第二十九回「大塔宮逮捕」(7月21日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:峰島総生

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

堤大二郎(護良親王)

石原良純(脇屋義助)

赤井英和(楠木正季)

瀬川哲也(恩智左近) でんでん(神宮寺正房)
大林丈史(殿の法印) ドン貫太郎(今川範国)
山崎満(洞院公賢) 相原一夫(一条行房) 舟田走(商人)
にれはらゆい(虎女) 神野三鈴(萩) 阿部きみよ(小岩)
大矢兼臣(権ノ大夫) 伊達大輔・渡辺高志・小松正一(近習) 
加藤盛大(楠木正行) 大河原梓(恒良親王) 小林大介(武将) 大森一(公家)

藤真利子(久子)

柄本明(高師直)

小松方正(名和長年)

山内明(吉良貞義)

卜字たかお・武川信介・野村信次(武将)
村上寿・堀越登美・木村栄(武将)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ  早川プロ
丹波道場 劇団ひまわり 劇団いろは 足利氏のみなさん 太田市のみなさん
 
武田鉄矢(楠木正成)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:藤野登○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:岩崎延雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇
 
 建武元年秋、都は開戦前夜の様相を呈していた。護良親王の館には武装した楠木正季が姿を現し、護良は「楠木、頼りに思うぞ」と声をかける。一方の足利側も兵を六波羅に集結させ、尊氏高師直佐々木道誉吉良貞義らが情勢をめぐって議論をしていた。関東の武士達はほぼ高みの見物だろうと思われたが、楠木正成がどう動くのかが読めない。

そんな時、通りで警戒していた足利の兵達が道に迷ってウロウロしている女子供を含む一行を見つけ、これを拘束した。調べたところこれは楠木正成の妻・久子と長男・正行(まさつら)とその召使たちだった。彼らは六波羅に連行され、報告が尊氏に届く。師直は「良き人質」と言うが、尊氏は別の思惑を持っていた。
 六波羅に連れてこられた久子と侍女達は都の一触即発の情勢も知らずのんきなもので、「都は何から何まで大きうござりますなぁ…先ほど通った橋は?…あれが五条の…!」などと、物珍しげにあたりを見回し、足利の兵に質問したりしている。そこへ尊氏が現れ、久子と正行は挨拶をする。尊氏が従者が少ないことに驚くと、久子は自分たちが正成の許可を得ずに勝手に河内を出てきたのだと打ち明ける。そして正成が尊氏を都一番の武家と評価していたと言って、その尊氏に会えたことで本当に都に来た心地になったと喜ぶのだった。
 久子達が足利軍に拘束されたとの情報は、富小路の正成にも伝えられた。正成達は驚くが、その久子達を足利尊氏本人が正成の館まで送り届けに来ていることを恩智左近が伝える。神宮寺正房は正季とともに尊氏を迎え撃とうとするが、正成は「我が楠木党は宮にもつかん、足利にもつかん。わしの命に逆ろうて戦をする者は成敗いたす!」と刀を手にする。
 そのころ尊氏は久子と正行を牛車に載せ、公家の一行に見せかけて正成邸へ向かっていた。その中で尊氏は久子に都の情勢を教え、正季も自分の敵に回っていることを告げる。驚く久子に尊氏は自分が戦を回避したいと思っていることを語った。すると正行が「御殿は戦が嫌いにござりまするか?」と尋ねた。尊氏が「嫌いでござる」と答えると、「父上と同じでござりまするな!」と正行は喜ぶのだった。楠木正行、このとき9歳。後に尊氏と戦い、23年の短くも波乱の人生を閉じることになる。

 尊氏の一行が正成邸に着いた。久子と正行を正成は「はるばる良う来た…」とねぎらい、尊氏に礼を言う。すると尊氏は「明日の戦に楠木殿の援軍をたまわりたく」と言い出す。「どちらにもつかぬ」と拒絶する正成だったが、「戦を止めてみせましょうぞ」という尊氏の言葉に、ひとまず邸内に通す。
 一室で尊氏は正成に自分の考えを明かす。正成がはっきりと尊氏支持を表明してくれれば弟の正季はもちろん様子見の武家達がみな護良親王から離れ、護良派は自壊し戦闘は避けられると尊氏は説明する。正成は説明に納得するもののどこか迷いを見せていた。「戦になればこの立派な館も灰になりまするぞ」と尊氏が言うと、正成はこの館はもともと何とかという公家の持ち物だから灰になっても構わぬと答え、「しかし隣の御所が焼けては困る」と帝の身のみを案じる。尊氏が「それがしとてそれを案じてのこと」と言うと、「まことにさようか?」と正成は厳しい顔で問う。
 正成は庭を見せながら尊氏に語る。いま世相は確かに乱れているが、北条に邪魔されずに市の交易ができ、国司として自ら河内の再建もできる。「北条の世より帝の御代の方がわしらにとってははるかに良い。帝の御代を壊そうとする者があれば黙ってはおれん」と正成は言い、「ただこう申す者がおる。足利殿は鎌倉に幕府を開くつもりじゃ…足利は北条に化けるつもりじゃと…河内・大和の者はそれを恐れておる」と尊氏に告げる。これに尊氏は正成の「大事なもののために死するは負けとは申さぬ」という言葉をひいて私利私欲のために戦うことはないと語気を強めて言うのだった。

 翌朝、尊氏は都の有力武家に強引な招集をかけた。正成が真っ先に馳せ参じたため新田や名和などほとんどの有力武家が六波羅に赴いた。尊氏は「都で戦を起こそうとしている者がいる。これは見過ごせぬ」と言って一同に都の平穏のための協力を求める。正成がただちに賛意を示し、諸将もこれに従う。ただ義貞だけは「いかように?」とその方策を尊氏に尋ねる。「それがしに従っていただき戦の張本人を都より追い払うていただく」と尊氏。これに義貞は「武者所の長として足利どのに従うは筋違い」と反発し、また「宮には宮の思し召しがあろう」と意見する。しかし尊氏は「宮の思し召しとは?」と聞き返し、逆に義貞の態度を責める。ここで正成が結城や名和の同意を確認し、義貞にも「こたびは足利殿に従うてみてはいかがじゃ」とやんわりと勧める。尊氏が「御異存ございませぬな」と言うと、正成が「ははーっ」と即座に平伏し、一同もそれに倣う。義貞・義助の兄弟も最後に平伏した。
 会議が終わり、正成と尊氏だけが残る。「これでよろしゅうござるか?」と言う正成に尊氏は黙って深々と頭を下げる。正成はこれから紀伊・飯森山の北条残党による反乱の鎮圧のために出陣すると尊氏に告げ、留守の間都と帝を守ってくれと頼むのだった。

 「みな逃げたのか…!」味方と思っていた武士達が次々と離脱し、護良親王は愕然としていた。正季の姿もいつの間にか見えず、各地の兵も姿を消していた。「叡山じゃ!この護良には叡山がある!」と護良は強気を崩さず、「足利め…!ついに正体を現したわ!これで帝もおわかりになろう」とつぶやく。
 一方、内裏では歌の勉強をする恒良親王のそばで、阿野廉子名和長年が密談していた。廉子は「宮はこの恒良を押しのけて次の御位に就きたいのじゃ。あさましい…」と言い、長年も「人心はすでに宮を離れたと奏上を…」と提案する。

 この日、都に初雪が降った。古式にならい宮中で初雪の宴を催すとして、夕刻に護良親王が里内裏に召し出された。内裏を歩いていた護良はふと足を止めて降る雪を眺める。「雪か…内裏で雪を見るのは何年ぶりであろう…いくさ、いくさであっという間の数年であった…」と護良はしみじみとつぶやき、腰をおろし手を伸ばして雪を受け止める。「雪がいつ降り、いつやんだやら…とんと覚えぬこの幾年じゃ」と笑って護良は立ち上がった。
 そのとき、案内をしていた公家が「申し訳ございませぬ!」と逃げ出した。驚く護良の前に数名の武士を率いた名和長年が現れる。何か危険を察した護良は身を翻して走り出すが、武士達が彼を取り囲む。「ここは御座所近くじゃ、下がれ下がれ!」と護良が武士達を一喝すると、長年は「是非もない。お縄をかけろ」と冷たく命じた。暴れる護良を武士達がよってたかって押さえつけ、たちまち護良は縛り上げられる。わめく護良に長年が「帝の御命じゃ。御叡慮でござる」と言い渡すと、「御叡慮…!?」と護良は愕然とする。「いつわりを申すな!帝はみの父ぞ!何が御命か!父君ーっ!これが帝の、御叡慮かーっ!みかどーっ!!」絶叫しながら護良は長年らに引ったてられていく。
 夜になり、雪が静かに降る庭を後醍醐天皇が眺めていた。「まことにこれでよろしゅうございますか、お上?」と廉子。「朕が思案のすえじゃ…。これでよい。都を戦から救うにはこうするほかあるまい」と後醍醐は言う。そして後醍醐は護良の身柄を足利にゆだねるよう命じた。「あれほどの者じゃ。よもや宮を…殺しはしまい」と言って。

 足利家に引き渡され幽閉された護良のところへ、尊氏が訪ねてくる。「かかる仕儀となり、さぞやこの尊氏をお恨みでしょう」と尊氏が言うと、護良は「奇妙じゃのう…これは帝の御意志じゃという。子が道を間違うたというのなら、なぜ帝ご自身の手で殺さぬ…なぜご自身の敵に子を渡す…」とつぶやくように言う。そして尊氏がいずれ武士たちの望みを受けて幕府を開き、帝と戦うことになるだろうと予言するように言う。「そちにはそれだけの器量がある…それゆえ、殺しておきたかった…」そう言って護良は自嘲するように笑う。「望むと望まざると、まろは帝の子。そちは武家の棟梁。それゆえ、あい争うた。そして…負けた…むなしい…限りじゃ…」うつろに語る護良を、尊氏は黙って見つめた。

 やがて、宮派に奪回される危険があったため、護良親王の身柄は足利直義がいる鎌倉へと送られることになった。この事件は結果的に足利尊氏の実力を見せつける形になり、人々の警戒を招くことになる。
 



◇太平記のふるさと◇
 
 三重県・美杉村。戦国時代まで北畠一族の拠点のあった霧山城址、北畠神社などを紹介。


☆解 説☆
 
 今回は前回に引き続き、尊氏と護良親王の対決が描かれる。正直なところ前回の内容と一体化して一回ぶんにまとめることができる内容だと思うんだけどなぁ。護良親王逮捕に至るまでにこんなに長くかかるとは当時思っても見なかった。

 今回の内容を引き伸ばすため(?)に正成の妻子が都にやってくる顛末が挿入されている。これは原作にもないドラマオリジナルの創作。そろそろ久子さんを出しておかないと、という配慮もあったように思える。例のにぎやかな侍女三人組もまたまた登場、田舎者ぶりを発揮している。
 当時何気なくみていたこのくだり、僕は何となく戦をやめさせようとした久子の計画的上京のように勝手に思っていたのだが、今回見返してみたら明らかに全く情勢を知らずに上京し、おまけに道に迷って偶然に足利軍に捕らわれていたのだった。偶然にしちゃいくらなんでも出来過ぎ。
 以前登場したときは「多聞丸」だった正成の長男もいつの間にか元服して「正行」として再登場している。この回で登場した子役が「湊川」あたりまで正行を演じることになる。ナレーションでその後の運命をあっさり明かしてしまっているが、正行戦死が描かれるのは「足利家の内紛」の回である。
 
 正成が尊氏に協力して護良親王らの決起を阻止するのも全くの創作。ただここで注目したいのは正成もまた尊氏を「第二の北条」とみなして警戒し、自分たちにとっては後醍醐の建武政権の方が鎌倉幕府よりずっとましだとハッキリと言うところ。後醍醐政権が様々な失政をしながらも畿内の新興武士勢力からは一定の支持を受けていたのは確かで、これが後に吉野の南朝をそれなりにながらえさせる要因となっている。
 そしてこの場面は尊氏と正成の対決がいずれ避けられぬものであることを暗示してもいる。このドラマの尊氏はむきになって否定しているが、実際には尊氏が討幕直後から自らの幕府を作ろうとしていたのは明白だ(後醍醐とは適当に折り合いをつけるつもりだったのだろう)。だからどうもこのあたりの尊氏の言動は見ていて胡散臭さがつきまとっちゃうんだよな。
 
 武家達が尊氏に従うことを誓う場面で、義貞が「武者所の長」として反発する部分がある。「武者所」というのは建武政権が新設した京の守備にあたる武士達を統括する部署で、言ってみれば天皇直属の親衛隊であり、尊氏の六波羅奉行所(これは足利家の私的な性格が強いものだが)と管轄がかち合うところがあった。この職に義貞をつけたのには、明らかに尊氏と対抗させ牽制させようと言う後醍醐の意図があったのだろう。
 この場面で、正成が座にいる武士に「結城どの」と声をかけている。確証はないが、状況からすればこれは結城親光だろう。建武政権で大出世した武家・公家を人々が「三木一草」と呼んだことは前に書いたが、この「木」の一人が結城親光なのだ。彼は後醍醐の厚い信任をうけ名和長年とともに天皇の親衛隊的役割をにない、父・宗広も北畠父子に従って忠勤に励んだ。親光はのちに尊氏が後醍醐に叛いて京をいったん占領した際、尊氏に偽って降伏し、尊氏暗殺を狙う。どこか察するところがあったのか尊氏は彼に面会せず、代わりに応対した大友貞載(箱根の戦いで足利に寝返っていた)が親光に殺され、親光もまたその場で斬り死にすることになる。
 会議が終わったあと、正成が紀伊の飯森山の反乱を鎮圧するために出かけると言っているが、これは史実。実際に護良逮捕前後(1334年10月)に出陣しており、なかなか鎮圧できずに年末には足利一門の斯波高経も飯盛山に派遣されている。なお、この乱に反応してこの12月に二階堂道蘊が処刑されている。

 護良親王が内裏で捕らえられる場面はなかなかの名シーン。内裏に降る雪を見て護良がしみじみと自分の人生を回想するところから、急転直下に父の命による捕縛のドン底に突き落とされるところまで、堤大二郎さんの名演がみられる。実際に捕縛したのはドラマ同様に名和長年だったが、先述の結城親光も一緒だった。
 建武元年十月二十二日の護良逮捕の背景に継母の阿野廉子、そして足利尊氏の策謀があったのは確かだろうが(ドラマでは尊氏は圏外に置かれてるけどね)、足利側の史書「梅松論」が指摘するように、後醍醐自身が護良を使って尊氏打倒を図り、それが挫折したので後醍醐が護良を切り捨て、尊氏に引き渡したという見方もかなり有力だ。というか、その方が納得がいく部分も多い。まあいつの時代でも権力闘争というのは複雑怪奇なもんである。「梅松論」は護良が「尊氏よりも主上の方が恨めしい」と語ったと伝えるが、それは一片の真実を含んでいるかもしれない。
 こうした相次ぐ騒動の中、ドラマでも正成呼び出しの場面で出てきた万里小路藤房が後醍醐に諫奏していれられず、新政の行く末に絶望していずこかへ出奔してしまっている。建武政権はその開始直後から末期状態の様相を呈してしまっていたのだ。