第二十一回「京都攻略」(5月26日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:榎戸崇泰

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

柳葉敏郎(ましらの石)

高嶋政伸(足利直義)

石原良純(脇屋義助)

赤井英和(楠木正季) 赤塚真人(岩松経家)
瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎)
小田茜(顕子) 長谷川初範(西園寺公宗)
市川勇(黒沼彦四郎) 平野恒雄(明石出雲介) 深浦加奈子(局)
藤田啓而(大山源左衛門) 岡田正典(安藤三郎) 小林和之(大館三郎)
刀坂悟(北条仲時) 中村元則(武士) 岸本久矢(石の仲間)
石川佳代(侍女) 伊達大輔・山本隆仁(近習) 森田祐介(千寿王)

武田鉄矢(楠木正成)

片岡鶴太郎(北条高時) 

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

勝野洋(赤橋守時)

西岡徳馬(長崎高資)

沢たまき(覚海尼)

小松方正(名和長年)

山内明(吉良貞義)

児玉清(金沢貞顕)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ 足利市のみなさん 太田市のみなさん

フランキー堺(長崎円喜)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:稲葉寿一○技術:鍛冶保○音響効果:石川恭男○撮影:永野勇○照明:森是○音声:鈴木清人○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

 元弘3年5月7日、足利高氏はついに北条氏に反旗を翻した。足利軍は六波羅軍を蹴散らし、京へと進撃。これに負けじと赤松則村千種忠顕の軍勢も六波羅目指して京へ突入する。
 一方足利に寝返られた六波羅探題は大騒ぎ。六波羅には乱を避けて光厳天皇の仮皇居が置かれ、西園寺公宗ら持明院派の公家達が集まっていた。北の探題・北条仲時は仮皇居に参内して、もはや天皇ともどもここを落ちるしかないと奏上する。「ここを落ちよとて、他に行くところはあるまいが」と公宗がうろたえるが、そこへ火矢が飛んできて皇居はパニックに陥る。

 その日の夕刻には大勢が決していた。赤松軍・千種軍は六波羅への一番乗りを競って突撃して行き、夜空に六波羅が燃える赤い炎が照り映える。直義が自分達も負けじと六波羅へ攻め込もうとはやるが、高氏は「戦はあとが大事ぞ」と言い、一番乗りは赤松らにくれてやり、自分達はむやみに戦わず放火もせず、戦後の治安を守るよう指示を出した。
 命令を伝えるため直義らが去り、高氏は一人残される。その時、高氏の背後に近づく手負いの武士があった。仲時の家臣、安藤三郎と名乗ったその武士は「裏切り者!」と叫んで高氏に斬りかかる。馬上から突き落とされ、あわや討たれるかに見えた高氏だったが、格闘の末これを返り討ちにする。安藤三郎は「裏切り者…」とうめきながら絶命する。
 高氏が呆然とたたずむところへ、高師直が駆けつけ、六波羅の陥落を報告した。「あとは鎌倉!」と言う師直に、高氏はしばし放心したように無反応だったが、ふと気づいたように「そうじゃのう…あとは鎌倉じゃ。新田殿じゃ…!」と答えた。

 一方、上野の新田館。高氏と呼応して挙兵することになっていた新田義貞だったが、一門をかき集めても150騎ばかりしか兵がない。「これで北条と戦うたら天下の笑い者じゃ!」と弟の脇屋義助は怒る。越後の新田一族にも声をかけてはみたが、返事もまるでない有様。「これでは戦にならん」と義助がぼやくと、義貞は「足利殿と約束をしたのじゃ。戦になろうがなるまいが、鎌倉を攻めてみせると…。みなが行かぬならわしと岩松だけで行く。そうでなくてはこの新田の面目がたたん!」と語気を荒らげる。岩松経家が足利家が千寿王をたてて加勢してくれる、それならば5000騎は固い、と励ますが、義貞は「足利殿の助けで戦はしたくない」と本音も漏らす。「とりあえず立て」と岩松はさらにせかすが、「たったの150騎でか…」と義貞はまだ迷いも見せていた。
 そこへ幕府の徴税使として黒沼彦四郎明石出雲介ら が新田庄にやってきた。義貞は病のために千早包囲から離脱したことになっていたので、義助が代わりに応対に出る。徴税使の用件は「5日のうちに銭6万貫を 差し出せ」という過酷なものであった。とても無理だと義助が訴えるが、黒沼らは聞く耳を持たず、自分達が直接領内の民から徴収すると言い出す。そして手始 めに新田館の蔵を検分する、と蔵の方へ向かってしまった。
 黒沼らが新田の蔵を開けさせようとしていると、義貞自らが義助らを引き連れて駆けつけてくる。黒沼は「こはいかに!」とわざと驚いたような声を上げ、「その勇ましきお姿よ…さては仮病であったか!」と義貞をからかい、「新田ごとき…その気になればすぐにも潰して見せようぞ」とあざ笑う。義貞が「新田の蔵を徴税使ふぜいに触れさせぬ!退(す)され、退され!」と 叫ぶと、黒沼は部下達に「構わぬ、蹴破れ!」と命じ、自らも太刀を抜いた。その瞬間、義貞が素早く太刀をきらめかせ、すれ違いざま黒沼を斬った。愕然とす る黒沼にとどめの一刀を浴びせる義貞。それを合図にしたかのように義貞の家臣達が一斉に徴税使一行に襲いかかる。義貞は黒沼の死体を眺め、太刀についた血 をぬぐうと、「義助…もはや我慢がならん…!岩松を呼べ」と義助に命じた。
 5月8日夜。新田館から近い生品(いくしな)明神に新田一門150名が集った。明日にも守護の兵が攻めてくるのを待っていては勝ち目がない、こちらから夜陰に乗じて国府を襲う、と一同に言い渡す。「目指すは鎌倉ぞ!我らに八幡大菩薩のご加護を!」と義貞が叫ぶと、一同がこれに応じて鬨の声を上げる。
 動きだした義貞は素早かった。新田軍はただちに国府を夜襲し、これを守る長崎孫四郎左衛門の兵を一撃で粉砕した。

 新田挙兵の報は、風の吹きすさぶ鎌倉にも届いた。しかし情報は錯綜しており、長崎孫四郎の安否はおろか、「数万」の新田軍が笛吹峠を越えたとの情報もあった。「数万?あの新田が?みな頭がどうかしておるのではないか?」円喜は皆に落ち着くように言い、それよりも「にっくき足利、近江の佐々木、こたびの新田…みな源氏ぞ」と他の源氏の造反を懸念する。金沢貞顕「言わぬ事ではない…それゆえそれがしは足利を外に出すなと申したのじゃ。野に放った虎だわえ!」とわめく。円喜たちが畿内の地図を見ながら、六波羅を救うために千早包囲中の軍を向けさせよう、などと話し合っていると、貞顕が我慢しきれなくなったように声を上げる。「六波羅はどうでもよい!京は遠すぎる!まず鎌倉に向かっている新田を討つべきであろう!足下に火がついておるのじゃ…!」そう叫んで貞顕は「これではない…これも違う…関東の図面はどこじゃ!」と バタバタと紙をめくっていく。パニックに陥っている貞顕を見て唖然とする円喜。そこへ風が吹きつけてきて、地図は宙に舞う。一同が紙の群と揉み合うように していると、京からの急使が飛び込んできた。六波羅は去る9日に陥落し、その軍勢も跡形もなく討ち滅ぼされた、と手負いの武者が身を震わせて伝える報告 に、一同は愕然とする。

 京ではひとまず戦闘が終わり、高氏は戦後の処理と後醍醐帝が戻って来るまでの間の京の治安を守るため、六波羅に足利家独自の奉行所を設置する。
 六波羅陥落の知らせは生死の境を彷徨っていた千早城にも届いた。「京が落ちた」との知らせを聞いた楠木正成は、初めは半信半疑に、そして実感がわいてきて静かに声を上げて笑う。千早城を包囲していた北条軍も六波羅陥落を知って慌てふためいて逃げ出していき、正成は全軍を城から出してこれを追撃する。正季も仲間達とともに城から飛び出し、北条軍の兵士たちを山から追い落とすように追撃していった。
 「いよいよ我らの世の中じゃのう」と喜ぶ石。「いったい誰じゃ、都を落としたという偉いお方は?」と石が仲間に笑いながら聞く。「なんじゃ知らんのか、足利高氏さまよ!」との答えに、石は表情を凍らせ、呆然と立ちつくす。「足利…高氏が…」
 同様の知らせは、船上山の後醍醐天皇のもとにも届いた。報告する名和長年は護良親王、千種忠顕、名和一族の活躍だけを述べるが、後醍醐は「それだけではあるまい。足利が立たねば、こうも早く六波羅は落ちまい」と言い、「朕は都へ帰るぞ!」と立ち上がった。

 上野を出発した新田軍には次々と味方が合流してきて、150騎の手勢はいつの間にか4000の軍に膨れ上がっていた。そして5月11日の昼過ぎ、一色右馬介に連れられて高氏の子・千寿王が新田軍に合流した。義貞は幼い千寿王に「この新田は父上の足利殿とは仲の良い友じゃ」と 語りかけ、千寿王に足利の大将としての心構えを諭す。「はい」と答える千寿王を、義貞は「よいお子じゃのう」と誉め、菓子を用意させて自ら千寿王に食べさ せてやるのだった。そんな光景を弟の義助は複雑な思いで見て、席を立っていく。この千寿王が合流した途端に、関東の各地から多くの味方が馳せ参じてきた が、それらは義貞に呼応したのではなく、千寿王をいただく「足利家」の旗のもとに集まってきたのである。
 南下する新田軍と北上する幕府軍の最初の戦闘は川越の西、小手指ヶ原で行われた。
 
 北条の赤い旗が次々と倒れ込んでくる。それに巻き込まれてもがく高時。高時はそこで悪夢から覚めた。自らの手を見つめて「まだ生きておる…」とつぶやき、ククッと笑う。そこへ女達の泣き声が聞こえてくる。六波羅陥落の知らせが届き、家族の者がみな討ち死にしたことを嘆き悲しんでいたのだ。「顕子の父も」と顕子「死んだのか…仕方あるまい…人間がみなどうかしてしまったのだ…」と高時はつぶやき、「苦い…口が苦い…」と酒瓶に手を出す。
 そこへ貞顕が入ってきて、小手指ヶ原の敗戦と新田軍の急増を告げる。覚海尼がその 理由を問うと、貞顕は裏切り者の続出と六波羅陥落の知らせで士気が落ちていることの二つを挙げた。「同じことだわ…」と高時は言い、「この高時は大の戦嫌 い。戦嫌いが戦好きに勝てるわけがない」と笑う。覚海尼が「戦は政のうち」と励ますが、高時は「もはや政にも疲れたのじゃ…何の患いものう、ゆっくりした いのじゃ」と鼓をいじり出す。そして鼓を叩きながら、父・貞時が公平を重んじたこと、その父に母の覚海尼が「公平」を重んじて不肖の子の高時を執権の座に つかせたことを、愚痴るように語った。「それでこの高時は執権となり、くたくたになり、生涯名執権とうたわれた父上に頭が上がらず、母上に頭が上がらず…はてさて、公平とは疲れるものよのう…!」そう言って高時は顔を歪めて泣き笑いし、手にした鼓を力を込めてねじりあげる。そんな高時を見て覚海尼と貞顕は黙りこむ。

 その時「太守!」と叫ぶ赤橋守時の声が聞こえてきた。千寿王を逃がしたことで謹慎の身となっているはずの守時に、覚海尼は「ようもおめおめと…はよう追い払え!」と声を上げる。しかしなおも「太守!」と呼ぶ守時の声に、高時は「うん」と答えて立ち上がった。
 庭先に来た守時は鎧姿で「こたびのこと、面目ございませぬ」と平伏する。「面目ないならなぜ参った」と高時が問うと、守時は新田軍から鎌倉を守るため出陣したいと申し出る。「なりませぬ!赤橋は寝返り者ぞ!」と円喜が駆けつけてくるが、高時は「わしはそうは思わん。寝返り者ならわざわざこのわしに会いには来ぬ」とハッキリと言い返す。高時は平伏する守時に近づき、「赤橋…よくたずねて来た。互いに信じられぬままではなんとも浅ましい。わけてこの高時は人一倍の寂しがり。赤橋のようなつわものが我が陣に一人増えたと思えば、心が少しは賑やかになる」と声をかける。「この鎌倉は父祖伝来の地。この鎌倉を兵馬で踏みにじる者あらば、戦うしかあるまい。行くがよい…」との高時の言葉に、守時は感謝して立ち去っていく。「太守!」と責めるように言う円喜らに高時はつぶやくように言う。「赤橋め…永の別れに参ったのじゃ…生きて帰らぬつもりぞ…」
 守時は馬に跨り、「赤橋守時、鎌倉を死守つかまつり、北条どの積年のご恩に報いる!」と配下の武士達に告げると、鎌倉をの町を出撃していった。

 新田義貞の軍は分倍河原、関戸で次々と北条軍を撃破し、破竹の勢いで鎌倉に迫る。鎌倉の手前で新田軍は三手に分かれ、鎌倉の町へと攻めかかった。
 5月18日、洲崎で赤橋守時率いる北条軍が新田軍を迎え撃った。守時は矢を撃たず突進する捨て身の戦法をとる。
 鎌倉郊外の寺に潜んでいた登子のもとへ、侍女が千寿王の無事と、守時の洲崎での苦戦とを伝えた。「兄上…」と登子は仏に祈る。



◇太平記のふるさと◇
 
 武蔵野・鎌倉街道。新田義貞が進軍したコースが現在の関越自動車道にほぼ沿うものであることを紹介し、航空撮影で小手指ヶ原、分倍河原、鎌倉と進軍コースを映していく。


☆解 説☆
 
 「京都攻略」ってタイトルなんだけど、それを描くのは10分程度。実質的には前回の足利決起に続く「新田決起」とでも題すべき内容だ。一応高氏が主役だから…って配慮なのかな。気の毒な義貞(泣)。

 冒頭は真田高氏、高嶋直義、柄本師直らの初の合戦シーン。自ら馬を駆り、刀を振るって突進し敵をなぎ倒していく。実のところ彼らのような総大将ク ラスが自ら雑兵どもを斬らなきゃいけないような場面が実際にあったのかどうか疑問もあるのだが、まぁその方が分かりやすいからなぁ。古典「太平記」では足 利軍の京都攻略戦で、このドラマでも顔だけは良く出ている大高重成が勇猛ぶりを示したことが記されている。
 この回で出てくる北条仲時はなぜか俳優サンが変わってしまった。理由は不明。ここでは西園寺公宗らに逃亡を勧めているところまでしか描かれな かったが、このあと六波羅勢は光厳天皇を初めとする持明院派の皇室・公家などを擁して関東への逃亡を図る。これが実現した場合、「南北朝」ならぬ「東西 朝」の分裂状態が一足早く現出する可能性もあったのだが、一行は近江の番場山中で落ち武者狩りにあい(日本の戦争では定番だな、これ)、 結局力尽きて皇族や公家を除く全員が自害して果ててしまった。「私本太平記」ではこの落ち武者狩りに佐々木道誉が裏で関与していたように描いている。確か にこの時六波羅勢の中にいた同族の佐々木時信が不自然な脱落をして結局命を拾っていることが「太平記」にも書かれており、「疑惑」が浮かぶところではある のだ。
 高氏が安藤三郎なる武士にいきなり襲撃されるシーンがある。総大将を戦場に一人ぼっちにするという足利家臣団のとんでもない失態である(笑)。「裏切り者…!」というセリフを高氏に聞かせるための創作なんだろうけど、かなり不自然。

 太田市に建設された新田館セットはこの回だけチラッと映る。前にも書いたが第1回で出てきた足利館、第6回で出てきた楠木館と同じものである。
 義貞が挙兵しようにも兵が集まらないと嘆く辺りは、これまで何度も繰り返された「貧乏御家人」新田氏の哀しさ。よく言われていることではあるの だが、同じ清和源氏の名門であり、「宿命のライバル」ともされる足利高氏と新田義貞の両雄は、そのスタートラインにおいて大きな差が存在した。北条氏も一 目置く名門であり全国に所領を持つ大大名の足利家に対し、新田氏は発祥こそ足利の兄貴分であるものの、源頼朝挙兵時に馳せ参じなかったために冷遇され、鎌 倉時代を通して上野・新田庄一つを経営する一御家人に過ぎなかった。官位だけをとっても従五位・治部大輔の高氏に対し義貞は無位無官。吉川英治は「私本」 においてこの両家を割と同等に扱っている印象を受けるが、ドラマではむしろ両家の格差をことさらに強調して描いていた。そのことによって直接対決ではジリ 貧になってしまいがちな新田義貞を「こんなに差があったのに、ここまで頑張ったんだよ」と「弁護」するという効果もある。
 この新田館のシーンから石原良純演じる義貞の弟・脇屋義助が登場。これから長いこと義貞の側に必ずと言って良いほど彼の姿を見ることが出来る。 高氏にとっての直義のような存在だ。古典「太平記」ではこの弟が兄に挙兵をけしかけるように書かれており、どうもどこの兄弟でも同じ様なパターンであった ようだ。やはりお兄さんは一族の長として軽々しく動けない責任というものがあるんですな。
 「隠岐配流」の回から登場している岩松経家についても一言。この人、古典「太平記」にも名前だけは出てくる出てくる新田一族なんだけど、このドラマでは 高氏と義貞を結んでたきつける半ば独立した人物として扱われている。しかも弟が阿波で海賊をしていて後醍醐救出に一役買ったようにも描かれている。こうし た設定は「私本太平記」に見られるものだが、どうも吉川英治の創作の可能性が高い。岩松経家は建武政権の論功行賞で新田一族の中で飛び抜けた恩賞を受けて おり、吉川英治はそこから彼に目に見えない功績があったと考えたのではなかろうか(まだ確認できてないんだけど、そういう推理をした研究が以前にあったのかもしれない)。ただもう少し事情は単純らしく、経家の先祖が実は足利家の出身で新田系の岩松氏に養子に入ったことにあるようだ。恩賞が特に厚かったのは経家が義貞ではなく高氏を通して建武政権に取り入ったためだと言われている。

 「越後の新田一族が応じてこない」と義貞たちが嘆いているが、これも恐らく実際に彼らも迷っていたのではないだろうか。古典「太平記」に よれば義貞が挙兵した直後に、突然越後から一族の者達が馳せ参じてくる。それも不思議なことに天狗が義貞の挙兵を触れ回ったためだと言うのだ。
 幕府から徴税使が来て「五日のうちに六万貫」と要求し、館の蔵を調べようとしたので義貞が怒って斬り捨ててしまうのは古典「太平記」にもある展開(ただし義貞自ら手にかけたかどうかは怪しい)。 やぶれかぶれだったのかそれなりに計算があったのか確定できない義貞の挙兵だが、いざ挙兵してみたら瞬く間に大軍に膨れ上がり、アッという間に鎌倉を陥落 させてしまう。挙兵からわずか二週間。まさに当時の人々にとってもあれよあれよいう展開だっただろう。変な話だが、この展開を二週かけて描いたドラマはほ ぼリアルタイムになってしまったような(笑)。季節的にもそう外れていないし。

 このあれよあれよという事態に慌てふためく幕府の様子はなかなかうまい演出。「妙に風が強いなぁ」と会議の場面を見ていたら、金沢貞顕 が「関東の図面はどこじゃ!」とバタバタと地図をめくり、風で地図が舞い上がって一同もみくちゃ。急転する事態に為すすべもない幕府の人々を象徴する見事 な場面だ。特に児玉清さんの貞顕がパニックになる演技は絶品。ほとんど渋く落ち着いた演技が多い役だっただけに、このシーンは一際印象に残る。

 進撃する新田軍に千寿王が合流。菓子など与えて喜んでいる義貞だが、弟の義助は早くもこの合流の裏の意味を読みとってイライラしてい る。千寿王自身は幼い子供に過ぎないが、のちの戦国時代などに比べるとこの時代の「家柄」とか「身分」の重みは相当なものがあり、 「足利の御曹司」という肩書きは今日の我々の想像以上に重かった。この千寿王が新田軍に合流した途端に関東各地から20万の軍勢が合流してきたと古典「太 平記」は記している。もちろんこの本定番の誇大数字だが、世間がこの鎌倉攻撃軍を「新田軍」というよりも「足利の分隊」と見なしていたことをうかがわせ る。京の公家が書いた史書「増鏡」や北畠親房の「神皇正統記」も挙兵した義貞について「尊氏の一族の末」な どと記しており、「新田」という家がそんな程度の認識しかされていなかったことが分かる。高氏と義貞の挙兵のタイミングがバッチリあっているあたりにも両 者の間に何らかの連絡があったことを予想はさせるし、また鎌倉攻めへの参加を呼びかける手紙が高氏から全国の武士に送られているのも事実だ。もっとも護良 親王も同様の令旨を各地に送っており、高氏と早くも競う合う関係にあったことが分かる。ま、どっちにしても義貞には気の毒ながら鎌倉攻めの主体を新田氏と 見なしている人はあまりいなかったことは確かなようだ。
 小手指ヶ原の合戦については映像が出てくるが、分倍河原、関戸の合戦はナレーションで済まされた。小手指ヶ原では新田軍が勝利したが、分倍河 原では新田軍は初めて幕府軍に一敗を喫する。しかし三浦大多和左衛門が軍勢を率いて新田軍に鞍替えしたため逆転勝利となり、以後、破竹の勢いが止まらなく なってしまった。

 小手指ヶ原の合戦で北条の三つ鱗の赤い旗がバタバタと倒れていくカットの次に、衣装の中でもがきながら悪夢から覚める高時のカットに飛 ぶ。この回と次回はこうした実に映像的に粋な処理が目に付く。この場面で小田茜が「顕子の父も」と一言言うが、このセリフ、顕子のたった二つしかないセリ フのうちの一つである(笑)。「人間がみなどうかしてしまったのだ…口が苦い…」は「私本太平記」からそのまま持ってきたもの。片岡鶴太郎の諦めたような 哀しげな演技でこのセリフがいっそう映えた。その後に来る「くたくたになり、父上に頭が上がらず、母上に頭が上がらず…」と鼓を打ちながら哀しげに言う シーンは、僕も自分で書いていて、とても文章では伝えられないと思った名演。この場面に、高時という人物の負った悲劇が凝縮されている。
 続く守時が出陣を請いに来るところも、鶴太郎高時の独壇場と言ってもいいぐらい見応えのあるシーンだ。ところで守時が謹慎を破ってこんな風に 出陣を請いに来ることなど実際にあったのだろうか?実のところ守時が謹慎させられていたという記録はないし、出陣にあたってこんなひと騒動があったという 話もない。ただ守時が北条一族に対しうしろめたさを持っていたのは事実のようで…それについては次回の解説で。
 ところで出陣する守時の「北条どの積年のご恩に報いる」ってセリフ、執権が言っているセリフとするとなんか妙な気もするんですけどね。

 5月18日、ついに鎌倉攻防戦が開始される。生品明神での挙兵からたったの十日。攻める方も守る方も嘘みたいな急激な展開に思えたことだ ろう。新田軍は三手に分かれて鎌倉へ攻め込み、この回では洲崎での守時の決死の戦いだけが描かれた。守時のテーマ曲「孤独な戦士たち」が流れるなか、夕陽 の中で守時が奮戦する映像はとても美しい。
 余計な付け足しかも知れないが、この洲崎の合戦シーンは、ドラマ後半のさまざまな合戦シーンに流用されている。平原での騎馬戦ということで使い回しがしやすかったんだろうな。