第三十回「悲劇の皇子」(7月28日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二


◇アヴァン・タイトル◇

 建武政権の打ち出す諸政策の現実との乖離、尊氏と護良の抗争の顛末を解説。それから半年の時間が過ぎている。



◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

柳葉敏郎(ましらの石)

堤大二郎(護良親王)

本木雅弘(千種忠顕)

宮沢りえ(藤夜叉)

藤木孝(坊門清忠) 井上倫宏(四条隆資)
長谷川初範(西園寺公宗) 森山潤久(細川和氏)
宋英徳(西園寺公重) 緑川誠(北条泰家) 相原一夫(一条行房)
須永慶(日野資名) 伊達大輔・岡田俊博(近習)
高橋豊・大森一・横尾三郎・森尾なおあき(公家)

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

宮崎萬純(勾当内侍)

山内明(吉良貞義)

佐々木敏(淵辺伊賀守) 阿部六郎(目代) 日埜洋人(馬六)
折口明・吉沢眞人(農民) 石川佳代・壬生まさみ(侍女)
北村学・前田哲也・片山大輔・茂木信孝(武士)
山崎雄一郎(不知哉丸) 森田祐介(千寿王)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ
鳳プロ 丹波道場 劇団いろは 足利氏のみなさん 太田市のみなさん
 
根津甚八(新田義貞)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:石川恭男○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:鈴木清人○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 建武2年(1335)6月。京・北山の西園寺公宗の屋敷では恐るべき陰謀が話し合われていた。後醍醐天皇暗殺の計画である。西園寺家は北条氏と密接な関係を持って栄えた公家であり、建武政権では当然ながら地位が低下していた。これに密かに京に潜入していた北条高時の弟・北条泰家が加わり、蛍狩りのために後醍醐帝が北山邸に臨幸する際にこれを暗殺してしまおうと計画していた。笑いながら計画の相談をする一同の中で、公宗の弟・公重は内心恐怖を感じていた。
 公宗邸から立ち去った公重は輿の中で思案し、「これから御所へ行く!」と輿の行く先を変えるよう指示を出した。すると突然、黒装束の男達が現れ、輿を止める。黒装束を率いる一色右馬介は輿の御簾をあげて公重を確認し、「この都に北条一族を招き入れ、何の密談か?」と問いただした。

 翌朝、足利尊氏は右馬介を伴って新田義貞のいる武者所を訪れ、公重が白状した陰謀の内容を義貞に告げる。義貞は自分が鎌倉で討ち漏らした泰家が都に入っていたことに驚きつつ、なぜ尊氏が自らの手柄とせず自分に教えてくれたのか尋ねる。尊氏は「帝をお守りするのは武者所の役目」と答え、護良親王のときの借りもある、と付け加えた。義貞は「多いのう…謀反が多すぎる…」とヒゲをさすり、大内裏造営のための税のことで自分の領地の越後でもゴタゴタしていることなどを尊氏に愚痴った。尊氏は「帝は美しい都をつくりたいのじゃ…わからぬでもない」と後醍醐の弁護をする。「よかろう、わしは戦に勝てばそれでよい。帝をお守り奉ればそれでよい。それが武家というもの」と義貞は尊氏に礼を言って西園寺邸へ出撃していった。義貞が立ち去ると、右馬介もただちに鎌倉へ発った。公重の供述によれば関東のどこかで北条残党が蜂起することになっていたのだ。
 義貞率いる武者所の兵は西園寺邸へ乱入し、抵抗する者を斬り捨てつつ、公宗ら首謀者を逮捕した。しかし肝心の北条泰家は素早く逃亡してしまっていた。
 逃亡した泰家はただ一騎で信濃へと走った。信濃の諏訪には北条高時の遺児・時行がかくまわれていたのだ。時行をかついだ諏訪頼重ら北条残党はここにいたって挙兵し、鎌倉を目指した。時行軍はたちまち北条系・反新政の勢力を糾合し、大軍となって信濃守護・小笠原貞宗の軍を撃破、破竹の勢いで関東へ入り、女影原で迎え撃った足利軍と最初の戦闘を行い、これも撃破してしまう。

 美濃では代官としてこの地にやってきたが、領主と農民の間で板挟みとなって悩んでいた。帝のかけた新税をとりたてようにも貧しい農民達には「死ねと言うのか」と泣きつかれ、税を取り立てる姉小路家の目代には「三日以内に差し出せ」と責め立てられる。石は藤夜叉と自分達の畑を耕しながら「わしは税の取り立てのためにここに来たのではない…」とぼやく。北条の時代よりも税が重くなるなど新政の実態をぼやく石を、藤夜叉は「良くなるよ…世の中きっと良くなる」と慰める。石が関東の情勢を説明し足利も先がないと言っていると、不知哉丸が「足利は負けん」とひどく足利の肩を持つ。「わしの前で足利、足利言うな。足利はわしの母を殺したのだ」と石が言うと、不知哉丸は「石のおろかもん!」と持っていた木刀を投げつけ逃げていく。
 「足利が何をしてくれた…?わしの方がよっぽど父親らしいわ」と石はぼやく。藤夜叉が不知哉丸も村人も石を父親と思っているはず、と言うと、「誰もわしとお主を兄妹とは思わんもんな…みんな夫婦と思うとるもんな…でも、他人だもんな…わぬしも不知哉丸も…他人だもんな…」と石は愚痴るように言う。藤夜叉はそんな石を黙って見るしかない。見れば、夕陽の中、遠くを騎馬武者たちが走っていく。駆けつけてきた村人が、鎌倉が危うくなり足利が美濃にも助けを求めてきたのだと知らせた。「また戦じゃ!」の声に石と藤夜叉は表情を暗くする。

 関東の危機的状況は六波羅の尊氏のもとにも逐一知らせが入っていた。三河にいる兵が動かせないかと尊氏が言うが、吉良貞義らは信濃から来る敵に備えねばならず、また鎌倉が落ちた場合のためにも三河の兵を温存して置かねばならないと進言する。誰も関東に駆けつけられないと悟った尊氏は「わしが行く」と言い出す。高師直が都には7、800の兵しかいないと言うと、尊氏は帝に武家全てを動かす許しをもらって諸国の武家に兵を集めさせると答える。「征夷大将軍に任じていただく。参内じゃ。内裏へ参る!」と言い捨てて、尊氏は足早に歩み去った。突然の発言に師直も貞義も唖然とする。「殿はいま、何とおおせられた?」「征夷大将軍を望むと…!」「ウム!」「征夷大将軍!ようやく仰せられた!」師直は珍しく晴れ晴れとした表情を見せた。
 尊氏の参内が阿野廉子に伝えられた。公家達と花を立てている廉子は用件を察して「捨て置かれるがよい」と言って、帝が風邪だと言って追い返すように勾当内侍に命じる。千種忠顕坊門清忠もこの乱で目障りになってきた足利の力を削ぎ、新田など他の武家を関東に向かわせようと画策していたのだった。
 尊氏のもとへ勾当内侍が現れ「本日は帝は風気の気味にて…」と伝える。尊氏は執拗に食い下がるが、内侍はひたすら頭を下げ、拝謁がかなわないことを繰り返した。
 
 一方、鎌倉。時行軍を迎え撃った足利直義の軍は関戸でも敗北を喫し、鎌倉陥落は時間の問題となっていた。傷だらけの細川和氏が鎌倉の足利邸に帰還して登子千寿王に藤沢へ落ち延びるようにという直義の伝言を伝える。登子たちが立ち去った後、和氏は成良親王の消息を右馬介に聞く。右馬介が成良を海から逃がしたことを告げ、護良親王も自分が連れて逃がすと答えると、「いや、お連れせずともよいとの御舎弟どのの命じゃ」と和氏。驚く右馬介に和氏は直義が護良を殺すよう命じたことを告げた。「そのようなこと、聞いておらぬぞ!」と右馬介が騒ぐが、「御舎弟どのの命じゃ。すでに淵辺が向かっておるわ」と和氏。右馬介は慌てて飛び出していく。

 葛西が谷・東光寺。護良親王はここにすでに八ヶ月も幽閉され写経三昧の日々を送っていた。この時も護良は写経をしており、「無死無生」の一句を写してじっとそれに見入っていた。そこへどこからか風が吹いてくる。「南か…警護の者もいずこかへ走り去ったわ。足利は北条に苦戦しておるようじゃのう」と護良が言っていると、淵辺伊賀守が太刀を手に静かに部屋に入ってくる。淵辺が直義の家臣、と名乗ると護良は自らの最期を悟った。「ならば足利に伝えよ。すでに護良は都を離れて死せし者。足利は死せし者の影におびえ、死者をむち打つかと!」そう言って護良は顔を上げ、刀を振り上げる淵辺をカッとにらみつける。恐れ震える淵辺。それから護良は静かに経台にむかって姿勢を正した。「御免!」絶叫と共に刀が振り下ろされ、経文に鮮血が散った。
 その瞬間。内裏の後醍醐帝はハッと目を覚ました。全身汗びっしょりである。不吉な予感を覚えていると、廉子が鎌倉の陥落の知らせを持ってきた。後醍醐は成良親王の無事を確認すると千種、坊門、新田らを内裏に呼ぶよう命じた。廉子が立ち去りかけたとき、後醍醐が「護良は?」と尋ねた。「それはいまだ…」とだけ答える廉子。そこへ尊氏も参内してきたことが伝えられる。

 尊氏と話す前に、後醍醐は千種、坊門、義貞を集めて意見を聞く。忠顕は「足利は思いの外弱い」と言い、清忠も「足利を排し他の武家を」と進言する。後醍醐が義貞の意見を求めると、義貞は関東はもともと北条の根城であり、北条残党の足利に対する怨みから強力なのだと現状分析を述べた上で「それがしが足利なれば軍を率いて関東へ行く」と尊氏を擁護するような発言を行った。これには忠顕も清忠も面白くなく、義貞に出陣するようしきりにけしかける。「行けとの大命なれば新田はどこへでも参り合戦つかまつりまする。北条ごとき、いつでも蹴散らしてご覧に入れまする」と義貞は言いつつ、「さりながら、それがしは同じ関東者ゆえ、足利と北条の考えしことがいささか分かる節もござるゆえ」と付け加えた。忠顕が「関東者の考えることなどとるにたらぬ!武家は戦に向かって勝てばよい」と責めると、後醍醐は忠顕をたしなめ、一同に退出をうながした。
 一同が立ち去った後、後醍醐は廉子に義貞の印象を問うた。「気の利かぬ者でござりまするが、心根は信ずるに足る者かと」と廉子が答えると、後醍醐はうなずき「あれは頼りになる…古風な武者じゃ…あれでよい」と微笑むのだった。
 義貞は勾当内侍に案内されながら退出した。その途中、足を止めて義貞は扇で自らを仰ぐ。「それがしは帝の御前で奇妙なことを申し上げたやも知れぬ…お笑い下され。帝に召される前はいつもうまくお答えせねばとあれこれ思いながら出るのだが、お公家の方々に囲まれると…ハハハ、関東の田舎武士でござる」と恥ずかしげに笑う義貞。すると内侍は「新田殿の申されたことは、奇妙なことは何一つございません。お公家の方々がよほど奇妙でござりました」と義貞を見つめて言った。義貞も内侍をじっと見つめる。

 そこへ尊氏を召し出す声が響き、尊氏が義貞とすれ違っていく。尊氏は義貞に黙礼をして歩みを進めていった。そんな尊氏を義貞と内侍が目線で見送る。
 この翌年−。尊氏と義貞は天下を二分して戦うことになる。その運命はこの夜、帝によりもたらされることになるのである。そのことに、尊氏も義貞も、まだ気づいていない−。



◇太平記のふるさと◇
 
 神奈川県・鎌倉市。護良親王を祭るため明治2年に建てられた鎌倉宮とそこに収められた護良像や護良直筆の書、裏手の護良が幽閉されたと伝えられる土牢などを紹介。


☆解 説☆
 
 ここまでも建武政権内の対立抗争が描かれていたが、この回からついに全国規模の動乱が再び始まることになる。その発端となるのが西園寺公宗・北条泰家による後醍醐暗殺の陰謀である。

 この大事件は古典「太平記」にも記されているが、古典では後醍醐が西園寺邸に赴く前夜に霊夢を見て危険を察知、するとその直後に公重が密告に来るという展開になっている(霊夢の意味があまり無いような…)。泰家は時興と名を変えていたなんて話もあるが、ドラマでは面倒だったのかその事には触れていない。もちろんドラマのように尊氏がそれを事前に察知したとか義貞が西園寺家に切り込んだとか(義貞自ら斬り捨てたりしてるもんな)いった事実はない。西園寺公宗はこの年の8月2日に処刑されるが、三位以上の高級公家は流刑どまりで死刑にはされないのが通例で(平治の乱以来無かった)、この処刑は世の人の非難を浴びたという。古典「太平記」は当初出雲に流刑にするはずが、連行する際に「早(はや)!」と命じられた名和長年が「殺せ」という意味に勘違いして即座に首を斬っちゃった、なんて凄い話を記しているが、どうも長年が勘違いしたということにしてコッソリ処刑してしまったというのが真相であるらしい。それだけ後醍醐天皇は余裕を失っていたとも言えるだろう。
 この事件で陰謀を密告した弟の公重は褒美として西園寺家の家督を手に入れるが、尊氏が建武政権を倒すと家督は公宗の子に奪い返されしまう。その後南朝軍が一時的に京都を占領した「正平の一統」時にまたまた家督を奪い返している(そしてもちろんまた奪われたんだろうが)。この動乱の中でそれぞれの公家の中でもこうしためまぐるしい家督争いが行われていたのだ。そう考えるとこの時の密告ははじめから兄から家督を奪う目的で行ったんだろうなという気がする。

 後醍醐暗殺の陰謀と信濃の北条時行の挙兵が連携した動きであったというのは古典「太平記」が勝手に想像していることだが、タイミングとしてはバッチリなのは事実。ただ泰家はその後消息不明なのでホントに連絡をとりあっていたかどうかは分からない。
 高時の子供とか弟とかがいきなり出てきてドラマだけ見ていると面食らわされるが、古典「太平記」は彼らの鎌倉逃亡の経緯もバッチリ書いている。高時は鎌倉滅亡にあたって長男の万寿、次男の亀寿の二人を家臣に任せて落ち延びさせているのだ。ところが長男の万寿を預かった武士は恩賞ほしさに万寿を新田軍に突き出している(もちろん世間の物凄い非難を浴びた)。亀寿は諏訪一族の手に預けられ、元服して「時行」となって挙兵するわけだ。この北条時行もまた南北朝動乱の中で波乱の人生をおくるのだが、それについては後の回で触れたい。
 時行軍はまたたく間に大軍に成長し、一気に鎌倉を陥落させてしまう。このパターンは新田義貞が上野から挙兵して一気に鎌倉を攻め落としたときと瓜二つである。勢いに乗ったときはホントに恐ろしい、というのがこの時代の戦争である。この戦乱を歴史上「中先代の乱」と呼ぶが、これは北条氏を「先代」、足利氏を「後代」としてその間に入る鎌倉の支配者ということから付いた名前である。鎌倉を保ったのがたった二十日間(!)だったことから「二十日先代の乱」という名称もある。
 なお、この時の女影原の戦いで直義の妻(この時点ではまだ出てきてないな)の兄である渋川義季、ドラマで何度も出てきた意外と重要な人物・岩松経家が戦死している。

 時行軍に敗れて鎌倉を捨てる際、足利直義はドサクサに紛れて護良親王を殺害するという冷徹な行動に出た(そういえばそういう展開がある回なのに高嶋政伸出てませんね)。護良を生かしておくとのちのち足利の災いとなると考えたと言われるが、だったらそれ以前に病死と言うことで毒殺するなどいくらでも手はあったわけで、この時点での殺害は護良親王が北条時行らに担がれることを本気で恐れたためだろう。まさか、とお思いになる人も多いだろうが、この時代武士達がシンボルとして親王を担ぐというパターンはかなりあって(だいたい鎌倉幕府じたいがそうだった)護良といえども北条軍に「将軍」として担ぎ上げられた可能性は十分考えられる。前にも触れたが護良自身が幕府を開く構想を抱いていた節があるし、直義の冷徹な判断は、あながち個人的な憎悪感情に基づいたものではなかったと言えるだろう。
 「太平記のふるさと」コーナーにも「土牢」の話が出てくるように、護良親王は洞窟みたいな土牢に幽閉されそこで殺されたのだというイメージを持っている人が多い(多いって言っても戦前・戦中派だろうけど)。僕も子供時代にそういう挿し絵をみたことがある。しかしこれは後世の誤解で、古典「太平記」にも土牢なんてことは一言も書かれていない。ただ幽閉された部屋の壁を土で固めて出られないようにしたというだけのことなのだ。ドラマではその辺、しっかりと考証していた。たぶん「違うぞ!」というご老人を中心とした抗議電話の一本や二本はNHKにいったに違いない。
 人が入ってきた気配を察した護良が「南か…」と言う台詞があるが、これは都から護良の世話のために付いてきた「南の方」という女性のこと。芸が細かいのは分かるが、「太平記」マニアでもない限り「南」ってなんのことかサッパリ分からないと思うぞ。
 直義に命じられて護良を殺しに行ったのは淵辺伊賀守という武士。ドラマでは「義博(よしひろ)」と名乗っていた。ドラマでは護良は諦めたように静かに首を打たれているが、古典「太平記」だと護良親王は物凄い抵抗をして淵辺の刀に噛みつき、それを刃こぼれさせてしまっている。ようやく首をとった淵辺だったが、その顔の形相のあまりの恐ろしさに、首を辺りに放り投げて立ち去ってしまう。その首を先述の南の方が拾って供養し、その後この女性が上洛して護良殺害の事実を朝廷に伝えることになるのだ。

 この回、珍しく義貞が参内してちょっとした演説をぶっている。この根津義貞はあくまで単純かつ素朴で古風な関東武士という印象を前面に押し出して表現されている。こういうあたり、根津甚八さんは適役であったかもしれない。どうも腹にいちもつある感じの萩原義貞だとこの辺どうなっていたんだろう?勾当内侍との関係もますます進んでますね。なんか義貞に関してはほとんど毎回ラブコメ的展開が続いているような。
 この回で特に顕著だと思われるのだが、本木雅弘さんの千種忠顕が思いっきり悪役になってきている。公家悪役の総大将・坊門清忠といっしょにいるせいなのか…?でもモッくん、一枚看板もらいながらもこの時点ではまだまだ軽い扱いを受けているような気がする。こののち大河の主役を張ることになるお方なのだが…

 ラスト、義貞と尊氏がすれ違う場面で、この先の展開を暗示するナレーションが入る。深読みすると、鎌倉幕府滅亡というヤマが過ぎちゃって複雑な権力闘争が延々と続き、飽きた視聴者が離れてしまうことを恐れて「さあ!間もなく宿命の対決が始まりますよ〜!」と叫ぶ客引きの声。後醍醐は雲の上だし、正成は敵に回せないからこの二人の「対決」で中盤を盛り上げようという制作側の意図であるわけだが…。