第二十回「足利決起」(5月19日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:佐藤幹夫

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

陣内孝則(佐々木道誉)

勝野洋(赤橋守時)

堤大二郎(護良親王)

高嶋政伸(足利直義)

本木雅弘(千種忠顕)

渡辺哲(赤松則村) 六平直政(宍戸知家)
小池栄(時宗の僧) 北九州男(二階堂道蘊) 渡辺寛二(大高重成)
世古陽丸(北条時益) 小山昌幸(名越高家) 樫葉武司(南宗継) 
ドン貫太郎(今川範国) 相原一夫(一条行房)  石川佳代(侍女)
三本英明・伊達大輔・たくみ綾(近習) 森田祐介(千寿王)

フランキー堺(長崎円喜)

片岡鶴太郎(北条高時) 

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

西岡徳馬(長崎高資)

小松方正(名和長年)

山内明(吉良貞義)

児玉清(金沢貞顕)

加藤正之・内田修司・大塚敏民(足利一門の武士)
岡本順太郎・久慈大志・西沢仁・ハマン(足利一門の武士)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ 足利市のみなさん 太田市のみなさん

緒形拳(足利貞氏)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:田中伸和○技術:小林稔○音響効果:藤野登○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:岩崎延雄○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 元弘3年(1333)3月27日、足利家出陣の朝。高氏は一番に目覚めて、庭で一人で蹴鞠を始める。
 その後高氏は直義師直を呼び出し、「わしは北条殿を討とうと思う」と改めて決意を打ち明ける。「我らは裏切り者の刻印を終生負わねばならん。それで乱れた世を正せるならやむを得まい…わしは源頼朝公の故知に習いたい」と高氏は言い、二人に意見を求める。直義は「裏切り者の刻印…喜んで負います!」、師直は「望むところ」と応じた。
 「よし!」鎧姿となり、盃を叩き割って高氏らは屋敷を出立する。屋敷の中を歩きながら、高氏の脳裏には父・貞氏の思い出が次々と浮かんでくる。人質として残され、これを見送る登子千寿王。高氏は千寿王に「帰ったらまた馬に乗せてやろうぞ」と言い残していく。

 幕府では北条高時以下、評定衆の一同が高氏の出陣を見送るべく待機していた。なかなか来ない高氏にいらつく長崎高資。高時がそれをなだめるように、高氏が人質も誓紙も置いていった事を挙げて「足利は良き縁者よ」と言う。そこへようやく高氏の軍勢が到着した。門前で下馬し、高時らに出陣の挨拶をする高氏。高時は出陣のはなむけを贈り、「頼みに思うぞ」と声をかける。高氏をにらむように見つめる円喜。ウンウンと安心したようにうなずく金沢貞顕。何か不安そうに無表情でいる赤橋守時。高氏たちはそれらの顔に密かに別れを告げるように視線を送り、馬に乗って鎌倉を旅立つ。出陣していく足利軍を眺める群衆の中に、かつて高氏と格子番の同僚だった宍戸知家や、長崎家家臣に斬られそうになったところを高氏が救った時宗の僧などの姿があった。

 一方、伯耆の国・船上山。隠岐を脱出した後醍醐天皇はこの地の豪族・名和長年に守られてこの山に立てこもっていた。ここにも「足利軍、鎌倉出陣」の知らせが入る。すでに足利が後醍醐側に寝返ることは間違い無しとの連絡が岩松経家から届いており、それが実現すれば一気に世の中は動くことになる、と後醍醐帝は胸躍らせ、阿野廉子も「都への還御は間近でござりまするぞ」と喜ぶ。後醍醐帝が「名和の働きはどうか」と千種忠顕に尋ねると、忠顕は名和長年の活躍ぶりを述べたあとに「されど…」と困ったような顔を見せる。後醍醐がいぶかると、廉子が「なにせい田舎武士ゆえ…」と笑って続けた。
 この名和長年という男、もとは「鰯売り」と言われ、回船業で財を築いた豪族である。一条行房が「帝がお召しじゃ」と伝えに来ると、長年はペッペとツバを手につけそれで髪を整えてニッと行房に笑って見せる。そして懐から金の入った袋を取り出し、行房にそっと手渡し、後醍醐帝への拝謁に向かった。
 長年が御座所にやってくると、後醍醐は筆を紙の上に走らせ、「帆かけ船」の絵を描いていた。描き上げると「家紋が欲しいと申しておったの…これを家紋とせよ」それを長年に下げ渡す。長年は身を震わせてこれを戴き、「恐れ多くも帝を背(せな)に背負うて這い上がった、この名和長年の熱き忠義の心が報われた心地でござりまする」と感謝を述べた。

 4月4日。高氏の軍団は「足利王国」とも言える三河国の矢作宿に到着した。足利の分家19家の当主がここに集結し、一門の棟梁である高氏の到着を待ち受けていた。高氏が館に入ってくると、迎えの中に一色右馬介の姿があった。
 軍勢の揃えは今川範国吉良貞義によって監督されていた。二人が高氏に揃った兵の数を3100と報告する。これに高氏が連れてきた500、西国の丹波・美作の兵を併せて五千から六千の兵が揃うと見込まれた。「あとは我らが誰を相手に戦をいたすか、それによって諸国の源氏が馳せ参じましょう」と吉良貞義が付け加える。「はて、誰を相手に戦うか伝わっておらなんだかのう」と高氏は少しとぼけたように言い、改めて「我らの敵は北条殿…戦の相手は北条殿じゃ!」と宣言する。一瞬の沈黙。そして貞義が平伏して沈黙を破る。「それはまた良い敵…戦を致すに不足なき相手じゃ!諸国の源氏も我らに味方しましょうぞ。よく仰せられた…」高氏が「ともに戦うてくれるか?」と問うと「一同、そのつもりでござります!」と場の全員が応じた。
 高氏は師直に、切腹して果てた祖父・家時の置文を用意させる。「今日こそ皆とともに読もうぞ!」と高氏は祖父の置文を開き、ゆっくりと、しかししっかりとした口調で読み上げていく。
「故あらばこそ、ここに書き置くなれ…死するに当たり我より後の子に託す。我に代わって天下を取 り、遠祖の遺沢を成し遂げよ。我、盛運を思うや多年、しかれども我徳なく夢むなしく破れ、わづかに家名を守らんがため、一命をなげうつのみ。我より後の子 に託す、我が意を継げよかし。我に代わりて、天下をとれ!」
 高氏は各地の足利一門に使者を走らせる一方、船上山にいる後醍醐帝にも綸旨を求める使者を送った。高氏は一人右馬介を呼び、これまでの労をねぎらう。右馬介は「本日あるを夢見てお仕え申し上げておりました…申し上げる言葉もありません」と感激を述べる。「鎌倉のこと、よろず頼むぞ」と高氏は右馬介に命じ、自らは近江にいる佐々木道誉との対決に心を向けていた。

 足利軍が近江・不破の関にさしかかると、関は佐々木道誉の兵達によって閉ざされており、近づくと矢を射てくると物見が報告してくる。さて は妨害する気か、と見た直義と師直は陣を敷いて軍議を行おうと進言するが、高氏は「兵を一里ほど下げよ」と命じ、「判官殿に挨拶に行ってくる」と師直とわ ずかの兵だけを連れて関所へと向かう。
 高氏が館の中を探し回ると、派手な鎧を身にまとった道誉が待っていた。「鎌倉殿の命でな、足利殿に備えていた」と言う道誉。身内だけでは乱を鎮められず外様の足利を使うとは北条もぶざま、と道誉が言うと、「その北条にまだ未練を持っている御辺もなかなかのぶざまじゃ」と高氏がからかう。「そのぶざまな田舎大名に助けを借りねば鎌倉を攻められぬ源氏の大将もおるでな!」とやり返す道誉。しかし高氏は「鎌倉を攻めるつもりはない」と答え、地図が書かれた屏風を取り外す。するとその陰には刺客が隠れていた。すわ気づかれた、と他の場所からも刺客が飛び出す。しかし高氏は気にもせず、屏風を倒して道誉に戦略を説明し始める。
 高氏の戦略とは、鎌倉ではなく、京の六波羅探題を攻め落とすことだった。北条は手も足も畿内に送り込んでしまった。六波羅を落とせば、鎌倉は頭だけで死んだも同然であると高氏は説く。「兵を貸せとは言わん。ただ黙ってここを通してくれればよい」と高氏は道誉に頼む。「これからのまつりごとは、京で行わねばならぬ。朝廷もある、商人もいる、楠木殿のような武士もいる。それゆえ、まず京を攻める」と高氏は将来の構想までも道誉に明かす。
 聞いた道誉は「面白い!」と叫んで刺客達を下がらせる。「兵が足りぬだの鎌倉は攻めにくいだの言うようなら首を刎ねて献上してやろうと思っていたが…面白いのう」と本気で感心している道誉。「ただ一つだけ気に入らん。このわしにただ見ておれというのが気に入らん。一緒に連れて行け」と道誉が言うと、高氏は気取った風に「それもよかろう。苦しかるまい」と扇子を道誉に突きつける。顔を見合わせて大笑いする道誉と高氏。こうして高氏は不破の関を突破した。

 そのころ、京の周辺の戦乱は激しさを増していた。吉野を落とされて潜伏していた護良親王は比叡山に入り、僧兵達を率いて六波羅軍と戦っていた。また、播磨の豪族・赤松則村(円心)も淀・山崎に進出して六波羅軍と善戦していた。
 桜吹雪の舞う中、高氏の軍勢は京に入った。この時点ですでに高氏は後醍醐帝の綸旨を受け取っていた。

 鎌倉の赤橋守時邸。深夜、寝所の登子にささやく声がする。忍び姿の右馬介だった。「お迎えに参りました」と言う右馬介に戸惑う登子。高氏 が反旗を翻したと告げられ、登子は「兄を見捨てては行けませぬ」と千寿王だけを連れて行くように言う。右馬介はひとまず部下に千寿王を連れて行かせ、登子 の説得を続ける。
 怪しい物音に、守時も気づいていた。守時は家臣たちに「騒ぐな」と告げ、寝間着のまま登子の部屋に現れる。「兄上…登子は何一つ…兄上のために何一つ…」と泣く登子に、守時は言う。「よい…こは世の流れぞ…もはや北条の命運は尽きておる。そなたは足利殿と共に生きよ。生きて足利殿と、わしのできなんだ見事な武士の世を作ってくれい…足利殿に出来ねば千寿王殿にやらせてくれ、それが登子の役目ぞ」今生の別れを惜しんで兄に泣きつく登子。「ここに残って、この兄と死んでも、わしは良い妹とは思わん、早う行け」と守時は登子を右馬介たちに引き渡す。去っていく妹をじっと立ったまま見送る守時の周りに、庭の桜が舞い散っていた。

 六波羅では足利軍の到着を受けて軍議を開き、高氏は丹波方面の敵を鎮圧に向かうこととなった。出撃した高氏は赤松則村・千種忠顕の軍勢の わきを素通りするように丹波方面に向かう。途中で敵から矢が一本も飛んでこないことに不審を覚えた武将達が脱走したりするが、足利軍は構わず丹波・篠村へ と走る。
 元弘3年5月7日。足利軍は丹波・篠村八幡宮に集結した。西国から馳せ参じた軍勢も合わせて総勢一万。ここで高氏は源氏の白旗を高々と掲げ る。「直義、一番の弓を命じる。旗揚げの祝い矢いたせ」と高氏が命じ、直義はかぶら矢を大空へ向かって放つ。それを合図に全軍が太刀を抜く。「南無八幡大菩薩!敵は京・六波羅!北条軍なるぞ!」と叫び、高氏は太刀を振るう。
 ついに足利家が北条に反旗を翻した。足利軍は怒濤の進撃で六波羅軍を蹴散らしていく。



◇太平記のふるさと◇
 
 京都府・亀岡市。篠村八幡宮に納められた高氏自筆の願文、兵士達が矢を奉納して出来た矢塚、足利軍がこれに沿って京を目指した保津川などを紹介。


☆解 説☆
 
 あー、高氏クンようやく立ちました、というわけで非常に内容の濃い回。思えば主人公が歴史の風雲に主体的に関わるのがようやく第20回という凄いドラマである(笑)。ここまではほとんど傍観者なんですよね。

 高氏が高時らに出陣の挨拶をしていく(と同時に実は今生の別れをしている)シーン は、よく見るとロケとセットの合成(?)撮影。高氏が馬に乗ってきて門前でかしこまるところは足利市のオープンセットで撮られていて、高時達がこれを見 送っているところはスタジオのセットで別に撮っているのだ。それを出陣のはなむけを贈る武士などを入れて一緒にいるように繋いで見せているわけ。お互い、 相手がいないのに声かけて大変ですねぇ。ま、それが映像用の演技というもんですが。
 ところでこのシーンで、チョンボがあることに僕は気づいた。高時の側に二階堂道蘊(北九州男さん)の姿があるのだ。確か道蘊は第17回「決断の時」で幕府の総大将として出撃することが決まっていたはず(ドラマでは自ら名乗り出て円喜に誉められていたぞ)。 この時点ではとっくに畿内にあって護良親王の吉野山を陥落させ、楠木正成の千早城を包囲しているはずなのだ。良く見返すと18回、19回といつまで経って も幕府の評定に顔を出している。恐らく同じ顔が揃う幕府のシーンはいっぺんにまとめて撮影しちゃっているのだろう。だからなんとなく道蘊も置いたままにし てしまったわけ。ドラマ撮影の舞台裏を垣間見ることが出来るシーンですね。
 この場面で高時が贈った出陣のはなむけが何なのかは画面では袋に入っているため確認できないが、古典「太平記」にはこのとき高時が「源氏の白 旗」を高氏に贈っていることが記されている。ドラマだとこの回のラスト、篠村八幡宮で高氏が掲げさせる白旗だ。考えてみると皮肉な贈り物であったと言え る。
 高氏が鎌倉を旅立つシーンで、第1回と第2回だけ登場した「宍戸知家」(六平直政さん)と「時宗の僧」(小池栄さん)がさりげなく登場し高氏 を見送っているカットが入る。宍戸の方は妻らしき女性と一緒に高氏を見ている。今回見返してみて初めて気が付いた。高氏の鎌倉での青春時代の思い出が、彼 の旅立ちを見送っている…ということなのだろうか。キャスト気をつけて見てないと普通気が付きませんよ、こんなカット。

 船上山で小松方正演じる名和長年が初登場。これも農民オッサンの楠木正成並みにショッキングでしたねぇ。「鰯売り」という話は確かにあ り、ドラマでも出てきたように「帆かけ船」の家紋を使っていることから商人的豪族であったとは思われるのだが、これじゃそのまんま商人じゃん、とツッコミ を入れてしまったものだ。もうちょっと普通の武士らしい外見にしても良かったんじゃなかろうか…とも思うんだけど、面白いから許す(笑)。ドラマでは一貫 して商人あがりのちょっと下品な雰囲気で、建武新政期にはお公家さんのような恰好で宮中をうろつきまわることになる。
 ところで長年が「帝を背に背負うて…」と言っているが、古典「太平記」では後醍醐を背負って船上山に運んだのは長年の弟の長重ということに なっている。長年自身が後醍醐を背負ったとしたのは、どうやら「私本太平記」がそう書いているのでそのままにしちゃったようだ。それとドラマでは紹介され なかったが、船上山に立て籠もるに当たって長年が領内の住民達に「荷物を運んでくれたら一荷につき銭を五百やる」と触れ回ってアッという間に山上に兵糧を 運び込んでしまったというエピソードは、名和一族の商人的側面を示すものとして興味深い。

 矢作の宿の足利一門集結シーンはなかなか壮観。山内明さんの吉良貞義なんてほとんど誰も知らないようなキャラなんだけど、ここではなぜ か高氏に「じい」と呼ばれてかなり重んじられている様子。このシーンを重々しく仕切るために登場したような印象だ。この場面に登場する今川範国の子・今川了俊の『難太平記』によれば、このとき高氏が上杉憲房を使者として吉良貞義に挙兵のことを相談したところ、貞義は「今まで遅くこそ存づれ。尤も目出かる可く云々(今まで長いことこの時を待っておりました。大変めでたいことでござります)」と答えたという。ここで集結する足利一門は、今川、吉 良、細川、斯波などその後の日本史を飾る名家が目白押し。みんな三河の足利党にルーツを持つわけだ。
 ここでようやく問題の「家時の置文」が読み上げられる。その内容は完全にドラマのオリジナル。ところでこの場面で映る置文、どう見ても黒い墨で書かれているんだけど(しかも妙に紙が新しい)、第9回「宿命の子」で貞氏が「自らの血でしたためた」って言ってませんでしたっけ?書き写したのかな?

 不破の関で高氏と道誉が対決する場面は「私本太平記」を参考にしているが、ドラマのオリジナル要素が強い。特に高氏が京を攻める理由を政権構想(つまり後の室町幕府の構想である)まで絡めて説明し、道誉を驚かせるのはドラマ独自の設定だ。「私本」だと藤夜叉と不知哉丸を人質として道誉に預けていったりする。
 実は道誉が高氏に倒幕挙兵の決意をうながした――とする史料がないわけでもない。古典『太平記』は倒幕戦の時点では道誉の行動について何も語らないが、巻三十四の尊氏死後になって突然「去る元弘のはじめ、北条高時のふるまいが悪逆非道で幕府の命運ももはや傾く時がきたと見たか、『北条氏を討って天下をとりなされ』と将軍(尊氏)にしきりに勧め、これにより六波羅は尊氏によって滅ぼされたのである」と いう説明が出てくる。また、後世道誉の子孫らによって編纂された『京極家譜』という史料には、上洛する高氏軍に道誉が鎌倉から従い、途中の腰越で高氏の命 で道誉が「怨敵退散」の呪い矢を鎌倉に向けて放ったとか、自領の近江番場で道誉が高氏をもてなし、自分が先陣をしたいと申し出て高氏を喜ばせ、軍議・密談 を行ったという話も出てくる。『京極家譜』のほうはかなり後世に作られたものなので面白いだけにアテにならないが、『太平記』巻三十四の記述は唐突に出て くるだけにかえってリアリティも感じる。あの道誉のこと、時代の流れは敏感に読んでいただろうし、直接的に軍事行動をしなかったとしても高氏に決起を促す か密約をするといったことは十分ありえたと思う。また表立って何もしてない割には道誉や佐々木一族が建武政権の雑訴決断所に登用され、重用されていること も傍証になるだろう。

 京都周辺の情勢を説明するところで、これまで何度か言及だけはあった赤松円心(則村)がついに映像で登場。これまたビックリの山賊の親分 状態(笑)。半裸姿に鎧をかぶせ、頭は僧侶用の頭巾、刀は背中に背負い、なぜか四人で輿をかつがせて軍の指揮を執っていた。このインパクトも相当なもの だったが、円心ってのも今ひとつ正体不明な人物のは確か。恐らく楠木正成同様に「悪党」だったのではないかと思われる。正成といい、長年といい、円心とい い、こうしたちょっとダークサイドな新興武士団が後醍醐の「反北条革命」に呼応していた、ってのをドラマでは映像的に誇張して表現していたんじゃないか な。赤松円心はこの後も建武新政期を挟んでしばらく登場し、強い印象を残してくれる。渡辺哲さんって俳優、僕はこの円心役で強烈に印象づけられたのだが、 その後伊丹十三監督の「ミンボーの女」(そういえば長年役の小松方正さんも出てるぞ)とか黒澤明監督の「まあだだよ」などでも印象的に顔を出している。

  なお、この赤松円心とともに京都攻略戦を展開していたのがモッくん演じる千種忠顕。この辺ちゃんと描いてくれると面白かったんだけどなぁ。古典「太平記」 では千種忠顕はかなり手厳しく描かれており、この攻略戦の最中に怖じ気づいて児島高徳ら副将たちに何の相談もなく勝手に陣地を引き上げてしまったりしてい る。空っぽになった忠顕の陣地に行った高徳は「こんな臆病な大将なぞ、どこかの堀でも崖でも落ちて死んでしまえばよい!」と怒りをぶちまけている。

 さて、赤橋兄妹、涙の別れのシーン。勝野洋さんの赤橋守時、最高の見せ場である。「生きて足利殿と、わしのできなんだ見事な武士の世を作ってくれ…」のセリフにはもう涙、涙。このシーン、守時の白い寝間着はまるで死装束のように見える(絶対計算してるよな)。そこに守時の運命を暗示するように散る夜桜…もう全てが守時のために用意されたと言っても良い名場面。
 ところで「私本」でも古典「太平記」でも赤橋守時は死ぬ場面以外あまり印象的な登場はしない。高氏の義兄であるにも関わらずこれほど印象的に描 かれるのはこのドラマが初めてであったと思う。この名場面だが、守時が千寿王と登子を逃がしたと状況証拠的に想像されることから作られたもの。状況証拠と は、守時の死後、建武新政府から守時の未亡人に「恩賞」が贈られているという事実なのだ。確かに人質にとられたのに高氏の妻子がアッサリと脱出に成功して いるのは守時の力があったからとしか思えない(竹若は殺されてるからね)。ドラマでは逆にそこから遡って北条の運命を見定めている守時というキャラクターを創作したと言えるだろう。

 高氏が六波羅に入り、軍議をするところで名越高家の姿が見える。これまたドラマでは描かれなかったが、この武将は高氏とともに赤松軍と戦 うために出撃する。高氏に先駆けて手柄を立てようと焦ったようで、足利軍を置いてさっさと戦闘に入った。古典「太平記」によると高家は物凄く派手な鎧姿で 周囲を圧倒したが、赤松軍の佐用範家という弓の名手に狙撃されてあっさり落命する。その間、高氏は何をしていたのかというと名越軍を放って置いて酒盛りを していたそうで(笑)。高家の戦死を聞き、ようやく篠村めがけて移動を始めている。ドラマでナレーションが触れていた「敵から矢が一本も飛んでこないこと を不審に思」った武士が何人か脱走したことも古典「太平記」に見える話でちゃんと名前まで記されている。

 篠村八幡宮での旗揚げシーン。青空のもとの野外ロケではためく白旗がよく映える。「祝い矢」を直義が放っているが、「私本」ではまった く同じセリフで一色右馬介が命じられている。古典「太平記」によれば、篠村八幡に久下時重という武士が「一番」という旗印を立てて真っ先に駆けつけ、高氏 が師直に由来を問うと、久下の先祖が頼朝旗揚げ時に一番に駆けつけたので頼朝が喜びこの旗印を与えたのだという故事が語られている。足利高氏の北条氏に対 する挙兵は、周囲もまた本人も、源頼朝の平氏に対する挙兵とダブらせていたことがうかがえる逸話だ。
 なお、「ふるさと」コーナーで紹介された高氏自筆の願文だが、後世の偽作説もある。