細川頼之
細川清氏
慈子
楠木正儀
渋川幸子
細川頼有 安宅頼藤
新開真行 光吉心蔵 桃井直常赤松貞範 細川顕氏 斯波高経
山名時氏
赤松則祐
北畠親房
勇魚
足利義詮
小笠原頼清
世阿弥(解説担当)
陸良親王 頼春の子供たち 頼春の側室たち
細川家家臣団のみなさん 阿波国人のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:室町幕府直轄軍第12師団・第13師団
足利尊氏
利子
細川頼春
佐々木道誉
◆本編内容◆
観応二年二月、幕府内の擾乱は直義派の圧勝でひとまずの決着を見た。四月に入り政務の人事が定められるが、それはあからさまに直義派の面々が政務の中枢を独占する形であった。各地の守護職も直義派に交代され、
斯波高経に越前守護職を奪われた細川頼春はひそかに恨みを抱く。
そんな頼春に、幕府内で佐々木道誉が声をかけてきた。
「こたびのこと、さぞご無念でござろうの…まぁ刑部大輔どの(頼春)はどうもはっきりしない態度をとられたからのう」と皮肉る道誉に頼春は返す言葉が無い。向かいの廊下を見れば、一貫して直義について功績をあげた
細川顕氏が意気揚揚と歩いている。その後ろを桃井直常、
山名時氏が胸をそらせてのっしのっしと歩いている。「戦しか能のない桃井が引付頭人…それと山名め、つい先年は師直殿についていたかと思えば、いつの間にやら直義殿のお気に入りよ。わしの出雲守護職も山名の手にわたってしもうた。さすがは稀代の成り上がり者よ」
と苦々しげに言う道誉。「このままでは済むまいよ…近々また何かひと波乱起こりましょうな…直義どのも賀名生方(南朝)とうまくいっておらぬようだし。お、赤松どの」
と頼春に言って、道誉は通りかかった播磨の赤松貞範に声をかけた。そのまま道誉と則祐の二人がなにやら密談をしている様子を、頼春は興味深げに眺めている。
一方、賀名生には楠木正儀がやって来ていた。正儀は
北畠親房に面会し、直義側からの朝廷統一案を持参してきていたのである。しかし親房は「話にならぬわ」
と書状を放り投げた。直義は賀名生の後村上天皇を京に迎えることには同意していたが、あくまで政務は幕府が握ると主張して譲らず、親房および後村上天皇もまた後醍醐天皇の遺志を守って幕府の存在など絶対に認めようとしなかったのである。
「しかし、直義も明日はどうなるか分かったものではありませぬ。まずは帝を京にお迎え奉り、朝廷を一つにすることが肝要。この機を逃しましてはいつ機会があるか」
と正儀は食い下がるが、親房は頑として聞かず、何やら含み笑いすら見せている。「わしにはわしの考えがある…楠木、思うところはそなたもわしも同じぞ。帝に京にお帰りいただき、世を一統の下に置くことは我らみな等しく持つ宿願じゃ。だがの、そのために幕府を認めるだの武士の政を認めるだのというような、先帝の御遺志を汚すような妥協はできぬ」
と親房は強い口調で言い切った。
河内の赤坂城に戻った正儀は家臣を呼び出し、直義のもとへ交渉が決裂したむねを伝えるよう命じる。正儀は無念そうに目を閉じ、
「かくなる上は…一刻も早く大将を立てて賀名生を攻める軍を起こされたい…そのときは、この正儀が先鋒をつかまつる」
と搾り出すように言い、「これをそのまま京へ伝えよ」と付け加えた。さらに
「帰りに播磨にゆけ。そして赤松律師どのに…」と家臣に何か耳打ちする。
阿波は正月の合戦以後、見かけ上の平和が保たれていた。細川頼之は阿波国内の国人たちの動きを警戒しつつ、京の情勢を逐一つかもうとしていた。入ってくる情報によれば直義と南朝の講和は決裂し、いったん和解したはずの将軍尊氏と直義の間も再び険悪になっているという。各地では両派の軍勢の衝突が始まり、京でも不可解な暗殺事件が続いていた。和睦の破綻がもはや時間の問題なのは誰の目にも明らかであった。
六月、播磨の赤松則祐が護良親王の皇子・陸良(みちよし)親王
を奉じて南朝側の楠木・和田一族らと呼応して挙兵した。京の情勢は混迷の度を増し、七月には直義が政務を辞したが混乱は収まらず、
佐々木道誉、仁木義長、赤松貞範
ら反直義の諸将が一斉にそれぞれの本国に向かって京を離れた。京脱出組の中には細川頼春の姿もあった。頼春は次男の
頼有も連れて軍勢ごと阿波へと向かった。甥の清氏だけは京に残って将軍の側にいさせることになる。
そのころ、京の情勢急変を受けて、阿波の反細川の国人たちも動き始めていた。反細川勢力の総元締めである三好郡の
小笠原頼清がついに挙兵、「細川の小倅を血祭りにあげよ!」と吉野川沿いに西に進み、頼之のいる秋月めがけて進軍を開始する。
新開真行から報告を受けた頼之はただちに軍議を開く。正月の合戦でいったん鳴りをひそめた阿波南部の国人たちの軍勢も小笠原勢に呼応して北上の動きをみせており、秋月は双方から挟撃される恐れがあった。頼之は熟慮の末、
「ここはひとまず秋月を捨てて逃げる」と決断、慈子や
利子はじめ家族・郎党を全て秋月から板西庄に避難させ、自らは軍勢を率いて阿波国府に入って敵軍の動きに臨機応変に応じることとする。軍議を終えた頼之は母や妻、そして兄弟たち、頼春の側室たちに避難の準備をするよう伝え、慈子に
「みなを率いるのは、慈子、そちに任せる。…頼むぞ」と短く言い渡す。慈子はうなづき、
「御武運を」とだけ答えた。
間もなく西進してきた小笠原勢が秋月庄に突入したが、守護所はすでにもぬけの殻。頼之が家族と軍勢全てを秋月から引き揚げたことを知った頼清は
「こしゃくな小僧だ」と苦笑いし、そのまま頼之がいる阿波国府へと進撃する。
7月28日、頼之と頼清の軍勢は東条(現・徳島市内)で合戦に及んだ。地の利を占めて待ちかまえていた形の頼之軍は
光吉心蔵の活躍もあって小笠原軍を撃破、頼清はほうほうの体で南の勝浦庄へと逃げ込む。
この前日、京では足利家に新しい命が誕生していた。足利義詮の正室・
渋川幸子が待望の男子を産んだのである。「でかした!」と義詮は喜び、赤子に自分と同じ幼名
「千寿王」と名づけるが、明日にも出陣せねばならぬことを幸子に告げただけで、慌しく引き揚げていった。幸子は千寿王の顔を眺めながら、
「お忙しいお父上じゃのう…お前が将軍になる時にはもそっと世が落ちついておればよいが…」と笑いかけた。
翌7月28日。将軍足利尊氏は南朝に通じて反逆したとして佐々木道誉を討つべく、軍勢を率いて近江へと出陣した。これとほぼ同時に義詮も赤松則祐を討つべく、播磨へと出陣。これが自分を東西から挟み撃ちするための偽装出陣であると気づいた直義らは、8月1日に京を脱出して北陸へ向かった。
京を離れた頼春一行は8月にようやく阿波に入り、頼之らが一時避難している板西庄に入った。頼春一家、久々の一家団欒である。一同は戦乱の中の一時の安らぎを満喫するかのように楽しく談笑するひとときを過ごす。
夜に入り、頼春は頼之だけを相手に父子で酒を酌み交わしつつ、阿波の情勢などについて語り合う。「わしも、随分国人どもには苦労させられたものじゃ。今度のことはお前にもいい修行になったであろう」
と頼春。「我らは所詮は兄・和氏がこの国の守護として入って以来の新参者よ。それにひきかえ小笠原や河村などは百年も前からこの地に根付いた武士じゃ。武士はおのれが切り開いた土地に命をかけるもの。彼らを治めるにはその心をつかまねばならぬ。…わかってはいても、これがなかなか難しい」
と、頼春は息子に統治の心得を諭していく。海をおさえるために水軍の安宅頼藤に独断で阿波に土地を与えたことについても頼春は正しい判断だと頼之を誉め、さらに彼に阿波南部の牛牧庄に土地を与えてその協力を確固たるものにすべし、と諭した。
その上で最近の頼之の合戦での活躍を誉めつつ、「ただ旗の付け方が少々なっとらんな。昔教えておいたはずじゃが」
と旗の付け方など軍陣の作法を教える。そして「さてと…」と寝所に行こうと立ち上がったところで、頼春はふと気がついたように頼之に
「そういえばもう一つの大仕事の方ははかどっておらんようじゃのう」と言う。「まだ一年でござりますぞ…それがしも慈子も忙しゅうござりましたし」
と赤面して言い訳する頼之。「ふん、わしなどはこれからも励むがの」と笑って頼春は退出していく。呆れ顔で見送りつつ頼之は苦笑する。
間もなく京の情勢の変化が頼春のもとに届いた。「顕氏め、直義どのをついに見限ったか。京を落ちた直義どのに同行せず、将軍のもとにとどまったそうじゃ。こうはしておれんのう」 と頼春は言い、自分が守護となり顕氏と張り合う形になっている讃岐国の兵力を率いて上京することにする。頼有もこれに同行し、慌しく家族と別れを交わして旅立っていった。
9月12日、尊氏軍と直義軍は近江の八相山で激突した。尊氏軍に参加していた細川清氏は雄叫びを上げて桃井、石塔ら直義派の軍勢に突入していく。手勢はわずかであったが、清氏の獅子奮迅の暴れぶりに敵兵は気遅れして総崩れになる。矢が二、三本当たって傷を負うが、清氏はものともせずに暴れ回る。その心中にはこんな清氏自身の声が響いていた。
(…弥九郎、見ておれ。俺も戦っておる。戦うて、戦うて…俺は俺の欲しいものはおのれの力で手に入れるのだ…)
10月3日、一方の頼之は小笠原頼清を追って勝浦庄へ進撃、中津峰で合戦に及んだ。頼之はこの戦いでも勝利を収め、阿波における優位を決定的なものとした。戦闘が終わり、勝利の歓声があがる中、頼之は微笑みつつ
(疲れた…)という表情で天を仰ぐ。
そのころ、紀伊水道を進む船の上では安宅頼藤が阿波の海岸を眺めつつ
勇魚と語り合っていた。「細川の小倅、なかなかやるではないか」と頼藤は勇魚に言う。
「我らに阿波・牛牧庄の地頭職をくださるとさ。恩を与えておいて南の国人衆どもに目を光らせろということじゃな」と頼藤。勇魚はあちこちの水軍から入ってくる各地の情報を頼藤に伝える。九州において懐良親王が肥後の国府に入って直冬勢力と対抗し始めていること、播磨の赤松一族が南朝方について挙兵したもののどうやら幕府側と連絡をとっているらしいこと、近江で敗れた直義が北陸づたいに関東へ向かっていることなど。そして将軍尊氏が情勢の打開のために南朝に降伏を申し込んでいるという驚くべき情報も入ってきていた。
楠木正儀はこの年二度目の賀名生入りをした。播磨で南朝の親王をかついで挙兵した赤松則祐を通して、尊氏が自ら南朝に降伏し後村上天皇を正統の天皇として認める、と申し入れてきたことを伝えにやって来たのである。
「尊氏も追い詰められたものよの…こちらの思うとおりになってきたわ」とほくそ笑む親房。「これはまさに朝廷の一統、和平の機会」と喜ぶ正儀だったが、親房は正儀に言う。
「お前が和平を望む気持ちはよく分かる。父と兄を戦で失い、さんざんな苦労をしてきたからの…しかし、この親房も我が子を戦で失っておる。半端な和平は我が子顕家、そしてお前の父や兄など先帝の理想のために死んでいった者たちが浮かばれぬとは思わぬか…」
親房の放つ冷たく鋭い眼光に、正儀はひそかに恐怖を感じた。