第二十六回「恩賞の波紋」(6月30日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:佐藤幹夫

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

柳葉敏郎(ましらの石)

高嶋政伸(足利直義)

本木雅弘(千種忠顕)

宮沢りえ(藤夜叉)

藤木孝(坊門清忠) 麿赤児(文観)
渡辺哲(赤松則村=円心) 太平サブロー(家人)
山崎満(洞院公賢) 相原一夫(一条行房) 三重街恒二(僧侶)
角間進・池上尚吾(奉行) 菊池章友(武士)
田中義訓(家人) 大阪百万円・和田英雄(石の家来)
伊達大輔・渡辺高志・森部大介(近習) 高都幸子(侍女) 

近藤正臣(北畠親房)

大地康雄(一色右馬介)

後藤久美子(北畠顕家)

柄本明(高師直)

宮崎萬純(勾当内侍)

小松方正(名和長年)

原田美枝子(阿野廉子)

笠原志ずか(妙) 土屋久美子(棗) 有澤貴栄(物売女)
山崎雄一郎(不知哉丸) 大河原梓(恒良親王) 長谷川宙(成良親王) 細山田隆(義良親王)
森田祐介(千寿王)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ 
わざおぎ塾 神ひろしザ・ポップアクティーズ 鳳プロ 劇団ひまわり 劇団いろは
 
武田鉄矢(楠木正成)

藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:小林稔○音響効果:藤野登○撮影:川邨亮○照明:大西純夫○音声:鈴木清人○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 内裏の中で幼い義良親王が蝶を追っている。それを「宮様、お待ち下さりませ」と呼びながら勾当内侍が追いかける。走る義良親王を後醍醐天皇が抱きとめて「蝶を追うのはそのぐらいにして父の話を聞け」と言うが、義良は嫌がって駆けだしていってしまう。それを笑ってみやりながら後醍醐は恒良成良の二人の親王が待つ講義の席へと戻る。この恒良・成良・義良の三人はいずれも阿野廉子が生んだ皇子である。
 後醍醐は二人の皇子に延喜の帝(醍醐天皇)の治世について、摂政・関白を置かずに正しい天皇親政の行われた時代だと説明する。そうした古い理想を追うだけではなく、先例や家柄にとらわれない新しい政治を行わなければならないと皇子達に諭す。これを聞いた洞院公賢が「さりながらあまりに性急に事を運んでは…」とやんわりと苦言を呈するが、後醍醐は「はじめから先例があったわけではあるまい。いま朕のすることはことごとく未来において先例となるべきぞ」と言い放つ。

 勾当内侍が帝の呼び出しを廉子に告げに行くと、廉子は坊門清忠千種忠顕らと恩賞となる北条領の分配の話で盛り上がっていた。彼らは笑いあいながら地図に名前を書き込み、勝手に領土の分配の憶測をしているのだった。
 廉子が後醍醐のもとへ行くと、後醍醐は成長してきた恒良を春には皇太子に立てたいと廉子に言い出す。「義良が末頼もしいのだが…」とも後醍醐は つぶやくが、あまりに幼いと廉子は笑う。後醍醐は天皇の権威を示すために昔ながらの大内裏を造営することや、恩賞の処理など山積する懸案を口にし、廉子に 釘を刺すように「分かっておるぞ…さしたる功もなき欲深どもがそなたのもとにああだこうだと言うてくるのであろう。だが朕はそのような者に聞く耳は持た ぬ」と言う。「そうでございますとも」と作り笑いをして取り繕う廉子に、後醍醐は「案ずるな、そなたは格別じゃ。そなたの申すことなら耳を貸そうぞ」と笑うのだった。

 やがて主だった公家や武家に対する恩賞が発表された。千種忠顕は丹波国司に任じられ、楠木正成は河内・和泉国司、名和長年は伯耆・因幡国司に任じられるといった具合でそれぞれ恩賞は厚かった。しかし赤松則村(円心)に対しては播磨の佐用ノ庄一ヶ所が与えられただけであった。内裏でこれを告げられた円心は愕然とし、六波羅攻めの功績などを挙げて再考を訴えるが、「綸言汗のごとし。御聖断は一度きりじゃ!」とはねつけられる。円心は御簾の向こうの帝に呼びかけるが、後醍醐帝は冷たく黙ったまま。
 円心は激怒して官女らに当たり散らしながら内裏を退出していった。それを廉子が物陰から満足そうに眺めている。廉子は護良親王派の最大の軍事力 を排除するために円心にこのような仕打ちをしたのだった。その一方厚い恩賞にあずかって大出世した楠木・結城・伯耆(名和)と千種を世間は「三木一草」と 呼び、中でも名和長年は独特のファッションで輿に乗って都をねり歩きその独特のファッションは「伯耆様(ほうきよう)」ともてはやされた。

 赤松円心は六波羅の足利尊氏を訪ね、恩賞で冷たい仕打ちを受けた鬱憤をぶちまける。尊氏も大いに同情するが、「さりとてこちらに来られるのは筋が違う。大塔宮にお頼みになっては」と高師直が言う。しかし円心はそれを言われるとガックリと来た様子で「しょせん宮は武士の心がわからんお方じゃった」とつぶやく。やはり武家の棟梁である足利を頼るほかはないと円心は言い、「大塔宮を信じ、帝を信じたそれがしが阿呆じゃった…!二度と帝のために働くことはせんわ!」と吐き捨てて播磨の山奥へ帰るべく刀を担いで立ち上がる。尊氏はこれを追って呼び止め、「本日御辺がまかりこしたること、この尊氏、しかと胸に刻みまする」と円心に言う。
 円心が立ち去った後、師直も新政の人事に対する不満を尊氏に言う。新政で設けられた諸機関に足利一門の者がまるで採用されておらず、巷では「尊氏なし」などという言葉がささやかれていると。

 そのころましらの石はなけなしの金をはたいて家来を二人雇い、藤夜叉不知哉丸を連れて日野俊基に 約束してもらった和泉の土地へと向かった。ところがその土地は全く別の公家の領地となっており、その家人の武士達が入り込んでいた。石は俊基の書き付けを 示すが、家人たちは笑ってそれを投げ捨ててしまい、この土地が自分達の主人のものであることは帝の「綸旨」で確約されているのだと石に告げる。御新政の世 では全て綸旨が無ければダメなのだと。困惑する石を見て、家来として付いてきた二人も「こりゃあかんわ」と逃げていってしまう。やむなく石と藤夜叉母子は 都へ帰ることにする。
 都に戻った石は紛争を調停する役所・雑訴決断所に駆け込む。しかし新政開始以来多くの訴えが殺到していて決断所の門は大混雑であった。ようや く奉行の前に通され石は日野俊基の書き付けを証拠として提出する。奉行達は花押などから確かに俊基のものと認めるが、「なぜその方がこれを持っておる。盗 んだものではあるまいの」などと石に問う。石は隠岐で帝の脱出を助けたこともあるから帝に取り次いでくれと頼むが、全ては綸旨が無ければダメだと追い出さ れてしまう。

 後醍醐帝は北畠父子を内裏に呼び出し、顕家に奥州の防衛のために多賀城への赴任を命じ、親房にはその後見として同行するよう申し渡した。親房は北畠家は学問の家柄、と渋る様子を見せるが、顕家は「顕家も十六、武において誰にも劣るものではござりませぬ」と胸を張って命を受けた。
 帰宅すると顕家は奥州の地図を眺めてその広さに感嘆し、奥州赴任への期待を楽しげに父に語る。そんな息子に親房は化粧をしながら今回の赴任の意味を諭し、また帝の威光を利用するべく義良親王を担ぎ出して奥州へ行くことを帝に奏上したことを明かす。「人の心をつかむには幼き者が一番じゃ」と親房は言う。 この時代、子どもには大人にはない神秘的な力があると信じられていたのである。

 硫黄が島に流されていた怪僧・文観が都に戻ってきて、廉子のとりまきを集めて歓迎の宴が催された。文観は大いに酔って勾当内侍にふざけて抱きつく。そんな騒ぎの中、坊門清忠と名和長年、そして佐々木道誉が廉子と密談していた。清忠と長年は親房が義良親王を奉じて奥州に行くと言いだしたのは人質にとるつもりなのだと言うが、道誉はむしろそれを逆に利用すべきだと廉子に言う。密談を続けるうち、とうとう「おやめ下され、文観さま!」と勾当内侍が声を上げて文観を振り払い、慌てて宴席から飛び出した。飛び出した途端、内侍はちょうど入ってきた新田義貞にぶつかってしまう。内侍の扇が落ち、同時に拾おうとした義貞と内侍の手が触れ合う。ハッとして内侍は扇を受け取るとそのまま立ち去っていく。その様子を見ていた道誉は義貞をからかいながら「内侍は木石のようなお方じゃ」と教える。

 数日後、六波羅の尊氏のもとへ義貞に連れられて親房が訪ねてきた。奥州行きについて「島流しにでもおうた気分…お、これは言うてはならぬこと…」などと親房は笑い、尊氏は母・清子の実家のある丹波の栗を親房と義貞に勧める。親房の栗は師直がむいてやる。
 そのころ、直義の屋敷には不知哉丸が遊びに来ていた。丹波の墓参りに来る途中で息 子兄弟に会いに来ていた清子は直義に子供が懐いていることに驚き、また「なかなかりりしい顔をしておるではないか」と不知哉丸を可愛がる。直義も「なぜか 気が合うてしもうて…」などと笑いながら不知哉丸の相手をしてやる。
 一方、尊氏邸。親房は奥州へ旅立つに当たって尊氏に護良親王と衝突することのないように言い残しに来たのだった。そして尊氏を武家の棟梁と認 めつつ、「武家は大嫌いじゃ」などと言う。親房は義貞に「なぜ鎌倉を捨てたか、足利を恨んでおるのではないか」と問う。義貞が「恨むなど…我らは同志」と 答えると、親房は「同志のう…ははははは」と心を見透かしたように笑う。その上で今回の奥州行きに義良親王を奉じること、鎌倉の千寿王のことなどを述べて「幼子の力は新田殿がようご存じのはず…」と嫌味のこもった口調で言い、「奥州と鎌倉は近うござる」と暗に関東の足利を牽制するような言葉を口にする。これに対し尊氏も「京と鎌倉も近うござる」とやりかえした。
 夕方の近づく直義邸では、遊んでいた不知哉丸が突然発熱して寝込んでしまっていた。清子と直義は慌てて薬師を読んで看病にあたる。
 いつまでたっても帰ってこない不知哉丸を藤夜叉も心配していた。そこへがっくりとした石が決断所から帰ってくる。藤夜叉は不知哉丸の行方を問うが、石は「知らねぇぞ…」と放心状態で答えるだけ。

 親房も義貞も帰った部屋で、尊氏は残った栗を口に運んで「栗はめばましてしのばゆ…」とつぶやく。「ああ。憶良でございますな。瓜食めば子供思ほゆ、栗はめばましてしのばゆ…」と師直も歌を口にする。尊氏は子ども達のことを、義良を、顕家を、千寿王を、不知哉丸のことを思った。酒はあくまでも苦かった。



◇太平記のふるさと◇
 
  兵庫県上郡町。赤松円心が恩賞として与えられた佐用ノ庄、円心の木像、円心が立て籠もった白旗城などを紹介。


☆解 説☆
 
  ここ数回立て続けで後醍醐天皇の親政に様々な矛盾が吹きだし、様々な勢力の思惑が飛び交う。中でも今回のメインテーマ、恩賞問題は政権の前途に致命的な暗雲をもたらしたと言って良い重大問題だ。

 冒頭は後醍醐と廉子の間に生まれた三人の皇子が次々と登場する。後醍醐の皇子はいずれもお父さんのおかげで悲惨な目に遭った人が多いのだが、この三人も大変である。一番上の恒良は一度は皇太子に立てられたものの、後に義貞に奉じられて(この時形の上では「天皇」になっていた)北陸へ向かい、結局金ヶ崎城落城時に足利軍に捕らえられて京で毒殺されてしまった。成良親王はこのあと足利直義に奉じられて鎌倉府将軍となるが、結局兄・恒良と共に毒殺されてしまったとも言われる(一方で「お預け」の身としてその後も生存していた可能性も強く指摘される)
 今回たびたび言及され「影の主役」の感もある義良親王は、このあとドラマでも描かれるように北畠親子に奉じられて奥州へ向かい、後に吉野で父帝 後醍醐の死に遭遇し、跡を継いで後村上天皇となる人物。後醍醐が「義良が末頼もしいのだが…」というセリフはそういう未来を暗示をしているわけだ。末頼も しいと思うにはいくらなんでも幼いと思うぞ。

 後醍醐天皇が息子達に政治講義をしているところは後醍醐の政治思想が良く出ていて、なかなかに面白い。後醍醐は「後醍醐」というおくり名(死後贈られる)を 生前に自分で決めていたぐらい「醍醐天皇」の治世に憧れていた。醍醐天皇とは平安時代前期の天皇で、あの菅原道真なんかがいた時代。道真が流罪になった経 緯にみえるようにすでに摂関家・藤原氏の台頭が著しかった時代なのだが、たまたま醍醐天皇の時期だけ摂政・関白が不在で天皇親政が行われた。この天皇の治 世はこれといって目立った善政があったようにも思えないのだが、安定期だったこともあってか後世「延喜・天暦の治」と呼ばれ理想化されることになった。宋 学の影響も受け天皇独裁を志す後醍醐にとっては、まさに目標とすべき時代に見えたわけだ。もっとも後に足利幕府も「延喜・天暦の治を目指す」なんて宣言を しているから、当時は「過去の理想政治」の代名詞みたいな扱いだったのかも知れない。

 しかし後醍醐が単純に平安の昔に戻すつもりでは無かったことはドラマの台詞にも見えるとおり。洞院公賢の苦言に答えた台詞は「朕の新儀 は未来の先例たるべし」と伝えられる後醍醐の発言が元ネタ。むしろ後醍醐の企図した政治は表面的には復古を装っているが実はムチャクチャ革新的というか伝 統無視な内容を含んでいた。「公家一統の世」などと当時騒がれたが、実際には公賢や親房をはじめとする保守的な公家層には後醍醐の革新政治に対する根強い 反発もあったのだ。後醍醐は確かに家柄にはこだわらず気に入った下級の公家や武士を積極的に取り立てており、いわゆる「三木一草」(楠木、結城、名和、千 種)はその象徴的存在だった。ただ問題だったのはそうした革新性が必ずしも公平ではなく、また天皇独裁制の強行が政治の大混乱を引き起こす結果になってし まったことだ。
 ドラマにも出てくる「綸言汗のごとし」とは「王の命令は汗のように、一度出たらそれっきり」ということを意味する漢文系の格言。それだけ厳粛なものなのだぞ、という意味なのだが、これを逆手にとった落首が、建武新政末期に書かれている。「かくばかり たらたせたまう 綸言の 汗の如くに などなかるらん」というもの。「そのように次々とお出しになる綸言、汗のように消えてしまうんじゃないでしょうね」という意味(「たらす」は汗を「垂らす」だが、今でも「女たらし」などで使う「だます」という意味もかけてある)。混乱した「綸言」の実態を痛烈に皮肉った傑作だ。

 赤松円心が佐用ノ庄しかもらえなかったことで物凄く憤慨しているが、これは当然。なにせ赤松氏は事実上すでにこの佐用ノ庄を支配してお り、この「恩賞」はそれを追認したものに過ぎないからだ。あまつさえ彼に与えられていた播磨国守護職まで後日とり上げられることになってしまう。円心が余 りにも酷い冷遇を受けた背景に阿野廉子の存在があったのはまず間違いない。当時の倒幕功臣の派閥は隠岐派(廉子、千種忠顕、名和長年ら)と大塔宮派(護良親王、北畠親房、赤松父子ら)に 分かれて対立していたが、円心が冷遇されたのはドラマでも言うとおり彼が大塔宮派の最大の軍事勢力として廉子に警戒されたためだろう。怒り狂った円心は以 後完全に後醍醐政権に見切りをつけ、足利尊氏に忠節を尽くすことになる。この事がのちのち戦局に重大な影響をもたらすのだが、それは後の話。
 この円心に、尊氏がそんな先のことを知ってか知らずかいたわりの言葉をかけている。その後の事を考えるとこんな場面も実際にあったのかもしれない。こういうさりげないことに案外人はジンと来るものなのだ。
 師直が言う「尊氏なし」の言葉は当時の政界で実際にささやかれていたもの(「梅松論」に記述がある)。特に尊氏と足利氏が冷遇されたという意味ではないのだが、六波羅に奉行所を構える尊氏が一種の独立勢力になっていて後醍醐も扱いに苦慮していたことを示している。
  ところで名和長年の奇抜なファッションが「伯耆様」ともてはやされた話が出てくるが、これは彼がかぶっていた独特の烏帽子(えぼし)の形態を指していたら しい。ドラマでも長年は武士と言うよりは商人を思わせる変わった烏帽子をかぶっていた。長年がいささか変わり種の武士だったことはその花押(丸三つにチョ ンと線を一本立てる)や後醍醐に与えられたという「帆掛け舟」の紋にも現れている。

 石が和泉の土地へ行ってみると、別の武士が綸旨でその土地を占有していた。これ、建武新政を良く知る人には俊基の書き付けをもらった時 点で予測された事態だったはず。この場面、石を追い返す家人達がみんな関西弁でしゃべっていて妙に印象に残る(演じた太平サブローさんはちょうどこの時期吉本を離れていた)。しかし常識的に考えてもあんな非公式に書い た書き付け一つで土地がもらえると思っていた石もムチャクチャ認識が甘いよな。
 雑訴決断所の大混雑・混乱ぶりは後の回で出てくる「二条河原の落書」にも皮肉られた状況。倒幕が実現し後醍醐新政が始まると後醍醐が直接発行 する命令書「綸旨」のみが土地所有の保証となり、滅びた北条氏関係の所領だけでなく全ての土地の所有保証の再確認が必要となってしまったのだ。後醍醐が押 し進めた「綸旨万能」の天皇独裁・中央集権政策は、綸旨を振りかざして土地を奪う者、綸旨を持っていなかったばかりに土地を奪われる者などを生みだし、ま たその綸旨の出し方が後醍醐側近への贈賄で決まるなどしていたため混乱に拍車がかかった。「一所懸命」といわれるように土地に命を賭ける多くの武士たちに とってこの土地政策の混乱は新政への不信に直結し、のちに尊氏が後醍醐に反旗を翻すにあたってまずこの土地問題の解決を政策として掲げることになるのだ。

 今回の政治的動向で大きく扱われているのが北畠父子の奥州赴任。これは関東に勢力を持つ足利氏を背後から牽制する目的だったというのが 一般的見解である。実際のちに尊氏が関東で挙兵した際、この北畠奥州軍は背後からこれを追撃し、一度は尊氏を九州まで追い落とすことに成功している。ここ で北畠親房の意見で義良親王を奉じることが決まるが、これは言ってみれば奥州にミニ幕府を作る構想にほかならない(鎌倉幕府だって親王を将軍に奉じたのだ)。 天皇独裁を志した後醍醐にしてみれば本意ではなかったと考えられるが、護良親王派の北畠父子を中央から追い出そうという廉子らの思惑、不気味な独立勢力で ある足利の牽制、実は武士をまとめる幕府の存在自体は認めている北畠親房の構想などが入り乱れてこうした政策を生むことになったようだ。次回で触れること になるが、これは足利氏や武士達にはかなりショックな政策だったのである。

 文観の帰京パーティーでは古典「太平記」にも出てきた薄衣の白拍子が舞い、勾当内侍にセクハラするなど文観の好色ぶりが描かれている。 いちおう僧侶である文観本人が実際どうだったかは分からないのだが、彼がやってたとされる真言立川流ってのが「男女和合」を説くセックス宗教ですから ねぇ…。
 文観の魔手を逃れた勾当内侍が新田義貞と出会いがしらに衝突。ああ、定番の激突出会い演出(笑)。落ちた扇を拾おうとして手が重なるあたりも 超ありがちな描写だが、まぁこれはこれで良いかと(笑)。俳優が根津甚八になったことで義貞がより「色男」っぽくなったような気がする。なお、この回から 義貞はヒゲが生え、貫禄が増している。