊主とお笑いくだされ」と義満は頭をかきつつ言い、「いまわしもようやく余裕が出てきた…“母”であるそなたにも何か孝行をしたいが、なんぞ所望はあるか」と問うた。慈子は「負うた子に助けられるほど、この尼は耄碌しておりませぬぞ」と笑い、一人の少年僧を義満に引き合わせた。「わたくしの楽しみと言えば子を育てることぐらいのもの。今はこの子を養子にして育てております」と慈子は言ってその子に義満に挨拶をさせた。義満はその子の頭を撫でてやりながら、「そなたはまた一人わしの「弟」を育てるわけか」と笑った。
 頼之の妻であり義満の乳母であった慈子がこの世を去ったのは応永三年(1396)5月のことである。

 実質的に「院政」を敷く義満は、室町第を将軍の義持に任せて自らの「政庁」となるべき御所の建設を実行に移した。義満は旧西園寺家があった北山の地を接収し、応永四年からここに壮大な邸宅の建設を開始した。これがいわゆる「北山第」である。上皇の御所・仙洞に見立てたこの大邸宅はもはや「宮殿」と呼んで良いほどの規模であり、御所同様に紫宸殿までが設けられていた。応永五年(1398)にほぼ完成した北山第を見て斯波義将は義満に「まるで西方浄土のようでござりまするな」と感嘆する。
 北山第には義満が座禅を行う場所として舎利殿が建設されたが、これは三層から成り頂上に黄金の鳳凰を置き、内外に一面の金箔をほどこすという前代未聞の豪華絢爛さで人々を驚かせた。のちに「金閣」と呼ばれることになる建物である。
 この北山第造営には膨大な費用と人員が費やされたが、その多くは諸大名が負担させられた。しかしこれを拒んだ大名が一人だけいた。大内義弘である。「我が士卒は土木の労役をするためのものではござらぬ」と義弘は言って義満の要求をつっぱねていたのである。これを怨んだ義満は義弘に対し九州の少弐氏討伐を命じ、ひそかに少弐氏や菊池氏に対して義弘を討つよう密命を送ったのだった。

 その一方で義満は大内義弘を通じて建国間もない朝鮮との国交を結ぼうとしていた。この年義満は来日していた朝鮮使節に修好を望む国王への手紙を託し、同時に大蔵経を求めている。
 義弘の命を受けて朝鮮使節を無事朝鮮へ送り届ける役目は小波と、その息子の船団に託された。小波の息子はすでに十八になり、「小泉」と名乗っていた。
 小波と小泉は無事使節を朝鮮に送り届け、釜山の港で昨今の朝鮮朝廷内の不穏な動静の噂などを聞いていた。そんな二人の船に突然一人の男が姿を現した。その男は明風の立派な衣装に身を包んでいたが、小波は一目見てそれが誰であるかを悟って駆け寄った。男は長年行方不明になっていた魏天その人だったのである。

第四十九回「黄金の煌き」終(2003年3月29日)


★解説★世阿弥第五弾  

 はい、いよいよこのドラマも大詰めでございます。わたくしもぼちぼちクビでございます。この不況時に再就職先はあるんでしょうか。あ、そういや佐渡に島流しになってる身だったんだっけ。
 あと二回ということで話は少々すっ飛ばしぎみに進みます。もうお話自体はエピローグでございますので。

 冒頭に久々に後円融上皇さまが出てきたと思ったらいきなりお亡くなりになりました。ほんとにこの数年の年表を見てますと、義満様関係の方々が次々と亡くなっておりますねぇ。
 例の騒動以来しばらく登場しなかった後円融さんですが、あれ以来すっかりおとなしくなっちゃってこれといったエピソードが残ってないんですね。絵や彫刻で残されている肖像を見ても、なんか義満様との対決で精も根も尽き果てたようなお顔をしておられますしねぇ…。

 さてこの上皇の死を機として改元の沙汰が持ち上がります。最終的に「応永」に決まっちゃうわけなんですが、この改元の過程に義満さまがかなり積極的に介入したという事実は非常に注目されるところであります。しかも明の「洪武」にちなんだ「洪徳」を候補として強力に推したというあたり、義満さまの中国趣味の表れと言えましょう。あるいはこのときすでに義満さまは明との国交、すなわち朝貢関係を実現しようと考えていた節があり、いっそのこと明と同じ「洪武」にしようと考えていた可能性すらありえます。このときのやりとりはここに登場した一条経嗣さんの日記『荒暦』に詳しく書き残されているものでありまして、経嗣さんうかつに口に出せない義満さまに対する鬱憤をこの日記にあれこれとつづっております。
 しかし結局それが実現せず「応永」と決まっちゃうと今度はまるでしっぺがえしのように(笑)改元を阻止し続け、とうとう存命中は改元をさせませんでした。義満さまのあとを継いだ義持さまはお父上への反発から逆のことばかりしていたと言われますが、この改元阻止はなぜかしっかりと受け継いで称光天皇即位の際(1412)に朝廷の改元要請を拒絶し、とうとうご自身の在世中は改元をさせませんでした。おかげで応永は三十五年まで続いてしまい、文中にも書いたように「一世一元制」が導入された明治以前で最長の元号となっちゃったのであります。
 面白いのがこのあとで、義持さまが亡くなって義教さまが将軍になった(1429)のを機に幕府側が久方ぶりの改元要請を朝廷に申し出ますと、後小松上皇は「称光即位の時に反対しておいて今さら幕府側の都合で改元を言い出すとは!」と怒って一時もめたりしています。この後小松上皇さんってひょっとしたら義持さま・義教さま同様義満さまのお子さんの可能性もあるんですけど、もしかして遺伝子を受け継いだのか?なかなか食えないお人だったようで…(割と遊び人なところも似ている)。この人が次第に天皇権力を奪回していった、というのは今谷明さんが著書『室町の王権』で指摘されたこと。
 ついでながらこの後小松さんは18歳のとき(1394)に隠し子を作っちゃっておられまして、このお子さんというのがあの一休さんだったりします(笑)。この一休さんが義満さまに会って「この屏風の虎を捕まえてみろ」と謎かけをされたってお話がありますけど、もしかして祖父と孫の会見だったりするのかもしれません(笑)。

 義満さまがまるで「治天」である上皇・法皇のように振舞い始めるのがこのころからなのですが、残り時間の問題もありまして(笑)大幅カットでお送りしております。詳しくは先述の今谷明さんのご著書に詳しいのでそちらをお読みくださいな。
 太政大臣になって人臣の最高位を極めた直後に突然出家してしまった理由について「自らを既成の官職体系から超越した位置につけよう」との狙いだった、とみる見解はほぼ動かないところですね。太政大臣→出家というコースは平清盛の前例があって多少義満さまも意識していた節がありますが、義満さまは実際に「法皇」の地位を狙ったあたりよりスケールアップしておりますな。この義満さまのあとを追って公家・武家ともにゾロゾロと頭を丸めたという珍現象は、義満さまの権勢の強大さがもはや喜劇的なレベル(笑っちゃうしかない)に達していたことを物語っております。

 出家した際に義満さまが後小松天皇の勅使に「政治はこれまでと変わらず見るし参内も変わらずする」と答えたというのは実際に記録されている話。そして実際に義満さまは法体になっただけのことで政務は相変わらずとり続けるわけです。そしてその直後に行った政策の一つが今川了俊さんを九州探題から解任することでした。
 この解任劇は了俊さんにとってもかなり意外のものであったらしく、上洛命令にも一時かなり難色を示し、慌しく上洛したあとも「また再任されて九州に戻れるはず」と翌年まで期待していました。だから後任が決定した際には非常に憤慨し、そのときの恨みが応永の乱への関与につながり、さらには自著『難太平記』でブツブツと恨み言をつづることになるわけですが…。ただ客観的に見ると了俊さんすでに七十歳ですしそう無理な人事異動とも思えないんですけどね。もちろん四半世紀にわたった九州平定の功績に報いるにはかなり冷たい扱いではありましたが…義満さまとしては乱世はすでに終わった、創業の老将には隠居してもらって、あとは忠実に仕事をこなす管理職がいればいい、ってな感覚だったのでしょうな。実際に言ったかどうかはわかりませんが、「頼之が生きていればなぁ」と了俊さん嘆いたのではないでしょうか。
 この解任劇の裏工作をしたのが探題職を狙う大内義弘さんと大友氏ら九州豪族たちだった、という推理は実は了俊さん自身の「証言」。これまた『難太平記』の記述でありあくまで推測で書いているんですが、どうもほぼ真相だったみたい。特に大友氏と島津氏はあの「水島の陣」の一件以来根強く了俊さんに対する不信の念を抱き続けてまして、「了俊解任」を知るやお互いに手紙を送りあって大喜びしてます(笑)。
 また一方で義満さまのその後の外交活動から察するに、大陸との窓口である九州の地に独立しかねない勢力がいるというのはマズイという判断はあったでしょうね。実際了俊さんや義弘さんは独自の対朝鮮外交を実行してましたし。
 ともあれクビになって駿河半国・遠江の守護となった了俊さんは失意のまま領国にくだります。そのまま「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」とはならなかったのでありますが…。

 頼之の奥さん、このドラマでは慈子さんと名づけさせていただきました「玉淵」さんもとうとうお亡くなりです。この方が亡くなったことについては先述の一条経嗣さんの日記『荒暦』の応永三年五月十日の記事に載せられています。ここに彼女が義満さまの乳母をしていたと読める文があるのですね。わざわざ日記に書き記しているぐらいですから単に頼之さんの奥さんというだけにとどまらない存在感のある女性だったのでしょうね。
 この人の簡単な伝記は『笠山会要誌』に載っているそうで(作者は未読)、それによればこのドラマ第一回でも描きましたように夢窓疎石さんから「玉淵」の道号をいただき、頼之さん管領時代には夫と共に碧潭さんに教えを請い、法性院を創建して往来の尼を救い、門徒を集めて五部の大乗経を写すなどなかなか積極的に信心深い人であったようです。「古幢」という僧を養子にしていたというのもそこに出てくる話。通之さんを養子にしていたという話からしても、子育てが好きな方だったんじゃないかなぁと思われるところです。

 ところでこの慈子さんと義満さまの対話で軽くフォローしたんですが、義満さまの女性関係って凄まじいことになってるんですよねぇ。ドラマ的に盛り込みにくかったんで、ここらで軽くまとめときましょう(笑)。
 まず正室の姉さん女房・日野業子さんがおりました。それからもともと中山親雅さん(そういえば今回義満さまにつきあって出家してますな)の妻で義満さまの長男を産み落とした加賀局(柳原殿とも)さん。そして義持さん義教さんの母である藤原慶子さん。あと噂の領域ではありますが常盤井宮満仁親王(そういえばこの人も今回慌てて出家してる)が以前親王号欲しさに小少将という愛妾を義満様に差し出したという話があります。ここまでがすでに登場済みの方々です。
 応永初年ごろと言われてますが、業子さんの姪にあたる日野康子さんが義満さまの側室に加わります。この人は業子さん没後に正室になり、後小松天皇の「准母」となるお方です。同じ時期に側室になり応永元年に義満さまが溺愛することになる義嗣さんを生んだ春日局と呼ばれる女性がおります。この人は幕府評定衆摂津能秀の娘と言われております。さらに実名は不明ですが応永三年に義満さまが溺愛した娘・聖久(喝食御所)を生んだ寧福院殿と呼ばれる女性がおります。
 またどうやらこの時期のことのようなんですが、藤原慶子さんの妹の藤原量子さんという方も義満さまの側室となり二人お子さんを生んでいます。さらにビックリなのは康子さんのお母上の池尻殿 という方までも義満さまの側室になっていたらしいという話(汗)。この女性は応永八年に実父不明の女子を産み、やがて北山第に移って応永十年に義満さんの男児を出産しているというんです(大汗)。ちょいと年齢的に無理があるような気がするんですが、当時の記録からもそうとしか読み取れないらしく…この女性は日野家で康子さん、栄子さん(この人は義持さまの正室) 、重光さん豊光さんの四人を生み、さらに義満さまのお子さんを二人生んだということになるんですが…(汗)。「池尻殿」という女性がたまたま義満さまの周囲に二人いたんじゃないかという解釈もありえなくはないんですけどね、なにせ人妻好みの傾向でもあったんじゃないかしらと思える義満さまのことなので。
 少し後に側室になった方では藤原誠子さんという方も。この人はなんと義満さまの弟の満詮さんの奥さんでそちらでお子さんも生んでるんですが、義満さまのお召しを受けて側室となりこちらでもお子さんを生んでます。他には義満さまの娘・尊久さんの母親であり、また後南朝と結んで謀反を起こして討たれるという数奇な運命をたどった男子・義昭(ギショウ)の母親でもあるのではないかと疑われる慶雲庵主と呼ばれる側室もおられました。

 数ある側室の中でもかなりユニークなのが高橋殿(あるいは北野殿)と呼ばれたお方。この人についてはわたくし世阿弥の息子・元能が書いた『申楽談義』に書かれてまして、そこにもとは「東の洞院の傾城」であったと記されているのです(これ今回の慈子さんのセリフの中に出てきましたね) 。そんな人がどうやって義満さまの側室になったのかは全く謎ですが、『申楽談義』によれば万事にわたってよく義満さまの心をつかむ機知にとんだ女性であったらしく、応永初年ごろからしばしば義満さまの他の側室たちや娘の聖久さんと共にあちこち遊覧旅行に同行してますし、所領問題で彼女の口添えを依頼する者も多かったとか。それでいて決して権勢におごることなくうまく立ち回っていたようで、義満さまの側室の中では異例の厚遇を義持、義教さまの代まで受け続け、室町政界に影響力を与え続けていたなかなかの女傑でもあったようです。たぶんその辺が義満様に気に入られたんでしょうね。

 えー、長々と書きましたが、まだいるんですよ、義満さまの側室は(汗)。正式に側室にならなかった人でも「お手つき」になっちゃう女性はいたようで、例の後円融上皇の後宮にいた三条厳子さんや按察局さんには噂があり、さらには後小松天皇の禁裏の女官であった今参局という人までも義満さまの公然の愛人となっておりました(この女性が義満さま出家直後に妊娠してしまい、「真犯人」探しで大騒ぎになるんですが面倒なんでドラマ中ではカットしてます)
 ついでに申せば、義満さまの「お相手」は女性だけにとどまらず…美少年も数多く武家・公家からえりすぐって側に置いており、中には六角満高さんみたいに守護大名家を継ぎなにかと義満様に目をかけられることになった人もいます。
 …まぁ何にせよ、あらゆる方面にわたってスケール壮大なお方であります、ホント。

 そのスケール壮大ぶりが建築方面に出ちゃったのが壮麗な北山第であります。21世紀の今日では金閣のみが栄華をとどめる北山ですが(その金閣だって昭和25年=1950に焼失して再建したもの。つい先日屋根ふきのお色直しが終わってましたね) 、当時はまさに「極楽浄土」と見まごうばかりの壮麗な大宮殿であったと伝えられています。その「大宮殿」も義持さんが金閣以外ほとんどぶっ壊しちゃったので歴史上ごくわずかな期間しか存在しなかったのですけど、当時を知る最一検校さんという人が1448年に外交僧の瑞渓周鳳さんに思い出話をしておりまして、周鳳さんの日記にその様子が詳しく記されていて北山第の在りし日を偲ぶことが出来るのです。
 ここに紹介した大内義弘さんが土木事業を断ったという話や、斯波義将さんが「西方浄土のような」と感嘆したという話もこの中に出てきます。内裏を模して紫宸殿までがあったという証言もこの最一さんが語っているところで、義満さまがこの北山第を事実上の「王宮」として造った可能性をうかがわせます。実際、このころから政治は内裏でも室町第でもなく北山第で行われ、明の使節も北山第に迎えることになるのです。
 
 ラストは唐突に架空キャラ(一部実在)の処理作業(笑)。小波さんと魏天さんめでたく再会なんですが、このお二人のお子さんの名前は…「こらっ!お前そんな捏造やっていいんかい!」との海外交渉史研究者の皆様方の叱責を浴びそうな展開でございますが(別に平成の首相とは何の関係も無い)、これについては次回で弁解を(笑)。
 次回は最終回、二回分か一回半分のロングバージョンでお送りいたします。

制作・著作:MHK・徹夜城