真田広之(足利尊氏)
根津甚八(新田義貞)
陣内孝則(佐々木道誉)
高嶋政伸(足利直義)
石原良純(脇屋義助)
後藤久美子(北畠顕家)
赤井英和(楠木正季)
藤木孝(坊門清忠) 麿赤児(文観)
森山潤久(細川和氏) 瀬川哲也(恩智左近)
井上倫宏(四条隆資) 渡辺哲(赤松円心)
渡辺寛二(大高重成) 中島定則(三戸七郎) 相原一夫(一条行房)
大杉漣・卜字たかお・村上寿(武将)
中村麻沙希・山本正義・田中幸夫(近習)
近藤正臣(北畠親房)
樋口可南子(花夜叉)
大地康雄(一色右馬介)
柄本明(高師直)
宮崎萬純(勾当内侍)
小松方正(名和長年)
藤真利子(久子)
久野泰助・牟田浩二・有村圭助(公家)
高橋豊・大森一・本田清澄(公家)
横尾三郎(蔵人) 美里ルイ(女官) 徐領民(かめ回し)
若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ
わざおぎ塾
鳳プロ 丹波道場 サン・レモ・プロダクション 足利市のみなさん 太田市のみなさん
武田鉄矢(楠木正成)
原田美枝子(阿野廉子)
片岡孝夫(後醍醐天皇)
○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:藤野登○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:寺島重雄○記録・編集:久松伊織
箱根の合戦、さらに駿河でも新田軍が敗北したことは都にも伝わり、坊門清忠・四条隆資ら公家達は上を下への大騒ぎ。そこへ「恐るべし、恐るべし」と名和長年がやって来て四国の細川定禅、播磨の赤松円心などが反乱を起こし、一斉にこの京へ攻め上ってくることを告げた。「東と西の挟み撃ちか!」と公家達はますます慌て、「まずはお上に奏すべし」とあわただしく帝のもとへと向かっていった。
各地の叛乱に驚いた朝廷は、東海道で苦戦を続けている新田義貞軍を京へ呼び返した。これを追って足利軍は一気に大津まで押し寄せ、京都攻略の体勢に入った。
大津の軍議は一同連戦連勝で大いに盛り上がっていた。高師直が道誉に「駿河で寝返りにおうた時には八つ裂きにしてもたらぬお方と思うたが…また帰ってこられたとは大した軍略」と皮肉混じりに言うと、「軍略というほどのものではない。節操がないだけじゃ」と道誉が切り返し、尊氏も「さよう、いくさに節操は禁物じゃ」と付け加え、道誉が「さよう、さようなのでござる」と大袈裟に言ったので一同は爆笑する。そして地図を広げて天皇方の軍勢の配置を確認して京攻略の戦略を練り始める。
軍議が終わったあとも尊氏は一人地図を見つめていた。右馬介がどこからともなく現れ、尊氏が「楠木どのに会うたか?」と尋ねる。右馬介はさすがに敵陣には忍び込めなかったが、人に頼んで尊氏が正成と接触したがっていることを伝えさせている、と答える。
宇治の楠木正成の陣には尊氏の使者として花夜叉が訪ねてきていた。尊氏が正成と会いたがっていると聞いて、正季は
会ってはならぬと怒り、姉である花夜叉を責める。花夜叉は尊氏には以前伊賀で助けてもらった恩がある、その恩人が戦いたくないと助けを求めているのを放っ
てはおけないと言う。「戦いとうないなら、なぜ囲みを解かん、なぜ兵を引かん」と正成が問うが、花夜叉は尊氏も正成もそれぞれの立場があってやむなくして
いること、と言って「愚かな戦で我が兄を失いたくないだけでござりまする」と正成に訴える。
山中の一軒家に、庶民の姿に扮した正成と、軽装になった尊氏が、それぞれわずかな供だけを連れて、夜間ひそかにやって来た。炉を囲んで二人は会談を始める。「お会いしたい一心で、ご無理を申しました」と尊氏が言うと、正成は「ここに兵を率いてきて尊氏どのを捕らえれば戦は終わる、と何度も思うた」と打ち明け、しかし尊氏の首を切っても戦は終わらぬ、と言った。
正成は尊氏が都まで攻め込むことなく三河あたりで止まるものと思っていた、と言う。尊氏は自分もそのつもりだったが集まってくる武士達が都へ、都へと言うのだと弁解し、「それがし朝敵と呼ばれ、この首に恩賞がかけられし者…皆と共に行けるところまで行ってみるかと、ふと思ったのです」と気持ちを語る。都に入り、武家の政は武家に任せていただけぬかと帝に言いたい、もはや後戻りはできないのだと。これを聞いた正成は「それは…、幕府を興す、ということじゃの?」と聞く。尊氏はうなずき、「その幕府に楠木殿もご参画いただけませぬか?」と問い返す。北条の幕府とは違い偏りのない政治を行う、帝には高い御座から誤りの無いようにお叱りいただく形をとりたい、正成が加われば、新田も名和も全ての武家が新しい幕府に参加して世は穏やかになる、と尊氏は諄々と説く。
黙って聞いていた正成は「わしは、足利殿が好きじゃのう…」とつぶやく。しかしその尊氏の構想をあの帝が認めるはずがない、帝には一生かかっても返せぬ大きな恩がある、と正成は言う。「帝が足利どのを朝敵と仰せられる限り、戦わねばならん」と正成は言い切る。しかし個人的には尊氏と戦いたくはない、ここから鎌倉へ引き上げてくれぬかと正成は頼む。それを言うためにここへ会いに来たのだ、と。これを尊氏も飲めるわけはなく、二人は黙り込む。
翌日、尊氏は正成のいる宇治を避けて、淀の新田軍との合戦に突入した。双方激しい攻防を繰り広げた末、足利軍はついに新田軍を突破、一時京へ入ることに成功した。しかしその入京も長くは続かなかった。
奥州にいた北畠顕家が父・親房とともに義良親王を
奉じ、大軍を率いて足利軍を追うかのように驚くべき速さで京へ攻め上ってきたのである。京の市街へ突入した顕家の軍は、各所で足利軍と交戦し、これを打ち
破る。さらにこれに楠木・新田軍が加わって足利軍は京の町で挟み撃ちされる形になってしまった。直義が顕家軍と京の町で戦うが、その勢いに押されたまらず「ひけ、ひけーっ」と退却を命じると、顕家が「逃すな!」と叫んでこれを追撃する。足利軍はそのまま崩壊し、京を放棄する羽目になる。
尊氏はわずかな近臣と共に丹波方面へと敗走した。馬と共に草陰に隠れて追っ手をやり過ごしたり、沼地をかきわけたりしながら必死の逃亡を続け、丹波山中から兵庫(現在の神戸)へと逃げ込む。
兵庫・湊川で尊氏は赤松円心に迎え入れられ、ここでようやく一息をついた。円心は「ここから播磨は円心の手の内」と尊氏を安心させ、かつて倒幕の時の自分の働きを認めてくれたのは尊氏だけだったと言って「主とするならこのお方と、おのれに言い聞かせて参りました」と尊氏に臣従を誓う。道誉も師直も尊氏より先に到着しており、円心は一同に食事をすすめる。
食事を取りながら、道誉が「足利殿がお着きになる前に、円心殿が面白い話をされてな」と言いだし、円心が笑う。「こたびの我らの負けは気分の負けじゃと、そう仰せになるのじゃ」と道誉は続ける。
戦は気分でするものではない、と師直がバカにしたように言うが、道誉は自分達が敗れたのは帝の光、朝廷の光に気負けしたのではないかと言い、「この判官もなんとのう後ろめたさがあるのじゃ」と明かす。「それゆえ、円心殿はこう仰せられるのじゃ…我らも錦の御旗を持てばよい、とな」
「錦の御旗?」と尊氏が聞くと、円心が説明した。聞くところによると後醍醐に皇位を奪われた持明院統の光厳上皇がひそかに尊氏を頼みに思っているとの噂がある。この光厳上皇に新田義貞を討てという院宣を出してもらってはどうか、と円心は進言する。師直はあまり問題にしない様子だが、尊氏は院宣があるにこしたことはない、と言って「やってみようぞ」と院宣を得る工作をするよう命じるのだった。
兵庫で兵を整えた尊氏は再び京を目指し、摂津で新田・楠木軍と戦ったが、結局敗北してしまう。尊氏は船に乗り込み、海路九州へと落ち延びていった。付き従う兵はわずか五、六百であったという。
半月後、尊氏を九州へ追い落とした戦勝の祝宴が内裏で催され、後醍醐天皇や公家達、新田、名和、楠木といった武家達が一同に会した。無礼講とあって文観が大いに酔って騒ぎ立て、「神仏が我らに味方したのじゃ」と気勢を上げていた。後醍醐は奥州から駆けつけた北畠親房・顕家父子の功をねぎらい、文観も「功第一は北畠卿!恩賞も思いのままぞ」とはやし、公家衆もやんやと親房たちを讃える。これをつまらなそうに義貞や義助、そして正成が見ていた。
すると騒ぐ文観をたしなめるように親房が「恩賞欲しさに来たのではない」と厳しい声で言い出す。「そもそもこたびの戦に功ある者など一人もおらぬ」と親房は憤りをこめて言い、ここまで足利をつけあがらせたのが悪いと公家達を非難する。坊門清忠が反論するが、「その方は名和とたばかり護良親王を悪逆なる足利に引き渡した第一の咎人(とがにん)ぞ。ひかえよ!」と親房に一喝されてしまう。足利を敵と見抜いていた護良親王を葬り去った罪を親房は挙げ「こたびの大事を引き起こしたのは、坊門!文観!そこもとたちではないか…!」と名指しで非難する。そして作り笑いの笑みを浮かべて「…そう思われませぬか、三位の局…?」と阿野廉子に声をかける。ギクリとする廉子。後醍醐が目を閉じ、「親房、もう良かろう」と告げると、親房は笑って話を止めた。
場が白けたので、名和長年と文観は気分を変えようと義貞の摂津の合戦での活躍を誉めそやし出す。これに合わせて一同もそろって義貞絶賛の嵐となる。後醍醐も「義貞こそ武家において第一の功をあげし者ぞ」と讃えて褒美として刀を義貞に授けた。人々が義貞を取り囲んで称賛しているところへ、勾当内侍が呼び出されてきた。勾当内侍が義貞に酌をすると、二人の噂を知る人々は、やんやとはやしたてる。そんな中、廉子が後醍醐の耳元に何かをささやいていた。
義貞邸。宴から帰って酔いつぶれた義貞は、夜中に目を覚ました。気が付くと寝ている我が身に女の衣装がかけられている。不思議に思いつつ前を見ると、衣装を義貞にかけて肌着だけになった内侍が控えていた。「内侍どの?」と驚く義貞に、内侍は廉子に義貞をここまで送るよう命じられた、と語る。そしてそれが帝の意志でもあるということを。「左中将殿がおよろしければ、内侍は内裏に帰参に及ばず、と…」と内侍は言う。「帝がおもとに、この義貞のもとへ行け、と?」と驚いて問う義貞に、「どうぞ…お受け取りくださりませ!内侍はこのたびの恩賞でござります!」と内侍は深々と頭を下げる。
義貞は困惑したように「おもとには、思うお方がおるのでは…?」と尋ねる。すると内侍は泣きながら答えた。「そのお方に、行けと命じられました…!そのお方に…」ハッとする義貞。内侍は続ける。「十年、お声がかかるのをお待ちして…ついにお声が無く…ただ、行け、と…このような内侍、お嫌でございましょう!」内侍は泣きながら飛び出していこうとした。これをすかさず義貞が抱きとどめる。「嫌であろうものか…!恋い、こがれたのじゃ…!わしは、手に入れた…足利にも勝った!何もかも、手に入れた…!」そう言って義貞は内侍をひっしと抱きしめる。内侍も泣きながら義貞にすがりつく。「恋い、こがれたのじゃ…!」義貞はそうつぶやきながら内侍を抱いたまま倒れ込んでいった。
そのころ、正成の館では縫い物をする久子の前で、宴から戻った正成が考え込んでいた。「のう、久子。もう河内へ帰ろうかのう」と突然言い出す正成。「この都はわしには合わん。もはやこの都には先がない」そう言って「河内へ帰ろう」と正成は久子に言った。久子は「はい」と微笑んだ。
やがて、尊氏は光厳上皇の院宣を手に入れた。そして九州を平定し、西国の反後醍醐派を結集して再び京を目指すべく、船に乗り込んでいった。
冒頭、箱根・竹之下の戦い(1335年12月11日)が描かれる。崩壊寸前まで追い つめられていた足利軍が、尊氏出陣により起死回生をやってしまった、この回最初の「大逆転」である。大筋はこのドラマで描かれたとおりで、出陣した尊氏は 竹之下の脇屋義助の陣を急襲し、これを崩壊に追い込んだのが逆転のきっかけである。ドラマでは画面内で確認できるが、このとき義助の陣には官軍の形式上の 総帥である尊良親王と、それに付き従う公家衆が多くいた。古典「太平記」によればこの公家衆が足利軍に向かって「帝に弓を引く者は必ず天罰をこうむるぞ。命惜しくば兜を脱いで降参せよ」などと呼ばわったそうで。しかし呼びかけた相手が土岐頼遠・佐々木道誉というバサラ二大巨頭(笑)を先頭にする軍勢だったのがまずかった。彼らは公家衆が敵と見るや、矢も放たずに太刀をふるって斬り込み、公家衆はひとたまりもなく逃げ出してしまう。「言葉に似ぬ人々かな、きたなし、返せ」と土岐・佐々木はあざけりつつ追撃したという。これには脇屋義助も「言う甲斐なき者どもが、なまじ先陣に飛び出しおって」と公家の無謀を怒っている。まさに時代を象徴する戦場の一コマだ。この戦いで二条為冬ほか、多くの公家が戦場に命を落としている。この二条為冬は歌人として知られ、尊氏とも私的に交友があったとされ、その首を見て尊氏が哀悼したという話が『梅松論』にある。
さて、いま古典「太平記」から引いた部分に佐々木道誉の姿がある。これが「太平記」を読んでいても実に不思議なのだ。前回で触れたように
駿河の戦いで負傷した道誉は新田軍に降参したが、「箱根・竹下合戦の事」の段の冒頭、足利軍の作戦会議の場面にいつの間にか名前を連ねているのだ。確かに
降参した場面で「あとで箱根の戦いでは足利方についた」と記してはあったのだが、いつどうやって「とんぼ返り」したのか、「太平記」は全く記しておらず不
思議な印象を残す。だからどのようにでも話を膨らますことが可能であるわけだが。
ドラマでは道誉は最初から寝返るつもりで新田軍に潜り込み、尊氏が出陣したことを聞いて「寝返り御免!」とばかりに暴れ出す(黒澤明の「隠し砦の三悪人」を連想したのは私だけだろうか)。映像としては大変カッコ良いシーンで、陣内道誉の忘れがたい名場面となっている。意外にも、道誉が馬で戦場を駆り、太刀を振り回すシーンはドラマ全体を通してもここしかない。
ちなみに吉川英治「私本太平記」はもうちょっと違いがある。道誉の「とんぼ返り」が計略である点は同じだが、その計略はどうやら尊氏から出たも
のとして描いているのだ。このへん、吉川英治も処理に苦労している気がするのだが、尊氏は本気で天皇への恭順の意を示しつつ、一方で戦いが避けられない場
合に備えて道誉ら何人かの大名をわざと新田軍に降参させるという二重の手を打っている。矛盾する行動であるが、実際「矛盾の人」であるのが尊氏だ、という
解釈だ。これもこれで一つの解釈として成り立つと思う。
なお、この戦いで新田から足利に寝返った武士は道誉だけでなく、大友貞載、塩谷高貞(もちろん「忠臣蔵」のモデルにされたあの人である)らも戦闘中に寝返っている。
箱根・竹之下合戦は足利軍の大逆転勝利に終わっているのだが、だいたいが「宮方深重」(by今川了俊)といわれる古典「太平記」は、なんとか新田一族に花を持たしてやろうといろいろ彼らの活躍を記している。
脇屋義助の息子・義治(わずか13歳)は竹之下の戦場で敵中に取り残されるが、所
属を示す笠印を隠してたくみに紛れ込む。息子がいないことに気づいた父の義助が敵中に突入して必死に息子を探し、ついに義治は父との合流に成功する。この
時義助に駆け寄る義治を、味方の突撃と勘違いした足利軍の武士が「あっぱれ、わしもお供しよう」と言ってついてくるが、義治が義助の家臣に目くばせしてこ
れを討ち取らせてしまっている。戦場での親切は身を滅ぼす…?なんてガキだ(笑)。
箱根の義貞の方でも「十六騎党」と呼ばれる豪傑達があの手この手の大活躍。なんだか読んでいるとどっちが勝ったんだかよく分からない(笑)。
しかしとにかく義貞は敗れて東海道を西へ逃走。途中の天竜川では民家を壊して浮き橋を作って渡河するのだが、ほぼ全軍を先に渡して最後に義貞が渡ろうとす
ると何者かが仕掛けをしたらしく途中の板が抜け、義貞と船田入道が手に手を取って大ジャンプ、なんて想像してみるとちょっと可笑しい場面もある。
「太平記」はそのあと義貞が浮き橋を切り落としたと記しているが、義貞がフェアプレイ精神からか弱気をみせまいとしたためか、浮き橋をそのまま足利軍のために残していったという話が「梅松論」にある。どっちがホントなんだろう?
そういえば「太平記」の箱根・竹之下の合戦の段に菊池武重の活躍が記されているが、このとき菊池軍が日本史上初の「槍」を使用したとの逸話がある。ホントに初かどうかはちと疑問もあるけど。
都で公家や名和長年たちが東西の叛乱蜂起に大騒ぎしている場面で、赤松円心とともに細川定禅(じょうぜん)の名が挙がっている。もちろん
足利の分家のあの細川家の人間で、ドラマにも出てくる頼春の従兄弟、顕氏の兄弟である。このとき讃岐国の荘園で挙兵し、赤松軍と合流して一気に京を攻略す
る。その活躍ぶりは古典「太平記」も詳細に記すところ。
京都攻略にあたって定禅は縁起を担ぎ、六波羅探題攻略に活躍した赤松軍に先陣を切らせている。
この時の公家達の狼狽ぶりを皮肉ったこんな狂歌が内裏の陽明門の扉に書かれていたという。「賢王の横言(おうげん)になる世の中は上を下へぞ返したりける」後醍醐政権への痛烈な批判もそこに読みとることが出来るだろう。前にも紹介した「かくばかりたらたせたまふ綸言の汗の如くになどなかるらん」という傑作も、この時に朝廷が出した「今度の合戦に功績を上げた者にはただちに恩賞を与える」という布告を皮肉ったものだ。
尊氏と正成が一軒家で極秘会談をする場面があるが、当然ながらドラマの創作。いくらなんでも現実的とは思えない場面だが、このあとの湊川
合戦の伏線というわけだろう。ただ「私本太平記」も尊氏がなんとか正成を味方に着けたいと右馬介に命じてあれこれ交渉させる物語を展開しているので、それ
を参考にしたと思われる。
正成との交渉は決裂し、尊氏は正成を避けて(別に避けたという史実はない)淀の新田軍と激突、ドラマでは「淀の合戦」とテロップが入る。古典「太平記」では「大渡(おおわたり)の合戦」として書かれているもの(1336年1月9日)。
ドラマでは平原戦になっちゃってるが、実際には川を挟んだ戦いである。源平合戦の昔から京都を防衛する側は常に川を防衛ラインとし、橋を落とし水中に杭を
打ち込んだり縄を張るなどして敵の進撃を止めようとした。「太平記」によれば師直の提案で足利軍が民家を壊していかだを組み、それに兵を乗せて渡河しよう
とするが杭にひっかかりバラバラになって流されてしまい新田軍の嘲笑を買う場面がある。
結局山崎方面から攻め込んだ赤松・細川軍が脇屋義助・文観(あら、この人も戦場に出てました)の防衛軍を突破したため、大渡の新田軍も退却を余儀なくされる。義貞の息子・義顕がしんがりで奮戦したりするが、足利軍の入京が現実となった時点で新田軍にいた大友千代松丸(氏泰)、宇都宮公綱が足利方に寝返りを打つ。
後醍醐天皇はここにいたって京を放棄、比叡山へ逃れる。名和長年が誰も居なくなった内裏に参内し、はらはらと涙を流すなんて小松方正さんじゃあ似合わないなぁなどと、つい思ってしまう場面が古典「太平記」にはある。
入京した足利尊氏を暗殺しようと「三木」の一人、結城親光が偽って降参するのがこの時。しかし尊氏は怪しいと思って直接面会せず、大友貞載を向
かわせる。貞載に「鎧を脱げ」と言われた親光は見破られたと思って貞載を殺害、自らも郎党と共に斬り死にしてしまう。「三木一草」最初の戦死者となった。
1月11日に京を占領し、勝利したかに思われた足利軍に、おもわぬ強敵が来襲する。北畠顕家率いる奥州軍である。北畠軍は新田軍東下に呼応して
足利軍を挟撃するべく前年の11月に奥州を出陣していたが、箱根・竹之下合戦に間に合わず、そのまま尊氏を追うように東海道を駆けのぼった。北畠軍が近江
から琵琶湖を船で渡って東坂本の天皇方に合流したのは、尊氏入京からわずか三日後の1月14日のこと。それにしても、この半年間の東海道は日本史上でもま
れにみる上り下りの大軍通過ラッシュである。沿道住民にはたまったものではなかったろう。
ところでこの時の北畠軍には宇都宮公綱の一族「紀・清両党」が加わっていた。ところが上洛してみたら主人の公綱が足利軍に寝返っていたため、
彼らはそれまでの味方にキチンと別れの挨拶をして足利軍へと加わる。うーん、礼儀正しい連中と言うべきか、まだまだのんびりした時代だったということなの
か。微笑ましいエピソードではある。
顕家到着に意気上がる天皇方は、ただちに足利方の細川定禅の守る三井寺に攻撃を掛ける。定禅は奥州の大軍に恐れをなし援軍要請を再三尊氏に送るが、尊氏が「奥州軍ったって大半は宇都宮の紀・清両党の者達だろ。公綱がこっちにいると知ったらすぐこっちの味方になるよ」などとノンビリしたことを言っているうちに三井寺は陥落(笑)。
さらに意気上がる天皇方は、1月16日に京へ突入し足利軍と激戦を繰り広げる。ここで義貞らは珍しく一計を案じ、味方の軍勢を笠印を隠して足利軍の中に紛れ込ませ、自らは山に上がって敵を待ち受ける。尊氏が「義貞は平場の懸け(平地戦)を好むはずだが?」と 思いつつ攻撃を命じ激戦となるが、突然足利軍に潜り込んでいた新田勢が尊氏の周囲で新田の「大中黒」の旗を掲げ、足利軍を大混乱に陥れる。足利軍は同士討 ちまで始め、散り散りになって京から敗走、尊氏も逃れる途中で死を覚悟し、短刀を抜いて自害せんとすること三度に及んだと「太平記」は記す。しかし細川定 禅が四国勢を率いて略奪に奔走する新田軍の背後を突き、あっさり京を奪還してしまう。まったくどっちもどっち、ようやるわ、という戦いである。一連の大激戦のなかで尊氏の母方の伯父・上杉憲房(ドラマでは序盤のみ登場)や、義貞の執事・船田義昌が戦死している(こちらもドラマに出ているが戦死しなかったことにされている)。
やがて中山道から引き返してきた洞院実世らの軍が天皇方に合流。勢いを得た天皇方は1月27日に再度の合戦を仕掛ける。北畠・新田・楠 木の南朝オールスターズ(笑)が足利軍に攻めかかり、正成は楯を城壁のように並べる奇計を繰り出し、義貞は鎧を替えてただ一騎で「尊氏はどこだ!」と探し 回り、足利軍を翻弄。足利軍はまた京からいったん撤退するが、正成が義貞に「このまま京を占領しても、また兵士達が略奪にいそしんで敵に奪回されてしまうだろう。いったん退却して一日休むべき」と進言し、天皇方は坂本へ撤退、足利軍はまた京に戻ってくる。正成の言葉にも見えるが、戦場で兵士達が略奪にいそしむのは古今東西変わらぬ現象のようだ。
このあと正成はまたも奇計を繰り出す。僧侶を30人ほど仕立ててあちこちの戦場で死体探しをさせ「昨日の合戦で新田義貞、北畠顕家、楠木正成がなど主な人々が戦死されてしまった。供養のために遺体を探しております」と言いふらさせるのだ。足利軍は「そうか、昨日の突然の撤退はそのためだったか」と納得して、首探しに奔走、義貞と正成に面相が似た首をみつけてそれを獄門にさらした。すると「これは似た(=新田)首なり。まさしげ(=正成)に書ける嘘事(そらごと)かな」なんて絶妙の一句を誰かが書き付けていく(「太平記」の時代はダジャレブームだったのか?)。 正成はさらに夜中に兵に松明だけ持たせて、大将を失った軍勢が比叡山から逃げていくように足利軍に見せかける。これに引っかかった足利軍はその方面へ大軍 を送ってしまい、京は手薄に。そこへ天皇方の大軍が攻め込んだものだから、足利軍は完全に崩壊、尊氏は丹波から湊川へと逃げることになる。
えー、長々と書いたが、ドラマでほんの1、2分で片づけられた戦況を古典「太平記」からダイジェストするとこんな具合になる。このまん
まやれとはもちろん言わないが、もうちょっと時間をとって欲しかったもの。尊氏、義貞、正成、顕家、それぞれの見せ場がいっぱいある美味しい部分になった
はずなんだからさ。
ドラマでは後藤久美子の北畠顕家、近藤正臣の北畠親房が鎧姿で兵を率いて草原を走ってくるシーン、顕家率いる奥州騎馬隊が京のセットを疾駆し
足利軍と騎馬戦をするシーン、直義が退却を命じ、顕家がこれを追うシーンなどがロケ撮影で挿入されている。それぞれに見栄えがあってほんの一瞬しか映らな
いのが非常にもったいないシーンの連続だ。近藤正臣の親房が鎧姿で馬を走らせているのもここでしか見られない。本来なら後藤久美子、最大の見せ場になった
はずなのだが…惜しい限り。
尊氏が丹波を逃走する各シーンも野外ロケ。目を引くのは尊氏が馬と一緒に草陰に伏せ、追っ手をやり過ごすシーン。追っ手が通り過ぎたとみるや
真田尊氏は伏せていた馬をポンと叩く。そして馬にまたがったまま草陰から一気に立ち上がるのだ。えーい、文字だと説明しにくいな。さりげなくやってるけ
ど、これって結構難しいと思うぞ。しばらく見なかった「真田アクション」の一つだ。
湊川に来ると赤松円心が久々に登場。ここで円心は重要な提案を尊氏に行う。光厳上皇の院宣を得て、自分達も「錦の御旗」を掲げよ、と進
言するのだ。この「赤松進言」は古典「太平記」ではなく「梅松論」が記している話。「太平記」は尊氏自身が思いついて薬師丸という小姓に上皇の院宣をとっ
てくるように命じている。
このあと足利軍を見限って宇都宮公綱がまたまた天皇方へ寝返り(忙しいことで)。他にも天皇方に鞍替えする武士が相次ぎ、新田・北畠・楠木軍は尊氏に止めを刺すべく摂津へと進撃、迎え撃った足利軍と激戦になる(2月10日〜11日)。そこへ海上に多数の船団が姿を現す。足利方に駆けつけた大友・厚東・大内の船団と、天皇方についた伊予の土居・得能の船団である。途中まで同じ港に停泊しながらやって来た両船団だが、ここで敵味方に別れる(このへんもノンビリしているというか、割り切っているというか…)。戦闘は結局足利軍の敗北に終わり、尊氏は大友貞宗(具簡)のすすめで九州へと向かうことになる(2月12日)。この九州行きについて、「太平記」は足利軍が敗北して大潰走という印象で描くのに対して「梅松論」は戦略的撤退(転進?)という形で記している。
さて、どっちなのだろうか。真相としてはどちらも半分ホント、というぐらいではなかろうか。確かに尊氏は敗北した。しかし戦力がまったく無く
なってしまったわけではない。ひとまず西日本を自分の勢力圏に置いて力を補充し再度上京するため戦略的に九州へ向かったと言うべきだろう。
実は兵庫に逃げ込んでいた時期に尊氏は重要な政策発表を行っている。「元弘没収地返付令」というのがそれだ。元弘の乱で鎌倉幕府が滅んだ際、
後醍醐政権が没収した領地を全て返付する、早い話が土地所有関係を鎌倉幕府の時代のそれに戻すという宣言である。この発表は多くの武士を引きつけ、尊氏は
彼らに自分の花押(サイン)入りの返付状をいちいち与えている。
九州へ旅立った直後の2月13日、尊氏は室の津に泊まり、ここでいわゆる「室泊の軍議」を行って、追撃してくる天皇軍を防ぐ中国・四国の大名の配置を決定する。細川・今川・桃井・斯波など足利一門を配置しつつ、赤松・大内・厚東といった現地の守護(尊氏が任じている)を配置したこの体制はのちの室町幕府の守護体制の原型になったとして重要視されている。ただ、この時配置した大名達に軍勢を与え過ぎちゃったようで、あとで九州での戦いで尊氏は苦労することになる。
そして尊氏の船団が備後の鞆(とも)の津に着いた時(恐らく2月15日)、ついに
待望の光厳上皇の院宣が尊氏のもとにもたらされる。持ってきたのは日野資朝の弟にあたる僧・三宝院賢俊。これが縁で賢俊は尊氏の側近の一人となり「将軍問跡」とあ
だ名されるまでになる。とにかく、尊氏の九州行きが単なる「敗走」ではないことは、尊氏が打ったこれら諸政策を見ても明白だろう。
ところでドラマの話になるけど、尊氏が九州に落ち延びるために小舟でこぎ出すシーン、この回のラストで九州を出るため船に乗るシーン、次回の「湊川の決戦」で尊氏が上陸するシーン、全部完全に同じ場所ですね。いっぺんに撮っちゃったな(笑)。
尊氏を追い落とし、後醍醐たちがドンチャン騒ぎするシーンは、戦闘以外でのこの回の見どころ。時々出てくる麿赤児の文観がここで大いにはしゃいでいるのが印象的だし、近藤正臣の北畠親房が痛烈に公家(というか廉子派)を非難するところも見応え十分。特に「そう思われませぬか…三位の局…?」とニヤリと言うシーンはしびれる(笑)。あとで触れることになると思うが、息子の顕家の提出した諫奏状にも暗に廉子を批判する部分があり、北畠父子が廉子を敵視していたのは確実だ。
なお、このころ北畠顕家は東北防衛の要職である「鎮守府将軍」に任じられたが、「北畠の家格ではそんなに低い位には就けない」とゴネ、「鎮守府大将軍」という称号にすることで納得するという上級貴族意識丸出しのエピソードを残している。
そしてついに、義貞が勾当内侍を手に入れる。ここにドラマならではの工夫があり、勾当内侍は実は後醍醐帝に思いを寄せていたことが判明する(誰ですか、「廉子か?」と思った人は)。
この設定のおかげで義貞と勾当内侍のラブコメ展開(?)の結末はなかなか見応えのあるものとなった。ただツッコミを入れさせてもらうと、勾当内侍はもとも
と後醍醐の愛妾として側近が差し出した女性であり、十年もお声がかからなかったとすると、これは彼女に全然魅力が無かったからだと思わざるを得ない。だっ
て30人以上の女性に32人の子供を産ませている皇族界ナンバーワンの女好きの後醍醐さんですよ。まぁこの勾当内侍の話が事実だとすると、やっぱりお手つ
きの女性の一人を「お下げ渡し」にしたということなんだろうな。
古典「太平記」は勾当内侍を与えられた義貞が彼女との別れを惜しみ、尊氏追撃の時機を逸したことにしている。これについての検証は次回にまわそう。
さて、それではいよいよドラマでは完全カットされた尊氏の九州戦を補足しておこう。まぁドラマの方も申し訳なく思ったか、「ふるさと」コーナーに異例の長時間を割いてフォローする形になってますけどね。
尊氏が九州の土を踏んだのは建武3年(1336)2月29日のこと。年号はこの間に後醍醐政権によって「延元」と改元されているが、尊氏達は「建武」年号を使い続けている。これについては次回でちょこっと触れる予定。
九州の足利方の筆頭は筑前の守護・少弐頼尚で、彼は先立つ25日に赤間関に尊氏を出迎えに行っている。そして頼尚に案内されて尊氏は29日に博多付近に上陸するのだが、同じ日にとんでもない事態が起きる。頼尚の留守中に、後醍醐方の有力豪族(この後もずっと南朝に忠節を尽くす)・
肥後の菊池武敏の大軍が少弐の拠点・太宰府に押し寄せたのだ。頼尚の父・貞経は必死の防戦をするが、一族郎党百数十人と共に自害して全滅。尊氏たちのため
に用意されていた馬・武具も全て灰となってしまう。頼尚は父の死を知るが、士気の低下を恐れて尊氏に黙ったまま、3月1日夕刻に宗像大社に尊氏軍を導く。
やがて尊氏も頼尚の父の戦死を知り頼尚を呼び寄せるが、頼尚は貞経と親しかった筑前の国人が味方に来るであろう、菊池はこの頼尚が打ち破る、と気丈に答え
ている。
翌3月2日。尊氏軍は午前中から行動を開始し、途中香椎宮に立ち寄ってこの神社の杉の葉を笠印として全軍の鎧に着けさせている。これは「太平記」も「梅松論」も記している話で(微妙に設定は違うが)、ほぼ事実だと思われる。そしていよいよ多々良浜に布陣している菊池軍と多々良川をはさんで向かい合った。
「太平記」は菊池軍4〜5万に対し足利軍300、「梅松論」は菊池軍6万に対し足利軍1000と記している。どっちにしてもとんでもない大差だ
がいずれも足利軍の「奇跡の勝利」を誇張したもので、実際には10000対1000ぐらいの兵力差ではなかったかと推測されている。それだって大変だが。
「太平記」によればこの兵力差をみた尊氏が戦意を喪失、「こんな大軍に勝てるわけがない。なまじ戦ってつまらぬ奴の手にかかるよりは腹を切ろう」などと気弱なことを言い出すが(またかい)、直義が「頼朝公だって7騎から平家を滅ぼしました」などと言って兄を励まし、自ら前線に立つ。その途中、大高重成(渡辺寛二さんが演じてよく顔だけは出てきますね)が「将軍様(尊氏)の周囲が無勢ですから」と引き返すが、直義が「だったら最初からそうしてろ。敵を見てから引き返すとは臆病の至り。大高の六尺五寸の太刀の六尺を切ってカミソリにしてくれよう!」とあざけったという。
午後2時頃、ついに多々良浜合戦の火ぶたが切られる。足利軍が仁木義長らの奮戦などで少数ながら菊池軍の先鋒に善戦しているうち、北方から猛烈な突風(浜風?)が起こり、砂塵が菊池軍に吹き付けた(「梅松論」。「太平記」に突風の話はない)。これにひるんだ菊池軍に足利軍が突撃、一気に形勢は足利軍有利となってしまう。それでも菊池武敏が反撃に転じ、直義を一時危機に陥れ、直義が鎧の袖をちぎって「私はここで必死の防戦をする。兄上には周防へ戻って再起を図られたい」と尊氏にそれを形見に届けさせ、突撃しようとする一幕もあった。だが千葉貞胤がただ一騎で川に飛び入り菊池武敏を阻止、これに尊氏・直義らが続いて渡河を決行、菊池軍はついに支えきれず敗退、この情勢を見て菊池軍にいた神田・松浦勢が寝返り(日本の合戦ってすぐこれだな)、とうとう午後6時には菊池軍は全面的に敗走していった。まさに尊氏、起死回生の大逆転である。以上の展開は「梅松論」と「太平記」をとりまぜてまとめたものです、念の為。
この戦いののち、約一ヶ月かけて足利軍は九州をほぼ制圧し、再上洛の準備を整えた。そして一門の一色範氏を九州の統治者として残してい く。しかし尊氏に味方した少弐、大友、島津といった九州豪族の自立要求も高く、また菊池氏を中心とする後の南朝勢力の力も温存されており、こうした各自の 複雑な思惑が長い九州南北朝の戦乱の要因となる。ちなみに少弐頼尚は、このあと足利直冬(あの不知哉丸ですよ!)を押し立てて勢力拡大を図ろうとするため、ドラマ終盤に姿を見せてくれます。
あー、長かった。次回、いよいよ湊川決戦!