細川頼之
細川清氏
慈子
楠木正儀
今川貞世
細川頼有 後村上天皇
新開真行 三島三郎今川範国 和田五郎 無涯仁浩
光厳上皇 光明上皇 崇光天皇
直仁親王 北畠顕能 千種顕経
足利尊氏
北畠親房
足利義詮
世阿弥(解説担当)
頼春の子供たち 頼春の側室たち
細川家家臣団のみなさん お公家さん集団
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:室町幕府直轄軍第12師団・第13師団
民家提供:京都市
佐々木道誉
利子
細川頼春
◆本編内容◆
観応二年10月、北朝の朝廷を奉じていたはずの将軍・足利尊氏が直義との対決のために南朝と和睦、南朝の
後村上天皇を唯一正統の天皇として認めることに同意した。突然の事態に京が騒然とする中、11月4日に尊氏は大軍を率いて関東にいる直義らを討つため出陣していった。
細川頼春・顕氏はいずれも都の守備を任されて京に残ることとなった。
間もなく賀名生の朝廷から使者が来て、北朝の崇光天皇および皇太子とされていた
直仁親王を廃し、年号も南朝の「正平」に統一して北朝の機能を全て南朝に接収することを伝えた。いわゆる「正平の一統」である。北朝の主である
光厳上皇、その弟・光明上皇をはじめ、北朝の公家達はパニックに陥る。
騒然とする京の東・清水坂の静かな庵に無涯仁浩という禅僧がいた。 細川頼有はこのところここに通って問禅しており、この日も混迷する世相のことなど語り合っていた。 「父もこの世の動きの激しさにはほとほと参っておられる様子」と頼有が苦笑すると、無涯は「世は一寸先は闇とは申すが…このごろの人々は、あまりにも節操と言うものがなさすぎる。北条が滅び、後醍醐の帝の御親政が失敗してよりこの方、世は裏切りにつぐ裏切りじゃ…将軍までが自らかついでいた帝を裏切りなされる…まさに世も末じゃのう」 と嘆息する。「それも乱世、ということじゃのう…和漢の史書をひもとけば、人間は同じようなことを何度も繰り返してきたことがわかるが…これほど人の心が信じられぬ世も珍しい」 と無涯は言い、「いつかは世は落ち着く。だがそのためには多くの人が懸命に努めねばならぬ。十郎どの(頼有)のようなお若い方々が、それをせねばなりませぬぞ」 と笑顔を頼有に見せた。頼有は「はっ、肝に銘じます」と一礼して立ち去る。
そのころ、阿波の細川頼之は小笠原をはじめとする阿波国内の反細川勢力との戦いを続けていた。12月に入り、中津峰からさらに南下した頼之軍は敵の本拠地を焼き討ちし、阿波の大半をその勢力圏に収めた。頼之軍の勢いに態度を変えて頼之のもとへ挨拶にくる国人たちも続出し、頼之は父・頼春に言われたとおり彼らの土地を安堵し、その心をつかむことに腐心する。
戦場から頼之が館に帰ってくると、出迎えた慈子が何かを言いたくて言いにくそうにしている。何事かと問い詰めると、頼春の側室の一人が身ごもっていることがわかったとのこと。日数から考えても頼春が8月に一時期阿波に来ていたときに身ごもったものと思われ、頼之は頼春の言葉を思い出して
「父上に負けてしもうたのう…」と苦笑する。しかしこの言葉に慈子が一瞬辛そうな表情を見せたため、
「案ずるな、こればかりはめぐり合わせよ」と頼之は慈子を抱き寄せて慰めた。
12月23日、賀名生の南朝朝廷のもとに北朝の「三種の神器」が接収されてきた。北畠親房
は神器の入った箱を見てニンマリと笑う。もともとこの神器は後醍醐天皇が足利尊氏と一時的に和睦した際に引き渡したものだったが、後醍醐は吉野に逃れるとこの神器を「虚器」すなわち偽物と表明していたのである。しかし「正平の一統」が成ると南朝側はこの「虚器」を大急ぎで回収してしまった。
朝廷が南朝のもとに統一され、北朝が与えた官位も全て白紙に戻されてしまった。恐慌状態に陥った京都の公家たちは大慌てで「賀名生参り」に押しかけ、後村上天皇や親房らのご機嫌をとって官位・領地の確保を図ろうとした。そんな公家達が賀名生の山奥にゾロゾロと押し寄せてくる様子を、親房は面白そうに眺めている。
親房は後村上天皇に拝謁し、賀名生の賑わいぶりを大いに皮肉をこめて奏上した。「して、朕はいつ京へ入れるのか」
と後村上が問うと、「お慌てなさいますな。ここで慌てて京へ入っても、足利も幕府も京に健在でござります。真の意味でに京をとりかえすために
我らは長いあいだ準備をして参りました…」と親房は答える。親房は両手の人差し指をそれぞれ立てて、
「いま尊氏が関東に、義詮が京におります。間もなく尊氏が直義を倒しましょう…しかしかなりの手負いもするはず。そのときを狙って信濃の宗良親王、上野の新田一族が鎌倉を攻め、尊氏を滅ぼす。我らはこれと呼応して楠木らとともに一気に
京を陥れる。東西同時の作戦で一挙に天下を鎮める。これは先帝が北条を滅ぼした元弘の故事になろうたもの…」と説明した。後村上は力強くうなずいた。
このころ、幕府でも新たな人事が行われていた。細川頼春はめでたく武士を統括する侍所の頭人に任命され、大いに喜ぶ。しかし幕府でお礼かたがた
足利義詮に面会すると、義詮は浮かぬ顔をしている。南朝側が武士の所領問題にも介入してきて幕府と対立を始めていたのである。これまでの戦乱で南朝側が味方の武士に与えてきた所領をそのまま認めては幕府はその存在理由を失うといってもよかった。
「賀名生は何を考えておる…こたびのことは武家方と宮方の合意の上の和睦ぞ。全てをあの建武の御代に戻して幕府など認めぬというのか…?」
と義詮はブツブツと頼春に愚痴る。頼春も内心かすかな不安を覚えないではなかった。
そのころ、関東へくだった尊氏軍とこれを迎え撃つ直義軍の戦いが駿河で始まっていた。擾乱を通して尊氏側と直義側の間を臨機応変に渡り歩いてきた
今川範国はこの戦いでは尊氏側についていた。息子の今川貞世も父に付き従ってこの戦いに参加している。戦いは尊氏軍の一方的な連戦連勝で、年明けに一気に鎌倉へと突入した。
二ヵ月後。新しい年も閏2月に入り、頼之は守護である父の代理として阿波国人たち相手の政務に没頭していた。書状に「正平七年」と南朝の年号を書きつつ、
新開真行、三島三郎らと昨今の慌しい情勢を語り合う。関東では先月26日に尊氏に降伏して幽閉されていた直義が急逝していた。
「将軍による毒殺とのもっぱらの噂で…」と三郎は声をひそめて言う。
そして直義死去と同じ日、ついに後村上天皇が京に入るべく賀名生を出立していた。後村上は河内を経て摂津・住吉神社に入り、ここに北畠・楠木・和田など南朝方の軍勢を集めつつあるという。
「どうにも動きがきな臭いのでござります。幕府の方からも帝が軍勢を集めていることを不審に思い、真意をうかがわせているそうでござりますが、『あくまで世上不安のおりから、護衛のため』とのお答えとか」
と三郎は摂津から入ってくる情報を報告した。「よもや…帝は軍勢で京を制圧するおつもりなのでは…あの北畠卿が策謀をめぐらせているとなると…」
と言う真行の言葉に、頼之も不安を覚える。
あくまでゆっくりと、様子をうかがうかのように動く後村上帝の動きに、義詮は神経質になっていた。しばしば使者を住吉に遣わしてその真意を問わせるが、「あくまで世上不安のため」という返事が返ってくるばかり。
「所領のことでこちらの譲歩を求めておるのやも…こちらは今はいくさを避けねばならぬ」と義詮は言い、応急措置として所領問題での大幅な譲歩を認める旨、使者を送って後村上側に伝えさせる。一方で義詮は万一に備えて
佐々木道誉を退路確保のため近江に帰らせ、鎌倉の尊氏に連絡をとるよう命じる。しかしそのころ、関東では信濃の宗良親王、上野の新田一族が挙兵、一気に鎌倉を占領するという事態が起きていた。尊氏はこれと激戦を繰り広げており、身動きのとれない状況となっていた。
閏2月19日、後村上天皇とその軍勢はついに京の喉もと、八幡に入った。前後して義詮のもとには譲歩案の返答が届き、後村上側が幕府の譲歩案を飲んで兵を収めるという内容が伝えられていた。義詮はこの一見矛盾する行動に不安をつのらせる。
19日夜。八幡では北畠親房が諸将を集めて軍議を行っていた。「ついに、京奪回のときが来た…」 と武者姿の親房が言う。親房は息子の北畠顕能に鳥羽から東寺へ、 千種顕経に丹波路から、そして楠木正儀・ 和田五郎ら楠木一党に桂川を突破して七条大宮方面に押し寄せるよう作戦を指示した。「楠木」 と親房は正儀を呼びつけ、「わしとそなたと、そしてわしの息子とそなたの父・兄が待ち望んだ機会が、ついにやって来たのじゃ…迷い無く、存分の働きをみせよ」 と鋭い目で正儀を睨みながらささやくように言った。その眼光に、正儀は内心の迷いを見透かされていることを悟り、緊張した面持ちで 「ははっ、楠木一党の戦いぶり、存分にご覧下さりませ」と一礼した。
閏2月20日朝。北畠・千種・楠木の南朝軍が三方から一斉に京への突入を開始した。各所にときの声が上がり、民家を焼く煙がたちのぼる。楠木軍数百は桂川を渡河して七条大宮付近へ突入する。正儀は五郎と相談して兵士たちに命じて盾を組み合わせて梯子の形にし、それを使って民家の屋根に弓隊を上がらせて敵の襲来を待ち受けさせた。
南朝軍の奇襲とも思える突入に、幕府の諸将も不意を突かれた形で、大慌てで武装をととのえ反撃に出た。細川顕氏が軍勢を率いて早くも北畠軍と激戦を開始しており、寝起きで朝食をとっている最中だった頼春も、頼有、
清氏から南軍突入の報を受けてただちに出撃の命を下した。頼春は清氏と頼有に義詮のもとへ赴いてその護衛にあたるよう命じ、
「わしはこの京の警固をあずかる侍所の頭人じゃ。宮方など一兵たりとも京へは入れぬ!」と自ら手勢を率いて七条大宮に向かうことにする。
「しかし兵が充分には…」と頼有が不安がるが、「敵とて大した兵は持っておらん。案ずるな」
と頼春は言い、二人を武装もそこそこに義詮のもとへ走らせる。そして鎧もつけず、手近に集まった家臣とその手勢だけを率いて館を出た。
「東寺のあたりで軍勢を整えればよい」と頼春は楽観していた。
東寺へ向かう途中、七条大宮付近に軍が集まっているのを頼春は見る。「菊水の旗!」との家臣の声に、
「楠木か!」と頼春は言い、その手勢がさしたる数には見えないとみると、「よき敵ぞ。これを蹴散らしていけ!」
と叫んで兵をそちらの方向に向けた。頼春勢の接近に正儀も気づいたが、さしたる用意の無い頼春らは旗も立てておらず、誰の兵なのか判然としない。
「よし、やれ」と正儀は五郎に一言命じ、五郎の合図で屋根の上に潜んでいた兵士たちが、下を進んできた頼春勢に一斉に矢を浴びせる。矢を受け、次々と倒れる頼春の家臣たち。
「しまった!」と叫んだ頼春の肩にも一本の矢が当たる。混乱状態に陥った頼春勢に、正儀らの騎馬隊が襲いかかった。
「おのれぇー!!」と絶叫して刀を振り回す頼春。鎧もろくにつけていない頼春は、矢の雨を浴びて数本の矢を体に立てつつ奮戦を続ける。やがて目の前の刀に驚いた馬が飛び上がり、頼春は地面に投げ出された。倒れた頼春に二人の兵がつかみかかろうとしたが、頼春は倒れたまま刀を振るってその二人の膝をなで斬りにする。そして立ち上がろうとしたそのとき、突き出された一本の槍が、頼春の胸元を貫いていた。一瞬頼春は目を見開き、二、三歩歩もうとするが、吐血して後ろ向きに倒れた。
和田五郎が遺体に走りより、絶命を確認、「敵の大将を討ち取ったり!」と雄叫びを上げた。正儀はそれが大将に間違いないか、そしてどこの誰だったのか確認するよう命じた。
頼春戦死の悲報が、頼有の書状を持って京から脱出してきた清氏により阿波の頼之のもとにもたらされたのは、それから十日後のことである。知らせを聞いた
利子や慈子、頼春の側室たちが泣き叫ぶ中、身を震わせてその模様を語る清氏。聞いていた頼之は
「まさか、…そんな…父上が…」とヨロヨロと立ち上がり、ドサリと倒れこんだ。清氏はその体を抱きかかえ、
「しっかりせい、弥九郎!家の主のお前がそんなザマでどうする!さあ、共に弔い合戦じゃ!」と頼之を叱咤し、自らも泣いた。頼之は清氏に抱えられながら、涙も流さずに呆然と宙を見つめている。