第二十五回「足利尊氏」(6月23日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:竹林淳

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

堤大二郎(護良親王)

高嶋政伸(足利直義)

後藤久美子(北畠顕家)

渡辺哲(赤松則村・円心) 井上倫宏(四条隆資)
垂水悟郎(吉田定房) 大林丈史(殿の法印)
森山潤久(細川和氏) 芹沢名人(細川頼春) 
齋藤志郎(赤松則祐) 田嶋基吉(大法師) 松本公成(細川師氏) 
伊達大輔・渡辺高志(近習) 石川佳代(侍女) 森田祐介(千寿王)

近藤正臣(北畠親房)

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

石原良純(脇屋義助)

赤井英和(楠木正季)

宮崎萬純(勾当内侍)

山崎満(洞院公賢) 森松條次(洞院実世) 和泉昌司(石堂十馬)
本田清澄・高橋豊・大森一(公家) 宮元慎司・央城龍(法印の部下)

伶楽舎(雅楽)
若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ  早川プロ
丹波道場 サン・レモ・プロダクション 劇団東俳 足利市のみなさん 太田市のみなさん

武田鉄矢(楠木正成)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:鍛冶保○音響効果:加藤宏○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:岩崎延雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇
 
 押し込み強盗を働いた殿の法印の部下達の処刑が六条河原でとり行われた。法印側からの身柄引き渡し要求もあったが、京の警備を担当していた足利直義が独断で処刑を実行したのだった。しかも直義は彼らの首をさらし、立て札に「大塔宮候人・殿の法印の手の者」と明記していた。
 「ああまでするとは思わなんだ、いかにも奴の潔癖さよ」高氏は呆れつつ言う。師直も今度の処置は民衆にはかなりの好評と言いつつ、護良親王派の逆恨みを警戒する。
 処刑執行を聞いた殿の法印は激怒し、「だまって見ておったのか!」と部下達を杖で殴りつける。護良親王も目を怒らせ「高氏をいささか甘く見ておった。こは我らへの宣戦布告じゃ!もはや躊躇は無用じゃ!」と法印に叫ぶ。 法印は高氏暗殺の計画を早速実行に移すと答えた。

 ある夜、佐々木道誉が高氏の屋敷を訪ねてきた。二人は酒を酌み交わして語り合うが、道誉は自分が北畠親房の使いとして来たことを打ち明ける。近々後醍醐帝が親房邸へ行幸することになっており、その際に護良親王と顔を合わせ、またその顔を立ててやって和解して欲しいとの親房の提案であった。これには帝の意向もある、と道誉は言い、いずれも高氏を武士の棟梁として恐れているのだと付け加えた。

 一方、鎌倉では上洛に旅立つ新田義貞が弟の脇屋義助とともに、登子千寿王のもとへ挨拶に訪れていた。型どおりの挨拶の中で、義助が「大塔宮直々のお呼びでしてな」と口にする。義貞が立ち去った後で、細川和氏らは「願うてもない結果」「さても先の見えぬお方よ」と、義貞らが鎌倉を放棄して去ってしまったことを喜ぶ。しかし義助が言った「大塔宮に呼ばれた」というのが一同の気にかかるところではあった。

 都では後醍醐天皇が親房邸を訪れていた。高氏も道誉も護良親王も同行する。雅楽の調べの中、帝が自ら笛を吹き、顕家が「陵王」の舞を舞った。舞が終わると後醍醐は顕家に声をかけ、元弘元年の笠置挙兵の前に顕家の「陵王」を見た思い出話をし、「あの年の春にはまだ花の宴を楽しむゆとりがあったのだのう」と感慨深げにつぶやく。そして肩に掛けていた薄衣を顕家に投げかけ、「かづけとらす」と言ってそれを与えた。
 その後宴は無礼講となった。 後醍醐は高氏を側へ呼びつけ、護良の近くに座らせる。「何ぞ申すことがあろう、思いのたけを述べよ」と言われ高氏は戸惑う。それを見て後醍醐の方から「諸 国の武士を集めてなんとする」「北条の残党の帰参を許しておるそうだが」と言った質問が発せられる。高氏は諸国の武士が集まってくるのは恩賞を求めてのこ とであり、北条の残党を許しているのもあくまで平和を思ってのことで、万事ご新政のため、と答えた。この答えに後醍醐は満足し「直々会うてみれば憎みあう ほどのことはあるまい」と護良親王に声をかける。しかし護良は「はて、まろには東夷の腹の内は読めませぬ。お上は御心が広すぎるようにござりまする」と嘲るように言う。これには「護良!」と後醍醐が声を荒らげ、宴の場はしんと静まり返る。
 後醍醐は「朕はそなたの父ぞ、父の気持ちがわからぬか」と護良に言い、高氏と護良が力を合わさねば延喜・天暦の治の再現は出来ぬと諭す。そして二人に酒を用意させ、「朕の新しき政をことほぐのじゃ」と盃を干させるのだった。

 宴が終わり、高氏は屋敷の門前でほろ酔い加減で松明を回しながら踊る。するとそこへ矢が飛んできて松明に命中。驚く高氏の前に黒装束の武 者の集団が刀を抜いて迫ってきた。「足利高氏と知ってのことか!」と声を上げると、黒覆面の一人が「全ては帝の御新政のため!」と叫んで斬りかかってき た。高氏がこの男と必死に戦っていると、馬に乗った武士が駆けつけてきて二人を引き離した。見れば楠木正成である。覆面をしていた男はその弟の正季だった。正成は「馬鹿ッ」と正季を殴りつけ、正季もやむなく部下を率いて逃げ出していった。いつの間にか足利家の武士たちも集まってきていて、正季らを追いかけていく。
 正成は高氏の前に膝を付き、今の刺客が弟であることを打ち明けて「お許し下され」と謝った。高氏も「今夜のことはお忘れくだされ」と言う。そこ へ正季らを取り逃がした家臣たちが帰ってきた。彼らは師直の命でひそかに高氏を守っていたのである。高氏は彼らに今夜のことは他言無用と言いつける。
 「武士とはやっかいなものにござりますな…思わぬ事で都に出て参ったが、どうもなじめん。河内に帰りたい」と、 高氏と共に歩きながら正成がぼやくように言う。都の権力闘争の有様に憤りを漏らす様子に「武士がお嫌いか」と高氏が問うと「はい。好きになれません」と正 成。田楽一座に身をやつしていたときが一番楽しかった、いっそこのまま、と思ったものだと正成はしみじみと言いながら、「お聞き捨てくだされ」と笑って立 ち去っていった。

 ついに義貞が上洛してきた。義貞は護良親王に面会し、かねて待ちこがれていた護良から手厚い歓迎を受ける。ここで殿の法印、四条隆資らから、高氏が六波羅攻めだけでなく鎌倉攻めの功も独り占めしようとしていると聞かされ、さらに護良が「高氏の名など、耳にするだにおぞましいわ」と高氏への露骨な憎しみを見せるのを見て、義貞は戸惑う。
 義貞は護良に連れられて参内し、従四位下に叙せられた。それを物陰からうかがう阿野廉子「あれが義貞か…使えようか」と品定めをしている。その横で「鎌倉を攻め落としたという恐ろしげなお方には見えませぬが…」勾当内侍が義貞をじっと見つめていた。

 その足で義貞は高氏の屋敷を訪ねたが、高氏が用件で帰宅しておらず、長い時間待ちぼうけを食うことになってしまった。イライラと待つうちに、ようやく高氏がやってきた。高氏は挨拶を済ませると、義貞に頭を下げ「十五年の思いがようやくかない申した…ひとえに新田殿のおかげじゃ!」と 礼を述べた。意表を突かれて義貞がうろたえてしまううちに、高氏は思いのたけを打ち明けていく。みな新政に浮かれている、我らの戦いは恩賞のためであった のか?そうではない、新しい良い世を作るために勝ち目のない戦を始めたのではなかったか…と高氏は最近たまっていた鬱憤を吐き出すように、熱を込めて語 る。義貞もほだされて聞き入っていると、高氏は「新田殿の顔を見て懐かしさの余り…近ごろは腹ふくるることばかりにて」と自分の熱弁を恥じるように笑っ た。「久方ぶりにお会いして高氏殿の胸の内にはいまだ熱い血がたぎりおると分かり、この義貞、ほっといたした…もしや都の水で冷やされたかと」と義貞が言うと、「琵琶湖の水につけられても冷えるものではござらぬ」と高氏。二人は大いに笑い、互いにひそかに抱いていたわだかまりも解けていくようだった。高氏は酒肴を用意して義貞に鎌倉攻めの武勇談をせがみ、義貞は乗り気になって「稲村ヶ崎」の一段を語り始めた。

 数日後、参内した高氏は従三位に叙せられ公卿の仲間入りをし、武蔵の国司に任命された。その場で後醍醐が「そちの名、高氏は北条に名付けられたそうじゃのう…いかにも見え悪しき名じゃ」と言い出す。戸惑い気味の高氏に、後醍醐は続ける。「されば、朕のいみな尊治(たかはる)の一字をとらせようぞ。これからは「尊氏」と書いて「たかうじ」と読ませよ」
 「尊氏」と大書された紙が尊氏に渡される。「頼りに思うぞ」との帝の言葉に、尊氏は感激して「ははーっ」と平伏する。

 屋敷に戻ると家臣達が祝いの言葉を述べて出迎え、尊氏は祝宴の用意をさせる。そこへ師直が一色右馬介がやって来ていることを尊氏に告げる。鎌倉陥落以来ようとして行方の知れなかった右馬介の帰参に尊氏は喜び、ただちに顔を合わせる。
 しかし右馬介は放浪していた山伏姿のまま、表情も暗く沈んでいた。そして「暇(いとま)をいただきたく…」と尊氏に申し出る。功成り名遂げた今の尊氏に自分ごときが仕えずとも十分なはず、また28年の間一族の仇と憎んできた北条があえなき最期を遂げたのを見て、あとは自ら出家して父母兄弟の霊を弔いたいと思った、と右馬介は尊氏に言う。
 これを聞いた尊氏は「見損のうたぞ!」と右馬介を一喝、これまでの働きは己のためだけであったのかと右馬介を責める。これからも帝を助けるための戦いが続く、なさねばならぬ事は限りなくある、と尊氏は言い、「わしはそなたと新しい世を生きたいのじゃ。出家も暇乞いも許さぬ」と申し渡す。
 祝宴の準備が出来たことを家臣が知らせに来た。「今宵は尊氏の生まれ変わりの夜ぞ。共に祝うてくれ!」と右馬介に言い残し、尊氏は宴席へと歩いていく。その拳はなぜか力強く握り締められていた。



◇太平記のふるさと◇
 
  奈良県・平群町。護良親王、楠木正成ゆかりの信貴山・朝護孫寺を紹介。正成の菊水の旗や護良親王の喉当てなどが映される。


☆解 説☆
 
 ようやくこの回から「たかうじ」の表記が「尊氏」となる。「高氏」と「尊氏」はちょうどドラマ全体の折り返し点で交代する形となった。それにしても「足利尊氏」って人名をそのままタイトルにしちゃったというのも面白い。

 冒頭に出てくる殿の法印の配下の強盗達を直義が処刑してしまう展開は、古典「太平記」に記されているもの。ただし古典の方は足利側がそうしたとあ るだけで直義とは明記していない。ただ直義というのが大変な潔癖性であったのは有名な話で、ドラマの中の高氏のセリフもそれを反映したものだ。前回の四条 隆資のセリフでも「高氏に輪をかけたカタブツ」と言われている。
 直義の潔癖ぶりについては幕府設立後の事であるが、有名なエピソードがある。当時「八朔」と言って毎年八月一日に、今で言うならお中元にあた る贈り物をする習慣があったのだが、直義はこれを自らが「建武式目」で禁じた贈賄にあたると言って一切受け取ろうとしなかった。兄の尊氏の方はこうした物 品を贈られるままに受け取るのだが、受け取るそばから周りの家臣にどんどん与えてしまい、その日のうちに全て無くなってしまったと言われている。この兄弟 の性格を実によく象徴した逸話だ。

 話を元に戻すと、古典「太平記」では殿の法印の部下達が土蔵破りを働いたのは六波羅陥落直後の混乱の最中であったことになっている。足 利側が治安維持のためにこれらを捕らえて処刑したのはもちろん何ら非難を受けることのないまっとうな行為ではあるのだが、彼らのさらし首の側に立てた立て 札の内容が問題となった。「大塔宮候人・殿ノ法印の手の者」と「大塔宮」の名をわざわざ書いたことに護良親王が激怒し、以後足利を深く恨むようになったの だと古典「太平記」は説明している。もちろんそんな事だけで護良が尊氏を敵視したわけではなく、背景には新政府内での武士の主導権争いがあったのだろうが(護良も幕府を作ろうとしていた可能性だって十分にある)。 ドラマではこの問題の立て札は映るだけでその内容を全く説明していない。だから何気なく見ているとなぜ護良や殿の法印がやたらに激怒しているのかピンと来 ない。それにしてもここ数回の堤大二郎の激怒ぶりは見ていてすがすがしいほどである(笑)。それにしても「宣戦布告」って現代語は分かりやすいけどちょっ と気になりますね。

 義貞が登子たちに挨拶していく場面で細川兄弟(和氏、頼春、師氏)が勢揃いしている。このうち頼春は、のちに足利義満をたすけて室町幕 府の体制を固める名宰相・細川頼之の父だ。古典「太平記」はこの頼之の管領就任をもって天下は泰平になったとして物語をしめくくっているほど。

 親房邸での宴で後藤久美子の北畠顕家が雅楽の調べに合わせて「陵王」を舞っている。セリフ中にもあるが、元弘元年の春に西園寺公宗(ドラマでも時々出てきている)の屋敷で顕家が「陵王」を舞ったというのは「増鏡」にも詳しく書かれている史実。
 親房邸を出ると楠木正季が高氏を暗殺しようと襲ってくる。この展開はドラマのオリジナルだが、護良派にそそのかされた楠木党の武士が後醍醐帝の 行幸に同行していた高氏を襲撃する場面は「私本太平記」にもある。これがキッカケで正成と高氏の間に対話がもたれるのも共通する。このドラマでもそこそこ 表現されているが、高氏と正成の間には歴然とした身分の差があり、本来は対等に対話することはあり得ない。千早・赤坂の正成の働きは誰もが認めるところ だったが、なにせ出自が低すぎ、建武政権で取り立てられたと言っても足利家なんかと比べたら雲泥の差があった。ただ古典「太平記」の中で尊氏が「正成と親 交があった」と言っていること、足利家寄りの史書「梅松論」が正成をかなり好意的に描いていることなどから、両者の間に個人的な交流があった可能性は十分 にある。ドラマではそんな交流をこの暗殺騒動にからめて描くことにしたわけだ。

 義貞が参内する場面で、勾当内侍が早くも熱い視線(笑)。この時点の勾当内侍には「本命」の人が密かにいるはずなんだよな。それにしても「使えようか」と品定めをしている廉子もちょっと怖い(笑)。
 
 高氏の「高」はもちろん北条高時の「高」をもらったものである。そして今度は後醍醐天皇の名「尊治」の「尊」をもらって「尊氏」と名乗ることになった。時に元弘三年の八月五日(古典「太平記」はこれを中先代の乱で尊氏が下向した時に設定している)。名前からしてこの人の人生を象徴しているような。それにしても後醍醐帝の「たかはる」って名前、妙に現代風なのが面白い。ついでながら現在の皇室男性はみんな名前が「…仁(ひと)」となっているが、これは南北朝時代の北朝系、つまり持明院統系の伝統なのだ。
  なお、恐らくこのシーンに出ているらしいのだが、出演リストに洞院公賢・洞院実世の父子の名前が見える。公賢は北朝に仕えて日記「園太暦」という南北朝時 代の政界動向を知る根本史料を後世に残してくれた人物、息子の実世は終生後醍醐と南朝に忠節を尽くして武将としても長く活躍した公家である。南北両朝に分 かれたこの父子は表面的には敵味方ながら密かに連絡を取り合い、後に南朝軍が京都を一時的に奪回し「正平の一統」が成立した際(1351年)も南朝側から 公賢が北朝側の代表に指名されている。ドラマでは公賢だけ第4回に出ているのだが、演じている俳優サンも異なり、単なる朝廷シーンの「顔揃え」という扱い のようである。