第二十八回「開戦前夜」(7月14日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:佐藤幹夫

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

陣内孝則(佐々木道誉)

柳葉敏郎(ましらの石)

堤大二郎(護良親王)

高嶋政伸(足利直義)

宮沢りえ(藤夜叉)

藤木孝(坊門清忠) 麿赤児(文観)
赤塚真人(岩松経家) 桜金造(和田五郎)
井上倫宏(四条隆資) 大林丈史(殿の法印)
山崎満(洞院公賢) 相原一夫(一条行房) 舟田走(商人)
鈴木一功(商人) 桑原一人・星出尚則・松田敏幸(職人)
横尾三郎・森尾なおあき(蔵人) 伊達大輔・渡辺高志・小松正一(近習) 
 
近藤正臣(北畠親房)

大地康雄(一色右馬介)

後藤久美子(北畠顕家)

石原良純(脇屋義助)

赤井英和(楠木正季)

柄本明(高師直)

山崎雄一郎(不知哉丸) 長谷川宙(成良親王) 細山田隆人(義良親王)
西村高夫・柴田稔・一噌隆之・宮増新一郎(猿楽)
安福光雄・観世元則(猿楽)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ 
鳳プロ 園田塾 サン・レモ・プロダクション 足利氏のみなさん 太田市のみなさん
 
根津甚八(新田義貞)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:加藤宏○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:松本恒雄○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 元弘三年十月、北畠親房顕家父子は幼い義良親王を奉じて奥州へと出陣していった。これは軍事面をも公家の支配下に置こうとする後醍醐天皇の意図を反映させたものでもあった。これは武家たちにも衝撃を与えたが、一方で護良親王一派もこの派遣を別の視点からとらえていた。護良親王のところへ文観が呼び出され、親王の側近・殿の法印から厳しい追及を受ける。護良や法印らは今回の奥州派遣を自分達の派閥に属する北畠父子を自分達から遠ざけようという阿野廉子の企みであると読んでいた。法印は廉子にたぶらかされたと文観を責め、弓の稽古をしながらやりとりを聞いていた護良は文観めがけて矢を放つ。矢は逃げ出した文観の袈裟を貫いて柱に突き刺さり、動けなくなった文観に殿の法印が刀を抜いて斬りかかる。「すておけ!」と護良が止め、法印が止めた刀は文観が受け止めた数珠の玉を床に散らす。「おろかな局よ…我らは同じ公家ぞ。公家が公家の力を削いでどうなる。敵は武家…足利じゃ!」と護良は叫ぶ。

 そのころ足利尊氏は帝に関東への足利軍派兵を求めるべく参内していた。千種忠顕がそのことを廉子に告げると、廉子は帝に取り次がずに女房達に立花の手ほどきに来ていた佐々木道誉に尊氏の相手をさせるように命じる。道誉は待たされている尊氏のところへ現れ、まずは根回しをせよ、と尊氏を廉子に引き合わせる。
 廉子のそばには千種忠顕と坊門清忠が控えていた。清忠は尊氏がめったに内裏に姿を見せないことに嫌味を言い、忠顕は都を守る役目の尊氏がなぜ護良親王を放置しているのかと不満を言う。清忠はさらに護良が皇太子の座を狙っているのだとまで口にする。廉子は清忠を黙らせて尊氏が鎌倉に妻子を残していることに触れて「我らはよう似ておりますな…似ている者同士、助け合っていかねばのう」と尊氏に言い、帝に伝えておくから「明日また参内つかまつれ。悪しきことにはなりますまい」と尊氏をあしらう。
 内裏から引き上げようとする尊氏に、道誉がささやく。つまり廉子は「護良を討て、それならば話を聞く」という取引を暗に要求しているのだと。尊氏は「わしは取引など嫌いじゃ。取り引きできるなら北条とは戦わぬ」と憤り、「引き返す!」と叫んで止める道誉らを振り切って再び内裏の奥へと進んでいった。

 尊氏はついに後醍醐天皇と向かい合った。驚いた廉子や清忠、忠顕たちも集まって様子をうかがう。尊氏が足利軍の関東派遣を主張すると、後醍醐は「朕の定めし儀に異議があると申すか!」と激しく応じ、尊氏に「直答を許す」と言って御簾をあげさせ、尊氏をそばへ近づける。尊氏は東国を公家の手だけで乗り切れるとは思えぬこと、北畠父子につけられた結城宗広の一族にも北条残党に与する者がいること、奥州で乱が起これば関東、そしてこの都にまで一気に火の粉がふりかかってくるだろうと訴える。「関東では朕の政が通らぬと申すか、公家一統におさまらぬと申すか?」との後醍醐が語気を強めて問う。「さように存じまする」と即答する尊氏に「なに!」と後醍醐は激昂。周囲は緊張に包まれる。尊氏が最近の政権内の内紛を挙げてこれではとても関東を治める力はないと訴えると、後醍醐は公家の乱れは自分の不徳のいたすところだが武家の束ねは尊氏の務めであろうと反論する。尊氏はそれを認めつつ、「力あっての武家」と関東派兵をなお訴える。
 後醍醐は自らの気分を落ち着けるように言った。「ありていに申せ…そちはこの都を捨てて再び北条のごとく関東に幕府を開く心づもりであろう…」これに対し尊氏は姿勢を正して「それがしは天下を率いて立とうとは思いませぬ。天下を率いるは肩が凝りまする」と答え、自分は決して強くはない臆病者で、ただ乱で死んでいった者達のために良い世の中を作りたいのだと述べる。この言葉に後醍醐も表情を和ませ、「それは朕とて同じじゃ。尊氏の申す通りじゃ…天下を率いるは肩が凝る…よろず己が決め、おのれが見るのじゃ。肩が凝る…」そう言って尊氏に関東への派兵を許した。ただし尊氏は都にとどまり、弟の直義を向かわせるようにと条件をつける。そして「そうか…尊氏も肩が凝るか…朕も、肩こりじゃ。ハハハハハ…!」と、心の底から愉快そうに高らかに笑うのだった。そんな後醍醐を見て尊氏もホッとしたように笑みを浮かべる。

 後醍醐の許可を受けて、直義は軍を率いて鎌倉へ出陣した。これが帝の認めた軍勢であることを示すために成良親王が足利軍に奉じられていた。これで事実上、足利氏が関東の支配を認められたことになる。
 軍の出発を内裏から見送る後醍醐に、廉子が「なにゆえお許しになられました?」と問う。「許さぬと申しても詮無きこと」と後醍醐は言い、足利以外に関東を押さえられるものがいないことも認める。「北畠と競わせ、東国を守らせるも面白かろう。朕の政には強き手足が要る。足利は欠かせぬ男よ…あれを敵にしとうはない」そう言って後醍醐は「せめて護良が足利ほどの器量なればのう…」とつぶやく。この言葉に廉子は複雑な表情をのぞかせる。

 足利軍の関東派兵が決まったことで護良親王はいっそう危機感を強めた。護良は猿楽の宴にかこつけて四条隆資一条行房といった公家や新田義貞義助兄弟、岩松経家楠木正季らを集める。護良は廉子と尊氏が結びついたものとみなし、各地の武士にに足利討伐の令旨を発して兵を集めることを打ち明け、「足利討つべし!」と一同で気勢を上げる。義助や正季はすっかりその気になってしまうが、義貞と経家は迷いを見せていた。経家は足利について鎌倉の御家人として生きる道もある、と義貞にもちかけるが、義貞は誰の支配も受けたくはない、「わしを支配できるのは帝だけじゃ」と突っぱねる。「新田の家は、北条や足利や他人の顔をうかごうて生きてきた…長い間…長すぎた」そう言って義貞は護良にも尊氏にもつかないことを明言する。その時、義貞は物陰に気配を察して短刀をそちらに投げつける。短刀は柱に当たるが、そこに潜んで様子を探っていた一色右馬介は素早く姿をくらました。

 年が明け(1334)年号が「建武」と改められた。後醍醐は平安時代のような大内裏の造営を企図し、その財源として全国に「二十分の一税」をかけることを決定する。また当時流通していた輸入宋銭に代わる新貨幣の鋳造を計画し、それによって経済の根本を押さえ、なおかつ天皇の権威を民に示そうと図った。しかし全国は戦乱で疲弊し土地関係は混乱し、都も貧困と強盗が満ちあふれるありさまで、後醍醐の政策も空しいかけ声に過ぎなかった。
 そんな世相を「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・偽綸旨…」と風刺する長文の落書が二条河原に掲げられ、都の人々の評判となる。 これを藤夜叉・不知哉丸の母子が眺めていると、「これは先が思いやられますなあ」と、柳斎に扮した一色右馬介がと声をかけてくる。そこへが駆けつけ、決断所から与えられた綸旨を藤夜叉に見せる。先の俊基の書き付けの件での不手際を認め、代わりに美濃に土地を与えその地の代官に任じるという内容であった。喜ぶ石に、落書を見ていた男達が「偽綸旨ではないか?」とからかう。石は怒って男達を追い払い、正季に確認してもらおうと飛び出していった。残された藤夜叉に右馬介は「あれは真の綸旨」と保証して美濃に行くよう勧める。石に与えられた綸旨は尊氏が手を回したものだったのだ。

 石が正季の屋敷に行くと、屋敷内は兵であふれ、戦の準備に忙しい。驚く石は正季に綸旨の確認を求めるが、正季は「足利と戦じゃ!」と聞く耳を持たない。正季を始め、護良親王の檄に応じた武士が兵を率いて護良の館へ集まり、一方の足利家も六波羅に軍勢を集結させてこれに備えようとしていた。
 まさに開戦前夜の状況の中、佐々木道誉が尊氏の屋敷に駆けつけた。ところが当の尊氏は登子にあてた手紙などしたためており、まるで緊張感がない。道誉はこれにいらついて護良派についた武士を列挙し危機感をあおろうとする。だが尊氏は道誉に菓子をすすめて右馬介に探らせた情報を教える。義貞兄弟や岩松など護良派とみなされる武士のほとんどは内心腰が引けており、こちらが動かぬ限り動こうとはしないだろうと尊氏は読んでいた。ただ楠木正成の動向だけは読めない、と尊氏は言い、「あとお一人…佐々木判官殿のご心底も分かりませぬ」と右馬介が続け、道誉が護良の腹心・殿の法印と密会して護良の味方に付くと約束していたことを暴露する。
 青ざめる道誉に尊氏が懐から紙を取り出して投げる。「判官どの、菓子くずが」との言葉に道誉は「これはしたり」と苦笑い。ここで道誉は自分の本心を尊氏に説明する。自分が護良につくと言えば護良が立つ、護良が立たねば尊氏は立たないであろう、「御辺がやりやすいように動いてみたまでじゃ」と道誉は言う。すでに新政の行く末に見切りをつけていた道誉は、尊氏にこれを機に天下を取る下地をつくれと言って尊氏に開戦をけしかける。尊氏が立てば多くの武士が味方に付くはずだとの言葉に、戦をするつもりのない尊氏はひそかに悩む。
 



◇太平記のふるさと◇
 
  宮城県・多賀城市。古代政庁跡、北畠顕家が赴任した国府跡との説がある岩切城址、利府城址を紹介。


☆解 説☆
 
  前回と打って変わって内容がかなり濃い回。前半は足利軍関東派遣をめぐる尊氏と後醍醐の対決、後半は尊氏と護良の対立が一触即発のピークに達する状況を描いていく。

 この回の見せ場はなんといっても尊氏と後醍醐の「初対決」シーン。二人だけで延々と緊張感ある激論を交わしている。こういう直接対決の場面が実際にあったかどうかは不明でほぼフィクションと言っていいと思うが、この足利軍派遣の陰で後醍醐と尊氏の間で少なくとも水面下では激しい駆け引きが展開されたであろう事は疑いない。北畠父子の奥州赴任の直後に全く同様のシステムを足利氏が関東に樹立させたことは、やはり北畠による「奥州小幕府」実現が足利氏ひいては多くの武士にとってかなりショッキングな事態であり、すぐさま巻き返しを図ったのだとみることができるだろう。これで成良親王を「将軍」とする小幕府を足利氏が関東に成立させたことになるわけだ。天皇独裁を理想とする後醍醐としては極力避けたい事態だったはずと思うが、尊氏の力がそれだけ軽視し得ないものであったということだ。
 この対決場面の後醍醐天皇はなかなか良い。怒り、怒鳴り、諦めたようにつぶやき、そして最後に大笑い。とにかく感情がストレートにポンポン変化して表現される人である。「朕も、肩こりじゃ」と笑うカットは、最終回で晩年の尊氏が人生で会った人々の回想をする場面で、後醍醐の回想に使われている印象的なもの。

 この回で年が改まり、正月の内に改元が行われて年号は「建武」と定められた。今日でも年号は漢籍古典から二文字引っ張ってくるのが伝統なのだが、この「建武」は中国で実際に使われた年号をそのまま持ってきた異例のもの。いったん滅亡した漢王朝を復活させ後漢王朝を成立させた光武帝が建国に当たって定めた年号がこの「建武」なのだ。倒幕を実現し天皇親政を復活させた(つもりの)後醍醐は光武帝の中興の故事になぞらえて縁起を担いだわけだ。しかしこの「建武」という年号には、「武」という字が不吉として「兵乱が起こりますぞ」と反対した公家も存在した。その不吉な予感は的中してしまったわけで。

 後醍醐天皇が平安時代さながらの大内裏の造営を企図し、その財源として全国に「二十分の一税」という新税をかけたのはドラマにもあるとおり。大内裏はこの時代にはすでに存在せず、天皇は公家の屋敷と同レベルの屋敷に内裏を置く「里内裏」という形がとられていた。そこで天皇の権威を示そうと大内裏建設を計画したわけだが、これでかけられた重税が建武政権に対する全国の強い反発を呼んでしまうことになる。
 またこれと並行して後醍醐は貨幣政策にも手を出した。平安時代の前半までは日本の朝廷も自ら貨幣を鋳造していたのだが、平安末期には宋からの輸入銭で貨幣供給をまかなうようになっており、平安前期の天皇親政を理想とする後醍醐としてはやはり自らの手で貨幣を発行し流通させたい欲求にかられたのだろう。また内裏造営などが引き起こす新政の財政難を貨幣政策によって解決したいという意図もあったはず。ドラマでは描かれなかったが、新貨幣鋳造と同時に「楮幣(ちょへい)」と呼ばれる日本初の紙幣発行の計画も発表されていた。これより先、元王朝で財政難解決のために紙幣が発行された前例があるにはあり(当然と言うべきか大インフレを引き起こす結果になっている)、これに基づいて紙幣発行を狙ったようだが、結局は新貨幣鋳造ともども実行に移された形跡はない。計画はされたものの政権が不安定なため実行に踏み切れなかったと言うところだろう。吉川英治の「私本太平記」では「楮幣」が実際に発行され庶民がパニックになる様子が描かれているが、あれはあくまでフィクションである。ついでながら、その後も日本では宋銭、明銭といった中国からの輸入貨幣の使用が延々と続き、豊臣秀吉が大判を鋳造するまで日本独自発行の貨幣は存在しなかった。

 「太平記」の時代を彩る要素の一つに「落書」あるいは「落首」がある。河原など人の集まるところに風刺を効かせた歌などを立て札に書いて立てていくというもので、庶民が政府批判を表明する一つの方法となっていた。この伝統は江戸時代まで引き継がれるが、南北朝時代は変転きわまりない情勢を反映して数々の「名作」落書・落首が記録されている。ドラマでやはり出てきた「二条河原の落書」は日本落書史上の最高傑作とうたわれる名作中の名作で、建武新政を語る上で外せない史料となっている。この落書は『建武年間記』に全文が記録されていて、よくよく当時の人々に評判となっていたかが良く分かる。ここでも全文掲載したいぐらい大変面白いものなのだが、かなりの大作なので(7・5で一行とすると88行!)全文を読みたい人は南北朝ものの歴史の本でも当たって欲しい。オール七五調のリズミカルな文体で、「このごろ都にはやるもの」をゾロゾロと列挙し、建武新政下の都の混乱ぶりを面白おかしく書きつづっており、「犬田楽は関東の、滅ぶる物といいながら、田楽はなおはやるなり」なんて古典「太平記」の北条高時に関する記述を連想させる部分もある。最後は「天下一統めずらしや、御代に生まれてさまざまの、事を見聞くぞ不思議なる、京童(きょうわらんべ)の口ずさみ、十分の一を漏らすなり」でしめくくられる。これだけ書いて「十分の一」と言っているのも凄いが…。

 「開戦前夜」ということで護良と尊氏の戦闘が今にも始まるかという情勢になる。そんな中、佐々木道誉は相変わらずのタヌキぶりを発揮しているが、彼が建武政権下で何をしていたのかはいまいち分からない。いつも「尊氏に天下をとらせて、それをわしが奪う」などと言っているが、結局のところ尊氏に一番忠実だったりするんだよね、この男が。