第三十二回「藤夜叉死す」(8月11日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:榎戸崇泰

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

陣内孝則(佐々木道誉)

柳葉敏郎(ましらの石)

高嶋政伸(足利直義)
 
森山潤久(細川和氏) ドン貫太郎(今川範国)
奥村公延(木助) 山田博行(医師)
渡辺寛二(大高重成) 藤原稔三(使者) 藤恵美子(女房)
山浦栄(家臣) 伊達大輔・渡辺高志(近習) 

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

山内明(吉良貞義)

奥出博志・池田哲・戸ヶ里幸広(武将)
山崎雄一郎(不知哉丸)  森田祐介(千寿王) 高都幸子・船田めぐみ(侍女)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ  鳳プロ
丹波道場 劇団いろは 足利氏のみなさん 太田市のみなさん
 
宮沢りえ(藤夜叉)

藤村志保(清子)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:藤野登○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:松本恒雄○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 「中先代の乱」により足利直義は鎌倉を放棄、登子や千寿王を奉じて三河へと落ち延びた。混乱は全国に広がり、美濃では武士とのトラブルに巻き込まれて藤夜叉が重傷を負ってしまう。そして足利尊氏は関東を北条軍から奪回するべく、後醍醐天皇の許可を受けずに京から出陣したのであった。

 重傷を負った藤夜叉がようやく意識を取り戻した。不知哉丸、村人達が藤夜叉を取り囲んでおり、薬草を塗ったからもう大丈夫と藤夜叉を励ます。しかし薬草を塗った村人はひそかに石にだけ容態がかなり悪いことを告げる。宋の国から伝わった「華佗(かだ)の術」でなければ治るまいと村人は言い、近くに来ている足利軍になら華佗の術を知る医師がいるだろうと石に教える。
 藤夜叉が石を呼んだ。藤夜叉は「石がいないと鬼がやってくるの…」と、まるで子供時代に帰ったような言葉を言い出す。「鬼など何匹でも追い払うてやる」と石は励ます。藤夜叉は石に語る。今まで自分がそそっかしい石を助けてきたつもりだったが、助けてもらっていたのは自分の方だったのだと近ごろ思う、と。「これからもずっと一緒に…そのことを、もっと早く言いたかった…兄妹だから、言えなかった…」そう言って藤夜叉は手を伸ばし、石がその手を握り締めた。「藤夜叉…!」石はその手に顔をすりよせる。藤夜叉の「寒い…」という声に、石はたまらず足利軍の陣営に走る。

 足利軍の陣営では三河からの使者が到着し、直義や登子たちが矢矧に無事入ったと報告した。北条軍が三河へなだれ込もうとするのを国ざかいで防いでいるところ、との情報であった。
 そんな足利陣へ石が忍び込んだ。すぐに見張りの兵に見つかって取り押さえられるが、石は「足利に会わせろ!」と叫ぶ。「何事じゃ」と騒ぎを聞きつけて一色右馬介が石の前に現れる。
 石から藤夜叉の重態を知った右馬介は慌てて尊氏にこれを伝える。美濃の田舎なら平和に暮らせようと配慮した自分がうかつだったと謝罪する右馬介。尊氏はただちに石に会い、右馬介と少数の武士と医師を引き連れて藤夜叉のもとへ走った。
 尊氏達が藤夜叉の隠れ家に着くと、不知哉丸が出迎え「あ、足利の大将じゃ!」と驚く。尊氏は不知哉丸の頭を撫で、肩に手をやって抱き寄せ、一緒に医師が藤夜叉を診察する様子を見守る。やがて石が「来い」と不知哉丸を連れだし、医師も尊氏だけを残して家を出ていった。尊氏は藤夜叉の頭に手をやり、「しっかりせい…負けるな、負けるでない」と声をかける。すると藤夜叉が目を開き、尊氏に気づいた。「すまぬ、わしの目が届かなんだ」とわびる尊氏に、藤夜叉は田畑をもらった礼を言い、田畑を耕す日々を「こんなにゆっくり暮らしたのは初めて…」と楽しげに語る。「良き世をお作り下さりませ…耕して、種をまいて、ゆっくり暮らせる世の中を…御殿の手で…」そう言って、藤夜叉は尊氏と初めて会った夜の思い出などを尊氏に語り、それ以来まるで夢の中にいたようだったとつぶやく。一気に話し終えた藤夜叉は「少し疲れました…」と言うと、「あ〜ず〜ま〜よ〜り〜♪…」と白拍子の舞の歌を口ずさみながら眠りについた。

 外に出ると、右馬介がそろそろ陣に戻るよう尊氏に告げた。尊氏は不知哉丸に「母上のそばを離れるな。大将が命ず」と言いつける。それを聞いて母親のもとへ駆け出そうとした不知哉丸を尊氏は抱きとめ、「これを持て。わしの守りじゃ」と母から渡された小さな地蔵菩薩の像を手渡した。尊氏は立ち去り際に「斬ったのは公家の家人か…?」と石に聞き、そのまま馬に乗って走り去る。 不知哉丸は地蔵を手に祈りながら苦しむ藤夜叉を見守る。走り去った尊氏だったが、途中で馬を止め、引き返したい衝動にかられながら、ついに振り切るように陣へと駆け戻った。

 やがて尊氏は三河・矢矧に到着。登子と千寿王、そして直義が出迎え、数年ぶりの再会の挨拶をかわす。「五歳になりましてござります」と千寿王を尊氏に見せる登子。尊氏は千寿王に「父のいぬ間、わが一門をよくお守り下された」と声をかけ、「苦労をかけた」と登子をねぎらう。直義は尊氏に戦死者の名を挙げて鎌倉を守りきれなかった罪を詫びた。そこへ北条軍が責めてくるとの報告が入り、「軍議じゃ!鎌倉へ駆け戻ろうぞ」と尊氏は直義を励ます。そこへ清子も姿を現し、登子、千寿王と無事を喜び合う。

 尊氏が軍議の席に向かおうとしていると、「軍議の前に一つだけお聞きしたいことが…」と佐々木道誉が声をかけてきた。直義が鎌倉を落ちる際に護良親王を殺害したとの噂がある、と道誉は尊氏にささやいた。「もし殺したとなれば、今後我らも相応の覚悟が要る」と道誉に言われ、尊氏も動揺する。そこへ直義が姿を現したので、尊氏は道誉とともに別室に呼び入れ、「宮はいずこにおわす?」と直義に問いただす。「宮は鎌倉を捨てるおり、害し奉りました」と即答する直義。連れ出す余裕もなく、また護良が北条と結びつく恐れもあった、それに親王はすでに帝に見捨てられた身、と直義は弁解するが、尊氏は怒って直義を殴りつける。「親にとってはどこまでも我が子ぞ!」と尊氏は怒鳴り、都へ帰ってからどう申し開きをすればよい、と口にする。これを聞いた直義は「都へお帰りにならねばよろしいのです!」と逆に兄を怒鳴りつけ、武士の多くが新政に不満を抱いて見切りをつけている、これを機に幕府を作るほかはない、道誉もそのつもりで参陣したはず、とまくしたてて部屋を出ていってしまう。
 直義が立ち去ると、尊氏と道誉は呆然と座り込んだ。「ハハハハ…都がどんどん遠くなる。おのれが選んだ道だがのう」と道誉は苦笑いし、「わしが同じ立場なら直義どのと同じことをしたやもしれぬ」とつぶやく。ついてきた武士達の多くが同じ思いであり、だからこそ大軍が集まったのだと道誉は尊氏に言う。「軍議じゃ、軍議じゃ。鎌倉をとりかえし、幕府でもなんでも作って良い世の中にしなければのう」と道誉は自らと尊氏を励ますように言い捨てて部屋を出ていく。尊氏も「軍議じゃ、軍議じゃ…戦わねばならぬ」と悩みを振り払うようにつぶやいた。

 諸将を集めた軍議は大いに盛り上がった。尊氏も道誉も冗談を言い合いながら作戦を立てていく。翌日、橋本で最初の合戦が行われ、足利軍は北条軍をあっさり打ち破り、以後東海道で7度の合戦に立て続けに足利軍は勝利して、わずか十日で鎌倉へと迫った。
 
 鎌倉口に陣を敷き、眠っていた尊氏の所へ右馬介が到着したとの知らせが入る。尊氏が右馬介に対面すると、右馬介は肩を震わせながら報告した。「十六日夜…藤夜叉さま…手当の甲斐なく…」それだけ絞り出すように言って、右馬介は泣いた。尊氏は「藤夜叉のこと…大儀であった」と無表情に言うと、一室に入ってひとり瞑想する。藤夜叉と初めて会った夜のこと、鎌倉で共に都へ行こうと語ったこと、美しい都を作って欲しいという藤夜叉の言葉などが、次々と思い起こされるのだった。



◇太平記のふるさと◇
 
 徳島県・那賀川町。足利11代将軍の子、義冬がこの地に移り住んで開いた「阿波公方」の270年にわたる歴史を解説。歴代の墓所がある西光寺に足利家27代当主・足利進悟さんが墓参りに訪れる様子や、那賀川町立歴史民俗資料館に収められた歴代阿波公方の遺品を紹介する。


☆解 説☆
 
 これまでにも何度か出てきた内容が薄いホームドラマ(?)要素の強い回の一つなのだが、タイトルにもあるとおり重要人物である藤夜叉が死んでしまう回であるため、それなりに濃い内容にはなっている。

 藤夜叉を救うためには「華佗の術」が必要、という話が出てくるが、要するに中国渡来の医術ということらしい。「三国志」などに詳しい方はご存じだろうが、「華佗」というのは後漢末に実在した名医で、伝説によると麻酔薬を使用した外科手術まで行ったと言われる。「三国志演義」では時代を代表する英雄・曹操を治療しようとして疑われ、処刑されてしまうというお話になっていた。確か古典「太平記」でも医術の一つに「華佗」うんぬんの名前だけは出てきたような覚えがあるが、なんでも中国古典に絡めてしまうこの古典定番の表現という印象で、実際に当時の日本で「華佗の術」なるものがあったのかどうかはよく分からない(医学史専門の方がいたら聞いてみたいもの)。なお、本文では触れなかったが第9回で貞氏が病に倒れた場面でも医師の「華佗の術をほどこした」というセリフがあった。

 尊氏が不知哉丸に清子からもらった地蔵のお守りを渡している。これについては第19回でも触れたが、原作「私本太平記」では藤夜叉を抱いてしまった高氏が、形見の品を欲しがる藤夜叉に、とっさに手渡してしまう小道具として使われている。ドラマではここで不知哉丸に手渡したことで、不知哉丸が足利家がらみの人間であることを証明する小道具として、彼が成人して出てくるまで使われることになる。

 三河へ行くと尊氏が妻子と久々の面会。思えば第20回「足利決起」で別れて以来、実に12回ぶりの再会、もとい約2年4ヶ月ぶりの家族再会である。「五歳になりましてござります」という登子の言葉は非常に重みがあるのだ。ただ、ちょっと引っかかるのがこの「五歳」という言い方は正しいのか?という点。つまり脚本家がうっかり現代風の実年齢でこのセリフを書いてしまったのではないかと思えるのだ。千寿王は1330年の生まれだが、数え年で言えばこのとき「六歳」が正しいはず。二年前の鎌倉攻めの際に「四歳」と記す本が多いことからもどうも「うっかり」という気がする。
 なお、年齢ばなしついでに書くが、この千寿王、のちの足利二代将軍・義詮は三十八歳と短命でこの世を去っている。

 足利軍が北条軍を撃破していく過程は、実際にあっけなかったせいもあってドラマでは使い回しの合戦映像とナレーションで片づけられてしまった。古典「太平記」の記述から補足すると、北条時行は足利軍に先制攻撃をかけるべく兵を整え8月3日に出撃と決める。ところが鎌倉に大風が吹き、兵士達が大仏殿(当時の鎌倉大仏には大仏殿があったんです)に逃げ込んだところ、風で大仏殿が倒壊し多くの兵士が圧死してしまう。この不吉な門出を裏付けるかのように橋本で北条軍は惨敗、駿河の左夜中山でも敗れ、箱根の合戦では足利軍に加わっていた赤松貞範(円心の次男)の活躍でここも退却を余儀なくされ、とうとう相模川に最後の防衛ラインを敷く。折しも相模川が増水していて北条軍はまさか敵が渡って来るまいと油断していたが、高師泰・赤松貞範・佐々木道誉がそれぞれ上流・中流・下流から渡河を決行し、北条軍はたまらずほとんど一戦もしないで撤退。そのまま鎌倉陥落となってしまった。
 鎌倉陥落に際して、時行を奉じた諏訪頼重ら北条軍の武将達は、勝長寿院に入って自害した。古典「太平記」は彼らの死骸がみな顔の皮を剥いでいたため誰が誰やら判別できず、足利軍はこの中のどれかが時行の遺体だろうと考えたと記している。しかし時行はしっかり生きていた。後に時行は北畠顕家の軍に従い南朝に身を投じることになるのだが、それについては後の回で。

 この回の最後で藤夜叉の死が伝えられるが、伝えられるだけで藤夜叉が死ぬシーンそのものは存在していない。このドラマの特徴なのだが、自害・殺害でない限り、登場人物が目の前で「こときれる」シーンが皆無なのだ。たいてい死ぬ間際に一言二言言って「ガクッ」とこときれるってのは歴史ドラマの死亡場面の定番とも言えるが、この「太平記」ではそれはリアリティを欠くと脚本家が考えたのか、この「ガクッ」が全編を通してまったくみあたらない。これは後醍醐や尊氏など最重要人物にまで徹底されている。

 さて、藤夜叉の死であるが、「私本太平記」での藤夜叉は尊氏が幕府を開くまでしっかりと生き続けており、尊氏に呼ばれて「越前局」という名ももらい、不知哉丸を認知させ直義の養子・直冬となるのを見届けた後でどこへともなく姿をくらますことになっている。だいたい素性は分からないとはいえ「越前局」という名前は残っているわけで、直冬認知の時期までは登場し続けてくれないと史実との関係上都合が悪かったわけだ。
 宮沢りえの藤夜叉をドラマ中盤で「殺す」ことは、たぶん当初から決定していたことだったんじゃないかと思う。藤夜叉のテーマ曲が「はかなくも美しく燃え」っていうなんとも暗示的なタイトルですからね。宮沢りえが老けてずっと登場するってのも考えにくいところだったろうし。