第五十回(最終回)
「日本国王」


◆アヴァン・タイトル◆

 征夷大将軍の地位を息子の義持に譲り自らは太政大臣に昇りつめた足利義満は、辞任し出家することで人臣を超越した存在となり、壮麗な北山第を造営してここを政治の中心とし、公武権力の上に君臨する。天皇・上皇をも超えた存在となった義満は自らの地位の正当性を海外に求めようとまで画策する。その一方、義満の権力の強大化に危機感を抱く人々はこれに対抗しようと動き始めていた。


◎出 演◎

足利義満

渋川幸子

細川清氏

今川了俊

足利義持

大内義弘 山名氏清

足利満兼 畠山基国

建文帝 鄭和

李芳碩 鄭道伝 

李芳果(定宗) 無学

今川泰範 陳外郎 祖阿
 
犬王 土岐詮直 京極秀満 山名時熙

宮田時清 上杉憲定 北畠顕泰 北畠満泰

東坊城秀長 世尊寺行俊 堅中圭密

斯波義将

絶海中津

永楽帝

李芳遠(太宗)

勇魚

小波

魏天

小泉(肥富)

世阿弥(解説担当兼任)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 堺市のみなさん 
ロケ協力:鹿苑寺金閣
室町幕府直轄軍第13師団・第15師団
協力:大明国北京電視台・大明国人民解放軍第123部隊
    朝鮮王朝ソウル放送局

李成桂

洪武帝

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 釜山の港で小波小泉と感激の再会を果たした魏天は、日本へ向かう船の中でこれまでのいきさつを妻と息子に語っていた。海賊にさらわれて明に行っていたこと、洪武帝や燕王・朱棣に出会ったこと、そしてその洪武帝の死により燕王の周辺が騒がしくなり、燕王に言われて朝鮮を経由して日本へ帰ることになったことなどを魏天は語った。

 明帝国の創設者・洪武帝=朱元璋が71年の波乱の生涯を閉じたのは、洪武31年(1398)閏五月十日のことであった。死の二日前、洪武帝は病床につききりで看病する皇太孫・允ブン(火+文)に向かい、「朕が死んだあと…必ず乱が起きよう…とくに…燕王には気をつけよ…」と弱々しくも厳しい顔つきで言い渡していた。死の六日後、盛大な葬儀が行われ洪武帝の遺体は南京郊外の孝陵に葬られた。同じ日、皇太孫が即位し明朝第二代の皇帝となった。これが建文帝(恵帝)である。
 建文帝は祖父・洪武帝の遺言を肝に銘じていた。建文帝は即位後ただちに各地に封じられている皇族諸王の勢力削減策に乗り出した。その主な標的が北平の燕王にあることは明らかであり、燕王周辺は一気に態度を硬化させた。
 「間もなく天下を揺るがす大乱が起こるぞ」と燕王は魏天に言う。「よい折じゃ。お前は妻や子のもとに帰れ。そしてな、わしが築くであろう新しき明と、日本との架け橋になってもらおう」と燕王は笑い、魏天の肩に手をかけた。
 翌年八月、燕王は「君側の奸を除き、帝室の難を靖んず」と唱えて甥である建文帝に対して反乱を起こした。のちに「靖難の変」と呼ばれるこの内戦は足掛け三年の長きにわたることになる。

 日本へ向かう魏天が経由した朝鮮においても朝廷は不穏な情勢のただなかにあった。
 国王に即位して革命を果たし、数々の改革策を順調に進めていたかに見えた李成桂であったが、その陰で彼の息子達の間での後継者争いが過熱化していたのである。李成桂はもっとも愛していた芳碩を世継ぎと定め、建国の功臣である鄭道伝をその家庭教師につけて育てていたが、芳碩とは腹違いの兄弟で父の即位に功績のあった五男の芳遠は自分こそが後継者にふさわしいとの自負を持ち強い不満を抱いていた。
 そしてこの年(1398)八月、芳遠は母親を同じくする兄弟らと謀り、李成桂が病に伏した隙を突いてクーデターを起こし、芳碩とその同腹の兄弟、および鄭道伝を一挙に襲撃、殺害してしまった。のちに「第一次王子の乱」と呼ばれるこの事件にショックを受けた李成桂は退位して「上王」となり、ひとまず次男の芳果が第二代の国王(定宗)として即位、芳遠は政治的実権を掌握することになった。

 「いずこの国も、太平になったかと思えば、醜い骨肉の争いを始めている…日本も義満さまのもとで太平になったとはいえ、同じようなことになるのやも知れぬ…人間とはかくも懲りない生き物なのか…」魏天は甲板から海の彼方を見つめながらつぶやいた。小波が言う。 「確かに人間は懲りない生き物なのかもしれない…いくさはこれからも全く無くなるという事はないでしょう。だけど、今どこの国でも以前よりはずっと落ち着いて少なくとも民は太平を楽しんでいる…我らはせめてこの太平の時が少しでも長く続くよう、やれるだけのことをしようではありませんか」この言葉に魏天は深くうなづき、息子の小泉に諭す。「わしは明と朝鮮と日本と、三つの国を見て、暮らしてきた…お前もいずれ明へ行って見聞を広めると良い。わしの夢はこの三国を船で結び、盛んに交易して、互いに豊かになって太平を共にするということだ…」

 年が明けて応永六年(1399)。遠江国に入って統治にいそしんでいた当年七十四歳の今川了俊は、実に三十五年ぶりに鎌倉の地を訪れていた。関東・東北を支配する鎌倉の主、鎌倉公方は前年11月に足利氏満が死去しており、まだ22歳の嫡子・満兼に受け継がれていた。了俊は満兼に面会し、「それがしは三十五年前にこの鎌倉を訪れて祖父ぎみ基氏公にもお会いしたことがありますぞ」とにこやかに言った。若い満兼は老将・了俊が語る昔のいくさ話などにすっかり聞きほれ、深夜にいたるまで酒を酌み交わしつつ歓談していた。
 夜遅くなったころ、了俊は話題の矛先を近ごろの義満の政治関係に向けた。「近ごろ御所様はすっかり院の儀礼を気どられ、武士の道を忘れておられる。あまつさえしばしば祈祷に凝られ、政事の本道から外れておられるようにも感じられる…このままでは天下は危ういと思われませぬか」という了俊に、満兼は黙って深くうなづく。「尊氏公が京の義詮公とは別にこの鎌倉に基氏公を置かれたは、もし京の将軍がその器にあらず政道を乱した折にこれを諌め、やむをえざるときはこれに取って代われとのご意向だったのです。今がその時とは思われませぬか」と言う了俊に、満兼は「父・氏満は康暦の政変の折に京へ攻め上らんとしたが果たせず、その後御所(義満)の策謀で小山・宇都宮が叛き、これに手を焼いているうちに命を縮めてしまった…わしとて天下のために事を起こそうとの思いはある」と打ち明ける。聞いた了俊は我が意を得たりと喜び、「実はこたび鎌倉に参ったは、その詮議をいたそうとの腹でござりました。鎌倉殿が立たれるなら、この了俊、老骨に鞭打ってご奉公申し上げましょう」と平伏する。「わしが立ったとして、味方はどれほど集まろうか?」との満兼の問いに、「御所に対し密かに叛意を抱いている者はおもいのほか多くおりまするぞ…ことによれば、西国はこぞって立ち上がるやもしれませぬ」と了俊は笑みを浮かべた。

 五月、義満は北山第に世阿弥 を呼びつけて、第内に設けられていた桟敷で猿楽を演じさせていた。世阿弥は少年の日以来義満の厚い庇護を受け、父・観阿弥亡き後の観世座を率いて猿楽の芸術性を高め、昨今では芸の高さにおいても父をもしのぐ評判を得るまでになっていた。この五月に京・山科の一条竹鼻で義満の後援のもと催された勧進興行の大成功により、世阿弥は当代随一の芸人と世に認知されることとなる。
 ただし義満の芸人への寵愛は世阿弥ばかりに注がれたわけではなかった。近江猿楽の犬王は義満の法名「道義」の一字を与えられ「道阿弥」と名乗らされるほどの寵愛されていたし、他にも才能を見出されて厚い庇護を受けていた芸人は多かった。義満は時代の最先端の文化の育成者でもあったのである。
 「なに…?関東に不穏の動きがあると…?」世阿弥の舞を眺める義満は耳打ちしてきた側近に問い返した。その知らせによれば関東の満兼が近々陸奥・出羽を巡行する動きを見せているが、それに合わせて兵馬を整えようとしている気配があるとのことであった。しかもその満兼のもとに今川了俊が出入りしているというのである。「了俊入道か…あの老人もまだまだ生臭いの」と義満はつぶやく。

 七月、まだ前年の混乱の余波がさめやらない朝鮮宮廷に、日本から派遣された使者がやって来た。派遣したのは大内義弘である。義弘はこれまでにも倭寇被虜者の送還や交易などでしばしば高麗・朝鮮に使者を送り結びつきを深めてきていたが、今回の使者が持ってきた用件はかなり変わったものであった。義弘は朝鮮朝廷に対し「我が大内家の祖先は百済王族であります。ぜひ系譜を確認していただき、祖先の地に祖先を祭るための所領を賜りたい」と要請して来たのである。朝鮮朝廷はこの要請に正直なところ困惑した。
 系譜の調査は一応行われた。しかしなにぶんにも百済など700年も前に滅亡した王国であるし、異国にいる大内氏との系譜的なつながりを確認することなどもとより不可能であった。「根拠は確認できない」との結果に領地など与えるべきではないとの声も出る。しかし国王・定宗自身は「大内氏は俘虜返還や倭寇討伐に功のあった者。またはっきりせぬとはいえ我が国を祖先の国と慕い祖先のために土地を賜りたいとは殊勝な申し出ではないか。どこか小さな所領でもくれてやれば」と言い出し、仮に義弘を「百済の始祖・温祚高氏の後」と認知して旧百済の地に所領を与えることで話を進めようとした。しかしこれには「倭夷のこと、何を考えているかはわかりませぬぞ」との反対意見も強く、結局この件は沙汰やみとなってしまった。

 朝鮮の地に所領を得ることに失敗した義弘だったが、特に残念がる様子も見せなかった。「ともあれ我が大内が朝鮮にどのような思いを持っているかが伝わればよい。万一のことあれば、朝鮮の地に新天地を求めて移り住むこともできようしな」と義弘は呼び出した魏天・小波・小泉たちに言う。「万一のこと、とは…?」と魏天が問うと、義弘は「こたび御所様に対し、兵を起こす」と短く答えた。驚く魏天たちに義弘は 「御所様は山名の次はこの大内と狙いを定めて策謀をめぐらしておる…このごろ御所様は再三にわたり上洛を命じてきておられるが、これもわしを討たんとの謀があるとの噂じゃ。このままでは我が大内は滅亡を待つばかり。座して滅びを待つよりはいっそこちらから仕掛けさせてもらう」と言う。「しかし御所様を相手に勝算がおありか…」と聞く魏天。「わしの後ろには西国・九州の大名、さらには朝鮮国、あるいは大明までの後ろ盾があるぞ。また了俊どのを介し、関東や各地の諸大名にもひそかに檄を飛ばしておる…東西南北から京を攻めることもできよう。御所様もここまで話が進められているとは思うまいて」と義弘は笑い、小波と小泉に向かって「それと、その方たち水軍の力をも借りたい。戦場は和泉となろう。海賊衆の力がものをいうことになろう」と言った。
 「申し訳ござりませぬが、ご助力はお断り申し上げまする」しばしの沈黙ののち、小波は言い放った。わけを問う義弘に、小波は「我らの船団はもはや戦に力を貸すのはやめることにしたのです。もはや義満さまのもとで世が泰平となった今、我らは海を自由に往来して商いをすることで生きてゆけます。いまさらその泰平を乱すようなことは出来ませぬ」と答えた。聞いた義弘は「なにっ」と一瞬気色ばんだが、「…まあよい、見ておれ。お前達の手を借りずともわしは義満さまを倒してみせよう。そうなれば、瀬戸内から朝鮮、明までの海はわしの支配するところとなる。そのときになって泣きついてもしらぬぞ」と笑って一同を退出させた。義弘の館を出た魏天ら三人は、「義弘どのは存外大きな謀をめぐらしている…義満様にこのことは伝えておいた方がよかろう」とただちに京へと向かうことにした。

 大内義弘が義満の上洛要請に応じる形で海路軍勢を率いて和泉・堺に入ったのは応永六年(1399)十月十三日のことである。堺に入った義弘は京へ向かおうとせず、そのまま五千の軍勢と共にその地に腰をすえてしまう。
 義弘の動静はただちに義満のもとに伝えられた。「義弘の叛意は明らかだ。しかしすぐに京へ攻めてこぬということは…義弘め、同心する者の動きをまっておるな」と義満は読んだ。「それは南朝や山名・土岐の残党か、あるいは関東か、それともその全てか…よもや朝鮮国ということはあるまいな」義満はひとまず義弘の真意をさぐらせるべく、側近の一人であり禅宗界の最高者である絶海中津に使者として堺に発つよう命じた。
 十月二十七日、堺に入った絶海は大内軍がすでに堺の町を要塞化しているのを目にして驚く。西は海、東は深田を堀がわりとし、材木を集めて四十八の井楼、千七百の矢倉を築き、町全体をぐるりと城壁で取り囲んでいたのである。しかも海上には大内の水軍が控え、万全の態勢を固めている。
 絶海を前に義弘は、義満が自分を滅ぼそうと策謀をめぐらしていると主張、上洛を明白に拒否する。そして「それがしは鎌倉殿(満兼)から御教書をいただいている。わしは鎌倉殿と共に御所様の政道を正すため、東西から呼応して京に入る所存じゃ。鎌倉殿も今頃ははや箱根を越えておられるころであろう…来月二日に上洛という手はずになっておりますからな。上洛はそのときに果たし申そう!」と言い放ち、絶海を帰らせた。
 義弘の強硬姿勢に驚いた絶海はただちに京に帰って義満に事の次第を報告した。義満は事前に魏天や小波らから情報を得ていたので義弘が了俊を通じて満兼と連絡をとっていたことは承知していたが、義弘の強気ぶりに「まだ味方があるのやもしれぬな…用心してかからねばなるまい。また義弘はわし自ら出陣して討たねばなるまい」と言って、ただちに諸大名に合戦の準備をするよう命令を発した。

 義弘の工作は義満の当初の予想を超えるかなり大掛かりなものであった。義弘は鎌倉府だけでなく、大和の興福寺といった寺社勢力、美濃の土岐詮直、近江の京極秀満ら大名家の不満分子、さらには明徳の乱で敗死した山名氏清の嫡子で丹波に潜んでいた宮田時清 、楠木・和田ら南朝残党勢力にも協力を呼びかけ、その多くが実際に各地で兵を起こしていたのである。鎌倉府以外一つ一つは大した勢力ではなかったが義弘自身が堺に篭城して徹底抗戦の構えを見せており、戦いが長引けば形勢が不利になる恐れもある、とみた義満は自ら出陣して義弘にあたる一方、関東管領の上杉氏や小山・宇都宮・伊達氏などに連絡をとって鎌倉府を牽制させた。
 義弘と「十一月二日に東西から上洛」と示し合わせていた満兼であったが、関東管領の上杉憲定が出兵に強硬に反対し、また小山氏や奥州の伊達氏が不穏な動きを見せていたためになかなか西上の軍を起こせずにいた。そのころ今川了俊は領国の遠江で兵を整え、満兼軍の西上を待っていたが、いっこうに満兼出陣の動きが無いことにイライラと日々をおくっていた。

 義満が自ら兵を率いて北山第を出陣し、東寺に入ったのは十一月八日のことである。この時も義満は明徳の乱の例に倣って朝敵討伐の勅命を求めず、敵を調伏させる独自の祈祷を行わせていた。十四日には男山八幡に進み、ここに本陣を置いて諸大名の軍勢を指揮することにした。義満直属の奉公衆の兵二千、管領の畠山基国や前管領の斯波義将以下、細川、京極、赤松、山名、吉良など諸大名の兵が合計三万余集結し堺へと攻め寄せる態勢をとった。参陣した大名の中にはかつては南朝方の主力であった伊勢国司北畠顕泰満泰父子の姿もあった。
 十一月二十一日、ついに鎌倉の足利満兼が挙兵した。しかし満兼はただちに西上するのではなく後背の憂いを断つべく小山氏攻撃のため武蔵府中、さらに下野足利へと兵を進めた。数日のうちにこの情報は義満の耳にも届く。各地の情勢を慎重にうかがって堺攻撃をためらっていた義満はこの報を受けて「もはや猶予はない。堺を攻め落とすべし」と総攻撃の指示を出した。
 十一月二十九日早朝、ついに幕府軍の総攻撃が開始された。畠山基国、山名時熙の軍は堺の城壁に押し寄せて激しく攻め立てたが、地の利を生かした要塞の堅固さは並大抵のものではなく、城内から屈強の矢が雨のように降り注いで幕府軍を苦しめ、また木戸を一つ二つ突破しても強靭な大内兵の前に退却を余儀なくされる。義弘も白綾綴の鎧をつけて兜もかぶらずに馬を馳せて奮戦し、この日の夜に至るまでの戦闘で大内軍は完全に幕府軍を防ぎきった。一方の幕府軍は北畠満泰をはじめとして多くの戦死者を出して引き上げるはめとなった。
 この堺での戦闘開始に呼応するように美濃や近江、丹波で大内方が次々と挙兵、いずれも優勢を見せ、幕府軍諸将を震撼させる。堺は町ぐるみを要塞と化しており、しかも海路を押さえているため補給も続き、何ヶ月でも篭城を続ける姿勢を見せていて幕府軍も攻めあぐねる。戦線は早くも膠着化してしまっていた。

 「義弘は篭城して情勢の変化を待つつもりだ。楠木正成の例もあるしのう。鎌倉の動きが緩慢なのは幸いだが、一刻も早くこの堺を落とさねばならぬ」義満はさすがに焦りを見せていた。すでに攻防戦は一ヶ月近くに及んでおり、十二月も末に近づいている。冷たい烈風が義満の陣営にも吹きすさび、諸将の身を震わせていた。
 「明徳の乱のおりもこうであったな…勝利して正月を迎えることができるかどうか」と義満は冷たい空を見上げながらつぶやいた。そのとき、ふと何かに思い当たったらしく側近を呼んで「大きな左義長を作らせよ。できるだけ多く。ただちにだ!」と命じた。左義長とは正月飾りを燃やすために使う木や竹を三叉に組んだものである。首をかしげる側近に義満は叫んだ。「この風を見よ!天は我に味方したぞ!正月の前祝いに義弘どもを火祭りにしてくれよう!」
 義満の命に従い兵士達により大量の大左義長が作られ、城攻めの矢倉に詰め込まれた。十二月二十一日早朝、矢倉に詰め込まれた左義長に一斉に火がつけられ、その矢倉を兵士達が堺の城壁へと押し倒す。折からの強風に煽られて、左義長の火は火の粉を上げてたちまち矢倉全体に燃え広がり、そのまま堺の要塞を火の海に変えていく。「しまった!火攻めか!」と義弘が叫んだときには時すでに遅く、大内軍の武士達は逃げ場を失って、やむなく決死の戦いを挑むべく堺の城外へと出撃していく。
 「…は、は、は…御所様は運がお強い…天とは理不尽なものよ。ああまで一人のお方に幸運を独り占めされることもあるまいに」と義弘は火の粉の舞う中で苦笑する。そこへみすぼらしい格好をした老人が一人姿を現した。「勇魚か…」と呼ぶ義弘に、勇魚「まだ大内様の運も絶えたわけではありますまい…海路お逃れになり、周防なり筑紫なり、あるいは朝鮮なりで再起を図ることもできましょうぞ」と言う。義弘は自嘲気味に笑って「この戦の前にな、小波たちに言われたわ…いまさら泰平を乱すようなことはできぬ、とな。まさしく至言であった…わしは野心から愚かな賭けをしてしまったのだ。その賭けに敗れた上は、武将として恥ずかしくない最期を遂げたい」と言って逃亡を断った。勇魚は黙って頭を下げ、姿を消した。
 義弘は愛用の長い太刀を手に馬に跨り、畠山軍に向かって突撃していく。義弘は凄まじい形相で寄せ来る武者を次々となぎ倒し、斬り捨て、返り血と自らの血で真っ赤に染まりながら戦場を馳せていく。「我こそは天下無双の名将、大内左近大夫義弘入道じゃ!!我と思わん者は討ち取って相公(義満)のおん目にかけよ!!」と義弘は大音声を上げて戦い続け、ついに畠山満家の軍勢の中に突入して戦死した。享年四十五歳である。

 堺を陥落させ、義弘を討ち取った義満は十二月二十三日に男山八幡から京へと凱旋した。義弘の敗死を知った各地の反乱軍はたちまちのうちに崩壊し、京周辺もあっさりと平穏になった。義満はなおも関東の満兼の動きを警戒したが、義弘が戦死しては満兼もなすすべはなく翌年三月までに兵を引いて鎌倉に戻り、義満に対し恭順の意を示した。
 問題は義弘と満兼の連絡役をつとめた了俊の処遇であった。了俊は反乱の失敗を悟ると鎌倉近郊の藤沢に退居して義満に対し異心などないと弁解につとめたが、義満はことがことだけに容易に了俊を許そうとせず、「いっそ一人海賊舟にでも乗せて望みの九州へ行かせてやるか」などと言うこともあったが、了俊の甥の泰範が助命を嘆願し、また九州平定の功に報いてやっていないことが今日のことにつながったという義満自身の後ろめたさも手伝って、「ただちに上洛して異心の無いことを示せばいっさい罪は問わぬ」と命じ了俊の上洛をうながした。了俊は素直にこれに従い、7月に上洛して義満に罪をわびた。義満は約束どおり了俊を無罪放免としたが、了俊の政治的生命はここに完全に絶たれることとなった。
 その後、了俊は政治からは完全に離れて歌や著述など文学活動にいそしんでその長い余生を送った。了俊の没年は不明であるが、彼は義満の死後までも生き続け、最晩年まで著作業を続けながら九十有余年という驚異的な長寿を全うすることになる。

 義弘を滅ぼしたて大内氏の勢力を削減した義満は、瀬戸内海から九州に至る海上ルートを手中に収めて、さらにこれまですでに側近に置いていた絶海中津や陳外郎に加えて魏天や小泉ら海外事情通をブレーンに加えて、いよいよ朝鮮や明との直接交渉に乗り出した。
 そのころ朝鮮宮廷では再び李芳遠によるクーデター(第二次王子の乱)が起こり、ついに李芳遠みずからが王位についた。これが朝鮮王朝第三代・太宗 である。この太宗のもとで朝鮮国はその体制を整え、安定した時期を迎えることになるのだが、その王朝の創設者である太祖・李成桂は相次ぐ息子達の権力闘争を嘆き、世をはかなんで仏教に救いを求めて咸興の寺にこもってしまった。太宗はたびたび使者を遣わして都に戻るよう勧めたが李成桂はこれら使者を次々と殺してまで拒絶する。結局国師であった無学が使者にたって説得したため、1402年に彼はようやく帰京して息子との和解を為した。やや寂しい晩年をすごした李成桂がこの世を去るのは1408年5月のことである。

 一方の明では建文帝と燕王の抗争、「靖難の変」が依然として続いていた。このような時期に久しぶりの日本からの使節が南京にやって来た。明の年号で建文三年、日本の応永八年(1401)のことである。正・副の使者は義満の側近(同朋衆)の一人祖阿(素阿弥)と、「肥富」 と表記を変えていた小泉であった。僧侶と商人という異例のとりあわせの使者であったが、明朝廷はこれを正式の使者として扱った。このとき建文帝らは燕王との抗争上、その背後に位置する朝鮮や日本との連携を画策していたのである。実際、義満もそれを知ったうえでこの時期に使者を送ったという面もあった。
 日本からの国書は儒学者の東坊城秀長が起草、書家の世尊寺行俊が清書したもので、冒頭には「日本准三后・道義、書を大明皇帝陛下に上す」とあった。義満は過去の失敗に懲りて官職名ではなく「准三后」という待遇を肩書きに使い、明皇帝に臣従を唱えて数々の貢物を供し、かつ明人の倭寇俘虜や漂着者を送還していた。これに対し建文帝は「源道義」を「日本国王」に冊封し、これと国交を結ぶことを決定したのだった。
 祖阿と肥富らの使者が明の冊封使の僧侶二人を伴って帰国したのは翌応永九年(1402)の八月のことである。義満は側室や娘達を率いて兵庫の港まで船を見物しにくりだすほどの興奮ぶりで、九月五日に北山第に明使を迎えたときには自ら使者二人を門前まで出迎えた。公卿・殿上人らが大勢参席する中で、義満は高い机の上に皇帝からの詔勅を置いてこれに焼香して三拝、ひざまずいてこれをおもむろに読むという、ともすれば卑屈とも言えるほどの丁重さでこれを扱った。義満が開いた皇帝の詔勅には「なんじ日本国王・源道義…」の文が書かれ、義満を「日本国王」と呼びかけていた。義満が衆人の前で卑屈なまでの姿勢をさらして詔勅を仰いだ理由が、まさにこの一文にあった。自らが外国の権威によって日本の支配者であることを保証されたことを意味するからである。

 公家や諸大名の一部にこの件を問題視する声がないわけではなかったが、義満に正面切って言える者もなく、義満は気にも留めていなかった。ただ建文帝の詔勅の中に「軍国のこと殷(さかん)にして未だ存問するに暇(いとま)あらず」という一文があることに注意を払い、魏天に「明ではいくさが起き、皇帝と燕王が争っているとのことだが…どう決着がつくと思うか」と尋ねた。魏天は「燕王は気宇壮大、武勇の誉れも高く、家臣には有能な人材を抱えております。一方で南京の皇帝はこうして詔勅にもうっかり弱みを見せておられるような方。しかも叔父と甥の戦い…勝利は燕王のもとにありましょう」と答え、義満もそれに頷いた。
 事実、このときすでに「靖難の変」の帰趨は決していた。建文四年(1402)六月、燕王の軍勢は南京を陥落させ、建文帝は自殺に追い込まれていたのである。ただちに即位した燕王は建文帝は南方に逃亡したということにして甥が帝位にあった事実自体を抹殺し、「建文」の年号を廃して「洪武三十五年」とし、洪武帝がつい先日まで生きていたという形式を整えてしまう。翌年燕王は年号を「永楽」と定め、ここに永楽帝が誕生することになったのである。
 「燕王有利」の戦況は驚くほど早く、正確に京にも伝わっていた。しかし何事にも用心深い義満は建文帝あてと永楽帝あての二通の国書を絶海中津に起草させて、帰国する明使に五山の僧・堅中圭密らを同行させ二通の国書と共に明へ遣わした。
 応永十年=永楽元年(1403)2月に京を発った遣明使は同年九月に寧波(ニンポー)に到着した。ここで燕王こと永楽帝即位を知った堅中はさっそく永楽帝宛の「新帝即位を賀す」使節の体裁をととのえ国書に「永楽」の年号を入れて南京へと向かった。この国書の中で義満は「日本国王・臣源」 と自称して永楽帝の即位を祝い、結果的にせよ永楽帝の即位後まっさきに義満の使者が朝貢に来てその即位を祝す形となっていた。永楽帝は大いに喜んで義満に多額の明銭を初めとする多くの見返りの品と共に「日本国王」の印と永楽勘合百通を贈り、今後の国交の継続を約したのである。永楽帝はほぼ同時期に朝鮮国王・太宗を冊封し、義満もまたこの年十月に北山第に朝鮮使節を引見して、ここに東アジア三国の安定した外交体制が定まることとなったのだった。この明を盟主とする冊封態勢には間もなく琉球の中山国も加わり、永楽三年には靖難の変で功のあった鄭和が、大艦隊を率いて南海へと乗り出し、明帝国を世界帝国へとはばたかせていくことになる。
 
 義満は毎年のように明へ使節を送り、また自らもしばしば兵庫まで出かけて船を見物し、明から来る文物に目を輝かせてなおいっそう交易に熱を上げていく。義満の対明貿易は莫大な利益を幕府や諸大名にもたらし、明からの輸入銭「永楽通宝」は日本の通貨としてその後およそ二百年にわたり流通することとなった。また多くの舶来の名品の輸入により京の文化はいっそうその華やかさを増していった。
 ある日、義満は金閣に魏天と小波、肥富をひそかに招いた。金閣の周囲の池に船を浮かべ、その上から夕陽に映える金色の舎利堂を眺めて一同は楽しむ。「…頼之に、見せたかったのう…この眺めを」ふと義満はそんな言葉を口にした。 「いや…頼之だけではない…この泰平の世を築くまでに死んでいった、わしが会ってもおらぬ多くの者に、この浄土の眺めを見せたかった…長い乱世のその果てに、ようやくこのような眺めを楽しめる時がやってきたのだ。だが、そのために死んだ多くの者は、それを見ることはかなわぬ…いや、彼らはいま真の浄土におるのかもしれぬのう…」義満の言葉に、一同は速波細川頼之細川清氏慈子渋川幸子山名氏清や大内義弘など、乱世の中で世を去っていった多くの者たちの面影を、夕陽に映える金閣に重ね合わせる。
 「あれが、何かわかるか?」義満は肥富に、金閣の上に輝くものを指差して尋ねた。「鳳凰でござりまするか」と答える肥富に、義満は「そうだ。聖徳の天子の御代に現れるという、霊鳥よ」と言う。「なぜわしがあれをそこに作らせたか、真の意味がわかるか?」とさらに問う義満。魏天も肥富も思うところはあったが、あえて黙っていた。すると義満は笑って言う。「その聖徳の天子がわしだとか、そういうことを言おうというのではないぞ。鳳凰とはまさに神の鳥、この世の果てのどこまでも飛んで行く、大いなる鳥じゃ…わしはそんな鳥がうらやましい」
 義満は夕陽に浮かぶ黄金の鳳凰を見つめながら、語り続ける。「わしは恐らくこの世の全ての望みをかなえてしまったと言ってもよい、世にも稀な幸運な男だと自身でも思う。だがな、ただ一つ、幼き時から抱いている夢で果たせぬものがある…」そう言って義満は小波たちに顔を向けた。「わしはな、お前達のように、海を越えて、遥か彼方の異国を旅するのが夢だった…そう、“国王”ではとてもかなわぬ夢よ…国中を遊覧しようと、西方浄土のような屋敷を作ろうと、所詮は夢よ…自由に海を越えて旅するお前達が、わしはうらやましくてならんのだ」義満の独白を、魏天・小波・肥富は黙って聞いている。
 「わしはな、もし“王”の身から解き放たれることになったときには…そのときには…鳳凰のように、海の彼方へとはばたいてみたいのだ…黄金の鳳凰となってな…」義満は目を閉じ、思いにふける。金閣を照らしていた夕陽はもはや西の彼方に沈み、金閣の頂上の鳳凰だけが光り輝いてあたりを照らしている。義満はその鳳凰をまぶしそうに見つめ続けていた…

 足利義満は応永十五年(1408)五月に51歳でこの世を去るまで、日本史上においても空前絶後の権勢をふるい、その死に際しては朝廷から天皇の父に対する「太上法皇」の尊号がたてまつられたほどであった。息子の足利義持はこれを固辞したが、彼の位牌や木像には「法皇」「天皇」の銘が施されたのである。
 義満からその子義持、義教と続く時代は室町時代の安定期であり、中世においてもっとも平和を謳歌した黄金時代であったと言われる。南北朝の長い動乱の果てに実現したこの黄金時代の残光は、いまなお北山の金閣に偲ぶことができるのである―

第五十回「日本国王」終(2003年4月1日)

「室町太平記」
-完-





★解説★世阿弥第五弾  
 あーーーーーっ、終わった、終わった。最終回と言うことで実質的に二回分の内容となっております。ファイル容量が大変だから解説はなるべく手短にっと。

 実は第一回から登場していた、朱元璋洪武帝さんもついにお亡くなりです。死の二日前に「燕王には注意しろ」とお孫さんに言い残したという話は、さすがといいますかなんといいますか。朱元璋さんのお墓は南京郊外の孝陵でございまして作者も行ったことがあったりするんですが、永楽帝さんがこのあと都を北京に移しちゃうので明の皇帝ではただ一人、初代の洪武帝だけがポツンと南京に寂しく葬られているという構図になっちゃっております。
 本文中でも触れていますが、結局一年もたたないうちに燕王は挙兵し、三年後に建文帝を倒して永楽帝として即位してしまいます。その際に「建文」は全てなかったことにしてしまうという捏造工作をいたしまして(バレバレではあるんだけど、一応体裁は整える) 、明王朝の実録でも洪武の次に永楽が連続しているという形になっています。もちろん永楽帝の「簒奪」に対し筋を曲げずに非難をして殺された忠臣なんかもいたりしまして、永楽帝さんのその後の北方大遠征や鄭和の南海遠征といった積極的対外活動にはそうした国内の批判をかわす狙いもあったものとも言われております。

 一方、建国間もない朝鮮では国家体制自体は改革も進んで順調だったんですけど、宮廷はそうでもなくて李成桂さんのお子さん達の間で血みどろの闘争が行われております。一度目の「王子の乱」で王太子とその家庭教師・鄭道伝が殺されておりますが、鄭道伝さんは前にも出ていたの覚えてらっしゃいますかね?彼は自らを漢建国の功臣・張良に例えて増長するところがあったのは事実のようで、それが李芳遠さんらに恨まれた一因ではあったみたい。李芳遠さんと申さば鄭夢周殺したのもこのお方ですし、思えば最終的に王になるのは規定コースだったのかもしれません。のちに「太宗」と贈り名されてますが、その道のりは何やら唐の太宗を思わせるところがありますな。
 晩年の李成桂さんはそんな身内の殺し合いにすっかり世をはかなんで都を離れて寺にこもってしまいます。太宗が送った使者を次々殺しちゃったことから、かの国では行って二度と帰らぬことを「咸興差使」と言うようになったそうで(日本では言えば「薩摩飛脚」)。結局は彼の即位を予言した高僧・無学に諭されて都に帰りましたが、洪武帝さんといい李成桂さんといい、何やら晩年は家庭的に寂しいものがありますな。

 さて日本ではいわゆる「応永の乱」が勃発します。義満さまが山名の次は自分を滅ぼす気だと察した大内義弘さんは、あらゆる反義満勢力に声をかけて壮大なスケールの戦いを挑むことになります。その連絡役にあたったのが、以前やはり協力を呼びかけられて拒絶していた今川了俊さんでありました。了俊さん、遠江と駿河半国を与えられたのですけど、駿河のもう半分は甥の泰範さんの領国でありまして、叔父・甥の間でかなり険悪な関係になっちゃったようなんですね。会社創業の幹部だったはずなのに年とって社長に煙たがられてリストラされ、家に帰れば身内からも煙たがられ、という悲惨な状況になっていた了俊さんは義弘さんの呼びかけにフラフラと、いや結構乗り気になって乗っちゃうわけなんです。
 義弘さんは当初足利氏満さんと連携を図ろうとしていたんですが、折悪しく氏満さんが亡くなってしまい、若い満兼さんが鎌倉公方になっていました。了俊さんがその連絡役になったと記している史料は『鎌倉大草子』はじめいくつかあるんですが、実は了俊さん自身の著書『難太平記』ではこのあたりはさすがにぼかして書いてるんですね。しかしその中で義満さまのことをケチョンケチョンにけなしていたりしますから(文中に出てくる祈祷をやたらにする、というのもその中に出てくる)、個人的かつ政治的に相当に恨みを持っていたのは確かなようです。

 応永の乱勃発の直前、大内義弘さんが突然朝鮮政府に対し「先祖の地に所領をくれ」と申し出たのは有名な話。これはもちろん朝鮮側の記録に出てくるもので、実際、一時認めることに決まりかけたんですよね。しかしそれこそ「何を考えているかわからん」ということで認めない(先送り?)ことになったんですが、ホントに今日でもこのときの義弘さんの真意は判然としておりません。すでに義満さまに挑戦する気持ちは固めていた時期でしょうから、負けた場合に朝鮮に逃れようと思っていたか、あるいは軍事的に朝鮮の協力を得られると思っていたのか…。

 応永の乱の展開はその軍記物語である『応永記』の内容におおむね沿って描かせてもらっています。まぁだからあんまり補足解説することはないんですけど…
 ちょいと補足しておきますと、奥州の伊達氏が満兼さんを牽制する動きを見せてますね。このときの当主はその名も伊達政宗(笑)。もちろん独眼竜の政宗さんがこの人から名前をとってるんですけどね。なんでもこの政宗さんの奥さんが義満さまの母上と姉妹であったらしく(父親が同じ善法寺通清) 、それもあって義満さまから司令をうけて鎌倉を牽制したということみたい。実際、挙兵した満兼さんは東海道を攻め上るんじゃなくて北へ向かって行軍してまして、結果的にこれが義弘さん了俊さんの目論見違いにつながってしまうわけです。それにしても康暦の政変の時もそうでしたが、関東管領の上杉氏は気苦労が絶えませんな(笑)。

 難攻不落の要塞と化した堺を攻め落とすために幕府軍が左義長を使って火攻めをした、というのは『応永記』にある話。これを義満さま自身が思いついたというのはあくまで作者によるドラマ的演出なんですけど、なぜか応永の乱を描いた日本史漫画のいくつかでこの火攻めを義満様自身が思いついたことにしているのがあったんで、「まぁいいか」ってなもんでそれに従わせていただきました(笑)。ついでながらこの火攻めを『応永記』は三国志の赤壁の戦いになぞらえて表現しています。このころの軍記文学は中国歴史ものの引用がやたらに目立つんですよね。
 死を覚悟した義弘さんに勇魚さんが逃亡を勧める場面がありますが、これはもちろん創作。『応永記』にも一応同様のシーンがあって義弘さんが項羽の例を長々と引用して戦死の覚悟を述べるんですけどね。明徳の乱の時もそうでしたが、義弘さんはここでも凄まじい戦いぶりを見せて壮絶な戦死を遂げております。

 一時はどうなることかと思えた応永の乱もあっさり終結し、困っちゃったのは了俊さん(笑)。藤沢にこもって必死の弁明をし、仲の悪かった甥の泰範さんもなぜか命乞いをしてくれたおかげもあって、命は助けられます。それでも結構『難太平記』で義満さまの悪口を書き連ねているんですが(笑)。でも本人以外からみればずいぶん寛大な処置をしてくれたもんだと思えますよね。
 この了俊さんはその後文学活動だけに専念して、こちらはこちらで大変な業績を残すことになるんですけど…なんつっても驚かされるのがこのお方の生命力です。一説には96歳まで生きたと言われているのですが、どうやら93歳あたりで亡くなられていたようです。

 さて、物語の最後に来るのは日明交渉であります。ここで「小泉=肥富」関係について弁明しておかねばなりません。
 義満さまが明に使節を派遣したキッカケとして、「筑紫の客商・肥富」なる人物が明から帰ってきて貿易の利を義満様に説いたことがあった、というのは割と有名な話です。しかしこの「肥富」なる商人、遣明使節の代表(副使だったらしい) までつとめていながら、その正体は全く不明の人物です。後世の史料に「コイツミ」と振り仮名がふられているのでようやく読み方が分かるような人ですからね。瀬戸内海に勢力を持っていた「小泉氏」のことだとする意見もあるんですが、明確な根拠はありません。あくまで作者の個人的つぶやきですが、どーもこの「肥富」っていう字面、中国系の匂いがするんですよね。筑紫の商人ってことは博多商人でしょうからその可能性はかなり高いとも思えますし、そもそも義満さんの周辺にはその手の在日外国人あるいはハーフが妙に多いというところがあります。そこでこの「ムロタイ」では「肥富」を日中ハーフという設定にしてみたわけです。実は母親の「小波」って名前もそれを考慮して名づけていたんですよ〜なかなか遠大な計画だったでしょ(笑)。まぁこのへんの裏事情は後日の暴露大会で(笑)。
 んで、お父さんの魏天ですが、こちらはれっきとした実在人物。肥富との関係はどうなんだ、と言われますと、はっきりと「これは大嘘でございます」と白状させていただきます。魏天さんは以前にも触れましたように義持さま時代に来日した朝鮮使節・宋希mさんの『老松堂日本行録』に出てくる人物で、宋希mさんが京に着いたら「朝鮮から人がやって来た」と聞いて懐かしそうに姿を現し、朝鮮語をペラペラとしゃべった中国系日本人(?)という実にグローバルな人物です。それによれば「前王に愛された」とあり、また陳外郎さんと関係が深かったらしいことから義満さまの外交ブレーンの一人であったことは確実でしょう。しかし彼には二人の娘がいたということしか書かれてませんし、肥富はまさか男でしょうから、このドラマの設定は完全なる創作ということになります。ま、どーせみんな正確なことはわからない人物なんだし、いいじゃないですか(爆)。

 ラストシーンは、魏天・小波・小泉ら半架空キャラたちと義満さまが金閣を眺めているシーンとなりました。いやホント、書き始める当初からこういうシーンで締める予定だったんですよ。このあとの義満さまの「上皇」への道のりだとか息子の義持さんとの確執やら義嗣さんへの溺愛だとか、いろいろ書ける事はあるんですけど、ドラマとしてはもう盛り上がりません。このあたりが義満さまの絶対権力の完成期、そもそも室町幕府確立の苦闘を描くことがテーマの「室町太平記」の終着点と思っておりまして、「ここで終わりかいっ!」って不満の声も聞きつつ締めくくらせていただきます。
 義満が金閣の鳳凰を見てあれこれ言っておりますが、これはもちろん作者の勝手な創作。実はひそかに次回連載企画につながっていく「予告編」の役割を果たしていたりするんですが…(笑)。

 ともあれ、一年と三ヶ月の長い間、御視聴(?)ありがとうございました。これでこの世阿弥も一仕事を終えまして…え?このあと裏事情暴露大会があるからそれの司会をしろって?しょうがないなぁ。
 というわけで、連載自体はもうちょびっと続くのじゃ(笑)。

制作・著作:MHK・徹夜城