第十九回「人質」(5月12日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:佐藤幹夫

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

柳葉敏郎(ましらの石)

高嶋政伸(足利直義)

宮沢りえ(藤夜叉)

赤井英和(楠木正季) 赤塚真人(岩松経家)
瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎)
でんでん(神宮寺正房) 北九州男(二階堂道蘊) 
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継) 中島定則(三戸七郎)
小寺大介(広沢十郎) 三本英明・伊達大輔(近習) 石川佳代(侍女)
山口純平・椎名茂・明石良・大塚洋(重臣)
山浦栄・村添豊徳・須藤芳雄・木村栄・奥出博志(重臣)

藤真利子(久子)

片岡鶴太郎(北条高時) 

柄本明(高師直)

西岡徳馬(長崎高資)

大地康雄(一色右馬介=柳斎)

日馬伸・関野義治(侍大将) 榎木兵衛(田舎武士)
二瓶鮫一(田舎武士) 木村和之(大館三郎) 山崎雄一郎(不知哉丸)
森田祐介(千寿王)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ 丹波道場
劇団ひまわり 劇団いろは 劇団東俳 足利市のみなさん 太田市のみなさん

武田鉄矢(楠木正成)

藤村志保(清子)

フランキー堺(長崎円喜)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:稲葉寿一○技術:鍛冶保○音響効果:加藤宏○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:松本恒雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

 元弘3年閏2月末。千早城の攻防戦はすでに二ヶ月に及んでいた。隠岐から戻ってきたが、朝もやの中、眠りこける幕府軍の中をぬって千早城に近づく。城に近づくと霧の中から大勢の人影が見えたので石は思わず物陰に隠れる。よく見ると、わら人形を抱えた兵士達が歩いている。「なんだ、こりゃあ?」とつぶやく石を、一人の鎧武者が胸ぐらつかんで引きずり出し、一発殴りつけた。見れば楠木正季である。正季は石と確認すると、「ちょっと見ておれ」とついてこさせる。
 正季たち一隊は幕府軍の陣に近づく。正季は立ったまま居眠りしている見張りの兵士の肩を叩いて起こすと、いきなりパンチをお見舞いする。KOさ れた兵士が倒れると、正季達は鬨の声を上げて敵陣に襲いかかる。遊女などを抱いて眠りこけていた幕府軍の兵士達は大慌てで飛び起き、応戦する。正季達は適 当に暴れて、幕府軍の数が増えてくると大急ぎで城に向かって退却する。これを幕府軍の兵士達が霧の中を追う。霧の中で正季達を見失った兵士達は、おぼろげ に見えた人影に襲いかかり、刀で斬りつけていった。ところがよく見ればそれはわら人形。「?」と呆気にとられていると、彼らの頭上に大岩が雨あられと降り かかってきた。たちまち数百の兵が大岩の下敷きになってしまう。

 千早城内では久子正成に食糧や塩が尽きかけている事を報告していた。これからは木の実や虫などを何でも集めて食わねばならないと久子は言う。トカゲやヘビの日干しまで食糧として出され、一口かじった和田五郎は即座に吐き出し、恩智左近は黙ってムシャムシャと口にする。「何でも食おう。一日長う持ちこたえれば一日の勝ちじゃ。十日もてば十日の勝ち…そうやって持ちこたえていれば鎌倉は必ず割れる!」と一同を励ます正成。そこへ正季が帰ってきた。わら人形の奇計で敵兵を数百やっつけたと愉快げに語る正季を正成は叱りつける。「打って出れば、腹も減るし、怪我もする。ここは持久戦じゃ!それがわからんのか!この愚か者!」
 そこへ入ってきた石に久子が気づく。石は隠岐の情報を正成に報告する。「帝は隠岐を出でたもうたのだな!?」との正成の問いに「はい、出でたもうたです!」と答える石。正成は「これで幕府がさらに大軍を送り、鎌倉が手薄になる、思惑通りじゃ」と喜ぶ。

 一方、千早城を囲む幕府軍も攻めあぐねて持久戦をとるようになっていた。ヒマを持て余した御家人達は相撲をしたりして時間を潰すが、滞在 中にかかる戦費は全て自分持ちなので、持久戦は経済的にも困るところであった。中には病と称して帰国する御家人も出てきていた。御家人達がそんなことをぼ やいて話し合っていると、「難儀でございますなぁ」と具足師の柳斎が話し掛ける。柳斎が後醍醐天皇の隠岐脱出のことを話し「こんな所にいては、時代の流れに取り残されまするぞ」と言うと、、御家人達は顔を見合わせ、明らかに動揺する。
 柳斎の言葉を聞いた新田義貞の家臣・大館三郎が「今の話、まことか」と声をかけてきた。柳斎は義貞の陣に連れていって欲しいと申し出る。義貞の前に通された柳斎は足利高氏の家臣・一色右馬介の正体を明かし、高氏からの書状を義貞に差し出す。義貞が開くと「おりいって話したき儀これあり。急ぎ見参つかまつりたく候」とある。

 そのころ鎌倉の足利家では出陣の準備でみな大忙しであった。そんな中で高氏は馬になって息子の千寿王を背中に乗せて遊んでやっていた。それを見て「千寿王も父上が間もなく旅に出てしまうことを感じているのでしょう」と目を細める登子。そんな登子に高氏は突然「一緒に行かぬか」ともちかける。千寿王ともども都見物をしては、と高氏は半ば強引に決めてしまい、「楽しい旅ができるぞ」と笑うのだった。
 間もなく足利庄に向けて清子が旅立った。清子は旅立つにあたって高氏に地蔵菩薩の像を渡す。「修羅に向こうて旅立つそなたに愚かなと思わぬではないが…闇夜に光が欲しいと思うこともあろう」と渡しながら清子は言い、別れ際に高氏・直義兄弟の手を取り、「御武運を…」と万感の思いを込めて息子達を見つめる。その光景を見て登子は不審を覚える。

 高氏が妻子連れで出陣するという話は長崎円喜高資父子の耳にも入った。「さて奇怪な話よのう…物見遊山ではあるまいし」と鯉にエサをやりながら円喜はつぶやき「高資、念には念を入れたが良かろうぞ」と言う。
 ただちに高氏は北条高時の呼び出しを受けた。高時と長崎父子らが厳しい顔で待ち受けていた。高時は妻子を連れていくとは甘いぞ、と高氏をからかい、そして「他にも子があろう」と高氏に詰め寄る。高氏が「ござりませぬ」と答えると、その場にいる一同がクスクスと笑う。「犬猫ではあるまいに産ませた子を忘れるやつがあるか」と高時。佐々木道誉からの情報で、伊賀に高氏の隠し子がいることをその場の全員が知っていたのだ。やむなく認める高氏。高時は「その子が可愛いか?」と高氏に聞き、「可愛い者は他人には触れさせたくないものじゃ…いつも自分のそばに置いておきたがる」と言って、自分の母がいつまでも自分の面倒を見たがるとボヤく。「さほどに大事にされては息が詰まる…子も妻もみなそうじゃ。いくら可愛いとて戦に連れていくのはいかがであろうの」と高時は言い、鎌倉の妻子と伊賀の子も含めて「大事なものはみなこの鎌倉に預かろう」と言い渡す。食い下がろうとする高氏を、長崎父子が「異存あるまいのう」と突き放した。

 高氏から話を聞いた直義や家臣達は「それは人質ではないか!」と憤る。「百数十年連れ合うた足利を信用できぬと言ったのだ!」と直義は声を張り上げ、家臣達も「北条の言うことを聞くことはない、北条恐るるに足らず!」と気勢を上げる。そんな一同を高師直が叱責する。「気持ちを申しておる」とむくれる直義に師直は「気持ちだけでは北条は倒せませぬ」と厳しく言う。「何はともあれ、この鎌倉を出る。何事もそれからの思案」と言う師直に、高氏も「ほかに道はない」と応じる。
 
 高氏は登子に、京へ連れていけなくなった、と謝る。登子は和歌の本を綴じている最中だったが、自分達が「人質」として鎌倉に預けられると知り、高氏に「殿は何をお考えです!」と 詰め寄る。清子の別れ際の異様な態度にも疑問を感じていたのだと打ち明けて「こたびの戦で何が起こるのか、教えて下さりませ」と言う登子に、高氏は即答せ ず、少年の日に見た「木切れ」のご神体の話をし始める。こんな醜いもののために一生はかけられんと思ったこと。高時に初めて会ったときも同じように醜いと 思ったこと。京で後醍醐帝を拝して初めて美しいと思ったこと。「その美しいお方と戦えと…」と高氏は言う。しかしこれから何が起ころうと、登子を手放しは しない、「そなたの一生は高氏の一生ぞ、よいな」と高氏は登子の肩に手を置きながら言った。
 「もう少しで綴じられたのに…糸が切れてしまって…」と、散らばった和歌の紙を見ながら登子がつぶやく。高氏がそれを拾い集め始めると、登子が泣きながらその背に抱きついた。
 一方伊賀では藤夜叉不知哉丸に字を教えていた。そこへ柳斎が現れる。柳斎は藤夜叉に金を与え、足利が大きな戦を起こすから落ち着くまで三河の一色村に隠れるよう言い渡す。

 数日後、高氏は鷹狩りと称して平塚の山中へと馬を走らせた。そこには岩松経家と 千早城包囲軍から病と称して抜けだしてきた新田義貞が待っていた。小屋の中で高氏は義貞に「北条どのと戦をすることに決めた」と告げる。「勝ち目はござる のか」と義貞。「皆目見当がつきませぬ」と高氏。兵の数も北条には遙かに及ばぬと聞いて義貞が「それは困ったものでござるな」と言うと、高氏は「困ったも のでござる…されど今の世にもはや我慢がなりませぬ」と応じる。
 高氏は少年時代に義貞から言われた言葉を繰り返し、「この足利高氏、今日あるは新田殿のおかげじゃ…共に戦っていただけませぬ」と義貞に言う。義貞は「長い間この時を待っておりました」と頭を下げ、「我らは源氏…北条との戦は望むところ…!」と高氏を熱い眼差しで見つめた。
 



◇太平記のふるさと◇

  大阪府千早赤坂村。下赤坂城跡、正成が身を隠したと言われる転法輪寺、千早城跡とその周辺にある「身方塚」「寄手塚」を紹介。



☆解 説☆
 
 このあたり、足利決起に向けてジワジワと…というところなのだろうが、当時このあたりを観ていて僕などは「おいおい、そんなとこであんまり時間をかけると後半戦が辛いぞ」などと言っていたものだ。まぁ主人公とその家族達のふれあいをじっくりと描きたがるのは大河ドラマの常ですけどね。この「人質」のネタだけで一回使っちゃったというのはちと勿体ないと思っちゃうところ。

 冒頭、千早城の戦いと言えばこれ、というべき「藁人形の奇計」が登場する。古典「太平記」にも書かれている有名な計略だが、ここでは正季のオリジ ナルアイデアという形にされていた。しかもそれをやったことで正成に怒られてしまっている(笑)。このあたりがこのドラマの正成像のオリジナリティだ。
 このシーンで正季役の赤井英和が刀を使わず全てパンチで敵兵を倒しちゃってるのは、NHKらしからぬ茶目っ気演出(笑)。ちゃんとワンツーでぶん殴ってるんだよな。うーん、浪速のロッキー、どついたるねん。

 たぶんこのシーンで駆けつけてくる武将だのどれかと思うのだが、配役に「侍大将」として「日馬伸」の名がある。このドラマの馬術指導を担当しているご本人としか思えない(ちゃんと確認はできないのだが、たぶんこの人かな…という人が映っている)。 これもある種のサービスカットと言えるかも。そういえば「北条時宗」の馬術指導もこの人だ。この人のインタビューが「太平記」の大河ドラマ本に乗っている のだが、もともと足利在住の方で、足利市から大河への協力を求められた時はいったん断ったそうだ。理由は「大河ドラマ観ているとひどい馬の酷使だから」 だったそうで。素人目には分からないが、合戦シーンなどでは同じ馬が敵味方で何度も使い回されているというのは僕も耳にしている。あくまで馬の立場でもの を考える日馬さんはとてもそんなことに耐えられないと思ったという。結局ある尊敬する人から市に協力するよう言われて引き受け、毎回「クサマライディング クラブ」の名が出演リストにのることになった。それでも現場では毎日監督とケンカだったとか書いてあるなぁ…。
 この人が馬を酷使させなかった為なのかどうか分からないが、「太平記」は戦国もののドラマに比べると馬の頭数はかなり限られていたように思えた。「数万の大軍」なんてのも旗と音響でごまかしている印象が強かったなぁ。

 千早城包囲軍に新田義貞の姿があるが、これは史実。古典「太平記」ではこの千早包囲戦の最中に義貞が執事の船田入道義昌に倒幕の意図を漏らし、船田が密かに護良親王の令旨を得てくる。そこで義貞は仮病を使って上野に帰るという展開になっている。
  古典「太平記」によれば、この千早城攻防戦は末期には物凄いことになっている。先にも触れた宇都宮公綱が紀・清両党を率いてまたまた登場、千早城の山自体 を人海戦術で「堀り崩す」という大作戦を開始しちゃうのだ。全く効果が無かったわけでもなく、櫓の一つぐらいは崩すことに成功して「じゃあ初めから掘って りゃよかったんだ」とばかり幕府軍全員で土木作業を開始するが、結局時間的に間に合わなかった(笑)。余談ながら後の常陸国で北畠親房がらみで展開された 南北朝戦乱でも敵味方双方でトンネル掘削作戦を行い、掘りすぎちゃって落盤事故を起こしたなんてケースがある。

 高氏が妻子を連れて出陣しようとする展開、「そりゃいくらなんでも怪しまれるだろ」と誰もが思っちゃうところだが、これは決してドラマの創作ではなく古典「太平記」にも出てくること。当然のように怪しまれて妻子は人質としてとめおかれることになった。
 「他にも子がおろう」と問いただされるシーンは、ついつい「まだ他にもいるだろう」とツッコミを入れてしまうところ(笑)。前の回でも書いたこ とだが、このとき高氏には他に竹若という男子があり、この子は父の寝返り後、脱出に失敗して殺されてしまっている。「私本太平記」にもこの「他にも子がお ろう」の場面があるが、そこでは竹若のことに触れていた。
 人質を取られたと知って直義が「北条が百数十年連れ合うた足利を信用できぬと言ったのだ!」と憤慨しているが、この時点で直義たちは反北条の挙兵の腹を固めているはずなので、このセリフはちょっとヘン。
 前後したが、別れ際に清子が地蔵菩薩のお守りを高氏に渡している。高氏が母のすすめで地蔵菩薩を信仰しており、自筆の地蔵の絵なども残されてい ることを意識した場面だろう。「私本太平記」でも地蔵菩薩のお守りが登場していたが、そこでは高氏が藤夜叉に形見として渡す小道具として使われている。

  登子に問いつめられた高氏が、例の「木切れのご神体」の話をし始める。どれほどの視聴者が気づいていたか分からないが(実は僕も今回見返してみてようやく実感しているぐらいで)、 この「木切れ」のエピソードはドラマ全体を貫くシンボルとして細かいところで何度も登場し、「美しい世」に憧れる高氏(尊氏)の理想と、権力というものは 決して美しくはないことへの幻滅とを象徴する。特に倒幕に至る過程では「醜い北条」「美しい後醍醐」と非常に単純に若い高氏は理解しており、これが幕府に 反旗を翻す大きな動機付けとなっているわけだ。意地悪な言い方をすると幕府への「裏切り」を正当化しているわけですけどね。

 もちろんそれはドラマの上での話。だいたい高氏が建武新政以前に後醍醐天皇に会っていたなんてことはまず考えられない。やはり「時機至 れば北条を倒す」という思いが足利家にかなり以前からあったのだろう。古典「太平記」によると、この出陣に際して高氏は「父の喪も明けぬうちに、しかも自 分も病が癒えぬ時に出陣を命じるとは」と憤り(父の喪、というのは元弘の変勃発の際のことと混同したものと思われるが)、 「そもそも北条は我が源氏に仕えた家ではないか」と反旗を翻す決意をしたことになっている。そこで妻子ともども連れていこうとして怪しまれ人質をとられる ことになる。困った高氏が直義に相談すると、直義は「千寿王は子供だから家臣に命じて抱いて逃げさせることも出来ましょう。登子どのは赤橋殿の妹ですから まさか殺されるようなことはありますまい。大事の前の小事」というような事を言って兄を励ましている。
 古典「太平記」ではこの足利兄弟、実に良いコンビで、迷ったり困ったり下手すると自殺・出家願望を見せる兄を、冷静沈着で勇猛果敢(矛盾するようだけど実際そうなのだ)の弟がなだめたり励ましたりするというパターンが目に付く。実際そんな感じだったんじゃないかと僕は想像している。足利氏の天下取りはまさに兄弟の両輪で成し遂げられたのであり、だからこそ尊氏はあの有名な願文で全ての果報を直義に与えようとまで書いたのだ(しかし実際にどうなったかはこのドラマの終盤で語られるわけですな)。ドラマの直義はなんとなく単なる血気盛んな若武者ってイメージが強くて、兄を支えているって感じが余り出てなかった嫌いがある。