細川頼之
細川清氏
慈子
今川貞世
細川頼有 後村上天皇
新開真行 三島三郎 安宅頼藤
足利直冬 懐良親王
命松丸 正子 広義門院
勧修寺経顕 三宝院賢俊 後光厳天皇(弥仁王)
菊地武光 光厳上皇 郭子興
勇魚
北畠親房
足利義詮
朱重八(朱元璋)
世阿弥(解説担当)
細川家家臣団のみなさん お公家さん集団
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
協力:大明国中央電視台 朝鮮王朝観光局
利子
佐々木道誉
◆本編内容◆
日本の観応三年(1352)、この年は元の至正十二年にあたる。盛強を誇ったを元もこの頃には衰退がいちじるしく、各地で反乱が起こっていた。この年の閏三月、濠州に拠点を構える反乱指導者・
郭子興のもとを一人の青年僧が訪れていた。怪しまれた青年僧は元朝の手先とみなされて兵士に捕縛されるが、その異様な顔を一目見た郭子興は
「これはただ者ではない」と縄を解かせた。郭子興が名を聞くと、青年僧は「朱重八」
と名乗り、それまでいた寺を元軍に焼かれてしまったので、これを機に僧をやめて郭子興のもとで大いに働かせてもらいたい、と自分を売り込む。郭子興は朱重八の容貌と豪胆さにほれこんで自分の部下に迎え入れる。
朱重八、のちの朱元璋。貧農の家に生まれ、幼くして両親を失い、托鉢僧として成長してきたこの男が、このとき初めて動乱の渦の中に自らの身を投じたのである。時に朱重八、二十五歳である。
高麗南部沿岸では、連年「倭寇」の活動が活発化していた。これは日本の対馬や九州そして朝鮮半島南部の海民たちの連合した活動であり、各地で行われた襲撃・略奪は高麗王朝の財政を次第に圧迫していく。
九州では中央の情勢と連動するようにめまぐるしく情勢が変化していく。前年の直義派の一時的な勝利を受けて
足利直冬が九州の覇権を握ったが、翌年の直義派の敗北で一気に勢いが衰え、敗れて長門へと逃れていった。入れ替わりに勢力を増してきたのが後醍醐天皇の皇子・征西将軍宮・
懐良親王と菊地武光ら南朝勢力であった。
関東でも激戦が続いていた。一時的に新田一族ら南朝勢力が鎌倉を占拠したが間もなく足利尊氏
がこれを奪回。しかしその後も関東の情勢は安定せず尊氏は鎌倉に居座って関東平定に力を注ぐことになる。
6月、京都を奪回した幕府では北朝の再建が緊急の課題となっていた。南朝軍が京を占領した際に北朝の三上皇および親王らが拉致されてしまっており、幕府はかつぐべき上皇も天皇もいない状況だったのである。皇位の印である三種の神器も南朝側の手にあり、幕府は自らの正当性を保持するためにも南朝側と水面下で交渉の努力を続けていた。しかし南朝側は強硬姿勢を崩さず、北朝の
光厳上皇らは河内の東条からさらに奥地の大和の賀名生へと移されてしまった。
幕府では義詮のもとに三宝院賢俊、佐々木道誉
らブレーンが集まり対応を協議していた。賢俊は南朝撤退後の八幡に乗り込んで神器うち鏡が納められていた空の小唐櫃(こからびつ)を回収しており、これを神器の代わりに使うことを提案する。そして仏門に入ることになっていた光厳上皇の第三子、
弥仁王(15歳)を新天皇として擁立することに一同は決定する。「しかし…皇位を与えることの出来る院がおられぬ」
と賢俊。この時代、朝廷の最高君主は天皇ではなく上皇であり、これを「治天の君」と呼ぶのが一般的だった。天皇を任じる者が出来るのはその上位者である上皇しかいなかったのだ。南朝が上皇ら全員を連れ去ったのには、そのことによって北朝再建を不可能にする狙いがあった。
「やむを得ぬ…」と道誉が言い出す。光厳上皇の母にあたる
広義門院に「治天」の役を引き受けてもらうというアイデアを出したのだ。ことここに至っては前代未聞の例外もやむを得ず、義詮たちもその案に同意する。朝廷との交渉は道誉が買って出ることになった。
「何と言うことを!」話を聞いた広義門院は激怒した。道誉が公家の
勧修寺経顕と共に広義門院のもとを訪れ、弥仁王即位のことをもちかけたのである。「そもそもこたび上皇らを賀名生に連れ去られたは、義詮どのの失態ではありませぬか!」
と広義門院は道誉をなじる。「その上にこの私に院の役をつとめよとは…呆れてものが言えぬ!」
と女院は怒って立ち上がり、奥に下がっていってしまう。道誉は「参ったな」という顔で頭をさすった。
しかし結局、道誉や義詮の必死の懇願に折れた広義門院が「治天」の役をつとめる形で八月に弥仁親王の践祚(せんそ)の儀が執り行われた。これが北朝の第三代、
後光厳天皇である。
一方、八幡の攻防戦に敗れて賀名生に逃れた後村上天皇はすぐにもこの雪辱を果たそうと躍起になっていた。 「わしは皇位を寛成(ゆたなり)に譲り、自ら出陣して再び京をうかがおうと思う!」と後村上は宣言し、公家達を慌てさせる。後村上の子、寛成親王はこのときまだ十歳たらず。 「京では足利が新たな偽帝を立てようとしておるというぞ。このままでは天下一統の実現がまた遠のいてしまうわ。尊氏がまだ関東にあるうちに…!」 と後村上は息巻くが、北畠親房が「足利とて、まだまだ一枚岩ではござりませぬ…機会は遠からずまた参りましょう。そのときまではおこらえください…」 と懸命にこれを諌める。結局後村上は退位も出陣も思いとどまらざるを得なかった。
この年の7月。今川貞世は久しぶりに京都に戻ってきていた。貞世は歌の師匠のところなど挨拶まわりをするうち、吉田兼好の家にも訪れる。兼好はすでに亡くなっていたが、弟子の
命松丸が家を守っていて兼好の遺した書類などを整理していた。貞世もこの整理作業に参加し、あちこちの紙に書き連ねられた兼好の文を編集していく。
貞世はふとある文に目をとめる。「つれづれなるままに日暮らし…」の一文である。
「これはよい」と気に入った貞世はこの文を兼好の随筆のタイトルに持ってくることを決める。…これが後世に名高い随筆「徒然草」である。
貞世はその足で細川頼之の館を訪れた。頼之と頼有がそろって貞世をもてなす。貞世が頼春のことで頼之に悔やみを言うと、
「細川家も不幸続きじゃ…つい先日顕氏どのも急に亡くなられてな」と頼之。細川家全体が頼之たちの世代が引っ張っていかねばならない状況になったのである。頼之は先ごろ「右馬助」の官位を受けるとともに父の跡をそのまま引き継ぐ形で阿波守護職に任じられ、間もなく阿波に渡らねばならなかった。阿波では頼之不在の隙を突いてまたもや小笠原をはじめとする反細川勢力が南朝と呼応して活動を活発化させており、
義詮からもこの対策に全力を注ぐよう命じられていた。弟の頼有も義詮の命で頼之とともに阿波に渡り、兄を助けることになっていた。
「ときに、清氏は伊勢へ出陣中とか」と貞世が話題を変えた。
細川清氏は連年の戦功が認められて伊賀守護職を与えられ、伊賀・伊勢の南朝・直義派勢力の鎮圧に向かっていたのである。
「あやつは戦場のほうが性にあっているようだな」と頼之は苦笑いし、その奮戦ぶりの噂話をする。
「わしも清氏も一国の守護となった…いろいろと背負わねばならぬことが増えてくるのう」と頼之は言い、
「そう、それとあやつ、父親にもなりおったぞ。これでまた一つ先を越された」と付け加えた。清氏の妻・
正子が先ごろ清氏の長男(のちの正氏)を産んでいたのである。
「そしてこちらはこの歳になって突然弟ができてな…阿波でその弟の顔を見るのが楽しみじゃ」
と頼之は貞世に言う。微笑んではいるが、まだ父を失ったショックと課せられた重い責任に頼之がおしつぶされそうになっていることを、貞世は見て取る。
「頑張れよ、今はおぬしの試練のときじゃ。これを乗り越えてこそ、お主は細川の主じゃ」と貞世は頼之の肩をたたいて励ました。
間もなく、頼之と頼有は海を渡った。一行の船を仕立てたのは水軍の将・安宅頼藤で、船に乗り込んできた頼之らを迎えて丁重に挨拶した。頼藤は三島三郎を通じてのやりとりはあったが頼之とは初めての対面である。対面にはすでに頼之とは顔見知りの
勇魚が同席した。
「先の阿波での合戦のおりは世話になった」と頼之は礼を言い、
「今後とも阿波を治めるために大いに力を借りたい。義詮公も海上を押さえるため、安宅殿に阿波の牛牧荘の地頭職を与えると仰せになっている」
と告げる。「それは…我らの力を借りると言いながら、実は我らを土地を餌にしばりつけて被官(家臣)にしようとの腹でござりますな」
と頼藤はずけずけと言う。頼之もとくに否定せず「どう思うかはそちらの勝手。ともかくわしは守護を任された阿波一国を平定するために今のところ安宅の水軍の力を欲しているのだ。気に入らなければわしを見限って吉野方でもどこでもつくがよい」
と言い渡す。頼藤は笑って、「殿もずけずけおっしゃるお方だ。よろしい、力をお貸しいたそう。だが、水軍はもともと海をおのれの庭とし、船をおのれの家とする者。陸の上の利だけで思いのままになるとは思われませぬよう、改めて申し上げておきましょう」
と答えた。
会談が終わり、頼之は勇魚をつかまえて以前自分が連れて行かれた村のこと、速波のこと、短刀を与えた少女・小波のこと、そして楠木正儀のその後のことなど聞き出す。勇魚は正儀が知らぬこととはいえ頼春を討ってしまったことを気に病んでいる様子であること、それが八幡陥落の際の動きにも表れていたことなどを頼之に教える
。「そうか…正儀殿も辛いのだな…思えば、正儀殿は父の上に兄弟までも戦で亡くされている。それがいかに辛いことか、今のわしにはいかばかりか分かる気がする」
と頼之は海を眺めながらつぶやくように言った。
阿波・秋月に五ヶ月ぶりに帰った頼之は母・利子や妻・ 慈子との再会もそこそこに、正式な阿波守護として阿波統一の仕事に着手する。弟の頼有、新開真行 や三島三郎をはじめとする重臣たちを集め、頼之は今後の阿波平定の方針を語り合う。 「合戦で敵を倒すばかりが戦ではない」と頼之は言い、ともすれば幕府にそむいて南朝と呼応する阿波の国人たちを、その所領を安堵するなど経済的要求を満たしてやりながら守護に服属するよう働きかけていくという方針を語る。 「しかし所領の安堵などは将軍の御許可を得ねばならぬはずですが」と頼有が言うと、「むろんそうだが、近頃は杓子定規にやっていては一国を平定することすらままならぬ。ここ2年ばかり、この阿波で苦労してそれが良く分かった」 と頼之は答え、幕府には事後承諾の形もやむなしとの姿勢を示す。
「このわし自ら、阿波各地をまわって各地の国人たちと直接顔つなぎをしておきたい。彼らの声を聞き、彼らの思いを知らなければ政(まつりごと)などできはせぬ。我らはこの阿波で育ちながら、どこかまだよそ者であろうとしていたのだ。それが小笠原らのつけこむところとなってきた」
と頼之は言って立ち上がり、庭に出て阿波の空を仰いだ。「われらで、この阿波を、この国を見事な国につくりあげるのじゃ…それが亡き父上のための本当の弔い合戦ぞ…」