第七回
「弔い合戦」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 正平7年(観応3年、1352)閏2月20日、北畠・楠木勢を主力とする南朝の軍勢が突如京へ突入した。これを迎え撃った細川頼之の父・頼春は楠木正儀の軍勢と戦い、壮絶な戦死を遂げてしまう。父の戦死という突然の悲報に、頼之は呆然とするのだった。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

慈子

楠木正儀

細川頼有 後村上天皇

和田五郎 無涯仁浩

新開真行 三島三郎

光厳上皇 光明上皇 崇光天皇 

直仁親王 北畠顕能 細川顕氏 

山名師氏 土岐悪五郎 光吉心蔵
 
足利尊氏

北畠親房

足利義詮

世阿弥(解説担当)

頼春の子供たち 頼春の側室たち
細川家家臣団のみなさん 山岳ゲリラのみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:室町幕府直轄軍第25師団・第33師団 男山八幡宮

細川頼春(回想)

利子

佐々木道誉


◆本編内容◆

 阿波・秋月の守護館の暗い一室に、頼之は一人こもっていた。昨年、父と共に暮らしたつかの間の日々、よく酒を酌み交わした部屋である。目の前には頼春がよく座っていた茣蓙(ござ)が、ぽつんと寂しく置かれている。頼之はその主の無い座を黙って見つめ続けている。暗がりに目を向けていると、そこに笑顔で酒をあおる父の幻が浮かんでくる。
 そこへ入ってきたのは母の利子だった。「弥九郎どの、もう丸二日が経ちますぞ。ちゃんと食事をおとりなさい」 と利子は息子に言う。「…喉を通りませぬ…」と頼之はか細い声で言う。 「大殿は亡くなられたのじゃ。もはや、再びこの世に現れる無く、飯をお食べになることもない。じゃが、生きている者は日々飯を食い、生きてゆかねばならぬ…辛いことじゃが、それが生きる、ということじゃ」 と利子は諭す。一瞬母を見て、また黙然とする頼之。「武士は、戦場で命をかけることを己の持って生まれた定めとする。大殿は私が妻となったその日以来、よくそうおっしゃっていた…いつかこのような時が来よう、覚悟はいつもしておけ、とおっしゃっていたものじゃ。そなたもその武士の家に生まれついた。覚悟をせねばならぬ。ましてそなたは父上のあとを継いでこの細川家を背負って立たねばならぬのじゃ。いつまでも嘆かれるな。清氏どのも出立の時を待っておられますぞ」 利子は息子を見おろしながら一気にそう言って、頼之の両腕をつかんで立たせた。「さあ、行くのです!頼有どのも待っておられますぞ」 と利子は頼之を見つめた。そして途端に崩れるように頼之にすがりつき、押し殺したように嗚咽するのだった。

 ようやく頼之は慈子とともに食事をとった。気のはやる 清氏が頼之の立ち直りを待ちきれず一足先に出立していったことを慈子は頼之に話し、頼之も間もなく出陣するのかと尋ねてくる。 「父を討たれて、仇を討たぬ武士はおらぬ…京には頼有もおる。わしがすぐにもいかねばならぬ」と頼之は言い、 「わしの留守の間に、必ず小笠原らがまた暴れだそう。留守の間のことは新開や三郎に任せておく。彼らを頼りにせよ」と慈子に言いつける。 「阿波のことはご心配なく、存分のお働きを…そしてきっと、ご無事でお戻りくださりませ…!」と慈子は涙ながらに頼之に答えるのだった。
 翌日、頼之は清氏のあとを追いかけて京へ向けて出陣した。新開真行 三島三郎らが留守を任され、光吉心蔵ら阿波の武士たちが頼之に同行する。

 そのころ、南朝軍に占領された京には北畠親房が意気揚揚と都入りし、京の市政を取り仕切っていた。ついに京都奪回の宿願を果たして感無量の親房だったが、依然 足利義詮ら幕府軍が近江にあって京奪還の機会をうかがっており、警戒を緩めず後村上天皇 の京帰還も先延ばしにしていた。関東から入ってくる情報では宗良親王を奉じた新田一族が鎌倉をほぼ同時に奪回したものの、尊氏側の反撃もあり苦戦しているとのことで、親房は気が休まらない。
 親房は北朝の光厳光明 崇光の三上皇と廃された皇太子である直仁親王ら皇族の身柄を確保し、楠木の勢力圏である河内の東条へ送ることを命じた。命を受けた 北畠顕能が兵を率いて御所にやってくると、光明上皇が「元はと申せば、なりたくてなった王位ではない。もはや帝も院も、なんの位もいらぬ。出家して世を捨て、寺にこもって静かにくらしたいのじゃ。頼むから京から連れ出すのだけは許してくれ」 と泣いて頼むが、顕能は聞く耳も持たず、上皇たちを輿に押し込み、強引に連行していく。

 一方、近江に逃れていた義詮のもとに関東で尊氏軍が優勢になりつつあるとの情報が入り、義詮は安堵する。さらに陸良親王を奉じて挙兵し南北両朝の和解を進めていた播磨の 赤松則祐が、今回の南朝側の「騙し討ち」に激怒し義詮に味方して京を攻める旨を伝えてきたので、ますます義詮は勢いづく。 佐々木道誉も京奪回の機会と進言するが、「しかし上皇らをそのまま京に置いて来たのはまずかったですな…」道誉に言われて義詮はしょげかえる。「まずは京を奪い返すことでござる。帝のことはそれからということで」 と道誉は言い、出陣の支度にとりかかる。義詮は南朝側が一方的に和議を破ったことを全国の武士にアピールし、「正平」の年号を捨てて「観応」を復活させた書状で自分と共に京奪回の戦いに参加するよう呼びかける。
 そのころ、細川頼有は京の郊外、清水坂の無涯仁浩 の庵に身を寄せていた。無涯は付法状を頼有に与え、「通勝」という道号を授ける。神妙に受け取る頼有に、無涯は 「十郎どの、お辛かろうが、いまが十郎どのの試練の時じゃ。お父上を殺した敵を憎み、悲しみと怒りに燃えるお心はよく分かる。しかし今はその心を抑えて醒めた心を持たれよ。父上を死に追いやったのは単に楠木のみが悪いということではない。世の中すべて、何かが狂っておるのだ。そこをしっかと見据えられよ」 と諭した。頼有は「有り難うございまする」と一礼して庵をあとにした。そして義詮のいる近江方面へと頼之の家臣たちを引き連れ馬を馳せた。

 3月9日、義詮は集まってきた大軍を率いて近江をたち、京目指して進軍を開始した。これと呼応するように、播磨の赤松則祐も軍勢を率いて京へ向かう。東西から挟み撃ちという情勢に、親房はやむなく京をいったん放棄し、後村上帝がいる男山八幡山上に軍勢を集結させ、ここで篭城戦をしながら事態の好転をうかがうという作戦をとる。
 南朝の軍勢が京の陣所をあわただしく引き払う中、楠木正儀は一人冷めた表情をしていた。 「しょせん奇策は奇策…こうなることは初めから見えていたのだ…騙し討ちのうえ上皇らの連れ去り…これではまとまるものもまとまらなくなるわ」 とつぶやくように言う正儀に、和田五郎が「しかし持明院統の上皇・親王がたさえいなければ、天下に帝はただ一人。依然として我らは有利でござりましょう」 と言う。「そうかな。その気になれば帝などいくらでも立てられるものだ」と正儀は言った後、しばし沈黙して 「…この戦、なんのための戦であったかな…。わしはその無益な戦いのために恐ろしい罪を犯してしまったような気がする。知らぬことだったとはいえ、細川讃岐殿を討ってしもうた…」 とため息と共に天を仰ぐ。「3年近く前になるかな…わしはあるところで頼春殿のご子息と会うたことがある…年頃もわしと同じ。良き友にもなれる若武者と思えた…父や兄の仇の一族でなければ、とな…。だが、今はこのわしがあの頼之殿の親の仇となってしまった…」 そんな正儀に、五郎は言う。「それが、武士というものの持って生まれた定めでござりましょう。我らは我らの信じる道に従って懸命に戦うのみ」

 3月21日、義詮はほぼ一ヶ月ぶりに京都を完全に奪回、東寺に本陣を構えて男山八幡の南朝軍本営攻略にとりかかった。このころようやく四国から頼之・清氏らが阿波の軍勢を率いて到着、八幡攻略に参加する。頼之と清氏が久々に頼有と再会し、悲喜こもごも語り合うところへ、一族の 細川顕氏もやって来て頼春のことで頼之に悔やみを伝え、これまでいろいろとあったがそれはこの際水に流してともに弔い合戦をしようと励ましあう。播磨の赤松勢も到着し、八幡をめぐる攻防戦が本格的に開始される。和田五郎は八幡の後村上天皇に拝謁し、 「敵の大将を一人でも討ち取らぬうちは戻って参りませぬ」と豪語して正儀とともに近くの荒坂山の上に陣を構えた。
 「叔父上を討ったのは楠木じゃ。思えば不思議なめぐり合わせよの。あの男が仇になるとは」と清氏は楠木勢の本陣を見上げながら言う。顕氏を主力として四国勢の力を合わせた形の細川軍は、土岐頼康の軍とともに一斉に楠木の本陣に攻めかかる。これを見おろす正儀と五郎。 「やはり真っ先に来ましたな、細川勢…弔い合戦というわけですな」と五郎は言い、 「次郎(正儀)さま、気遅れがおありでしたら陣頭に立たずともよろしゅうござりますぞ。指揮は私がとります」と優しい笑顔を正儀に見せた。 「なんの。気遅れなど」と正儀も笑みを返す。山岳戦は手馴れたものの楠木軍は攻め寄せる土岐・細川勢を翻弄し、和田五郎は自ら土岐軍の猛将・ 土岐悪五郎を一人討ち取る奮戦ぶりをみせる。しかしこの奮戦で五郎は重傷を負い、正儀は荒坂山を捨てて八幡へと軍を引いた。ただちに細川軍は荒坂山を奪って八幡へ迫る。

 その後、戦線は約一ヶ月間にらみ合う膠着状態が続いた。4月下旬、山陰から山名軍が義詮軍に合流する。率いているのは時氏の子・ 師氏である。山名一族は観応の擾乱を通して師直派、直義派と渡り歩いてきたが、ここでまた尊氏・義詮側にとんぼ返りした格好である。この援軍到来に力を得た義詮は細川顕氏、清氏らに八幡攻撃を命じるが、激戦の末撃退されてしまい、また戦線は膠着する。
 五月に入り、さすがに南朝側にも焦りが生じ始めていた。長期の篭城戦でさすがに補給が続かなくなってきたのである。一時味方してくれた寺社勢力も事態の変化を見て南朝と距離を置き始めており、男山八幡を出て幕府軍に降伏する武士も出るようになっていた。親房らは楠木軍をいったん河内に帰し、万一の退路を確保すると同時に、機を見て敵の背後をつく遊撃戦をさせることを決めた。命を受けた正儀は何も言わず一礼して退出する。
 楠木の本陣では重傷を負った和田五郎の容態がますます悪くなっていた。「五郎、河内へ帰れるぞ」 と正儀が五郎に声をかける。「よろしゅうござりました…戦は終わりでござりますな…」 と苦しい息の下から言う五郎。「いや。河内へ戻って敵の背後をつく動きをみせよとのご下命じゃ」 という正儀に、五郎は正儀の手を握って言う。「もう…よろしゅうござりましょう…次郎どの、これ以上我慢なされることはない。無益な戦は、もうやめにいたしましょう。河内に帰ったら、そのまま動かれますな。主上が賀名生に無事お戻りになれるよう計らうだけで充分…」 五郎は力を振り絞って笑顔を見せて言う。「帰りましょう、河内へ…」と夢うつつにつぶやく五郎を、正儀は目を潤ませながら見つめていた。
 間もなく楠木軍は八幡を離れ、河内の赤坂城へと帰還していった。しかし親房らの期待をよそに正儀はそのまま河内に腰を据えて一歩も動こうとはしなかった。そして重態に陥っていた和田五郎が河内に戻った直後、わずか16歳でこの世を去ったのだった。

 5月11日。ついに幕府軍の総攻撃の前に力尽きた南朝軍は八幡撤退を余儀なくされた。後村上帝は武士と同様の騎馬武者姿になって周囲を武士たちに守られて八幡を脱出していく。途中、幕府軍の武士たちが 「そこの者、逃げるとは卑怯な!返せ返せ!」と天皇とは知らずに呼びかけるが、周囲の公家や武士たちの命を捨てた奮戦により後村上はかろうじて河内方面へと脱出していく。ここに南朝の京都奪回は完全な失敗という結果に終わったのである。

 6月に入り、京で戦後処理に忙しく働く頼之のもとに、阿波の慈子から書状が届いた。身ごもっていた頼春の側室が、先日無事に男の子を出産したのと知らせである。 「まるで父上の生まれ変わりのような」と頼有は喜ぶが、頼之は「この弟は、自分の父親の顔を生涯知ることなく生きてゆくのだな…」 と暗い表情を見せた。

第七回「弔い合戦」終(2002年2月17日)


★解説★

 今回で第7回、この仮想大河構想全体の「第一章」が終わる節目となる回でございますね。7×7でだいたい49回になるという計算でなんだか計算ずくでやってるようにも見えますが、作者に言わせれば当初は第四回で頼春さんが亡くなって第五回で一区切りの予定だったそうで、すでに2回ぶんロスしているのだそうでございます。のちのちこの2回の計算違いが響いてくることになったりして…ホントに放送する番組だったらこんな無計画なシナリオ書いちゃいけませんね(笑)。

 冒頭、これまでほとんどセリフの無かった頼之の母・利子さん(念を押しますが実名は不明ですよ) がめずらしく長丁場しゃべっております。この人も本当のドラマだったらもっと出番を多くしなきゃいけないでしょうね (作者の頭の中では結構ベテランの大女優が配されております)。一応この「仮想大河」も配慮はしてるんですけど、内容紹介の形式なので登場はしていてもセリフはカットされちゃうんです。ただ今回は夫・頼春の死を受けた重要な場面ですし、このあたりのことはのちのちこのドラマ二度目の山場につながっていくところですので、しっかりと登場していただきました。なお、夫の死を受けてこの女性は落髪し、「里沢禅尼」と呼ばれることになります。これはちゃんと記録にありますので。

 京都を占領した南朝は廃位した北朝の上皇・皇太子たちを拉致して河内へと連行してしまいます。京都を奪い返された場合を想定して、足利氏に北朝を再建させまいとしたのでしょうね。このとき光明上皇が「なりたくてなった王位ではない。もう出家して静かに暮らしたいから…」と泣いて頼んだというのは『太平記』に載る話。お兄さんの光厳上皇もそうですが、歴史の激動に振り回され続けた気の毒な皇族たちではあります。後醍醐天皇という超強烈な親戚を持っちゃったのが不運だったという気もしますが(笑)。この上皇ら拉致の一件はこのあとしばらく尾を引きます。めぐりめぐって頼之さんも頭を痛める問題に発展したりするのですが、それはそのときに。

 近江に逃れた義詮さんは南朝側の騙し討ちを非難して「正平の一統」を捨て、「観応」年号に戻します。これに呼応して畿内の武士たち、特に一時期南朝側につくような姿勢も見せた赤松則祐と佐々木道誉がこの段階で南朝を見限って義詮に味方したあたり、やっぱり親房は武士の人心に共感を得ることがなかったんだなあと改めて思うところ。所詮奇策は奇策に過ぎず、あっという間に京都は奪回されてしまいます。
 頼有さんが無生仁浩さんから付法状を受け「通勝」という道号をもらったのはこの慌しい3月5日のこと。作者がタネ本にしている小川信著『細川頼之』では、父の突然の死に直面した21歳の頼有が安心立命の境地を得ようとしていたのではないかと推理してますね。

 京から撤退した南朝軍は男山八幡に立て篭もって幕府軍と攻防戦を繰り広げます。実に2ヶ月近くにわたってもちこたえたのですから、まぁ善戦と申せましょう。この戦いに細川頼之さんが参加していたと言うのは例によって光吉心蔵さんの軍忠状から判明することだそうでして、頼之さんが光吉を初めとする阿波勢、頼有さんが父・頼春さんが率いていた讃岐勢を引き連れて男山攻撃に参加していたとの事。なお、この時期の義詮さまが頼有さんに下した御教書が現存しておりますが、そこには「細川讃岐十郎殿」と宛名が書かれております。頼春さんが讃岐守、その息子の十郎さんだから「讃岐十郎」ということのようです。
 『太平記』ではこの戦闘に頼之さん、頼有さんが参加していたことに一切触れていません。その代わり(?)清氏さんが顕氏さんと共同して楠木勢と戦ったことが詳細に記されております (ホントにこの時期の『太平記』って清氏さんがやたらに登場します。ひょっとして『太平記』作者は清氏ファンだった…?)。ただ、軍記物語としてのメインはこの回だけ妙に出番が多い「和田五郎」に置かれておりまして、清氏軍はその引き立て役にまわっております。

 この和田五郎なる少年(16歳ですからね)、どういう人なのか詳細は不明ですが (名も正忠、正兄と諸説あり)、楠木一族の重要メンバーだったことは間違いないでしょう。『太平記』では後村上天皇の前で 「親類・兄弟ことごとく度々の合戦で討ち死にいたしました。今日は一大事の合戦、敵の大将一人討ち取るまでは生きて御前に戻ることはありませぬ」 と豪語したと伝えられ、実際に土岐一族の猛将と知られていた土岐悪五郎なる武将を討ち取ります(この悪五郎戦死については洞院公賢も日記に書いているほど) 。しかしこの戦いで重傷を負い、結局河内に戻った直後に病死してしまいます。
 この勇猛な少年と対比させようとしているのでしょうか、『太平記』はここで正儀に厳しい筆誅を加えています。八幡包囲軍を後ろから攻めさせようと河内に向かわせたのに、正儀は 「父にも似ず兄にも替わりて心少し延びたる者(のんびりし者)」だったため「今日よ明日よと言うばかりで、主上が大敵に囲まれておられるのに何もしようとしなかった」 と手厳しく書いているのです。「この楠は正成が子なり、正行が弟なり。いつの程にか親に替わり兄にこれまで劣るらんと、そしらぬ人も無かりけり」 とまぁ散々な書きようであります。ですが、前回も書きましたようにすでにこのころから正儀は南朝に対して微妙に距離をおく姿勢を示し始めているのですね。この時の動きもそんな心理があったんじゃないかなぁ、と作者は思ってこんな展開にしてみたわけです。このあとも正儀さんの苦悩の展開は続きます。 乞うご期待…かな?

 5月11日、ついに南朝軍が男山を放棄して逃げ出します。このとき後村上天皇が武士と同じ鎧兜に身を固めて命からがら逃走していったというのは『太平記』も記しておりますし、興福寺の僧が送った報告にも 「主上らしき騎馬武者を見た。神器を入れた箱が無かったら気がつかないぐらいだった」という目撃談がありますから、事実なのでしょう。壬申の乱とかの時代ならともかく騎馬武者姿になった天皇ってのもこの方ぐらいじゃないでしょうか。この脱出がいかに危険なものだったかは、このときに四条隆資さんをはじめ南朝の公家たちの多くが戦死していることからもうかがえるところです。

 ラストは今回あまり出番のない(?)頼之さんに戻っております。阿波からの知らせで頼春さんの最後のお子さんが生まれたことが伝えられますが、このとき生まれたのが頼之さんの24歳年下の末弟・満之さん。生まれた月はホントは分からなかったんですが、ドラマでは筋書き上こんな風にしてみました。伝えられるところによれば、頼之さんはこの弟を我が子のように愛したといい、この満之に子が生まれるとそれを養子に迎えて自分と同じ「弥九郎」と名づけたりしております。ずっと先の話のネタばらしですが、頼之さんという方の性格をうかがわせる逸話として書かせていただきました。なんか今回の頼之さんは呆然自失でほとんど見せ場がありませんし…(^^;)。

制作・著作:MHK・徹夜城