第九回
「下剋上」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 「正平の一統」が破れ、幕府は京都を奪回し、新天皇を擁立。南北朝の対立は再び振り出しに戻った。しかし旧直義党の諸大名が各地に温存されており、また幕府内部にも紛争の火種が絶えず不安定のまま。動乱の終息がいまだ見えぬ中、頼之は自らの地盤である阿波の支配を確立しようとする。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

渋川幸子

楠木正儀

細川頼有 後村上天皇

新開真行 三島三郎 

足利直冬 山名師氏

粟飯原清胤 三宝院賢俊 

後光厳天皇 千寿王(子役)

河村小四郎 柿原三郎 四条隆俊
吉良満義 石塔頼房 佐々木秀綱

北畠親房

赤松則祐

足利義詮

世阿弥(解説担当)

細川家家臣団のみなさん お公家さん集団
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
琵琶湖周辺の土民のみなさん

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 この年(西暦1352)9月、新帝・後光厳をたてた北朝は年号を「文和」と改めた。一方の南朝では 後村上天皇北畠親房の政権奪回への意欲は、さきの京都奪回の失敗にもめげずますます盛んで、賀名生の地で『建武年中行事』の書写・編纂にいそしんでいる。
 一方、一時九州で勢いのあった足利直冬は養父・直義の死去ですっかり没落し、九州を追われて長門へと落ち延びていた。しかしここでも尊氏側の攻撃を受けたため、直冬はやむなく南朝に帰順することになる。

 年が明けて文和二年。正月早々に京都政界を揺るがす突発事件が起こった。幕府の重鎮である佐々木道誉 が突然「北野参詣」と称して京都から逐電し、領地の近江・柏原城にこもってしまったのである。将軍足利尊氏の側近・ 饗庭氏直の尊氏への讒言に怒ったものであったという。
 父・尊氏が関東にあり、このところすっかり道誉を頼りにしていた足利義詮は大いに狼狽し、 粟飯原清胤三宝院賢俊といった幕府の重臣を道誉説得に派遣した。しかし道誉はこの二人に面会もせず追い返してしまう。ますます慌てる義詮は父尊氏に使者を送り、尊氏から饗庭氏直の詫び状を道誉に出させることで道誉をなだめにかかった。
 結局、翌月には道誉は京都に戻り政界に復帰する。しかしこの事件で幕府内における道誉の発言力が以前より増したのも事実だった。

 そんな中央政界の混沌を横目に見ながら、阿波の細川頼之 三島三郎らを引き連れ、新守護として自ら国内を視察してまわっていた。その目的はこの阿波を細川氏の拠点として腰をすえるため阿波国内の事情を熟知すること、そして背反常無き各地の国人層の人心を掌握することにあった。
 頼之は阿波の国人・柿原氏の館に泊り、その当主・柿原三郎およびその家来たちと語り合う。柿原氏は一貫して頼之に味方して軍役にも参加していたが、 「吉野方について右馬助さま(頼之)と戦った武士たちの気持ちも分かる」と語る。「我ら在地の武士にとって何より大切なのはおのれの家、おのれの土地、そしてその土地に住む多くの民や家来でござる。我ら武士はかれらのためにも、彼らに成り代わって戦で働き、恩賞を得ねばなりませぬ。それが出来ぬ者は彼らの上に立つ資格もない」 とも言う。そして、それは守護と国人の間にも言えることであると付け加えた。「今や守護にせよ将軍にせよさらに恐れながら帝ですらも、その地位はその下にいる者の支持を得て初めて保証されるものと心得ます。世間ではこれを『下剋上』などととやかく申しましょうが、それが今の世の流れかと」 と柿原らは頼之に訴える。頼之は話を聞くだけで黙ってうなずいた。
 さらに頼之は以前小笠原氏らと協力して先ごろ細川氏に帰参したばかりの河村小四郎の領地に赴く。河村は頼之たちが領内に入ってきたところへ、家来たちと馬で馳せつけて出迎えた。つい先日まで敵として戦った相手だけに三郎らは身構えるが、小四郎は別に頼之をどうこうしようというつもりはないと言い、 「ただ我らの土地をよく見てもらいたいのじゃ」と頼之を案内する。小四郎はこの土地が畿内のどこぞの寺の所有する荘園であって自分たち地頭が年貢の徴収と納入を肩代わりする形になっていると説明し、実際にこの土地を育て守ってきたのは自分たちであり、遠く離れた寺の坊主どもになんでこの土地から年貢をとる権利があるのか、と頼之に語った。
 「我らは我らの土地のために命を張ってござる。我らの土地と家を豊かにするためなら、どこにでもつこうぞ。かつぐ帝が京にいようと吉野にいようと関わりの無いこと。守護とて同様じゃ。細川殿が我らのために何をしてくれるのか、それ次第で敵にもなり味方にもなる」 と小四郎は言う。「肝に銘じておこう」と頼之は答えた。

 ところ変わって伯耆国(鳥取県)。この国の守護は上野(群馬県)の下層武士から一代で成り上がった勇将・ 山名時氏である。時氏は息子たちを集めて密談をしていた。長子の師氏(師義)は前年の八幡合戦に参加して功を挙げたが、取り次ぎを頼んだ佐々木道誉が無視したため恩賞として要望していた若狭の土地を与えられず、怒って伯耆に帰ってきていたのである。背景には道誉と時氏が出雲守護職をめぐって長年争ってきたいきさつがあった。
 時氏は道誉が幕府内で大きな力を持っている以上自分たちの要求が通ることはあるまいと言い、「わしがこの伯耆をいかにして得たか、わかるか。名和一族の掃討を請け負い、自らの力でこの伯耆を平定し手中に収めたのだ。欲するものは、おのれの力で手に入れるものよ」 と息子たちに言う。「しかし道誉を打ち負かすには将軍・幕府と一戦まじえねばなりますまい…」 と師氏がさすがに気が引けるように言うと、「ここまで這い上がってきたのだ。わしとてこの伯耆一国で終わるつもりは無い。幕府と一戦?望むところではないか」 と豪快に生やしたヒゲの下から白い歯を見せてニヤリと笑う時氏。そして南朝と呼応して挙兵すれば旧直義党の大名たちも加勢するはず、さらに長門に逼塞している足利直冬もかつげば充分義詮に対する対抗馬になる、と計画を語りだした。 「まずは出雲じゃな。そして山陰を一気に平らげる」と時氏は立ち上がり、息子たちに出陣の準備を命じた。

 四月、時氏率いる山名軍は一気に行動を起こした。隣国の出雲に攻め込み、守護・道誉に代わって統治していた守護代を追放、出雲の武士たちに恩賞の大盤振る舞いをしていっぺんに味方に引き入れてしまう。出雲を介して隠岐も支配下に収め、さらに因幡国までも兵を出してこれを手中に収めてしまった。
 「山名反乱」の知らせは賀名生の南朝にも届いた。それと相前後して時氏から直接帰参の申し入れが届き、後村上天皇は狂喜する。後村上は親房と相談の上、 四条隆俊楠木正儀らに山名勢と呼応して京を攻めるよう指示を出した。後村上の綸旨が時氏のもとにも届き、 「よし!皆の者、京へ攻め上るぞ!」と時氏は兵士たちを前に綸旨を掲げて声を張り上げ、兵士たちも歓声をあげてこれに応じる。山名勢が京を目指して伯耆を発ったのは五月七日のことである。

 六月六日、ついに山名軍と南朝軍は南北から京へと迫った。南朝軍に参加している楠木正儀は実のところあまり乗り気ではない。 「京に攻め込んで結局奪い返されたのがわずか一年前のこと…こたびなどあの時よりも情勢が良くないが…」とつぶやきつつ戦陣にある。四条隆俊など周囲の公家たちはそれでも大乗り気である。またこの京攻めには 吉良満義石塔頼房といった旧直義党の有力武士たちも南朝軍に加わり、「今こそ直義殿の無念を晴らす時」と意気込んでいる。
 山名軍・南朝軍が京に迫ったのを受けて、幕府では佐々木道誉らが義詮に京を捨てて近江にいったん逃れることを進言していた。 「昨年の戦でこの都が攻めるに易く守るに難き地であることはよくお分かりのはず」と道誉は言うが、義詮は 「幕府が一戦もせずにこの都を捨てて逃げ出しては、武士の棟梁の面目に関わる!」と意地を張り、敵と一戦交えることを主張する。これに同席していた 細川清氏「いかにも!」と声を上げた。 「この清氏が、きゃつらにひと泡ふかせてくれましょうぞ!」と胸を張る清氏に、義詮は大いに励まされ 「名にしおう細川相州の武勇、頼みに思うぞ!」と声をかけた。その一方で前回の失態を繰り返さぬために 後光厳天皇を比叡山へ避難させる措置をとった。
 義詮は出陣を前にして正室の渋川幸子のところへ顔を出した。丹波方面へ避難するよう幸子に命じて、義詮はまだ数えで三歳の千寿王を抱き上げ、 「わしもこの子とさして変わらぬ歳に大きな戦があり、わけのわからぬうちに総大将にさせられたものよ。この子もいずれ将軍の器。苦労はしておくものじゃ」 と笑う。幸子は「この子が将軍になる頃には将軍の家族が都落ちすることのない世になっているよう、ようくお励みくださりませ」 と少しトゲのある言い方で夫を励ました。

 六月九日。京に突入した山名軍・南朝軍と幕府軍の間で市街の激戦が展開される。南朝側が押しまくる戦況の中で、幕府軍では清氏が一人気をはいて奮戦していた。しかしついに支えきれずに義詮本人が比叡山の東坂本へ撤退してしまう。それでも意地になって戦場にとどまり続けた清氏だったが、義詮から使者が来て「明日の軍議をするから東坂本に来い」と伝えてきたため、やむなく撤退する。義詮らの退却を受けて山名・南朝軍は一斉に京に入る。
 しかし東坂本も安住の地ではなかった。比叡山の衆徒が情勢を見て南朝側に鞍替えする気配を見せたため、義詮は慌てて東近江へ逃れることを決める。後光厳帝を奉じた義詮一行は近江に入り、琵琶湖の浜道を抜けていくが、堅田付近で野伏・土民の襲撃を受けてしまう。必死に戦ってこれを撃退したが、警護に当っていた佐々木道誉の子・ 秀綱が戦死し、天皇の輿をかつぐ役人たちも逃げてしまう有様。
 途方にくれた後光厳を見て、清氏が馬から飛び降りた。「恐れ多いことではござりますが、それがしが主上を背に負うて奉りましょう」 と清氏は言い、帝の前に背中を向けて腰を下ろした。少年天皇・後光厳はおっかなびっくり清氏の背中にしがみつき、清氏は帝を背負ってすっくと立ち上がった。 「主上、賀名生の帝は武士の身なりで馬に乗って逃げていったと申しますぞ。主上はこの清氏という天下の名馬に乗られたのじゃ。負けてはおりませぬぞ」 と清氏が言う冗談に、恐怖の色を見せていた少年天皇はクスリと笑顔を見せた。清氏も笑って応え、「さあ、山越えじゃ!」 と義詮以下一同を励ました。

 京から逃亡した義詮は美濃の垂井に入り、ここに皇居を構えて京奪回の体勢を整える。一方、南朝が再び占領した京では賀名生から後村上天皇の意向を受けた使者がやってきて、北朝側についた公家達に前回をさらに上回る過酷な処分を下していった。このため京を逃れて美濃の後光厳のもとへ向かう有力公家も続出する。
 この様子をさして関心もなさそうに見ていたのが山名時氏である。「先は見えておるな。所詮公家は公家。つまらぬ私憤にかられているうちに京は間もなく奪い返されてしまうわ」 と時氏は息子たちにつぶやくように言う。「そろそろ、潮時かのう…ひとまず暴れるだけは暴れたわい」 と時氏は笑う。
 やがて体勢を整えなおした義詮が美濃を出陣。播磨の赤松則祐も出陣して京奪回の気配を見せたため、山名勢はさして未練の様子も見せず京を捨てて伯耆へと退却していった。主力の山名軍が引き上げてしまったことで楠木ら南朝軍も南方へと撤退していった。山名軍と南朝が京都を占領したのはわずか一ヶ月余りのことであった。

第九回「下剋上」終(2002年3月3日)


★解説★

 えー、毎度おなじみの世阿弥でございます。このところMHK内もいろいろと忙しいようでございまして、毎週日曜放送のペースが危ぶまれてしまう昨今でございます。作者もなんとなくこのところ出来が荒いなぁと思いながら書いているそうでございまして。まぁドラマ自体も頼春さん戦死という大ヤマが過ぎちゃって、次の大ヤマへの過渡期というところなので、イマイチ書くほうもノってないところもあるかも。

 今回の話のメインは山名一族の陰謀(笑)。文和2年6月の山名軍主力による南朝京都占領第二回を描くのが主眼でして、今後なにかと主人公の頼之さんと確執を繰り広げることになる山名一族をここらでちゃんと描いておこうという腹もあります。そんなわけなんですが、やはり主役が一切出ないのもちょいとまずかろうということもあり、頼之さんが阿波国内を巡察するなんていうフィクションをデッチ上げて無理やり話に組み込んでいたりします。一応「下剋上」というキーワードで山名と連動していたりするんですよ、ひそかに(笑)。
 ただ一応言い訳がましく書いておきますと、この頼之さんの国人層との対話は今後の頼之さんの政治姿勢、そして失脚時の底力の源の伏線という性格もあるのですな。

 最初の方で道誉さんが讒言に抗議して「職務放棄+引きこもり」事件を起こしておりますが、これは『太平記』には載っていない史実。道誉さんを尊氏さまに讒言した饗庭氏直(命鶴丸)という方は、尊氏様の側近、というよりも「寵童」という方なんでございますな (寵童ってなーに?と気になる方はご自分の努力で調べましょうね)。あの『太平記』まで「容貌当代無双の児」と書いているほどで「花一揆」と称する美少年若武者部隊を率いて尊氏さまのもとで戦ったそうでございます。まぁ言ってみればジャニーズjrがそのまんま戦闘部隊化したようなもんでしょうか(爆)。ちなみにこのころ氏直さんは18か19歳。わたくし世阿弥も絶世の美少年と騒がれたもんでしたが…あ、すいません。またついつい(汗)。
 前回も出てきた三宝院賢俊という方が道誉さん説得の使者として登場していますが、この方は建武の乱の折に九州へ逃れる尊氏様に光厳上皇の院宣をもたらした、いわゆる政治家僧侶でございまして当時の人にも「将軍門跡」とあだ名されたとか。前回でも南朝撤退後の八幡に乗り込んで神器を入れた箱を回収して来て神器の代わりに使うなど、このころの話の節々に登場するお方です。あとで頼之さんともちょっと関わりが出てきますね。こんな重要人物を説得の使者に派遣したあたり、道誉さんの存在の大きさと、それに頼っていた義詮様の狼狽ぶりが知られるところでしょう。
 なお、今後もこのパターン、つまり幕府内で不満がある有力者が「職務放棄+引きこもり」事件を起こすケースが続出するんですな。なんとあの頼之さんもやっちゃうんですが…ま、それは今後にご期待ください。

 さて「山名一族の陰謀」であります(笑)。時氏さんについては第二回でも触れておきましたが、とにかく「上野で民百姓のような暮らしをしていた」ところから伯耆の守護にまでのし上がった実力派武将です。さらにそれにはとどまらず、この回だけで山陰四カ国を手中に収め、このあと南朝側についてドサクサ紛れのようにどんどん領地を拡大していくんですな (しまいには11カ国を押さえる「六分の一衆」に成長する)。この人見てるとなんだか後の戦国大名のはしりのような気もしちゃいます。
 『太平記』の伝えるところではこの山名反乱の原因は時氏さんの子・師氏さんの戦功を道誉さんが認めてくれなかった (というか「今日は茶会」「今日は連歌の会」と言って会おうとしなかった)ことに師氏さんが激怒して出奔、時氏さんに泣きついて南朝について京都を攻略したことになっております。それに類する事実もあったのでしょうが、それ以前から山名時氏さんと道誉さんは出雲守護職の争奪戦を繰り広げておりまして (観応の擾乱時に二人がコロコロと守護職を入れ替わる)、この時の反乱もそれが伏線になっていたのではないかと言われております。実際、挙兵した時氏さんは真っ先に出雲を攻略しますしね。どっちにしても道誉さんが原因ではあるわけなんですが。 道誉さん嫌いの『太平記』作者は道誉さんの子・秀綱さんが戦死したのも道誉さんらの日ごろの行いが悪いせいだと言わんばかりの書き方をしてますね。

 この時の京都攻防戦は『太平記』が詳細に伝えているところなのでございますが(大河ドラマ「太平記」では全く描かれておりません) 、戦闘シーンの予算の都合もあるので簡単に(笑)。ただ、劣勢の幕府軍の中で細川清氏さんだけが妙に張り切って奮戦していたことは『太平記』も記すところ。そのあとの美濃への脱出行で清氏さんが後光厳天皇をオンブしたというのも『太平記』が書いていることで、まぁ恐らく史実。武士にオンブされた天皇は後醍醐天皇に続いて二人目(?)かな。それにしてもホントこの時期の『太平記』には清氏さんの姿が目立ちます。
 二度目の京都奪回を果たした南朝は後村上天皇の強硬姿勢もありまして北朝側の公家にかなり過酷なものだったみたい。洞院公賢さんが日記『園太暦』で怒りをぶちまけておられますしね。関白だった二条良基さんなどは家督・日記・財産の証文など一切合財没収されてしまい失意のドン底に落ちて病気になってしまいます。しかし美濃にいる後光厳天皇 (もちろん実際には義詮さんの意向)が「二条・近衛・一条のうち一番最初に美濃に来た者を関白にする方針」との噂を聞きますと病をおして大慌てで美濃に駆けつけております (仮病だった可能性大)。そんなこんなの悲喜劇を繰り広げながら京都争奪戦は展開していくのであります。

制作・著作:MHK・徹夜城