第三十六回「湊川の決戦」(9月8日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二


◇アヴァン・タイトル◇

 建武3年2月、京都攻略が失敗に終わり足利尊氏は九州へと逃亡。これを義貞が追撃するが、各地で後醍醐天皇の政治に不満を持つ武家の反乱が相次いでいた。


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

根津甚八(新田義貞)

高嶋政伸(足利直義)

石原良純(脇屋義助)

赤井英和(楠木正季)

藤木孝(坊門清忠) 森次晃嗣(細川顕氏)
瀬川哲也(恩智左近) 桜金造(和田五郎)
深水三章(服部元成) 渡辺哲(赤松円心)
井上倫宏(四条隆資) 相原一夫(一条行房)
長澤隆(橋本正員) 加藤盛大(楠木正行)

藤真利子(久子)

柄本明(高師直)

樋口可南子(花夜叉)

高橋豊・大森一・本田清澄(公家)
米倉真樹(蔵人) 上原恵子・渡部輝美(侍女)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ  
わざおぎ塾 鳳プロ 足利市のみなさん 太田市のみなさん
 
武田鉄矢(楠木正成)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:石川恭男○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:大塚茂夫○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 建武3年(1336)5月、瀬戸内海に、海を覆うように東へ進む足利尊氏の大船団の姿があった。尊氏は九州で少弐頼尚の軍勢も加え、これに四国の細川・河野らの軍勢も加え、すでに数万もの大軍を擁していた。
 一方、新田義貞は九州に下った尊氏を追って山陽道を進んだが、途中、足利方の赤松円心の立てこもる播磨の山城・白旗城の攻略に手間取っていた。赤松軍は山の上の要害にこもってゲリラ戦を展開。円心は攻め上がろうとする新田軍に矢の雨を浴びせ、義貞を見下ろしながら大笑いする。山上をにらみながら「おのれ、円心め…!」と歯ぎしりする義貞。この白旗城の攻防戦は50日の長きにわたってしまうことになる。
 5月5日。東上する足利軍は鞆の津で足利直義率いる一万の大軍を上陸させ、陸路と海路の二手に分かれる。海路の尊氏軍は陸路の直義軍と歩調を合わせて東へと進む。

 京の内裏にも足利軍東上の情報が伝えられる。その数は8万とも伝えられ、後醍醐天皇も焦りの色を見せ始めていた。「新田はどうした?いまだ播磨を落とせぬのか?」と坊門清忠に問うと、赤松円心に苦戦しているとの答え。「新田の率いし兵は六万ぞ…何を手間取っておる…」と後醍醐はいらつき、急ぎ畿内の兵を集めて兵庫へ向かわせ、足利軍を水際で防ぐよう命じる。

 河内では、楠木正成が農民の姿になって山の畑で大根の種をまいていた。そこへ久子正行が現れ、花夜叉の猿楽舞が間もなく始まること、正季が正成に都へ戻れと呼び出しに来ていることとを告げた。正成は正季について「病と称して追い返せ」と言うが、もう四度目の来訪となる正季は今度こそ動かぬと頑張っていると久子が答える。
 正成が空を見上げると、カラスが飛んできていた。正成は大根の種をまいてもカラスに食われてしまうとぼやきつつ、正行に大根の種をまくのを手伝うように言う。「カラスに食べられるのに、まくだけ損でござりまする」と正行は言うが、正成は諭す。「よいからまけ。種はまくことじゃ。カラスに食われても十に一つは残るやもしれん。残った一つが花を咲かせ、種を作る。種さえあれば、また次の年まくことができる。カラスに食われた種もただ無駄にはならん。カラスのフンに混じってどこぞの山の中に落ち、人知れず大根の花を咲かせ、また種を作るかもしれん…これは、生きとし生けるものの知恵じゃ。それゆえ、種はまかねばならん」そう言って正成は正行と共に大根の種を畑にまき続けるのだった。

 夜、正成の館で花夜叉と服部元成の猿楽舞が披露された。「あの二人、息のおうた舞でござりますなぁ」と久子が言うと、「近々、夫婦(めおと)の盃を交わすのであろう…息がおうて当たり前じゃ」と正成。「ご存じでござりましたか?」と久子が驚くと、正成は妹の卯木(うつぎ)がわざわざ会わせるために元成を連れてきたのだから、すぐわかった、と答える。
 そこへ恩智左近が都からの急使の到着を告げに来た。席を外した正成が急使の書状を見ると、尊氏を討てとの勅命が畿内の武士に出され、数日中にも勅使が正成のもとに来るとの内容だった。「ゆかぬわけにも参るまい」と正成は暗い顔をする。
 正成は花夜叉のところへ笑顔を見せて現れ、舞を見せてもらった礼を言う。「卯木…そなたが武士の家を捨てて舞の道に入ったのは正しかったのやも知れぬ…今、そう思う…」と言う兄に、花夜叉は何かただならぬものを感じ取る。正成は「元成どの、妹をよろしゅう頼みまする」と元成に頭を下げ、そして照れくさそうに口ヒゲをさするのだった。

 やがて呼び出しの勅使が訪れ、正成は正行、正季を連れ兵を率いて河内を出た。
 一方、山陽道では直義率いる足利陸路軍が脇屋義助の軍を撃破、福山から岡山へと進撃した。ここにいたって新田義貞は白旗城攻略をあきらめ、兵庫へと退却を開始した。海路を進む尊氏と陸路を来る直義の軍に挟み撃ちにされることを恐れたのである。

 正成は京に向かい、参内して後醍醐に拝謁した。後醍醐は正成が病と聞いていたのでその容態を尋ねる。正成は「申さば世上病みとでも申しまするか、気の病でござります」と答える。「気の病なら朕も同じぞ」と後醍醐は言って山陽方面の戦況を嘆くが、正成が行くのならばもう安堵している、と正成に一振りの刀を授ける。正成は恐縮してこれを受け取るが、一言だけ言わせて欲しいと後醍醐に申し出る。「なんぞ願いでもあるか」と後醍醐が微笑んで許すと、正成は言う。「こたびの戦でござりまするが、我が軍に勝ち目はございません!」この言葉に後醍醐も公家達も唖然とする。
 坊門清忠が「戦わぬうちから勝ち目がないとは何たる弱気、君の御前なるぞ」とたしなめるが、「君の御前なればこそ歯に衣着せたそらごとは申し上げられません」と正成。四条隆資もかつて正成は千早の戦いで少数の兵で大軍を打ち破ったではないかと非難するが、「かつて正成が千早で戦い得たのは、時の味方、人の心の支えがあったゆえ」と正成は答える。これに後醍醐が「では問おう。時の味方、人の支えはもはや無いと申すか?」と声を上げると、正成は建武の新政に失望して人心はすでに離れていること、敗れたはずの尊氏に大軍が集まる一方で自分達が呼びかけてもなかなか兵が集まらないことなどを列挙し、「人の心の移り変わりは恐ろしゅうござりまする」と言って自分でもこの流れには逆らえないと率直に言った。
 後醍醐は目を閉じ、「よくぞ申した…いちいちうなづけぬことではない…」と自らの失政を認める。しかし今はそうした議論の時ではない、どう戦うか述べよ、と正成に命じる。正成は義貞でも正成でも今の足利軍を兵庫で迎え撃つのは無理と断言し、「むしろ足利軍は黙って兵庫を通し、都へ誘い入れればあるいは…」と言い始める。足利軍を京へ入れる、との意見に公家達は騒ぐが、正成は構わず続ける。帝には比叡山に動座していただき、都から一切の食糧を消し去って入ってくる足利軍に何も残さない。都周辺の水路を断って糧道を断ち、夜討ち・朝駆けを繰り返して足利軍を眠らせぬ、これだけすれば足利軍は自ずから瓦解するはず、と正成は訴える。
 しかし清忠が「御楯(みたて)を任じる皇軍が、一戦も及ばず山の中に逃げ隠れ、敵の空腹を待つとは笑止の策よ!」とあざけった。そんな策を義貞が聞き入れるはずがない、という清忠に「聞き入れねば見捨てるまで」と正成は言い放ち、義貞の軍事的失敗を列挙していく。「しょせん新田は、足利の敵ではございませぬ!」と断言する正成に清忠は「敵の肩を持つのか!」といよいよいきり立つ。さらに正成は言う。「かないますることならば…帝の広きお心にて、足利と和睦いたされ、公武あい歩み寄って戦わぬが上策と、正成は思うておりまする」これには後醍醐も「足利と和睦せよと申すか!」と思わず声を荒らげる。「それがかなわぬまでも、せめて…せめて、正成の言をお聞き入れになり、すみやかに叡山へ御動座願い奉りまする!伏して!」正成はそう叫んで平伏する。
 しかし清忠が「愚策も愚策じゃ…察するに、そちは戦場へ出るのを厭うておるな。足利来たるの風評におびえ、逃げ隠れたい一心なのじゃ!」と冷たく言い放つ。「しばらく!」と正成は清忠をとどめようとするが、清忠は深々と頭を下げて後醍醐に訴える。「…かかる弱気の言をお取り上げになり、御動座あらせられても、軍の士気を失い、戦う前から味方は総崩れとなりましょう…」正成は必死にすがるように「御叡慮を!」と後醍醐に呼びかける。後醍醐は正成を厳しい目でじっと見つめる。しばらく視線を合わせた後、「正成…今の儀、朕は聞かざりしこととするぞ…!」と後醍醐は厳しい声で申し渡した。愕然とする正成。後醍醐は目を閉じ、ため息をついた。やがて御簾がおろされ、後醍醐の姿は見えなくなる。正成は力が抜けたように天を仰いだ。

 参内を終えた正成はそのまま出陣し、途中で先に進んでいた正季、正行と合流。桜井の宿に陣を張って兵を集結させた。しかし河内・和泉の武士達が呼びかけにも関わらずなかなか集まってこず、正季たちは「卑怯者め」と憤る。しかし正成は「千早の戦の折りも千人足らずであった、これぞ、我が軍じゃ」と正季達をなだめる。さらに集まった兵の中に負傷者も多くいることを知って左近らを叱りつけ、「こたびの戦にこれほどの数はいらん。…どうにも、多すぎる」と言ってさらに人数を絞り込むよう命じた。正成の命を受け一同陣幕を出て行くが、正季は立ち去り際にふと足を止めて振り返り、ただならぬ兄の様子をじっと見つめる。正行が陣幕を出ていこうとしたとき、正成は正行を呼び寄せた。
 「正行、そなたはここから河内へ帰れ…」正成の言葉に、正行は「なにゆえでござります!?」と聞き返す。正成がこの戦いで自分は死ぬことになるかも知れないと言うと、正行は母・久子もそう言っていたと打ち明け、その上で同じ死ぬなら父と共に、と正成に懇願する。正成は息子の言葉を誉めるが、武士にとって一番大切なのは二つとない命、一番の恥は無益な死、父と共に死ぬのは無益、と正行を諭す。自分は帝に多大な恩があるから戦わねばならぬ、と正成は言った上で「しかし、もそっと力を尽くし、戦ではない忠義の道を探すべきであった…それが、見つからなんだ。心は砕いたが、力が及ばなんだ。それが生涯の不覚じゃ。この戦は不覚の戦じゃ…不覚の戦にそなたを連れて行くわけにはいかぬ」と言い聞かす。「父上!」となおも懇願する正行に「河内へ帰れ!世の中は変わる!それを山の中からじっと見ておれ!」と正成は一喝する。そして大人になったら自分の命をいかようにでも使え、と諭し、正成は涙する息子の肩に手を置いた。
「生きて…はよう大人になれ。河内へ帰って、山の畑へ行って、カラスをやろうてくれ…。そなたと二人でまいた種が、カラスに全部食われんようにの…」正成も涙し、正行も涙する。
 正行は従者だけを連れて桜井の宿から河内へと去っていく。正成たち一党がそれを馬上で見送る。正行が立ち去り際に振り返ると、正成はニッコリと笑顔を見せる。正行の姿が見えなくなると、正成は一同に向かって「目指すは湊川!では、参る!」と叫んで走り出した。

 5月24日夕刻近く、尊氏の船団はついに兵庫に到達した。尊氏は船縁に出て高師直たちと夕日に映える兵庫の山並みを眺める。2万5千の大軍が乗る大船団が神戸沖を覆った。
 夜、尊氏の船の中で諸将を集めて軍議が開かれた。用意された「錦の御旗」が広げられ、これが尊氏の御座船に掲げられることになる。師直は自軍が光厳上皇の院宣を受けた皇軍であることを将士らに触れて回るよう指示を出す。そして細川顕氏が地図を広げて上陸の手はずを説明し始めた。説明を聞いていた尊氏は「楠木正成の陣はいづこにおわす?」と尋ねる。顕氏が会下山(えげさん)に楠木の菊水の旗が多く見られるとの報告を伝えると、「そこじゃ、そこが一番の難敵じゃ」と尊氏は言った。

 翌5月25日朝、新田義貞は和田岬付近を尊氏らの上陸地点と予測、ここに3万の兵で布陣した。「足利の船団、いまだ動きませぬ!」との報告を受けて、義貞は海面の船団をじっとにらむ。一方、会下山に布陣した正成も陸路を進んでくる直義の軍を防ぐべく、部下達に作戦を指示していた。
 5月25日早朝、尊氏が「かかれ!」の声と共に采配をふり、足利軍の作戦は開始された。錦の御旗が尊氏の御座船に高々と翻る。細川定禅率いる四国勢の軍船が東へと動きだす。直義の軍勢も明石から大蔵谷へと進撃する。尊氏が船の甲板に駆け上がり叫ぶ。「者ども!乱声(らんじょう)ーっ!乱声ーっ!」船上の兵士達は一斉に太鼓・銅鑼を鳴らし、鬨(とき)の声を上げる。その戦いの始まりを告げる響きを、正成は聞いた。西を見れば、直義率いる大軍が地響きをたてて押し寄せてくる。
 正季らは抜刀、「放てーっ!」の声と共に矢が一斉に空へと放たれる。矢は直義軍の兵士達に次々と当たるが、倒れる兵士をものともせず直義は突撃していく。ついに直義・正季双方の騎馬武者が入り乱れ、乱戦が始まる。正季、直義ともに刀を振るって奮戦する。
 このとき、錦の御旗を掲げた御座船が、和田岬のはるか東へと進むのが見えた。「何事ならん…!?尊氏の船が東へ向かうぞ!」それを見た義貞は立ち上がった。義貞は尊氏が東の生田(いくた)方面に上陸するとみて、直義軍と挟み撃ちにされてはかなわぬと、軍勢を率いて和田岬から東へと移動を開始した。
 義貞軍の動きに、正成達も気づいた。「おお…新田どのの軍が東へ動く!何事ならん!」と左近が叫ぶ。「おろかな…錦の御旗に惑わされておる。あの船はおとりじゃ!それがなぜ分からん!」正成はそう言って悔しがる。そんな事も知らず義貞は兵を率いて東へと兵を進めていく。
 尊氏はすでに御座船から別の船に乗り移っていた。そして小舟に乗り込み、新田軍と楠木軍の中間地点、駒ヶ林の浜に上陸を果たす。これにより新田・楠木両軍は分断されてしまった。形勢不利を悟った義貞は京都方面へ退却を始め、楠木軍は敵中に孤立する形になってしまう。

 正成らは馬にまたがり、突撃の体勢をとった。「敵は足利尊氏ただ一人!命を惜しむな!名こそ惜しめ!」正成の命令一下、楠木一党は押し寄せる尊氏軍に突撃していく。尊氏も先頭に立って楠木軍に立ち向かい、両軍は乱戦に突入する。わずか数百の楠木軍が、一万を超える足利軍相手に6時間の長きにわたる激闘を続けた。乱戦の中で、馬から降りて周囲の敵と斬り結ぶ鬼神のような正成の姿を、尊氏は目撃する。正成も尊氏の姿に気づき、一瞬両雄の視線が合う。正成は軽く会釈し、すぐにまた周囲の敵と激闘を続ける。正季も直義軍相手に抵抗を続けるが、ついに徒歩で逃げ回る状況にまで追い込まれる。
 吠えながら奮戦を続ける楠木一党。しかしついに尊氏率いる騎馬武者の群が、正成たちを完全に包囲する。馬上の尊氏が正成を見下ろすと、正成は微笑み、静かに尊氏に一礼した…。


◇太平記のふるさと◇
 
  広島県・尾道市。尊氏が九州への西下、そして東上の二度にわたって訪れた名刹・浄土寺を紹介。寺に掲げられた尊氏との関係を示す「二つ引両」の紋、尊氏画像、戦勝祈願で尊氏が奉納していった和歌などを映す。


☆解 説☆
 
  南北朝の天下分け目の戦い、「湊川の戦い」を描く、「太平記」第2部のクライマックスである。まぁ「天下分け目」と書いたが、このあともズルズルと戦乱が続くのが実際なわけで、これを決勝戦みたいに呼ぶのは少々気が引けるのだが、足利尊氏の「天下とり」が事実上決まった戦いというのは間違いないだろう。そして時代を象徴する智将・楠木正成がこの戦いで散華することでも見逃せない。
 実際、この回は武田鉄矢の正成がほとんど主役になってしまっている。ドラマ開始前に「尊氏どののワキであることは承知してますが、主役をもらった気でいますよ」と語っていた武田鉄矢さんの入魂の熱演が全編にわたって見られる。この回の「本編内容」の文が異様に長くなってしまっているが、これは一つにはセリフが多く、密度の濃い場面が多いからである。「鎌倉炎上」の回がドラマ「太平記」のベスト1ならば、やはりこの「湊川の決戦」の回はベスト2に挙げて良いだろう。

 冒頭、足利尊氏の大船団が瀬戸内海を進む映像が出る。アップで映るときは全てスタジオに造った船のセット上で撮影が行われているが、遠目に映る船団は全てCG合成。今見るとかなりチャチであることは否めない。まぁそれ以前だとミニチュアを使うしかなかった場面で、それよりはマシかという気もするが、当時のCG技術ではなんとなく船団が薄っぺらい印象しか与えられなかった。よく言えば「太平記絵巻」を思わせる絵画調なのだが…。

 状況説明的にチラッと義貞VS円心の白旗城攻防戦の映像が入る。これ、1分足らずと短い映像ながらもちゃんとロケ撮影してて意外と手間をかけてるところが南北朝マニア心に嬉しい(笑)。この白旗城攻防戦は赤松円心の真骨頂というべき戦いであり、一方の新田義貞にとっては大問題の戦いである、南北朝戦史でも注目される合戦なのだ。
 この戦いは古典「太平記」巻十六の「新田左中将赤松を攻めらるる事」に詳しい。勾当内侍の一件やら急病やらで出陣が遅れた義貞はようやく尊氏追討のために山陽道へ兵を進める。そして円心のこもる白旗城の攻略にかかろうとしたとき、円心の方から書状が来る。「それがし元弘の乱で手柄を立てたものの恩賞が少なかったために一時の怒りに任せて賊側につきましたが、護良親王のご恩も忘れられず、賊軍につくのは本意ではございません。そこで播磨国の守護職を与えるとの綸旨がいただけましたら、元のように味方に参って忠節を尽くしましょう」という内容。義貞は「わけはない」と喜んで京へ使者を立て、播磨守護職の綸旨を受け取ってくるが、この往復十余日の間に円心は城の防備をバッチリ固めてしまう。そして義貞から綸旨が届けられると、こう言い放ったものだ。「播磨の守護職は将軍(尊氏)からすでにいただいておるわ。手のひらを返すような綸旨が何の役に立つか!」こうあざ笑って円心は綸旨を義貞に突き返す。もちろん義貞は大激怒し「何ヶ月かかろうとこの城を攻め落としてやる!」と六万の大軍で白旗城を包囲、しかし円心もさるもので城内には水・食糧も豊富にたくわえられ、播磨・美作の弓の名手数百名が攻め登ってくる新田の兵を散々に射たため、義貞は攻めあぐねて攻防は50日の長きにわたってしまう。脇屋義助の進言により義助ら別働隊を備中へ向かわせることになるが、時すでに遅し。結果的にこの白旗城攻めの失敗が義貞軍、ひいては後醍醐政権にとっての致命傷となってしまうのだ。
 この話、いささか面白すぎて史実性は疑わしい。特にこの話で円心が要求した「播磨守護職」は実は義貞自身が持っていたもので、それを義貞が京に使者をたててまで円心に与えようとするのは明らかにおかしい。しかし、逆にこういう指摘もある。義貞は自身が播磨守護であったために、自分の支配地域にいる円心をなんとしても潰さねばならなかった。だからこそ白旗城攻略にこだわり、時機を逸することになったのだ、と。義貞には酷な言い方だが、私的な理由にこだわって公的な任務をおろそかにしたという見方だ。このあと正成が内裏で義貞の失策を激しく非難するシーンがあるが、これもそうした見方に基づいている。
 ドラマではわずか1分足らずで片づけられたこの白旗城の戦い、山上からあざ笑う円心と下で歯ぎしりする義貞の映像は、上記のエピソードを知っていると十二分に楽しめるのだ。制作スタッフはこのエピソードの面白さを十分に知っていて、泣く泣く時間をカットしながらも何とかこのシーンを挿入したのだと思う。だからこそわざわざこのシーンはロケ撮影され、久々の上半身裸の上に鎧を着る異様な円心の姿もあって、強い印象を与えてくれる。もっともこの白旗城、「山」というよりも「丘」の上に柵を築き、無理矢理「山城」見立てて撮影してますがね。異様な恰好で「ガハハハハ」と高笑いする渡辺哲さんの円心、惜しくもこのシーンが最後の出番である。御苦労様でした。

 さて、時間関係では前後することになるが、前回検証すると予告した勾当内侍の問題について触れておこう。
 古典「太平記」は尊氏が九州へ落ちた直後、義貞が勾当内侍との別れを惜しんで3月末までズルズルと京にいて追撃の時機を逸してしまったことにしている。もちろんこれが事実であると考えている人は余りいない。いくらなんでも、と思うところもあるし当の「太平記」がその直後に義貞が瘧(おこり)をわずらっていたこと、そしてそれが癒えたので3月4日(史実は10日らしいが)に京を発したことが記されているので少なくとも3月末までズルズルといたはずはない。実際義貞が2月19日付で西国の武士に尊氏追討の御教書を下している事実があるし、一族の江田・大館などを赤松攻めに先発させているから何もしてなかったわけではないのだ。勾当内侍の話は当時噂としてはあったのかもしれないが、「傾国の美女」を演出したがる「太平記」作者の物語的手法と考えた方が良いと思う。
 「出遅れ」の件で問題になるのは後醍醐政権自体の状況判断の甘さだろう。3月2日の除目(じもく)で功績のあった公家に対する昇進人事を行い、3月10日に北畠顕家を奥州へ返し、義貞が西国へ出発している。このテンポを見る限り、すぐに尊氏が戻ってくるという危機感は後醍醐たちには無かったように感じる。尊氏敗走に功のあった北畠軍の奥州帰還も強く批判されるが、奥州の叛乱の方ににむしろ警戒感を感じていたのかも知れない。どっちにしてもこんな状況では長くはないですな。以下に挙げる楠木正成の話もそうした状況に絡んでいるわけだが。

 前回のラスト間際で正成はいきなり河内へ帰ってしまっている。それでこの回は畑で種をまく象徴的なシーンが入るわけだが、なんでここで正成が突然河内に帰る展開になったのか、補足しておきたい。
 このとき正成が本当に河内に帰っていたかどうかは分からない。ただ吉川英治「私本太平記」はそういう設定にしている。「私本」では正成がこの直前、つまり尊氏が九州へ落ち延びた直後に後醍醐天皇に驚くべき進言をし、それで正気を疑われたために病と称して河内に引きこもったという展開にしているのだ。
 この驚くべき進言とは、「梅松論」に記されているもの。それは「義貞を誅伐せられて尊氏卿をめしかへされて君臣和睦候へかし。御使いにおいては正成つかまつらん」というものだった。つまり尊氏が九州へ「敗走」した直後に、義貞を討伐して尊氏と和睦すべし、使者には私が行きましょう、と言ったわけだ。そりゃまぁ正気を疑われるのも無理はない…と思っちゃうところだが、「梅松論」の正成はそれなりの根拠を示す。いま武士達の心は尊氏になびいている、だからこそ敗軍の尊氏に多くの武士が集まり、勝った天皇軍を見捨てている。間もなく尊氏・直義は西国の兵を集め大軍で攻め上るだろう、そうなればとても防ぎきれない。帝にはさまざまお考えがあろうが、軍事においては卑しい正成の言に間違いはない、どうかお考え下さい、と訴えたというのだ。
 この「梅松論」の記事は事実なのか、確認する方法はない。特にこの「梅松論」という本が足利寄りの姿勢で書かれていることもあり、後醍醐礼賛・正成神格化の皇国史観ではこの記事は完全に否定・黙殺された。しかし「梅松論」という本がこと史実性においては「太平記」よりずっとアテになる(成立年代もずっと早い)というのは案外昔から言われていることで、そう頭から否定できるものでもない。佐藤進一氏の本にもあるが、「元弘没収地返付令」などで武士達が敗軍の足利に集まったというのは事実であり、状況に危機感を覚えた人は少なからずいたはずで、それを後醍醐に正面から言える人物は正成しかいなかったのではなかろうか、という推測はある。このあと正成が作戦を容れられず死地に赴かされることになる(これは「太平記」の記述)のも、事前にそんな進言があって感情的もつれがあったから、と推理することも可能だろう。
 ドラマではこの正成の進言は尊氏九州落ちの後には挿入されず、この回で正成が内裏で作戦を述べる場面のセリフに「かないますることならば…」としてチラッと挿入されている。

 花夜叉こと卯木が久々に正成のところにやってきて服部元成と猿楽舞を見せる。まだこの段階では「能楽」には脱皮していないのだが、見た目にはほとんど同じになっている。ここで花夜叉と元成が夫婦となることが明かされ、知ってる人にはこの夫婦の間に能の大成者・観阿弥が生まれることが判明する。それにしても花夜叉っていったいいくつなんだ。ドラマでは正季の姉とされているのだが…。なお、観阿弥はドラマ終盤に登場します。乞うご期待。

 山陽道を直義率いる大軍が進み、脇屋義助の軍を撃破するシーンがある。この辺りかなり単純化して山陽道の戦況を描いたが、古典「太平記」では備中にある赤松方のいくつかの城を義助ら新田一門の武将が攻略したものの、攻めあぐねているうちに直義の大軍が押し寄せてきて奮戦むなしく敗れ去るという形で記している。ここにあの「天勾践…」の漢文を書いた児島高徳が再登場し、新田軍と呼応して活躍したが結局敗れるという話が挿入されている(古本にはなく後発のテキストに詳しい話がある)
 ついに義貞は赤松攻略をあきらめて兵庫へと向かう。ドラマでは痛々しく敗退していく義貞軍が映るが、この退却の間にドラマの中でも6万の兵が3万に半減してしまっている。義貞軍の包囲から解放された円心は、義貞軍が捨てていった旗指物を百余流、尊氏のもとへ持参する。その中には少し前には尊氏軍に属していた者の旗も混じっていたのだ。これを見た尊氏は意外にも上機嫌で、「もともと敵である者の旗があるのは当たり前として、こちらの味方として戦った者の旗も少々あるか。一時の危険を逃れるために義貞に降参した、その心中はふびんである。この者達もやがて我が味方に参るであろう」と言ったという(「梅松論」)。万事おおらかですね、この人は。それがこの人の魅力だったのだろうが、それが時として事態の悪化を招くこともある。ま、これもそのうち。

 正成の参内シーンは、武田鉄矢、片岡孝夫、そして藤木孝の名演の激突。その様はこのあとの湊川の戦闘シーンより見応えがあるぐらいだ(笑)。古典「太平記」「私本太平記」を参考にしているところもあるが、ここまで来るとほぼドラマのオリジナルと言って良いだろう。新政への批判を直言し、必死に現実的作戦を訴える正成、それを聞きつつもグサグサと突き立てられて受け入れがたく感じる後醍醐、とことんまで正成を見下し、あざける、旧体制公家丸出しの清忠。全セリフを載せたいぐらいだったが、文量の関係もあって泣く泣くカットしてます(涙)。
 ここで正成が言う「いったん足利軍を京へ誘い入れ、糧道を断って自壊を待つ」という作戦案は、古典「太平記」に正成が述べたものとして記されているもので、戦略的見地から見ても今日でもなお評価が高い。もちろんあくまで歴史の「イフ」であるが…。ただ、この数ヶ月前に足利軍が京を攻め落としながら占領が維持できず、西国へ逃れる羽目になったのも正成が言うような京の特性があり、正成が超人的な知謀から思いついたと言うよりは、戦場に立った者なら誰でも思いつく現実的作戦であったとも思える。古来、京を守って勝ったためしは無く(まぁあの鎌倉ですらそうだが…)、南北朝動乱を通じて何度も京は似たようなシチュエーションになるのだ。
 それにしても藤木孝さんの清忠は凄い。古典「太平記」でも「帝が年に二度も叡山に動座とは帝位を軽んじるようなもので官軍の面目を失う。尊氏が九州から大軍で来ると言っても先に関東の兵を率いて来たときほどではあるまい。先に尊氏を打ち破ったのはただ武略によるものではなく、ひとえに聖運に天が味方したからであるぞ」などと言って正成に出陣を命じている。このセリフのおかげで清忠は後世、水戸黄門はじめ数多くの楠公ファンに、ともすれば尊氏以上に悪玉扱いされることになる。ドラマもほぼこのセリフがベースだが、「愚策も愚策じゃ…!」とやるあたりなど、実に憎々しげでこれぞ奸物!というべき名演、いや怪演だ。次の回でも凄いんだ、これが(汗)。
 そして片岡孝夫の後醍醐天皇。このシーンのワルは清忠が一手に引き受けている形なのだが、最終的に正成を死に追いやるのはやはりこの人である。建武新政への批判を正成に直言されて、それは一応「よくぞ申した」と受け止めているが、実際にこの時期、公家の間でも後醍醐への風当たりは強くなっていたようだ。後醍醐が「建武」の年号を「延元」に改元したのも「やっぱり『武』の字がいけなかったじゃないか」との意見を受け容れたものだが(言ったのはドラマにも出てくる洞院公賢)、その背景には建武新政そのものへの公家衆の批判がついに吹き出していたことがあった。この時期に後醍醐の寵臣・千種忠顕が出家している事実もあり、後醍醐の朝廷内での立場がかなり悪くなっていたのは確実のようだ。
 そんな状況では耳が痛くても「いちいちうなづけぬことではない…」と言うしかないだろう。だが「足利との和睦」などとまで言われてしまっては切れてしまうのも無理はない。ドラマのこのシーン、清忠が目立つんであまり気が付かないが、よく見れば後醍醐も静かに正成の言葉に腹を立ててるんだよね。そして最後に「今の儀、朕は聞かざりし事とするぞ…!」と事実上の正成への死刑宣告。このセリフ、あんまり強烈だったもので、当時「太平記」を見ていた友人とモノマネをしたりしたものだ。さあ、みなさんも誰かの頼みを拒絶するときはこう言いましょう、「今の儀、朕は聞かざりしこととするぞ…!」一部の太平記マニアには大受けです(爆)。戦前だったら不敬罪(^^;)。

 さて、名場面は続く。今度は楠公父子涙の別れ、「桜井の駅」の名場面である。これも古典「太平記」の名場面で、戦前の皇国史観教育では恰好の題材とされたため、子供時代にこの場面を頭に刻み込まれたご老人も多い。「獅子は子を産んで三日たつと、その子を数千丈の岩壁から落とす。その子に天分があれば、教えなくても宙で跳ね返って死ぬことはない…」から始まる名セリフだ(確か「北斗の拳」でアレンジして使ってましたね、これ)。あとは大筋としてはドラマの台詞と同じで、正成はこの戦いで自分が死に、尊氏の世となるであろうと息子に告げ、しかし多年の忠節を忘れて降参してはならない、一族郎党が一人でも生き残っているうちは金剛山にこもって戦うべし、これがお前の最大の孝行、と諭して河内へ帰らせるのだ。
 ドラマはさすがにこのまんまにはしていない。最大のアレンジは正成が自分の「不覚」を語り、「命を粗末にするな」と厳命する点だ。もとの「太平記」だって言葉の裏にそれが見え隠れしてるけどね。「大人になったら命をおのれの思うままに使うがよい」という正成のセリフは、のちに第43回で成人した正行が後村上天皇の前で言っている。「そなたと二人でまいた種が、カラスに全部食われんようにの…」は観る側も涙、涙の名セリフである。この回の脚本は正成の話に絞れば、実によく計算されていて、池端俊策先生万々歳、と言っちゃうところ。 この場面、流れる曲もいいんだよなぁ。
 なお全くの余談であるが。この回の放送日、関東地方は台風の通過があったようで、僕の所有するこの回、この場面の録画には画面上方にしばしば「○○県に大雨洪水暴風波浪警報」といったテロップが現れては消える。何だか桜井の駅の涙の別れに天も涙しているかのようである…って違うだろ。邪魔だ!余談ついでに書くが大河ドラマが放送される日曜日は選挙投票日が多く、僕が所有する「太平記」のビデオでもしばしば「○○県知事に××氏が当選確実」という速報テロップがよく入っている。「京より急使が!」なんてシーンにこれがかぶさると爆笑ものである。今観るとその後話題になった知事さんもいたりして、これはこれで「歴史」の記録になってて面白くもあるんだけどね。 今は投票締め切りが8時になったからこういう問題は余り起きなくなったけど。

 このドラマでは尊氏軍2万5千、直義軍1万、義貞軍3万、正成軍1000(次回アヴァンタイトルでそう言ってる)と、「湊川の戦い」における各軍の兵数を設定している。合計すると35000対31000で兵数はほぼ互角に見えるが、この数字はちと疑問がある。制作側が尊氏主役のドラマとしてこの決戦を「互角の戦い」になるよう数字を操作したフシがある。
 古典「太平記」は例によってすさまじい。足利軍が直義軍だけで50万騎(!)とするのに対し、義貞は2万5千、義助が5千、正成が700、その他含めて天皇方は合計5万騎程度の設定である。尊氏の船団の兵数は不明になっているためその差は十倍以上あったことになる。しかしいくつかの実証的推測によれば尊氏軍2万5千、直義軍1万、義貞軍1万といったあたりが実数ではなかったかと言われている(参考にした本がみんなこの数字を出してた)。つまり、ドラマは足利軍についてはこの実証的な数字を使用し、新田軍には古典「太平記」に近い数字を使用することで、「互角の勝負」を演出した疑いがあるのだ。
 古典「太平記」には、決戦の前夜に正成が義貞のもとを訪れ語り合うシーンがある。箱根の戦いから山陽道の戦いまで、いいところ無しの連続で人の嘲笑を受ける、とぼやく義貞に、正成は「人の言うことなど気にするな」と言ってむしろ義貞の功績をたたえ、彼を慰める。しかし正成がこの時点で自らの死を覚悟しているのは明かで、読む者の涙を誘う一場面だ。

 正成がこの戦いで自分が死ぬことを覚悟していたというのは「太平記」も「梅松論」も記すところ。「梅松論」の正成にいたっては、尼崎から上奏文を送り「今度は君の戦、必ず敗るべし」とか「正成存命無益なり。最前に命を落とすべき」と記している。「太平記」の古いテキストだと、先ほどの内裏の場面の後に「この上は異議を申すに及ばず。さては打死(うちじに)せよとの勅定(ちょくじょう)ござんなれ」正成は吐き捨てるようにつぶやいている。どうもこれらの言葉を並べると、正成の戦死ってヤケクソの抗議の戦死であったように見える。だからこそ正行は帰しているわけで。千早・赤坂のゲリラ戦を展開し、もと「悪党」とも言われるややアウトローな楠木正成が、なぜ負けると分かっている戦いに身を投じ生真面目に死んでいったのか、これはもう南北朝史最大のミステリー(笑)というのは大袈裟だが、僕などはこの辺りのいくつかの言動を並べて「ヤケクソ」の一言で解決しようかなどと思っている。ドラマは、ちょっとその辺弱いかな。以前「大事なもののために死するは負けとは申さぬ」と言っていたが、そのセリフは「湊川」では聞かれなかった。やはりドラマの正成にとっても後醍醐は「大事なもの」ではなくなっていたと言うことか。

 「湊川の戦い」の戦闘の経過はおおむねドラマの描いたとおり。ただし、義貞が「錦の御旗」を掲げたおとり船にひっかかって東へ移動してしまうくだりは義貞ファンの批判を買いそう。「おとり船」の作戦は「太平記」にも見えず、ドラマのオリジナル設定である。義貞は確かに和田岬から東に移動して、結果的に尊氏の上陸を許し正成を敵中に孤立させてしまったが、どうも細川四国勢の船団が生田方面に上陸しようとしたので、退路を断たれる危険を感じ東へ移動したものらしい。まぁ大筋としては同じことなのだが、他愛のない策略にひっかかってしまったように描くのは、ちょっと義貞に気の毒というものでは。正成の「それがなぜわからん!」という叫びもかなりきつい。先の内裏シーンでの義貞批判もあるし、さらに白旗城のシーンもあるし、この回観てると義貞の無能ぶりばかりが目立つ。僕も本音のところは義貞の指揮官としての能力はかなり低く評価してるんですけどね…ドラマとしては主役・尊氏のライバルということもあり、もうちょっと弁護して描いてあげても良かったのでは…あくまでドラマ、としてね。

 かくして、新田軍は実質的に「湊川の戦い」ではほとんど戦わずに退却し、正成一党の1000騎たらずが足利軍と決死の激闘をすることになる。この楠木一党の奮戦はもう初めから死ぬつもりだったから実際すさまじいものがあったようで、古典「太平記」によれば直義の馬が矢じりを踏んで進めなくなってしまい、楠木一党があわや直義を討ち取るかというところまで追いつめたことが記されている。結局直義は他の馬に乗り換えて助かってるけど。ドラマでは「敵は足利尊氏ただ一人!」と突撃していたが、実際には直義一人の首を狙って突撃していったようだ。「私本太平記」はこの正成の無謀とも思える奮戦を、義貞を無事に逃がすための時間稼ぎと解釈している。そういう見方も可能だろう。
 古典「太平記」では直義が押され気味になったのをみた尊氏が「直義を討たすな!」と新手の兵の出動を命じ、楠木軍を包囲する。「梅松論」だと細川軍が退却する義貞軍を放って置いて転進し、やはり楠木軍包囲に向かったとする。だからドラマみたいに尊氏と正成が戦場で顔を合わすなんて絶対考えられないのだが、それを言っちゃおしまいか。
 ドラマのラスト、正成らは尊氏が直々に率いる騎馬武者達(10人ぐらいか…?)に包囲されてしまう。戦塵にまみれた正成が、尊氏に一礼し微笑むシーンは、当時の雑誌記事の記憶だと武田鉄矢自身の発案であったようだ。ご自分で観て「良いシーンだなぁ…」としみじみ語っていた覚えがある。個人的意見ですが、ちょっとやりすぎです、ハイ(笑)。