第十二回「笠置落城」(3月24日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:峰島総生


◇アヴァン・タイトル◇

 笠置山に立て籠もった後醍醐天皇の勢力についての解説。「大塔宮護良親王」については「だいとうのみやもりなが」と読む読み方が多かったが、最近では「おおとうのみやもりよし」とする表記が多くなっていることを説明。



◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

柳葉敏郎(ましらの石)

堤大二郎(護良親王)

高嶋政伸(足利直義)

本木雅弘(千種忠顕)

後藤久美子(北畠顕家)

赤井英和(楠木正季) 井上倫宏(四条隆資)
桜金造(和田五郎) でんでん(神宮寺正房)
北九州男(二階堂道蘊) 渡辺寛二(大高重成) 山中康司(大仏貞直)
世古陽丸(北条時益) 佐藤祐(秋田城介) 香川耕二(金沢貞冬)
樫葉武司(南宗継) 中島定則(三戸七郎) 新みのる(陶山義高) 
石井哉(足助次郎) 松本光弘(桜山慈俊) 津村和幸(小寺頼季) 斉藤拓(赤松則祐)
にれはらゆい(虎女) 神野三鈴(萩) 阿部きみよ(小岩) 蔵本隆史(郎党)
伊達大輔(近習) 坂本知臨(公家) 江崎深雪(侍女) 大沢三千代・榎本郁代(遊女)

大地康雄(一色右馬介)

藤真利子(久子)

柄本明(高師直)

大和田獏(万里小路藤房)

瀬川哲也(恩智左近) 寺田宗丸(聖尋)
荒川亮(花山院師賢) 羽場裕一(洞院公敏) 滝沢英行(万里小路季房) 
新岡義章(尊良親王) 八神徳幸(宗良親王) 宮本充(二条道平) 押切秀樹(北畠具行)
高橋豊(洞院実泰) 冴木彰至(鷹司冬教) 高松克也(近衛経忠) 岡田智章(光厳天皇)
北代隼人(多聞丸)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ わざおぎ塾
丹波道場 園田塾 東京児童劇団 真言宗豊山派のみなさん 足利市のみなさん 太田市のみなさん

武田鉄矢(楠木正成)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:石川恭男○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:坂本好和○記録・編集:津崎昭子



◇本編内容◇
 
 足利高氏は幕府の命で笠置へ向けて出陣したが、足利軍はどこかのんびりと進軍していた。橋本宿では遊女などを陣屋に呼んで高氏自ら高師直ら家臣達と共に飲めや歌えと騒ぐ始末。この様子に弟の直義が「父上が亡くなって間もないと言うのに、よく歌など歌えまするな!」と激怒する。そんな直義に高氏は「みな歌でも歌わねばやりきれまい…やりきれないのはそなただけではない!」と自分や家臣達の気持ちを察するように諭す。そして「こたびの戦では太刀は抜かぬつもりじゃ…笠置へはゆっくり参る」と密かに胸の内を明かす。「では兄者は…」と問い掛ける直義に高氏は「じゃが俊基どのの時と同じじゃ、何もできん。しょせんは見殺しじゃ」と自嘲するように言う。
 そこへ一色右馬介が到着した。右馬介は高氏に会うと貞氏死去の悔やみを言い、子供の時に貞氏に命を助けられた恩を思い出して泣く。そして「この戦は長引くやも」と楠木正成が挙兵したこと、各地で呼応する豪族が出てきていることなどを報告する。高氏は「何もかも早すぎる…」とつぶやく。

 苦戦しながらも善戦を続ける笠置山には、服部小六に従って参加したの姿もあった。そこへ河内から楠木正成が正季らを連れて到着する。正成が後醍醐天皇に拝謁するため行在所に入ると、足助次郎桜山慈俊小寺頼季赤松則祐ら天皇に呼応して挙兵した各地の豪族達が正成に挨拶してくる。にこやかに挨拶を返す正成だったが「ご一同におかれましては、何故この山にお集まりですか」と問う。「この山を守るだけなら天下は動かきませぬ…」と述べかけたところで、奥から正成を呼び出す声がした。
 正成はついに後醍醐帝と対面する。花山院師賢が帝の言葉を取り次ぐと言うが、後醍醐帝は自ら「兵衛(ひょうえ)、おもてを上げよ」と正成に直々に声をかける。正成はその声に応じて顔を上げ、即座に下げる。後醍醐帝が「兵衛、気強う思うぞ」と声をかけると、正成は平伏したまま「ははっ!」と大きく答えた。
 「さっそくではあるが、関東を破る手だてはあるか。忌憚無く述べよ」と護良親王が正成に問う。正成は幕府軍が大軍であること、関東武士の強さなどを述べて「かかる関東を破る手だてはございませぬ」と率直に答える。しかし「柿の実も熟れれば地に落ちまする。関東が自ら崩れれば我らに利がある」と正成は付け加える。「それはいつ」と問う護良に「わかりませぬ」と答えた正成は「勝たぬまでも負けぬいくさはございます」と述べ始める。彼の戦略とは関東に火の手が上がるまで負けぬよう、各所に兵を分散させて蜂起し敵を攪乱させ続けるというものだった。「この山を守るなら、この山を離れることでござりまする!」と断言する正成に、「げにも」と後醍醐帝は感嘆する。

 正成は護良親王・尊良親王らと共に河内に戻って兵を挙げることになり、正季は石を小六から引き取って手紙を持たせて水分の楠木館へ走らせる。手紙を受け取った恩智左近は「殿の図られたとおりに事は進んでおる」と言いながら、赤坂城の備えを固めさせ、久子達と館をひきはらう準備を始める。千早の里に避難することになった館の者たちは荷物をまとめて大騒動。侍女の中には化粧の道具やら愛読している源氏物語まで詰め込んだ大荷物を担いで行く者もいる。
 久子は自分の分身でもある柿の木を見つめ、住み慣れた館に別れを告げていた。多聞丸を一室に入れ久子は言う。「よく見ておきなさい。お前の生まれた部屋です」そして全員を館から出して一人で館に火を放つ。燃える館を振り返りながら、久子と家族達は石と共に千早の里へと去っていく。

 楠木館から上がる煙を、笠置から赤坂城へ向かう途中の正成らは見ていた。正成は護良親王らと赤坂城に入り、ここで反北条の兵を挙げる。赤 坂城から正季らが出撃し、各地の北条系の館や蔵などを襲って河内一帯を大混乱に陥れた。これに呼応して桜山慈俊が備後で蜂起し、火の手は一気に広がった。
 しかし状況はすぐに苦しくなった。和田五郎がもたらした京からの情報により、大仏貞直に率いられた二万の大軍が京に到着し、そこで持明院統の量仁親王の践祚(せんそ=即位のこと)の儀式に参列していたことが正成らに知らされる。つまり新しい天皇(光厳天皇)を立てて後醍醐天皇を「先帝」にしてしまおうという意図である。「これは持明院統の暴挙ぞ!ようもぬけぬけと…何が践祚ぞ!心得ぬ様かな…」と激怒する護良。正成は「やはり苦戦じゃのう…」と嘆息する。

 光厳天皇の即位を見届けて幕府軍は笠置山に押し寄せる。しかし赤坂城対策の事も含めて軍議は紛糾し、笠置への総攻撃はなかなか決定されなかった。そうこうしているうちに抜け駆けの功名を狙った陶山義高という武士が、夜中にわずかな手勢で山の裏手の崖をよじ登り、山上の行在所に奇襲をかけた。陶山らは各所に火をつけて回り、笠置山上の兵達は大軍の攻撃と錯覚して大混乱に。
 御座所にも火が回り、後醍醐天皇が「藤房!忠顕!」と大声で呼ぶと千種忠顕らが駆けつけ、天皇を山上から連れだしていく。行在所に翻る錦の御旗が火に包まれていく光景を無念の思いでじっと見つめる後醍醐帝。こうして笠置山はあっけなく落城してしまったのである。
 後醍醐一行は正成のいる赤坂城めざして夜間の山中をさまようが、道案内をしていた忠顕が道に迷ってしまう。朝もやの中で一行が焦るところへ前方 に兵士の影が見えてくる。こちらに気づいた様子に公家達が太刀を抜いて身構えるが、兵士達の影はどんどん増え、ついに後醍醐帝も観念の表情を浮かべる。

 高氏のところに直義がやって来て「先帝捕らわる」の報を伝えた。捕らえられても後醍醐帝本人であるかどうか確認に手間取るほど惨めな姿であったとも伝える。高氏はそれを聞くと「都へ戻ろう」と直義に言い、「七年前…帝を拝したことがある」と後醍醐帝と顔を合わせた時の思い出を語り、その挙兵の挫折を惜しむのだった。

 高氏は兵を率いて京へと入った。馬に乗った公家の少年・北畠顕家がそれを眺めていた。



◇太平記のふるさと◇

 横浜市の金沢文庫。北条一門の金沢氏が設立し、現在は県立史料館として引き継がれている。ここで放送時に開かれていた「太平記展」の模様を映し、金沢貞顕肖像画などを紹介。



☆解 説☆
 
 前回でついに立ち上がった楠木正成が笠置山に馳せ参じる。このあたりは古典「太平記」でも印象的な名場面だ。
 笠置山に入った正成に先に来ていた武将達が挨拶するシーンは南北朝マニアにはとても楽しい場面(笑)。三河から来た「足助次郎」というのは古典 「太平記」で「足助次郎重範」となっている人物。別の場面で「重成」と書かれているのでドラマでは「次郎」でごまかした形だ。足助次郎は笠置山で大奮戦を するが結局捕らえられて斬首されている。
 桜山慈俊は備後の武士でこの時正成らと同時に備後で挙兵している。しかしこのドラマのようにわざわざ笠置山に直接来ているというのはちと考え にくいところ。正成に「この山を守るならこの山を離れること」という作戦を言わせるための創作のように思える。このあと挙兵はしたものの笠置陥落、続く正 成戦死の報を聞いて(実は死んでいなかったのだが)、失意のうちに自害してしまった。気の毒な人ではある。
 赤松則祐はこのドラマではこのシーンを含め2シーンしか登場しないが、実は古典「太平記」では重要キャラの一人。父親はこのドラマで渡辺哲が強 烈に演じてくれた播磨の悪党・赤松円心だ。則祐はこのあと護良親王に付き従って吉野・熊野で辛苦を共にし、「則祐の忠」と呼ばれるほど親王に信頼される。 その後、父・円心と合流して京都攻略戦でもなかなかハデな活躍をする。建武新政で冷遇された円心に従って、以後は一貫して尊氏に味方し、赤松氏を室町幕府 の有力大名の一つにまで育て上げた。この親子だけで大河ドラマが一本できるんだよな、ホント(笑)。残念ながらこのドラマでは出番を父・円心に奪われてし まい、則祐はほとんど印象に残らない登場となった。
 小寺頼季は古典「太平記」で赤松則祐と共に護良親王に同行して活躍する「小寺相模」のことと思われる。やはり赤松一族の者で、のちに円心の挙兵に際しても名が見受けられる。

 古典「太平記」での正成は笠置に参上した際に「この正成一人が生きているとお聞きになるうちは、いつかご運が開けるものとお思い下さい」と大見得 を切っている。さすがにドラマではより現実的な意見具申に変更された。勝てるわけはない、しかし負けない戦い方は出来る、負けない戦いを続けて幕府の自壊 を待つ、という戦略を本当に正成が抱いていたかどうかは不明だが、結果的にそうなっているのは事実。まぁ要するにゲリラ戦である。巨大な敵に少数で挑むに はこれしかなかったということも言える。

 炎上する水分の楠木館を背景に石や久子達が避難していく場面があるが、これがまたモロに合成と分かる不自然な映像。この時期の大河から 顕著な傾向なのだが、デジタル合成による「特撮映像」が「太平記」でもしばしば登場している。このあとの赤坂城攻防戦や湊川の戦いでの足利船団など、CG などと組み合わせた「特撮」は当時売りの一つになっていたような覚えもある。今見るといささかチャチではあるが…。

 サラッとではあるが、光厳天皇の即位の話題が出て光厳天皇自身の姿も画面に映る。映像作品で「天皇」「皇族」を出すとなると、いつもデリケートに扱われることが多かったのだが(この「太平記」や飛鳥時代ものなどがまるで映像化されなかった理由の一端がここにある)、この「太平記」は後醍醐天皇のようなメインキャラだけではなく、北朝・南朝の天皇や皇族が端役扱いでゾロゾロと出てくる画期的な大河ドラマだった。かなりマイナーな人も出てくるのでその辺も見どころだった。
 この回だけでも後醍醐天皇の皇子が三人も出ている。尊良親王は後醍醐の長子で後に北陸で戦死。宗良親王は後に北畠親房らと海路関東へ渡ろうとし て失敗、信濃に入って抵抗戦を続け70才過ぎまで生きていた。和歌などが残されており剛毅な父親のために迷惑した文学趣味の皇子様という印象の人だ。父親 とよく似た剛毅な人になっちゃったのが護良親王だが、このドラマでは尊良・宗良よりも年上のような会話をしている。一般には尊良親王が第一子とされている のだが…。宗良と護良のどちらが年上かは微妙なところであるようだ。後醍醐天皇はとにかく妃も多く子供も多く(男女合わせて36人とも言われる)、特に皇子はお父さんのために過酷な運命に見舞われた者が多い。
 そういえば大勢いる公家の中に北畠具行の名がある(画面上では誰が誰だか分かんないけど)。 ドラマでは描かれなかったが、この人はこのあと佐々木道誉に預けられ、道誉の手によって処刑されている。古典「太平記」はなぜかここでだけ道誉がとても情 け深い武士として描かれ、具行を涙ながらに処刑するように書かれている。「太平記」のその後の道誉像からすると妙に浮いている場面で、吉川英治は「私本太 平記」でこの場面を「ずるい道誉」像になるように脚色している。

 陶山義高が抜け駆けの奇襲をかけ、笠置山があっさり陥落するのは古典「太平記」が記すそのままの展開。後醍醐一行が山中を彷徨う場面も 映像化されたが、有名な「天の下には隠れ家も無し」の歌のやりとりを藤房とするシーンは残念ながら無かった。それまで輿やら車やらでしか移動しなかった天 皇が自らの足で歩き回る最初の場面で、このあと隠岐では「裸足のランナー」にまでなってくれるのだ(笑)。

 足利軍が京に入ってくるシーンで、放送前から何かと話題のキャスティングだった後藤久美子の北畠顕家が初登場。出演表示で一枚看板であるが、この回はホントに「顔見せ」のみだった。