第二十三回「凱旋」(6月9日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:峰島総生

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

陣内孝則(佐々木道誉)

柳葉敏郎(ましらの石)

堤大二郎(護良親王)

高嶋政伸(足利直義)

本木雅弘(千種忠顕)

宮沢りえ(藤夜叉)

藤木孝(坊門清忠) 赤井英和(楠木正季)
瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎)
でんでん(神宮寺正房) 大林丈史(殿の法印)
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継) 中島定則(三戸七郎) 
齋藤志郎(赤松則祐) 森松條次(桐院実世) 相原一夫(一条行房)

近藤正臣(北畠親房)

後藤久美子(北畠顕家)

柄本明(高師直)

片岡鶴太郎(北条高時)

小松方正(名和長年)

宮崎萬純(勾当内侍)

渡辺哲(赤松則村) 井上倫宏(四条隆資)
笠原志ずか(妙) 土屋久美子(棗) 青木雪絵(房)
大塩武(長井六郎) 峰三太(塩谷高貞) 竹田真(寛次)
伊達大輔・渡辺高志(近習) 山崎雄一郎(不知哉丸) 森田祐介(千寿王)

朝永桐世(京言葉指導)
若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ わざおぎ塾
国際プロ 丹波道場 劇団ひまわり 劇団いろは 足利市のみなさん 太田市のみなさん

武田鉄矢(楠木正成)

原田美枝子(阿野廉子)

フランキー堺(長崎円喜)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:藤野登○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:松本恒雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

 元弘3年(1333)5月22日、鎌倉は陥落し、鎌倉幕府はその140年に及ぶ歴史の幕を閉じた。そのころ六波羅を攻め落とした足利高氏は都の再建作業に着手しつつあった。
 六波羅陥落を受けた後醍醐天皇は都へ帰還するべく船上山を発ち、山陰から山陽へ抜け、各地の武士を従えながら輿を進めていった。一行が摂津・福原の福巌寺に到着したとき、「鎌倉陥落・北条滅亡」の知らせが入った。一読して後醍醐帝は呵々大笑し、喜びを爆発させる。同行している名和長年塩谷高貞も「北条は滅んだ!鎌倉は焼け野原じゃ!」「新しき天下じゃ、公家一統の世ぞ!」と同行の武士達に呼びかける。「還幸の御途上、何という吉報でしょう」と言う阿野廉子に、「隠岐の一年、無駄ではなかった」と後醍醐は微笑んだ。

 都へ近づくにつれ、赤松則村(円心)が一行に合流。西宮では千早城から出てきたばかりの楠木正成一党が出迎えに来た。長い籠城戦を耐え抜いた正成は刀を杖にしながら後醍醐帝の輿に近づく。「正成か…笠置以来じゃのう」と感慨深げに後醍醐が正成を見て、「負けぬ戦が実ったのう」と声をかける。正成が笠置山で述べた言葉を忘れたことは一度もなかったと後醍醐は言って「そちなくば今日の朕はあるまい」とその労をねぎらい、都入りの先陣の栄誉を正成に与える。
 一方、京の東寺では高氏と佐々木道誉が帝の一行を迎える準備を整えて、その到着を待ち受けていた。道誉はなぜかそわそわと落ち着かず、「いったいどのような顔でお迎えすれば良かろう」と高氏に尋ねる。高氏は自分と一緒に六波羅攻めに加わったと胸を張ればいいと言い、また以前隠岐への道中で帝の世話をしたこともあるのだから心配するなと付け加える。「それが一番辛い。あれからいろいろ迷うたからのう…」と言う道誉に、高氏は「みな迷うた。迷うた結果がこれじゃ」と帝のために用意された座を眺めながら言うのだった。

 6月4日、後醍醐一行は東寺に到着した。ここで高氏は初めて正式に後醍醐帝に拝謁する。後醍醐帝は高氏の功績をたたえ「こののちも頼りに思うぞ」と言いつつ、「そちが動けば国中の武士が動くそうじゃのう」とも口にする。その言葉に一瞬ハッとする高氏だったがあくまで武士達は北条に代わる新しき世のために立ち上がったのだと説明する。「新しい世とな?」と後醍醐が尋ねると高氏は「帝のまつりごとをお助けし、帝のもとで作る世にござりまする」と答えた。その言葉に後醍醐帝は満足そうにうなずき、高氏の後ろに道誉を見つけ喜んで「まだ公家には生まれ直しておらぬようじゃのう」と声をかける。道誉が自分が高氏と共に六波羅攻めに駆け回っていたことを述べると、後醍醐は「似合わぬことよのう」と笑う。そして高氏に「足利治部大輔、武士の束ねはその方に任せる」と言い渡した。

 京の二条河原の市。ここで藤夜叉不知哉丸とともにウナギ売りとして新しい生活を始めていた。そこへ武士の姿になったましらの石が現れる。正季の家人となった石は、日野俊基にもらった書き付けを藤夜叉に見せ、この和泉の土地へ行って一緒に暮らそうともちかける。しかし藤夜叉は「商いってね、面白いのよ。いろんな人が来てね、いろんな話ができるの」と言って話をはぐらかすだけだった。

 宮中では凱旋の宴が開かれ、倒幕に功のあった武士や公家たちが一堂に会して勝利の美酒に酔いしれていた。千種忠顕が高氏に近づき、「まこと足利どのは強い。西国の武士とは違う」などと言いながら酒を注いでいる。一方で赤松則村や名和長年、楠木正成や佐々木道誉といった面々も阿野廉子らと酒を酌み交わし談笑し合う。そこへ廉子に仕える官女・勾当内侍が姿を現した。「さても美しきお方よのう」と感嘆する道誉を、廉子が「あれは思いを寄せてもせんなき女子じゃ」とたしなめる。勾当内侍の美しさは有名で、これまで多くの公達が言い寄ってきたが、なぜか内侍はその全てを拒んで寄せ付けないのだと廉子は語る。
 正成が高氏のところへやって来て「お近づきのしるしに…」と酒を注いできた。高氏は正成に「二年前、伊賀で白拍子の一座に会って覚えた」と言って、舞を披露し始める。それは以前正成が高氏の前で舞った「冠者は女もうけに来んけるや」で始まる夜這いの舞であった。高氏の舞いに正成が「足利殿、そこは手が違う」などと言って一緒に踊りだし、周囲の人々もやんやの喝采を送る。そんな賑わいの中、出席していた北畠親房はつまらなそうに席を立っていく。

 宴の場を離れて、高氏と正成は庭で一緒に月を仰ぐ。「楠木殿には礼を申し上げねばならぬ」と高氏は言い、正成の文にあった「大事なものの為に死するは負けとは申さぬ」という言葉が自分の迷いを断ち切ってくれたのだと正成への感謝の気持ちを口にする。これに正成は照れたように頭をかいて「それがしはそのような文は書きませんぞ、それは車引きでござろう」と笑う。そして、自分のような田舎武士とは違って大大名の高氏では背負っているものが違う、迷いもしよう、と正成は高氏を弁護するように言う。「都の月がいつまでも陰らぬように祈りましょうぞ」と月を仰ぎながら正成は語るのだった。

 親房が宴から帰ってくると、顕家が出迎えて護良親王が密かに訪ねてきていることを告げた。護良親王は後醍醐帝が都に戻った後も信貴山にこもって都に入ろうとしていなかったのだ。護良は親房に「なぜ六波羅に高氏がいる…?なぜ御教書など出すことが出来る?」と高氏への不信と敵意を剥き出しにする。親房は都で高氏の声望が高まりつつあることを護良に言い、顕家は高氏について「道理をわきまえた者のように思われまする」と述べた。高氏への激しい憎悪を見せる護良に、親房は「東夷(あずまえびす)には頭(かしら)が二つある」と言い、新田義貞を立てて高氏と競わせよと献策する。護良は高氏だけでなく、継母の阿野廉子についても敵意を見せ、「しばしねばってみよう。それもまた一計」と都へ戻るのを見合わせるのだった。

 鎮守府将軍に任じられた高氏の六波羅奉行所には、土地の保証や恩賞を求める諸国の武士が自然と集まってくるようになっていた。師直直義たちはそれら武士の宿泊所など配置にあれこれと苦労する。にわかに人の多くなった都の治安の維持をいっそう強化するため、高氏は直義に京の警備を一任することにする。
 
 護良親王のこもる信貴山に、後醍醐帝から公家の坊門清忠が使者として遣わされる。乱が終わったからにはまた出家して比叡山に戻れとの帝の言葉を伝えると、護良は「そしてまた乱となれば髪を伸ばせと?」とあざ笑う。「北条は確かに滅んだ。しかし次なる北条が洛中におごっておるではないか」と言う護良に、清忠が「次なる北条とはたれを?」と聞き返すと、「高氏よ!」と護良は怒りも露わに即答した。「高氏の誅罰さえ果たされるならば、この護良、山も降りよう、髪も剃ろう!」護良はこの言葉を父の帝に伝えるよう清忠に言いつける。
 清忠の報告を受けて、後醍醐帝は廉子、忠顕、長年、円心らに意見を求める。忠顕は護良の言動を批判し、円心は護良の功績をたたえる一方で高氏を「最後の裏切り者」とこきおろし、長年は人々が平穏を求めていると意見する。後醍醐は考えた末、護良親王を征夷大将軍に任じて機嫌をとる一方で、高氏を京の警備を行う左兵衛督に任じるという両方の顔を立てる人事を決める。

 護良親王が征夷大将軍になったと聞いて、直義は武士を束ねる征夷大将軍は源氏の棟梁がなるべき職、と憤る。それをなだめる高氏に、師直も言う。「そもそも我らは帝のために戦ったのでございましょうか…?我々が北条を倒したのは足利と、武士の行く末を思ってのこと。かつげる帝であればどんな帝でもよろしかったのではありますまいか。例えば木の帝であれ、金の帝であれ…」これには高氏も直義も不遜な発言と師直を叱るが、師直は「これは師直一人の考え」と悪びれる風もない。高氏は「なによりも帝の御親政を見てみたいのじゃ」と言ってこの話をそれ以上つきつめようとはしなかった。
 そこへ鎌倉の登子からの手紙が届く。登子も千寿王もつつがなくしているとの文に、高氏は目を細めるのだった。
 



◇太平記のふるさと◇
 
  熊本県菊池市。一貫して南朝に仕えた九州の菊池一族のゆかりの地として菊池神社、菊池武時像、菊池渓谷などを紹介。


☆解 説☆
 
 前回で鎌倉幕府が滅亡し、この回からドラマ「太平記」も第二部へ突入。脚本が仲倉重郎氏に、プロデューサーも一柳邦久氏に交代して、雰囲気もやや変化していく。このシナリオライター交代は当初から発表されていたことで、建武新政部分はほとんどこの仲倉氏が執筆している。もちろん池端氏などがまとめた展開構想に忠実に従っているものと思われるが、傾向として見るとやたらドンパチの見せ場が多い第一部に対して人間間の心理描写に多くの筆が割かれているような印象がある。裏を読むと派手な場面を展開できるだけの予算的な余裕が無くなってしまい(第一部で使い果たした?)、やむを得ずこうなったという見方もできる。

 この回は「凱旋」というタイトルそのままで、後醍醐天皇の凱旋で勝利に酔う群像を描きつつ、護良親王など新たな火種が早くもくすぶり始めている様子を描く。
 後醍醐天皇が幕府滅亡の知らせを聞くシーン(それにしてもこの場面の後醍醐の笑いは下品なほどに喜びを爆発させてますな)で、「塩谷高貞」の姿が見える。出雲の守護であり、佐々木一族に連なっていて、後醍醐の隠岐脱出に際してはむしろ邪魔する側だったはずなのだが、情勢が変わるとあっさり後醍醐のもとに馳せ参じ、都への帰還に同行することになってしまった。この人の変わり身の早さは、のちに尊氏が建武新政に反旗を翻したときにも発揮される。なお、前にも触れたが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で浅野内匠頭の役どころにされているのがこの人。吉良上野介は高師直になっている。ま、この辺についてはドラマ後半に出てくるので詳しくはその時に。
 途中で正成が後醍醐を出迎えに来る場面は古典「太平記」でも印象的に描かれた場面。思えば正成が最高に幸福だった時かも知れない。
 東寺で高氏と道誉が後醍醐一行の到着をワクワクしながら待っているシーンは実は重要な伏線である。のちにこのシーンがまた思い出されることになるのだ。

 宮中での勝利の宴のシーンは、足利高氏、佐々木道誉、楠木正成、名和長年、赤松円心、千種忠顕、北畠親房、阿野廉子、とまぁ「太平記」マニアにはヨダレが出そうなほど賑やかな面々が一同に会する場面。そこにおまけのように「勾当内侍」までが登場。完全にファンサービスのような(笑)。勾当内侍はやはり「太平記」中の貴重な美女キャラクターということで、かなり早めの登場となった。後に新田義貞とのロマンスが描かれるこの女性、この「太平記・第二部」ではそこかしこに登場場面が用意されることになる。
 
 これまでにすでに登場していたキャラクターなんだけど、この「第二部」からむしろ強烈な印象になったのが堤大二郎演じる護良親王。この回からその熱演は炸裂しまくっており、目をまん丸に見開いてハイテンションに激怒しまくる皇子さまのイメージは、まさに護良にピッタリだった。この護良で前半戦の山伏潜行とか吉野山の攻防戦とか見たかったですね。
 この護良を説得する使者として藤木孝演じる坊門清忠も初登場。あの水戸黄門が正成を死に追いやった大奸物として憎んで以来悪役まわりのこの公家さん、初登場時からなかなか印象的。藤木孝さんという俳優さんが醸し出す独特の雰囲気で、まだ見ぬうちから湊川に正成を追いやる場面が目に見えるようだった。実際このドラマの清忠ってその場面のために登場させられたようなキャラクターで、そこまでの助走(笑)をここから開始しているというわけだ。

 護良親王が征夷大将軍に任じられたことに直義が憤っているが、実際高氏も新政府では当然自分が征夷大将軍に任じられるものと思っていた節がある。そんな勝手な、と思わないでもないが、当時の空気としては足利氏は源氏ひいては武士の棟梁であり、しかも鎌倉幕府を倒した最大の功労者だとみなされていて、高氏が征夷大将軍となるのはいたって自然なことと思われていたのだ。高氏が平家、鎌倉幕府と続いた京における武士権力の拠点・六波羅にとっとと奉行所を作って独自に治安維持や諸国の武士への対応に当たっていたのも、それが当然と考えていたからで、そのまま事実上の「足利幕府」に持っていけると思っていたことをうかがわせる。しかし「天皇親政」が行われた醍醐天皇の時代(実際どうだかという話もあるが)を理想とし、摂政・関白・院政すらも認めず「天皇独裁」を目指した後醍醐がそんなことを認めるはずがなかった。護良親王が戦後ただちに高氏を「第二の北条」として敵視したのも政治思想の上から言えば無理のないことだった。

 ラストの会話で師直が「かつげる帝であれば、木の帝であれ金の帝であれ…」と言っているが、これはこの時期に発したものではなかったようだが、師直が実際に言った有名な言葉をアレンジして使ったもの。師直は「帝や院などどこぞへ流して、木か金で代わりに作っておけばよい」という発言を残している。まさに古い権威が崩壊しつつあった南北朝時代の空気を象徴する言葉で、彼の「バサラ」ぶりを示す発言として良く知られている。天皇という存在そのものに疑問符を示した、今でも公の場で言ったらかなり過激と思われる発言だが、南北朝時代というのがまさに「天皇制」そのものが存在意義を問われかねない大きな危機に瀕した時代だったということは多くの学者が指摘しているところである。そうした危機を感じ取ったからこそ後醍醐は朱子学的な発想をよりどころにして「革命」を起こしたわけだが、彼の思惑とは別のところで時代変革の気運が盛り上がっており、古代以来の権威・権力がこの動乱を通して完全に崩壊していくことになる。建武新政がアッという間に崩壊したのもそうした社会情勢が背景にあったことを考えなければなるまい。
 …なんだか論文調になっちゃいましたね(汗)。

 「ふるさと」コーナーではドラマ本編では確実にカットされてしまう運命だった九州・菊池一族を特集。この菊池一族は一貫して南朝に忠誠を尽くしたため、明治以後大いに讃えられてゆかりの神社・像なども多い。高氏の九州平定戦がちゃんと描かれていれば、ドラマ中にも出番があったのになぁ…。