第三十一回「尊氏叛く」(8月4日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:門脇正美

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

柳葉敏郎(ましらの石)

高嶋政伸(足利直義)

本木雅弘(千種忠顕)

宮沢りえ(藤夜叉)

藤木孝(坊門清忠) 井上倫宏(四条隆資)
森山潤久(細川和氏) 渡辺寛二(大高重成)
樫葉武司(南宗継) 中島定則(三戸七郎) 相原一夫(一条行房)
ト字たかお(伊賀兼光) 木村栄・武川信介・野村信次(武将)
村上寿・堀越登美(武将) 山崎勘太(下男) 保坂友恵(下女)
伊達大輔・渡辺高志(近習) 山崎雄一郎(不知哉丸)  森田祐介(千寿王)

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

宮崎萬純(勾当内侍)

小松方正(名和長年)

山内明(吉良貞義)

藤真利子(久子)

阿部六郎(目代) 信実一徳(武士) 日埜洋人(馬六)
二宮弘子(座長) 吉沢梨絵(娘) 折口明・水木信吾(農民) 
新井ふかし・三上景子・高柳葉子・鈴木麻巳(農民)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ
早川プロ 園田塾 丹波道場 足利氏のみなさん 太田市のみなさん
 
武田鉄矢(楠木正成)

藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:加藤宏○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:岩崎延雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇
 
 建武2年7月。いわゆる「中先代の乱」が起こり、北条時行軍は一挙に鎌倉を陥落させ、足利直義登子千寿王を守って東海道を西へと落ち延びていった。

 そのころ京では足利尊氏が参内し、鎌倉を救うために兵を率いて関東へ下ること、そして全ての武士を統率するために征夷大将軍に任命してもらいたいことなどを後醍醐天皇に要求していた。後醍醐は関東に家族を残している尊氏の気持ちが分からぬでもないとしながらも、尊氏を関東へ下すことも征夷大将軍に任じることも認められないと答える。それを認めることは幕府再建を許すことに他ならず、公家達もそれを恐れているのだと。尊氏はあくまで将軍の地位を求め、帝に背く気は毛頭ないと言うが、後醍醐は「分かっておる…それゆえ許せと言うておるのじゃ」と尊氏をなだめ、自分が治めるのは全国66か国、関東8カ国のために他の国に混乱を引き起こすのは避けたいと言う。尊氏がその8カ国の戦乱が全国に飛び火してしまう、と言うと、「そのときは朕自ら出陣する」と後醍醐。尊氏は恐れ入り、「帝は神のごとき美しい方」と呼んで戦のような醜いものは武家にお任せをと諫めるが、後醍醐は「尊氏は愚かじゃのう…朕は神でも鬼でもない。人じゃ」と笑う。そして「朕の政を邪魔する者は、たとえ誰であろうと、この手で打ち払うてみしょうぞ」と言い放ち、関東のことは奥州の北畠に任せ、尊氏は都にとどまるよう命じた。

 尊氏が六波羅に帰ってくると、母の清子高師直らがとりかこんで首尾を聞く。尊氏が「帝のお許しは出ず、じゃ」と告げると一同は落胆する。清子が駿河・手越河原の合戦で千寿王らは無事だが直義の身が危ういとの知らせを尊氏に伝える。家臣達が「出陣じゃ!」と騒ぐが、吉良貞義がこれを諫め、尊氏も帝の命により動けないと一同に申し渡す。
 楠木正成の屋敷には千種忠顕からの書状が届いていた。尊氏がもし勝手に出陣しようとしたら武家はこれを阻止せよという指示であった。それを聞いた久子は「むごい」と言い、正成も「千種殿と名和殿はこれを機に一気に足利殿をつぶしておきたいのじゃ」と妻に語る。久子は正成と尊氏はよく似ている、として「足利どのはお発ちになるのではございませぬか」と正成に言う。「そうなれば、大きな戦が始まる」と正成。尊氏が立てば反後醍醐の武家がその傘下に集まり、公家と武家の戦いが始まってしまうと正成は危惧していた。
 翌日、内裏では名和長年が他の公家達と、征夷大将軍を望んで拒絶された尊氏のことをあざ笑っていた。そばにいた新田義貞はそれを黙って聞いていたが、長年に同意を求められたので、たまらずに外へ出る。するとそこに「こわいお顔でござりますな…」と微笑みながら勾当内侍が現れ、帝の呼び出しを義貞に伝えた。

 駿河では直義と登子たちがなんとか足利の拠点・三河へ逃げ込もうとしていた。北条軍は執拗にこれを追い、直義たちは必死の防戦を強いられていた。
 京では尊氏がイライラと庭に水をばらまき、気を晴らそうとしていた。そんな息子を清子が心配そうに眺める。そこへどこからか笑い声が聞こえてきた。「誰が騒いでおる!」と尊氏は癇癪を起こし、ひしゃくを投げ捨てて声のする方へ向かった。すると師直たち家臣一同が白拍子など呼んで飲めや歌えと大騒ぎをしている。「こは何事ぞ!」と怒鳴る尊氏に、師直は赤い顔で「弔いでござります」と答える。せめて酒でも飲んで騒ぐことで、今度の戦いで戦死した親類縁者の弔いをしているというのだ。師直は酒を手に続ける。「かようにしている間にも我らの兄弟縁者が…!酒でも飲んで南無阿弥陀仏と歌うておらねば……やりきれませぬ!」その言葉に尊氏も一同も黙り込む。
 そこへ三河からの早馬が報告をもたらした。相模の戦いで細川頼貞ら多くの武将が討ち死にしたとの書状だった。そこへいつの間にか一色右馬介が姿を現していた。右馬介は直義らが三河へ逃げ込んだものの、勢いのある北条軍が攻め込んだら幾日も猶予がないと尊氏に告げ、奥州の北畠勢も奥州の乱を押さえるために動けない様子と伝えた。しかも北畠親房が足利無きあとの関東を結城宗広に任せてはと公家に書状を送ったらしいとまで報告する。もはや後醍醐の一人歩きに嫌気が差した公家達はめいめい勝手に動いており、「もはや我が身は我が身で守るほかございませぬ」と右馬介は言う。
 「三河も猶予ならぬか…奥州もダメか…やむをえん!」尊氏がそう言ってふりかえると、師直ら家臣一同が庭に出てひざまづき、尊氏の命を待ち受けていた。「師直、明日、三河へ発つ。明日出陣じゃ!」と尊氏は言い、白拍子の白粉をつけ酒に顔を赤らめた一同に「顔を洗え」と命じる。「出陣じゃ!」と家臣達は一斉に立ち上がり、吠えた。

 そこへ佐々木道誉が訪ねてきたとの知らせが入る。尊氏が道誉に会ってみると、道誉は派手な鎧に身を固めていた。「そろそろ足利殿が御出陣なされるころと思いましてな」と道誉は笑い、都の公家たちに茶や花を教えるのも飽きた、尊氏と自分が立てば諸国の武士が馳せ参じようと尊氏に言う。尊氏がこの出陣は帝の許しを得ていない、と道誉に念を押すが、道誉は朝敵である北条を打ち破ってしまえばあとはどうにでもなると言った。そして「足利殿が天下をとる前に力を削がれては元も子もない」と付け加える。自分はまず尊氏に天下をとらせ、それをそのまま奪ってやろうと考えている、「それゆえ助けるほかはない」と道誉は尊氏にささやく。「御辺は…婆沙羅よのう…」と呆れる尊氏。道誉はそれだけ言って近江へ去り、残された尊氏はこみあげてきたように大笑いするのだった。

 ついに足利軍が都から出陣した。尊氏は全国の武士に参陣を呼びかけ、新政に不満を持つ武士達がこれに呼応して集まり、たちまち大軍に成長する。
 内裏には名和長年が慌てて駆けつけ、都中の武士が足利に付いていってしまったと公家達に報告する。千種忠顕も坊門清忠も「追討じゃ!」と騒ぐが、長年は「誰にお命じで」と聞き返す。「名和、そち以外に誰がいようぞ!」と忠顕が叫ぶが、長年は義貞がいつもの暗い顔で「行きたい奴は行けばよい」と言っており、正成も「帝のご意向は」と言うばかりで、どの武士も足利を敵にしたがっていないことを伝える。公家たちは「拝謁して追討の綸旨をもらうべし!」とそろって後醍醐のところへ向かう。
 しかし後醍醐の命は「やむをえん…捨て置け…」であった。「行って戦って、辛い思いをするのは尊氏ぞ…よし北条を滅ぼしたとて、誰が恩賞を与えようぞ」と後醍醐は言い、「朕が認めぬ戦に恩賞はない!将軍も与えぬ!それでよければ行くがよい」と断言する。これに公家達も一応納得の表情を見せる。
 尊氏の軍は翌日には近江に着き、ここで佐々木道誉の軍と合流して美濃へと入った。

 その美濃では。不知哉丸が畑で大根の芽が出た、と喜んでいた。藤夜叉が石に頼まれて家に柄杓を取りに行くと、村の神社で白拍子たちが舞の稽古をしているのを見かける。新入りらしい娘が座長の女に踊り方が違うと怒られているのを見て、思わず藤夜叉はその娘にこっそりと手の位置などを身振りで伝える。座長が藤夜叉に気づき、その芸を誉めて、一差し舞ってみよと扇を渡す。藤夜叉は久々に舞を舞いながら、自分の白拍子時代、尊氏との出会いなどを回想するのだった。
 そのころ、畑の石のところに数人の武士達が押し掛け、「合戦の準備だ」と石を目代の所へ引き立てていく。目代の待つ寺の前では、村の農民達が兵士として無理矢理かり出されようとしており、石に救いを求めていた。目代は反逆した足利を討つために村から兵20人、兵糧米40俵を徴発すると申し渡し、勝手に選んだ徴兵される農民達のリストを石に見せ、そこに石が選んだと一筆書けと強要する。やらねば代官の首をすげ替えると脅されて、ついに石は切れる。石は紙を破り捨て、不知哉丸が持ってきた刀を抜いて縛られていた農民達を逃がし、「わしはこの村の代官ぞ!文句があるなら首すげかえてから言え!」と目代の家来たちに刀を向ける。

 そこへ「神社に白拍子…」と楽しげに言いながら藤夜叉が走ってきた。石は「来るな!」と手を振るが、石の背後から目代の家来が石に斬りかかる。それを見て藤夜叉は慌てて石に駆け寄る。石は寸前に気配に気づいて身をかわしたが、目代の家来がふるった刀は駆け寄ってきた藤夜叉の肩を切り裂いた。血を散らして倒れる藤夜叉。石は激昂してその武士を斬り捨て、他の武士達は恐れて逃げ出していく。
 「藤夜叉ーっ!」と叫んで石は藤夜叉に駆け寄り、不知哉丸は「おっ母…」と呆然と見つめる。石が抱き上げるが、藤夜叉の顔はすでに出血のために青ざめていた。



◇太平記のふるさと◇
 
 福島県白河市。結城氏の拠点となった白川城、関川寺の結城宗広の肖像画などを紹介。小山家の分家である結城氏などが後醍醐に従った背景に本家からの独立の夢があったことを解説し、白河藩主だった松平定信が結城宗広・親光父子を讃えて作った岩壁の碑を映す。


☆解 説☆
 
 「尊氏叛く」というタイトルだが、まだ厳密には叛いたわけではなく、勝手に出陣したという段階。まぁこれが「反逆」への出発点になるのは事実だが。

 ドラマでは尊氏が後醍醐に関東下向と共に要求したのが「征夷大将軍」の官職のみになっているが、実際にはもう一つ、「総追捕使(そうついぶし)」に任命することも要求していた。「総追捕使」とは初め「守護」の別名みたいに使われた言葉で、ある一定領域の支配権をもつ地位である。例えば源頼朝は「日本六十六国の総追捕使(総守護)」と呼ばれ、全国に対して領域的支配を認められる立場となった。前にも引いた佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)の受け売りだけど、征夷大将軍というのは人的に武士達を統率する上で形式上都合の良い官職であり、政治権力としての鎌倉幕府にとって重要だったのは、むしろ「総追捕使」のほうだった、とのことである。ドラマでは面倒だから将軍を要求することに絞ったのだろうが、尊氏はこの両者を要求することで、事実上「足利幕府」の公認を後醍醐に迫ったわけだ。後醍醐がこれを拒絶したのは彼の政治思想から言えば至極当然だったと言うしかない。
 どうも直義にしても尊氏にしても、北条時行の乱をむしろ「好機」とみて一気に幕府設立に持っていこうとしていたようで、なにやら火事場ドロボー的印象(笑)もぬぐえないのだが、では完全に全国規模の幕府を作るつもりだったかというとそうでも無いらしい。鎌倉を脱出した直義は三河に滞在しここで兄・尊氏の到着を待つが、その後の展開からもどうも足利兄弟は鎌倉に拠点を置き、三河までを支配領域とする東国限定の「幕府」をつくるつもりだったんじゃないかと思える。これも佐藤進一氏の主張の受け売りだが、尊氏が要求した「総追捕使」の支配範囲は全国でなかった可能性は充分にあるという。
 しかしいずれにせよ後醍醐天皇は尊氏の要求を完全に拒絶した。まるであてつけのように征夷大将軍の位を鎌倉から脱出している最中の幼い成良親王に与えてしまっているぐらいだ。

 ドラマでは尊氏が後醍醐を振りきって出陣する動機を妻子や弟、一門の安否を気遣うあまり、というかなり彼個人の心情的なものにしぼっている。そういう要素ももちろんあったとは思うが、もはや建武政権が矛盾を抱えすぎて限界点に達しており、「武家の棟梁」尊氏としては多くの武士達の期待にこたえて武士のための新政権を作る必要に迫られていた。後醍醐があくまでも拒絶するので戦乱勃発を機会に実力行使に及んだ、そんなところじゃないかと思う。一種のクーデターと考えても良いだろう。ただ尊氏はあくまで後醍醐天皇そのひとに逆らう気はなかった。そこで関東に限定して幕府を開かせてもらい、おいおい「既成事実」として後醍醐に認めてもらおうと考えていたんじゃないだろうか。
 上記のような構想はドラマではこのあと直義、師直らが勝手に進めていく形で、尊氏個人は政治的な動機ではなく、あくまで彼個人の感情をもとに行動しているように描かれていた。正直なところそんなわきゃないだろう、まったくNHKはいつも主役を善人に描きすぎるよな、と思っちゃうところなのであるが、この関東下りから京都へ攻め上るまでの尊氏の行動は実際奇々怪々なのでドラマのような解釈も成り立たないわけではない、とは言っておこう。

 なかなか出陣しない尊氏をけしかけるべく、ドンチャン騒ぎをして、酔っぱらいながら「…やりきれませぬ!」とやる高師直。ここまでの師直って尊氏に影のようによりそっているという印象であまり自己主張が強くなかったのだが(もちろん時々自らの持論を口にするが静かにボソッと言う感じだ)、この場面は珍しく独演状態でかなり強い印象を残してくれる。

 尊氏の出陣を察知して毎度おなじみ佐々木道誉が駆けつけてくる。ここのやりとりもなかなか面白いが、道誉が尊氏の出陣についていったのは史実。そしてこのあと道誉が史実で確認できる最初の「役者」ぶりを見せてくれることになるのだが、それについては後の回で。そういえば道誉が「尊氏に天下を取らせてそれをわしが奪う」と「計画」を明かすのはこの場面が最初だった。

 後醍醐が尊氏の要求を拒絶して成良親王を征夷大将軍に任じたのは8月1日のこと。これを受けてもはやこれまでと尊氏が出陣したのはその翌日、8月2日のことである。勝手に出陣してしまった尊氏を、ドラマの後醍醐天皇は「捨て置け」と言って強気に見送っている。ただし恩賞は出さないぞ、というわけである。ただ実際にはそう強気だったわけではない。尊氏出陣が現実のものとなってしまうとかなり慌ててしまったらしく、この8月2日のうちに、出陣した尊氏に向けて勅使を派遣し「征東将軍」という称号を申し訳のように授けている。この顛末について、たびたび引く佐藤進一氏は、これ以前の護良親王のことも含めて「状況判断の甘さだけでなく、一見強気そうでいて、意外に弱気な後醍醐の人柄のせいかもしれない」と記している。ドラマではこの「征東将軍」を授ける場面は無かったが、第34回でセリフの中で触れられていた。
 尊氏出陣を伝えに来る名和長年が千種忠顕に「義貞と正成を率いて尊氏を討て」と言われて答えるセリフで、「新田がいつものあの暗い顔で…」と言っているのがちょっと可笑しい(笑)。実際、このドラマの義貞、かなりネクラなもので…。

 尊氏が美濃にさしかかるとき、美濃の藤夜叉たちを悲劇が襲う。当時はまだ次回で藤夜叉が死ぬとは知らずにみていたわけだけど、前回あたりから「危ないなあ」という予感を与えるシーンがあった。この回で唐突に白拍子一座と舞い始める場面をみて、「いよいよ危ないな」と感じたものだ。
 そして案の定、藤夜叉を武士の凶刃が襲う。ただ、このシーン、もうちょっとどうにかなんなかったのかと愚痴ってしまう演出なんだよね。なんか石が藤夜叉を斬らせるためにわざわざ絶妙のタイミングで身をかわしているように見えちゃうのだ(汗)。何度見てもかなり不自然な動きの多いシーンで、藤夜叉が斬られるにしても他に手があっただろうに、と思ってしまう残念な場面だ。