第十六回「隠岐配流」(4月21日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

堤大二郎(護良親王)
 
高嶋政伸(足利直義)

赤井英和(楠木正季) 赤塚真人(岩松経家)
瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎)
でんでん(神宮寺正房) 佐藤恵利(小宰相)
北九州男(二階堂道蘊) 渡辺寛二(大高重成) 
樫葉武司(南宗継) 中島定則(三戸七郎) 
伊達大輔(近習) 石川佳代・呉めぐみ(侍女)

武田鉄矢(楠木正成)

原田美枝子(阿野廉子)

大地康雄(一色右馬介)

片岡鶴太郎(北条高時) 

柄本明(高師直)

勝野洋(赤橋守時)

西岡徳馬(長崎高資)

沢たまき(覚海尼)

児玉清(金沢貞顕)

稲葉洋介(千寿王)
若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ
国際プロ 丹波道場 真言宗豊山派のみなさん 足利市のみなさん 太田市のみなさん

フランキー堺(長崎円喜)

藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:加藤宏○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:坂本好和○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 後醍醐天皇は幕府の手により隠岐へと流された。同行を許された妃は阿野廉子小宰相の二人のみ。隠岐への道中を指揮するのは佐々木道誉であった。この一行を、猟師に変装した一色右馬介が追い、情報を逐一高氏に送っていた。
 途中、後醍醐帝が疲労でせき込む。廉子が道誉を呼んで休ませて灸をさせてほしいと頼むと、道誉は部下に命じて先の宿に行かせ、上等のも草を集めさせる。道誉は「およその計らいなら、この判官の一存にて…」と廉子にとり入る。
 ついに一行は出雲の美保関に到着。ここで後醍醐一行は隠岐へ向かう船に乗り、道誉は役目を終えて引き返すことになる。別れ際に、後醍醐帝は道誉の肩に手を置き「長い旅路であったが…そちの心遣い、忘れぬ」と声をかける。そして輿に乗り込みながら「惜しい奴よ…なんで汝は公家に生まれず鎌倉武士なぞに生まれた…生まれ直せ」と道誉に言う。「まだ若い。時しあれば、生まれ直して朕のそばに来ぬか?…また会おう」と言い残す後醍醐。道誉は身震いしながら「ははーっ」と平伏する。これを水夫に変装した右馬介が見ていた。

 右馬介からの報告を読みながら、直義は「判官どのは本心は宮方に?」と高氏に言う。「わからぬものが少しずつ見えてくる…おのおのの正体を見定めねば」と高氏。直義が「見定めていかがなさいます?」と聞く。高氏が「直義はどうする」と聞き返すと、直義は「力を結集して北条を討つ」と断言する。
 そこへ執権・赤橋守時が訪ねてきた。高氏は母の清子や妻の登子など一族を上げてこれを迎える。守時はさきに貞氏の葬儀を鎌倉で行うことを幕府として禁じたことを詫びに来たのだった。高氏は、葬儀は足利庄で近親の者だけを集めて行う事になったので気に病まないよう守時に言う。清子も「我らの願いは、どこまでも北条殿と穏やかに手を携えて暮らすこと、亡き貞氏どのもそれを願うておられよう」と言って守時を安心させる。
 その夜、寝所で寝付けぬ高氏に登子が「今日は安堵いたしました」と語り出す。登子は守時がここ数日悩み続けていたこと、「高氏が短慮を起こすようなことがあれば、執権として物申さねばならぬ」とも言っていたことを打ち明ける。「いっそ兄上も北条を捨てて登子のように足利の者になればよいものを…そうなれば千に一つ何事か起こっても、殿と兄上が敵味方になるようなことは起こりませぬな」と密かに恐れていることを高氏に漏らし、「故ものう、恐ろしいのです」と登子は高氏にすがりつく。「思い過ごしじゃ、案ずるな」と抱いてなだめる高氏。

 ややあって、足利庄の鑁阿寺(ばんなじ)で貞氏の葬儀が営まれた。斯波、今川と言った各地の足利一門、北条氏を代表して金沢貞顕二階堂道蘊らが参列し、近場の源氏の一門として岩松経家、そして新田義貞も参列する。金沢貞顕は旧友として貞氏の思い出話を語り、彼の碁の打ち方が彼の性格同様に実に我慢強いものだったと言って、暗に高氏にも慎重な行動を求める。
 葬儀が済むと、岩松経家と義貞が内密な話があると高氏を呼び出した。三人は渡良瀬川のほとりで語り合う。経家と義貞はこれから幕府に大番役を命 じられたので京に行かねばならず、その前に高氏の本心を確認しておきたいと言い出す。経家は隠岐の先帝を救出するという計画を高氏に打ち明ける。弟が四国 で海賊のような活動をしており、それを使って後醍醐帝を隠岐から阿波に連れ出し、これを担いで兵を集め京へ撃って出るのだと。しかし義貞はこれを危なっか しい作戦と見ていた。
 高氏は義貞と、子供の時にこの川で喧嘩になった時の思い出話をする。あの時言われた「ゆめゆめ北条の犬に成り下がるでないぞ」という義貞の言葉と、毎日張り合ってきたような気がすると高氏は打ち明ける。義貞は「あれから十五年もたち申したか…今や新田は畑を切り売りせねば大番役の係りも払えん…兵を集めても百、二百。戦にならん」と言い、岩松のように悪党まがいの器用な真似もできないと語る。その上で「今はこう言うしかない。足利殿が立たれる折りあらば、この新田も加えて下され」と高氏に頭を下げる。驚いた高氏は「新田殿、そりゃ逆じゃ。新田殿が立たれるなら、足利も従いまする…我らは源氏、新田殿を見殺しにはせぬ」と応じる。そして岩松の先帝救出の計画については「よきように」とだけ言っておくのだった。

 そのころ、紀伊で戦の火がまた上がっていた。逃亡していた護良親王が熊野などで兵を挙げ活動を開始していたのだ。
 そして11月。落城した赤坂城は幕府の手により修築され、食糧などが運び込まれていた。そこへ楠木正季に率いられた楠木一党が密かに近づく。食糧を城に運び込んでいた人夫達は、実は楠木党の者たちの変装だった。彼らは突然積み荷から武器を取りだし、城の中から幕府の兵に襲いかかり、城中を大混乱に陥れる。そこへ正季らが突入。正季は本丸を見て「おお…敵が城をきれいに直してくれたわ…ありがたいのう。この城、返してもらうぞ!」と斬りかかっていく。慌てる幕府軍の兵達が城の周囲を見ると、多くの篝火がたかれ、一面に菊水の旗が翻っている。実は正成が旗と火だけで大軍に見せかけていたのだが、これを「楠木の大軍、来襲」と錯覚した幕府軍はあっさりと敗れ、赤坂城に楠木の菊水の旗が翻る。それを見て正成は照れたように自分の髪をなでるのだった。

 楠木一党が復活したとの知らせは鎌倉にも届いた。道誉が高時に会いにやってくると、高時がヒステリックな声で長崎高資円喜父子の失策をなじっているところだった。「母上もなんぞ言って下され!」と高時に言われて、覚海尼も北条一族が土地や守護・地頭職を独占しつつあることが人々の不満を呼んでいるのでは、と意見する。しかし円喜は、もっと広い土地を占めている公家や先帝が楠木のような悪党をそそのかしているのだと答える。「ところがその先帝に媚びへつらう輩が我らの近くにおりまする」と円喜は明らかに道誉に向けて言い放つ。道誉が覚海尼と高時に挨拶すると、いずれもなぜか冷たい反応で立ち去ってしまう。
 高資が道誉の肩に手を置き、後醍醐帝を隠岐へ送る際の道誉の態度を問いただす。「物見遊山の旅ではないわ!」となじる高資をなだめて円喜が、隠 岐判官が道誉と同じ佐々木一門であり、「いわば先帝は判官殿の庭におられるも同然」と言い出す。真意を測りかねる顔をする道誉に、円喜は言う。「まだお分かりにならぬか?河内の悪党どもが騒ぎ立てるのも、隠岐の先帝いるゆえよ…先帝さえおわさねば、すぐにも消えるあだ花よ…」後醍醐帝の暗殺を命じていると悟り、冷や汗をかく道誉。「判官どのの庭で何が起ころうと我らは関知致さぬ…鎌倉に忠義を示す良きしおと思うが」と円喜は畳みかける。

 「楠木復活」の情報は足利家にももたらされた。また出兵を命じられようと言う直義に対し、高師直は河内の土豪が暴れているだけで出兵を命じることはない、と言う。しかし「先帝が隠岐を出られて、楠木がこれをかつげば、ただの土豪ではなくなります。その時が思案のしどころ…」とも付け加える。つまりすべては隠岐の後醍醐帝の動向にかかっているのだ。
 そこへ道誉からの手紙が高氏に届く。その中には「お耳に入れたき一大事これあり。急ぎ館へお出で賜りたく…」と書かれていた。



◇太平記のふるさと◇

 岡山県の美作地方。古典「太平記」で後醍醐天皇が隠岐へ向かう途中のエピソードとして名高い児島高徳の伝説、後醍醐天皇が愛でたという「醍醐桜」などを紹介。



☆解 説☆
 
 前回で幕府側の圧勝でひとまず終息したかに見える元弘の乱。「首謀者」である後醍醐天皇も遠く隠岐へと流されてしまう。普通はここでオシマイなんだけど、ここから「復活」するのがこのお方の恐ろしいところである。
 さて後醍醐天皇に同行する女性として、阿野廉子とともに小宰相(こさいしょう)なる妃が登場する。元ネタは古典「太平記」ではなく史書「増鏡」 で、それによるともう一人「権大納言の局」という女性も同行したとされる。吉川英治はこれに基づいて三人の妃を同行させているが、その中の小宰相という女 性を選んで幕府側のスパイのような設定をほどこした。ドラマはそれを受けつつ、この後の展開のこともあって同行者を廉子と小宰相のみに絞っている。詳しく は「帝の脱出」の回にまわしたい。
 後醍醐を隠岐まで送り届けたのが実際に佐々木道誉だったことは前回触れたが、道中で道誉が後醍醐一行に親切にしたという記録は「太平記」も含 めて全くない。また、実際には道誉以外にも千葉貞胤や小山五郎などの御家人が同行していた。ドラマに描かれているような道誉の行為は「私本太平記」で創作 されたものだが、あの道誉が後醍醐天皇の身近にいたというだけで、いろいろ想像が膨らむのは無理もないところ。あえてエピソードを探せば、「増鏡」にかつ て道誉が石清水八幡参詣の折に橋渡し役をつとめたことを後醍醐が思い出したことが記されているだけだ。美保関で別れ際に後醍醐が道誉に言う「生まれ直せ」 の名セリフは、「私本太平記」の院ノ庄で酔っ払った後醍醐が道誉に言うセリフから拝借したものだ。
 
 「太平記のふるさと」コーナーで触れているが、古典「太平記」ではこの隠岐への道中に、児島高徳(こじまたかのり)という武士を主役とした有名 なエピソードが挿入されている。ドラマではばっさりカットされたが、「私本太平記」はアレンジを加えて採り上げている。「太平記」マニアとしては無視でき ないところなので、ここで紹介しておきたい。
 児島高徳は備前(岡山県)の児島地方の武士で、後醍醐天皇の挙兵に応じて兵を挙げたが、笠置陥落により兵は四散する。高徳は後醍醐の隠岐配流 を知って、その途中で帝を奪還しようと企てるが、警備が厳しく果たせない。やむなく高徳は夜中に一人で帝の宿舎に近づき、そこにあった木の皮をはがしてそ こに「天莫空勾践 時非無范蠡」(天、勾践をむなしうするなかれ。時に范蠡なきにしもあらず)という漢文を書き記していく。 翌朝、警護の兵士達がこれを見つけて首を傾げるが、後醍醐帝だけはその意味を理解し、心強く思ったのだった。
 お話としてはこれだけなんだけど、古典「太平記」はここで「史記」などから「呉越の戦い」の物語を長々と引用をしてこの文の意味を解説している。勾践(こうせん)というのは春秋時代の越の国王で、隣国の呉に敗れて辛酸をなめるが、謀臣の范蠡(はんれい)の活躍により呉を打ち破る(まとめてしまえばこれだけだけど、「太平記」は引用部分が本文より遙かに長いという異常事態になっている)。つまり高徳は後醍醐を勾践に例え、「今は敗れても、范のような忠臣がおりますから必ず逆転できますよ」と励ましたわけだ。このエピソード、正成の話と並んで戦前には誰知らぬ者はないほどポピュラーなものだった。
 ところでこの話だけでやたら有名な児島高徳だが、古典「太平記」ではその後も細かいところでしばしば登場している。高徳は一貫して後醍醐=南朝 勢力に属した南北朝には珍しい律儀者で、彼とその一族の活躍に「太平記」は時として異例の紙幅を割いている。しかし彼はあくまで備前の一土豪に過ぎず、正 成のように大局を左右するほどの活躍があるわけではない。しかも「児島高徳」なる人物について記述しているのは同時代では「太平記」だけで、実在すら疑う 意見もあるぐらいだ。
 この児島高徳に対する「太平記」の特別扱いの理由については一つの推理がある。「太平記」の作者が「小島法師」と伝えられていることから、こ の「小島」とは「児島」のことであって、「太平記」の作者が児島一族と何らかの関わりがある人物だったのでは、という推理だ。極端なのになると「小島法師 こそ児島高徳だった!」と言う説まである。

 貞氏の葬儀が足利庄で行われているが、恐らく新田義貞を登場させるための創作。ついにここで根津甚八に変身した新田義貞(笑)のお目見えだ。セ リフが貧乏くさいのは相変わらずだが、「わしにはそのような器用な事はできん」と妙にフェアプレイ精神旺盛なのは「あれ?」と感じるところ。萩原健一の義 貞は何やら陰謀家めいていたのだが…。このフェアプレイ精神は後の尊氏との戦いでも発揮されることとなる。
 なお、ここで義貞が「畑を切り売りせ ねば大番役の係りも払えん」と言っているが、これはちゃんと史料となる古文書がある。義貞は大番役等の費用を捻出するために領地の一部の収穫物販売権を売 り飛ばしている証文が残っているのだ。「大番役」というのは武士に課せられた京都警備を勤める義務。この大番役の負担が大きかったことは、承久の乱の際の 北条政子の有名な演説でも触れられている。

 護良親王が熊野など紀伊各地で暴れ出しているが、ドラマでは堤大二郎が剣を振り回してわめいている映像に他の戦闘シーンをかぶせただけ で処理されている。古典「太平記」では護良が赤松則祐、村上義光などの配下を連れて山伏に変装し、次々と難関を突破していく血湧き肉踊る冒険譚がつづられ ているのだが、さすがにカットされてしまった。
 その代わり、楠木正成の赤坂城奪回の奇計はバッチリ再現された。正季の「敵が城を直してくれたわ」のセリフにはニンマリとしちゃうところ。こ の場面で旗と火で大軍に見せかける計略を正成がやっているが、これは古典「太平記」では宇都宮公綱との名勝負の中で登場している。ドラマのこのシーンで、 桜金造さんの和田五郎が正成のわきで一生懸命に薪割りをしているのがさりげなく楽しい。
 ドラマには登場しなかったが、古典「太平記」によるとこの時赤坂城を守っていた湯浅孫六定仏は城を奪われて正成に降参し、以後楠木軍の武将として活躍することになる。恐らくもともと正成と似たような河内の土豪で、馬の合うところがあったのだろう。

 佐々木道誉が長崎父子に後醍醐暗殺を命じられるくだりは、完全な創作。しかしこの情勢では暗殺も考慮されたであろう事は想像に難くない。