細川頼之
細川清氏
慈子
楠木正儀
細川頼有 後村上天皇
和田五郎 無涯仁浩
新開真行 三島三郎
光厳上皇 光明上皇 崇光天皇
直仁親王 北畠顕能 細川顕氏
山名師氏 土岐悪五郎 光吉心蔵
足利尊氏
北畠親房
足利義詮
世阿弥(解説担当)
頼春の子供たち 頼春の側室たち
細川家家臣団のみなさん 山岳ゲリラのみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:室町幕府直轄軍第25師団・第33師団 男山八幡宮
細川頼春(回想)
利子
佐々木道誉
◆本編内容◆
阿波・秋月の守護館の暗い一室に、頼之は一人こもっていた。昨年、父と共に暮らしたつかの間の日々、よく酒を酌み交わした部屋である。目の前には頼春がよく座っていた茣蓙(ござ)が、ぽつんと寂しく置かれている。頼之はその主の無い座を黙って見つめ続けている。暗がりに目を向けていると、そこに笑顔で酒をあおる父の幻が浮かんでくる。
そこへ入ってきたのは母の利子だった。「弥九郎どの、もう丸二日が経ちますぞ。ちゃんと食事をおとりなさい」
と利子は息子に言う。「…喉を通りませぬ…」と頼之はか細い声で言う。
「大殿は亡くなられたのじゃ。もはや、再びこの世に現れる無く、飯をお食べになることもない。じゃが、生きている者は日々飯を食い、生きてゆかねばならぬ…辛いことじゃが、それが生きる、ということじゃ」
と利子は諭す。一瞬母を見て、また黙然とする頼之。「武士は、戦場で命をかけることを己の持って生まれた定めとする。大殿は私が妻となったその日以来、よくそうおっしゃっていた…いつかこのような時が来よう、覚悟はいつもしておけ、とおっしゃっていたものじゃ。そなたもその武士の家に生まれついた。覚悟をせねばならぬ。ましてそなたは父上のあとを継いでこの細川家を背負って立たねばならぬのじゃ。いつまでも嘆かれるな。清氏どのも出立の時を待っておられますぞ」
利子は息子を見おろしながら一気にそう言って、頼之の両腕をつかんで立たせた。「さあ、行くのです!頼有どのも待っておられますぞ」
と利子は頼之を見つめた。そして途端に崩れるように頼之にすがりつき、押し殺したように嗚咽するのだった。
ようやく頼之は慈子とともに食事をとった。気のはやる
清氏が頼之の立ち直りを待ちきれず一足先に出立していったことを慈子は頼之に話し、頼之も間もなく出陣するのかと尋ねてくる。
「父を討たれて、仇を討たぬ武士はおらぬ…京には頼有もおる。わしがすぐにもいかねばならぬ」と頼之は言い、
「わしの留守の間に、必ず小笠原らがまた暴れだそう。留守の間のことは新開や三郎に任せておく。彼らを頼りにせよ」と慈子に言いつける。
「阿波のことはご心配なく、存分のお働きを…そしてきっと、ご無事でお戻りくださりませ…!」と慈子は涙ながらに頼之に答えるのだった。
翌日、頼之は清氏のあとを追いかけて京へ向けて出陣した。新開真行や
三島三郎らが留守を任され、光吉心蔵ら阿波の武士たちが頼之に同行する。
そのころ、南朝軍に占領された京には北畠親房が意気揚揚と都入りし、京の市政を取り仕切っていた。ついに京都奪回の宿願を果たして感無量の親房だったが、依然
足利義詮ら幕府軍が近江にあって京奪還の機会をうかがっており、警戒を緩めず後村上天皇
の京帰還も先延ばしにしていた。関東から入ってくる情報では宗良親王を奉じた新田一族が鎌倉をほぼ同時に奪回したものの、尊氏側の反撃もあり苦戦しているとのことで、親房は気が休まらない。
親房は北朝の光厳・光明・
崇光の三上皇と廃された皇太子である直仁親王ら皇族の身柄を確保し、楠木の勢力圏である河内の東条へ送ることを命じた。命を受けた
北畠顕能が兵を率いて御所にやってくると、光明上皇が「元はと申せば、なりたくてなった王位ではない。もはや帝も院も、なんの位もいらぬ。出家して世を捨て、寺にこもって静かにくらしたいのじゃ。頼むから京から連れ出すのだけは許してくれ」
と泣いて頼むが、顕能は聞く耳も持たず、上皇たちを輿に押し込み、強引に連行していく。
一方、近江に逃れていた義詮のもとに関東で尊氏軍が優勢になりつつあるとの情報が入り、義詮は安堵する。さらに陸良親王を奉じて挙兵し南北両朝の和解を進めていた播磨の
赤松則祐が、今回の南朝側の「騙し討ち」に激怒し義詮に味方して京を攻める旨を伝えてきたので、ますます義詮は勢いづく。
佐々木道誉も京奪回の機会と進言するが、「しかし上皇らをそのまま京に置いて来たのはまずかったですな…」
と道誉に言われて義詮はしょげかえる。「まずは京を奪い返すことでござる。帝のことはそれからということで」
と道誉は言い、出陣の支度にとりかかる。義詮は南朝側が一方的に和議を破ったことを全国の武士にアピールし、「正平」の年号を捨てて「観応」を復活させた書状で自分と共に京奪回の戦いに参加するよう呼びかける。
そのころ、細川頼有は京の郊外、清水坂の無涯仁浩
の庵に身を寄せていた。無涯は付法状を頼有に与え、「通勝」という道号を授ける。神妙に受け取る頼有に、無涯は
「十郎どの、お辛かろうが、いまが十郎どのの試練の時じゃ。お父上を殺した敵を憎み、悲しみと怒りに燃えるお心はよく分かる。しかし今はその心を抑えて醒めた心を持たれよ。父上を死に追いやったのは単に楠木のみが悪いということではない。世の中すべて、何かが狂っておるのだ。そこをしっかと見据えられよ」
と諭した。頼有は「有り難うございまする」と一礼して庵をあとにした。そして義詮のいる近江方面へと頼之の家臣たちを引き連れ馬を馳せた。
3月9日、義詮は集まってきた大軍を率いて近江をたち、京目指して進軍を開始した。これと呼応するように、播磨の赤松則祐も軍勢を率いて京へ向かう。東西から挟み撃ちという情勢に、親房はやむなく京をいったん放棄し、後村上帝がいる男山八幡山上に軍勢を集結させ、ここで篭城戦をしながら事態の好転をうかがうという作戦をとる。
南朝の軍勢が京の陣所をあわただしく引き払う中、楠木正儀は一人冷めた表情をしていた。
「しょせん奇策は奇策…こうなることは初めから見えていたのだ…騙し討ちのうえ上皇らの連れ去り…これではまとまるものもまとまらなくなるわ」
とつぶやくように言う正儀に、和田五郎が「しかし持明院統の上皇・親王がたさえいなければ、天下に帝はただ一人。依然として我らは有利でござりましょう」
と言う。「そうかな。その気になれば帝などいくらでも立てられるものだ」と正儀は言った後、しばし沈黙して
「…この戦、なんのための戦であったかな…。わしはその無益な戦いのために恐ろしい罪を犯してしまったような気がする。知らぬことだったとはいえ、細川讃岐殿を討ってしもうた…」
とため息と共に天を仰ぐ。「3年近く前になるかな…わしはあるところで頼春殿のご子息と会うたことがある…年頃もわしと同じ。良き友にもなれる若武者と思えた…父や兄の仇の一族でなければ、とな…。だが、今はこのわしがあの頼之殿の親の仇となってしまった…」
そんな正儀に、五郎は言う。「それが、武士というものの持って生まれた定めでござりましょう。我らは我らの信じる道に従って懸命に戦うのみ」
3月21日、義詮はほぼ一ヶ月ぶりに京都を完全に奪回、東寺に本陣を構えて男山八幡の南朝軍本営攻略にとりかかった。このころようやく四国から頼之・清氏らが阿波の軍勢を率いて到着、八幡攻略に参加する。頼之と清氏が久々に頼有と再会し、悲喜こもごも語り合うところへ、一族の
細川顕氏もやって来て頼春のことで頼之に悔やみを伝え、これまでいろいろとあったがそれはこの際水に流してともに弔い合戦をしようと励ましあう。播磨の赤松勢も到着し、八幡をめぐる攻防戦が本格的に開始される。和田五郎は八幡の後村上天皇に拝謁し、
「敵の大将を一人でも討ち取らぬうちは戻って参りませぬ」と豪語して正儀とともに近くの荒坂山の上に陣を構えた。
「叔父上を討ったのは楠木じゃ。思えば不思議なめぐり合わせよの。あの男が仇になるとは」と清氏は楠木勢の本陣を見上げながら言う。顕氏を主力として四国勢の力を合わせた形の細川軍は、土岐頼康の軍とともに一斉に楠木の本陣に攻めかかる。これを見おろす正儀と五郎。
「やはり真っ先に来ましたな、細川勢…弔い合戦というわけですな」と五郎は言い、
「次郎(正儀)さま、気遅れがおありでしたら陣頭に立たずともよろしゅうござりますぞ。指揮は私がとります」と優しい笑顔を正儀に見せた。
「なんの。気遅れなど」と正儀も笑みを返す。山岳戦は手馴れたものの楠木軍は攻め寄せる土岐・細川勢を翻弄し、和田五郎は自ら土岐軍の猛将・
土岐悪五郎を一人討ち取る奮戦ぶりをみせる。しかしこの奮戦で五郎は重傷を負い、正儀は荒坂山を捨てて八幡へと軍を引いた。ただちに細川軍は荒坂山を奪って八幡へ迫る。
その後、戦線は約一ヶ月間にらみ合う膠着状態が続いた。4月下旬、山陰から山名軍が義詮軍に合流する。率いているのは時氏の子・
師氏である。山名一族は観応の擾乱を通して師直派、直義派と渡り歩いてきたが、ここでまた尊氏・義詮側にとんぼ返りした格好である。この援軍到来に力を得た義詮は細川顕氏、清氏らに八幡攻撃を命じるが、激戦の末撃退されてしまい、また戦線は膠着する。
五月に入り、さすがに南朝側にも焦りが生じ始めていた。長期の篭城戦でさすがに補給が続かなくなってきたのである。一時味方してくれた寺社勢力も事態の変化を見て南朝と距離を置き始めており、男山八幡を出て幕府軍に降伏する武士も出るようになっていた。親房らは楠木軍をいったん河内に帰し、万一の退路を確保すると同時に、機を見て敵の背後をつく遊撃戦をさせることを決めた。命を受けた正儀は何も言わず一礼して退出する。
楠木の本陣では重傷を負った和田五郎の容態がますます悪くなっていた。「五郎、河内へ帰れるぞ」
と正儀が五郎に声をかける。「よろしゅうござりました…戦は終わりでござりますな…」
と苦しい息の下から言う五郎。「いや。河内へ戻って敵の背後をつく動きをみせよとのご下命じゃ」
という正儀に、五郎は正儀の手を握って言う。「もう…よろしゅうござりましょう…次郎どの、これ以上我慢なされることはない。無益な戦は、もうやめにいたしましょう。河内に帰ったら、そのまま動かれますな。主上が賀名生に無事お戻りになれるよう計らうだけで充分…」
五郎は力を振り絞って笑顔を見せて言う。「帰りましょう、河内へ…」と夢うつつにつぶやく五郎を、正儀は目を潤ませながら見つめていた。
間もなく楠木軍は八幡を離れ、河内の赤坂城へと帰還していった。しかし親房らの期待をよそに正儀はそのまま河内に腰を据えて一歩も動こうとはしなかった。そして重態に陥っていた和田五郎が河内に戻った直後、わずか16歳でこの世を去ったのだった。
5月11日。ついに幕府軍の総攻撃の前に力尽きた南朝軍は八幡撤退を余儀なくされた。後村上帝は武士と同様の騎馬武者姿になって周囲を武士たちに守られて八幡を脱出していく。途中、幕府軍の武士たちが 「そこの者、逃げるとは卑怯な!返せ返せ!」と天皇とは知らずに呼びかけるが、周囲の公家や武士たちの命を捨てた奮戦により後村上はかろうじて河内方面へと脱出していく。ここに南朝の京都奪回は完全な失敗という結果に終わったのである。
6月に入り、京で戦後処理に忙しく働く頼之のもとに、阿波の慈子から書状が届いた。身ごもっていた頼春の側室が、先日無事に男の子を出産したのと知らせである。
「まるで父上の生まれ変わりのような」と頼有は喜ぶが、頼之は「この弟は、自分の父親の顔を生涯知ることなく生きてゆくのだな…」
と暗い表情を見せた。