第三十九回「顕家散る」(9月29日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:尾崎充信


◇アヴァン・タイトル◇

足利政権と吉野朝廷の樹立により南北朝の動乱が開始される。北陸の南朝勢力である新田義貞が苦戦を続けている一方、奥州の南朝軍を率いた北畠顕家が8月、ついに動きだした。顕家軍は足利方の軍を各地で撃破し、利根川を越え、ついに鎌倉へ迫った。 


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

高嶋政伸(足利直義)

石原良純(脇屋義助)

筒井道隆(不知哉丸) 花王おさむ(船田政経)
渡辺寛二(大高重成) 中島定則(三戸七郎)
中山正幻(結城宗広) 下元史朗(土岐頼遠) 松本公成(細川師氏)
森松條次(洞院実世) 相原一夫(一条行房)

後藤久美子(北畠顕家)

柄本明(高師直)

塩見三省(高師泰)

森次晃嗣(細川顕氏) 

谷嶋俊(上杉重能) 中村麻沙希・小松正一(足利近習) 
高都幸子・井上千恵子(尼) 山崎雄一郎(不知哉丸・子役)
 
若駒スタントグループ クサマ・ライディング・クラブ
鳳プロ 丹波道場 劇団いろは 劇団ひまわり 
 
近藤正臣(北畠親房)

藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:石川恭男○撮影:永野勇○照明:飯酒盃真司○音声:坂本好和○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇
 
 建武4年暮れ。一人の少年が鎌倉から京へとやって来た。少年は足利尊氏の母・清子のいる寺を訪れ、持っていた地蔵尊の守りを示し、「不知哉丸」と名を名乗った。清子は戸惑いながらも少年を通し、飯を食わせてやる。

 幕府では関東に攻め込んだ北畠顕家の大軍への対応を巡って激しい議論がたたかわされていた。軍事を担当する侍所の高師直高師泰兄弟は尊氏の子・千寿王のいる鎌倉を守るため援軍を送るべきと叫び、そのための兵糧を畿内で徴収しようと主張するが、政務を担当する足利直義率いる評定衆の結論は長年の戦で疲弊した畿内からこれ以上の軍事の税をとることはできないというものであった。直義は顕家がそのまま京を目指して来ると予測し戦いはその時でよいと言い、評定衆の細川顕氏もいざとなれば余力のある細川四国軍がいるから心配はないと豪語する。
 直義ら評定衆が去った後、師直は尊氏に評定衆が軍事に口出しすることへの強い不満を訴えた。しかし尊氏は鎌倉の問題は足利家内部の問題であり、天下の政道にとっては小さい問題なのだろう、と政務を任せた直義を弁護する。師直が「千寿王どのをいかがなされますか?」と問うと、尊氏は黙るしかなかった。

 そこへ清子が尊氏を訪ねてきた。そして地蔵の守りを尊氏に見せ、不知哉丸が北畠軍の鎌倉攻撃のために僧の供をして京に来たこと、なんとしても尊氏に会って願いたいことがあると言っていることなどを告げる。「願いの儀とは?」と尊氏が聞くと、「武士になりたいと申しておる…」と清子は答えた。
 尊氏が登子のところへ顔を出すと、登子は手紙を書いている最中。「また千寿王への文か?」と尊氏が聞くと、「義詮(よしあきら)でござりまする!」と登子は怒って答えた。千寿王は鎌倉へ発つ前に元服して「義詮」と名乗っていたのである。登子は父の顔もろくに覚えない内に元服だけ済ませて、関東の束ねとして一人鎌倉へ向かわされた義詮が不憫でならぬ、と嘆く。しかも北畠奥州軍が鎌倉へ迫っている今、「鎌倉を投げ出して帰ってこい」と言いたいと登子は泣く。尊氏は師直からもらった菓子を登子に食べさせ、義詮は鎌倉が危なくなったら三浦に身を隠すよう言ってあるから大丈夫、と慰める。

 翌日、尊氏は直義の屋敷で不知哉丸と面会した。一室で尊氏は不知哉丸と一対一で向かい合い、清子と直義は隣室で成り行きを窺う。不知哉丸は尊氏に挨拶し、地蔵の守りを見せて「今日まで片時も肌身離さず、ご恩を忘れたことはござりませぬ」と尊氏に言った。尊氏の脳裏に藤夜叉が死に瀕した折りに不知哉丸に地蔵の守りを渡してやったときの思い出が蘇る。
 尊氏は藤夜叉について「京で美しい舞を見せておられた…その舞が縁で生前親しゅう口をきかせていただいた」と語る。そして不知哉丸に願いとは何かと聞くと、不知哉丸はやはり「武士になりたい。寺には向きませぬ」と言う。「不知哉丸はもっと強う生きてみとうござります…!武士になり、この手で、世の中を変えてみとうござります!」そう訴える不知哉丸に尊氏は「それはならぬ」と即座に言う。藤夜叉は子に戦のない穏やかな世で生きて欲しいと願っていた、と尊氏は言い、「尊氏も同じ思いぞ。わしは武士も嫌いじゃ。戦も嫌いじゃ」と不知哉丸に語る。「理不尽な仰せでござります!御殿はその嫌いな武士の棟梁ではございませんか!そも、人の世に戦のない世などありましょうか?良い世は、戦に勝って己の手で奪い取るものではございませんか?その力を、不知哉丸も持ちたいのでございます!」不知哉丸は尊氏に必死に訴えた。
 尊氏は自分は好むと好まざるとにかかわらず武士の棟梁の家に生まれてしまったから戦をするしかなかったのだと言い、「だがそなたは違う!」と諭す。ところがこれを聞いた不知哉丸は不敵な笑みを浮かべつつ言った。「…違いませぬ。この不知哉丸の血にも、武家の棟梁の血が流れております」ハッと目を見張る尊氏。「おんとのは、父上ではござりませぬか!?」不知哉丸の声は隣室の清子と直義にも聞こえ、二人はビクッと反応する。
 不知哉丸は続ける。母から父は戦死した侍大将と聞いていたが、その親戚に一人として会ったことがない。その一方で足利の大将ともあろう者が母の死に駆け付けてきた。「…そう思えば、全て腑に落ちるのでござります。御殿は父上では?」不知哉丸の問いに尊氏は「そう思いたい気持ちは分からぬではない。だがわしはそなたの父ではない。思い違いじゃ」と完全に否定する。不知哉丸は納得せず、なおもすがろうとするが、「控えよ!」と尊氏が一喝。藤夜叉の子だから会ってやったのだ、寺に戻って母の供養をせよ、と尊氏は言いつけるが、「父でもないお方が何故にお命じになりまする?」と問い返され二の句が継げない。「寺には戻りませぬ!この都で武士になりまする!」そう叫んで不知哉丸は飛び出していく。尊氏は思い悩みつつ、不知哉丸が置き忘れていった地蔵の守りを眺めていた。

 北畠顕家の率いる奥州軍は建武4年の暮れに鎌倉へ突入。年が明けると京を目指して東海道を西へ攻め上った。足利方は美濃でこれを迎え撃ったが、激戦の末、顕家軍に撃破されてしまった。
 顕家軍が破竹の勢いで美濃まで来たとの情報は、越前・杣山(そまやま)城に立てこもる新田義貞のもとにももたらされた。一族の堀口貞満が顕家の軍と合流したと船田政経が義貞に報告すると、義貞は顕家がこの越前に来て義貞軍と合流してくれる、と大いに喜ぶ。しかし脇屋義助「しかし、顕家卿が来ますか?この杣山へ?」との疑いを兄にぶつける。「来る!いかに勢いがあろうとも顕家卿一人では都へ入れん。それはよくお分かりのはず」と義貞は言い、顕家と義貞の両軍が連合して琵琶湖西岸、比叡山を抜けて京へ攻め込むのが必勝の道、と説く。苦労したがこれでようやく報われると義貞は喜び、家臣一同も「祝着至極!」と盛り上がる。しかし義助だけは違った。「まことに兄上はそう思われますのか?まだ公家を信じておられるのか?」「なにい?」公家どもが自分達をあっさりと見捨てたことを忘れたか、顕家もしょせんは公家、我々に興味はないのだと義助は兄に言う。「顕家卿は来る…必ず来る!」義貞はやや動揺しつつも断言する。「では…それを信じてもうひと合戦して参りまする」義助は兄を振り返りつつ陣屋を出ていく。見送りつつ義貞も不安を覚え始めていた。

 果たして。顕家は越前へは進まず、美濃から逆方向の伊勢へと兵を進めた。
 「父上…!」顕家は喜びにあふれた顔で、父・親房のところへ姿を現した。親房は厳しい顔で息子を迎え入れ、「なぜ伊勢へ参った!?」と声を上げた。美濃からそのまま京へ突入すれば、各地の吉野方が蜂起して都を奪回できたはず、「何を血迷うた?」と親房は息子に問いただす。顕家に付いてきた結城宗広が美濃の合戦で余力が無くなったと弁解するが、親房は「勝てば余力はついてくるもの」と聞く耳を持たない。親房はとりあえず気を静め、宗広をさがらせて息子と向かい合った。
 親房は顕家に「新田と合流して京を攻める手があったはず」と問う。しかし顕家は「新田はしょせん関東の者…都を取り戻せば、また足利の如くつけあがるやもしれません。この戦は公家の力で勝たねばなりませぬ」と答えた。親房は「こころざしはそれでよい」と言いつつ、卑しくても力のある者は利用せねばならぬ、公家たる者その度量が必要、と顕家に諭す。
 親房は茶を入れ、一服してから、「しかし…なぜ伊勢へ参った?都へは遠回りぞ」と改めて顕家に聞いた。すると顕家は「父上に会えると思って…参りました」と答える。奥州に帝の威光を示すべく必死に戦ってきたが、もはや疲れ切ってしまった、無性に父上に会いたくなった、こらえていたものを吐き出すように言って、顕家は涙を流した。「見苦しいぞ、顕家…我らは帝の御代のためにその身を投げ出す者じゃ。父もなければ、子もない。…その涙、武士に見せるでないぞ!」そう言いながらも親房も親心を突かれてホロリと優しい表情を見せる。「そなたの弓には神仏が宿っている。みなそれを信じておる」と親房は言って、伊勢に来たのは神に祈るためということにせよ、と顕家に指示した。
 親房は息子に「うまいぞ」と茶を勧めた。顕家はうまそうに茶を飲みながら、ふと思い出したように言う。「近ごろ、十に一つ、矢を外すことがござります…十に一つ思うたところに矢がいきませぬ…不思議でござります」顕家はそう言って笑顔を見せ、親房はそんな息子をじっと見守る。

 2月、伊勢から出陣した顕家軍は奈良を抜け、河内・和泉と転戦し、天王寺でも迎え撃った足利軍を打ち破った。さらに八幡山に大軍を布陣させ、京まで後一歩と迫る。
 この危機に、幕府では尊氏が高師直・師泰兄弟に出陣を命じた。同時に佐々木道誉土岐頼遠らには北陸の新田軍に警戒するよう指示を出す。そこへ天王寺で顕家に敗れた細川顕氏が直義に連れられて報告に来た。顕氏は尊氏に敗戦の罪を詫びるが、師直らは顕氏の責任を激しく責め、「天王寺は我ら高家で奪うてみしょうぞ!」と叫んで出陣していった。尊氏は顕氏をなぐさめ、太刀を一振り与えて師直らと共に顕家を討つよう命じた。

 5月、師直・顕氏らの軍は天王寺に顕家軍を攻撃した。このとき顕家は大軍を八幡山にまわしており、天王寺は手薄となっていて、完全に不意を突かれる形となってしまった。
 天王寺近辺で顕家軍は必死に戦うが、形勢は完全に不利であった。太刀を振るっていた顕家は「弓を!弓をこれへ!」と絶叫する。配下の武士が弓を顕家に届けようと近づいてくるが、それに足利軍の武士が斬りかかり、弓の弦が切られてしまう。それを見てハッとした瞬間、飛んできた矢が顕家の胸に命中。「あ…っ」と声を上げて顕家は落馬する。
 夕刻、顕家はわずかな兵を率いて山中を逃げていた。追っ手が現れ、顕家は足に負傷し、味方の兵達も散り散りとなって、顕家はただ一人竹林に足を進めていく。ヨロヨロと歩きながら「弓を…誰ぞ…弓を…弓がのうてはいくさに…!」と顕家はうめき、最後の力を振り絞るように太刀を振るって絶叫する。そして力尽きたように座り込むと、短刀で自らの首筋を切った。夕陽の射す竹林の中に、若き公家武将のむくろが横たわった。

 「死んだ…和泉でか…?」吉野の親房のもとに顕家戦死の報が伝えられた。「では、お上にその旨奏上いたさねばなるまいな…帝に召された顕家が、今度は見事、神仏に召されたと…」淡々と親房は言い、報告に来た武士を手で追い払って出ていかせる。武士の姿が見えなくなったとき、突然親房は叫ぶ。「待てッ!!どこじゃと申した!?和泉のどこじゃと…?場所が分からねば…奏上も出来ぬわ…顕家…!」親房は呆然と立ち上がり、「顕家…顕家…」と名を呼びながら涙を流す。涙は親房の顔の白い化粧を落とし、涙の線を描いていく。親房は力が抜けたようにがっくりと座り込んだ。そこへ雷光が射してくる。
 
 顕家戦死の報は尊氏にももたらされた。吉野へ退却中に足利軍の手に掛かったと聞いて「お父上のもとへ向かわれたのか…哀れなお子じゃ」と尊氏はつぶやいた。「父を思う子がおるのじゃ…父を思う子が…この世には…」尊氏は夜空を見上げながら思いを馳せていた。


◇太平記のふるさと◇
 
 大阪市・阿倍野。市電の「北畠」停留所、北畠父子を祭る阿倍野神社、そのかたわらにある顕家の墓を紹介。


☆解 説☆
 
 ここから4回連続で主要人物の死がタイトルになる回が続く。一回間を置いた「正成自刃」も含めて、僕は勝手に「お弔いシリーズ」と呼んでいる(笑)。今回は結局影の薄いまま戦死を迎えてしまった北畠顕家、そしてたった2年でまるで別人に成長した不知哉丸つまり直冬が今回のドラマの主役だ。

 とうとう不知哉丸が筒井道隆に変身。このところレギュラーメンバーの退場が目立つが、筒井道隆の直冬はこの「第三部」から新登場の主要キャストの一人だ。新レギュラーと言えば師直の兄(ドラマではそう設定された)・師泰も塩見三省さんに演じられて前回から登場している。第一回で子役で出てきてたなんて誰も覚えてないだろうなぁ。
 不知哉丸が尊氏が父だとついに確信した。まぁ考えてみれば当然の結論ですね。必死に否定する尊氏だがかえってドツボにはまってしまっている。一方で登子は千寿王、じゃなかった義詮のことで頭がいっぱい、必然的に直冬には冷たくあたっていくことになる。どうも第三部は尊氏一家のホームドラマの要素がかなり強い。まぁ展開上その通りなんだけど。
 ホームドラマと並行する形で、評定衆の実務派を中心とした直義党、侍所の武闘派を中心とした師直党の対立が回を追うごとに激しさを増していく。いわゆる「観応の擾乱」に至る過程が案外じっくりと描かれていくことになった。このあたりは吉川英治「私本太平記」はかなりはしょって書いてしまっているところで(「湊川」以後はまるでおまけのような扱いになっている)、ほとんどドラマオリジナルの展開になっている。

 北畠顕家率いる奥州軍が霊山を出発したのは建武4年(延元2・1337)8月11日。従ったのはドラマにも出てくる老将・結城宗広や伊達・南部といった東北豪族達だった。下野に入ると、あの宇都宮公綱が顕家軍に加わる。しかし宇都宮一族の芳賀禅可は公綱の嫡子を立てて足利方につき宇都宮城で抵抗、結局禅可は顕家軍に降伏するが、四、五日後にはまた足利方に寝返るという忙しさ(まぁ主人も毎度そうだし)。顕家軍は利根川をはさんで足利軍と合戦となるがここも突破、12月24日に鎌倉へ突入している。古典「太平記」はこのとき鎌倉の武将達が義詮に安房か上総へ逃れるようすすめたが、義詮が「一戦もせずに逃げては恥」と言って防戦をするよう命じ、その上でもし逃れられたら西上する顕家軍を追撃しようと演説をぶち、諸将をはげました、と記している。足利義詮、このときまだ8歳。「太平記」はなぜか11歳と記している。思えばこの人も幼い頃から苦労が絶えませんね。結局鎌倉は陥落し、義詮は逃亡。足利一門では斯波家長が戦死している。

 勝ち戦に乗ってくると味方がどんどん増えてくるのがこの時代の戦争。北畠顕家軍にここで思わぬ人物が合流する。中先代の乱で消息不明になっていた北条高時の子・北条時行である。古典「太平記」によれば伊豆に隠れ住んでいて、顕家に呼応して挙兵、同時に後醍醐天皇から「勅免」を与えられ過去の罪を許された。なんでまた時行が後醍醐の南朝につかなきゃいけないんだ、と思っちゃうところだが、彼にとっては北条氏再興が至上命題なのであり、また鎌倉幕府を倒した一族の仇は足利だと考えていたようだ。中先代の乱だって鎮圧したのは尊氏だし。こののち時行は一貫して南朝方につき、関東でしばらく暴れることになる。

 ドラマでは全く触れることがなかったが、この時の北畠奥州軍団の東海道通過時の狼藉ぶりはすさまじいものがあったらしい。当時の大遠征においては食糧など物資の現地調達は当たり前であり(まぁ案外最近の戦争でもそうなんだけど)、顕家軍に限ったことではなかったのだろうが、南朝びいきの「太平記」が「この軍勢の通過した後には民家の一軒も残らず草木の一本も無いありさまだった」とわざわざ強調しているぐらいだから、実際すさまじい略奪が行われたのだろう。まぁ京都人の東北人蔑視がそこはかとなく感じられる文章でもあるんだが。
 足利軍が北畠軍を美濃で迎え撃った、としてスタジオ撮影の戦闘シーン(この回から頻出する)が挿入される。これは古典「太平記」で「青野原合戦」として記されているもの(1月28日)。約260年後に天下分け目の戦いが行われることになる関ヶ原とほぼ同じ地点だ。ドラマにも登場する土岐頼遠・桃井直常・高師泰らがこの戦闘で活躍し名を挙げているが、戦闘自体は顕家軍の勝利に終わった。しかしこの戦いで顕家軍が大きなダメージを受けたのも確からしく(ドラマでも結城宗広がそう言ってますね)、顕家軍の進路転換の一因になったと言われる。

 新田義貞はこの回からいきなり杣山城に入っている。これは前回ようやくたどりついた敦賀・金ヶ崎城を建武4年(延元2)3月に攻め落とされているため。金ヶ崎城の攻防は古典「太平記」が詳細に描写する戦いなのだが、ドラマではあっさりカットされてしまった。
 金ヶ崎城を攻めたのは高師泰・斯波高経に率いられた大軍で、新田軍は兵糧も尽き、軍馬を殺して食べるという極限状態にまで追い込まれる。義貞の弟・脇屋義助が近くの杣山城から援軍を送ろうとするが失敗、そうこうしているうちに2月25日、義貞・義助・洞院実世ら7人が包囲されている金ヶ崎城を脱出して杣山城へと入った。ここから援軍を出して金ヶ崎城を救おうという作戦だったと言われているが、義貞らが落城寸前の城を見捨てて逃げ出したのでは、というかなり手厳しい指摘、というか非難もある。何とも判定はしがたいが「天皇」として奉じている恒良親王、尊良親王、そして義貞の息子・義顕なども城内に残っているので、そう簡単に「見捨てて逃げた」と断定してはいけないようにも思う。
 3月6日、城内の兵糧が尽きたと判断した高師泰は総攻撃をかけた。新田軍は戦死者の股の肉を食ってまで凄まじい抵抗を行うが衆寡敵せず、城内の人々は自害を決意する。「切腹とはどうやるのか」と聞く尊良親王に義顕は「かようにつかまつるものにて候」と言って自ら手本として腹を切った。尊良親王もこれに続く。ドラマでも顔は良く出ていた一条行房らも後を追った。「天皇」恒良親王は捕らえられて京へ送られ、結局毒殺されることになってしまう。
 とまあ、こういう凄まじい悲劇があったあとの義貞なのだと思って見てもらいたい。この時期には少しは体勢を持ち直し、斯波高経らを苦しめ始めていた。それにしては少々物事を楽観的にみてらっしゃるようにも思うが…。
 義貞のそばに入道姿の家臣がいて「船田政経」とされている。演じているのは花王おさむさんで、第24回では「船田入道」として登場していた。ただし、新田の執事「船田入道」は「船田義昌」のことであり、前年の京都攻防戦で戦死してしまっている。ドラマでは両者を混同したのか、面倒だから一緒にしちゃったのか…。

 北畠顕家が新田義貞と合流せず、美濃から南下コースをとってしまったことについては古来諸説がある。それだけ顕家の「戦略的失敗」とみなされ議論を呼んでいる行動なのだ。ドラマの親房も言うように、勝てば勢いに乗ってしまうこの当時の戦争では、そのまま義貞と京へ突入するのが最善だったと考える人も多い。だが青野原の戦いで実際にはかなりダメージを受けてしまい、力を回復させるために北畠一族の拠点がある伊勢へとりあえず向かったというあたりが真相のようだ。佐々木道誉・細川頼春らが黒地川に布陣して行く手を遮ったのも大きかったろう。
 その一方で、顕家が義貞を嫌っていたとする意見も根強い。なんといっても古典「太平記」がその説を採っていて、顕家が義貞に功を奪われることを嫌って転進したと記している。ドラマでは顕家がかなり露骨に武士への嫌悪感を述べているが、お父さんの親房がああいう人だから、一つの可能性としては浮かんでくるところ。
 もう一つ、面白いのが顕家軍に北条時行が加わっていたことに原因を求める説だ。時行にしてみれば義貞はまさに「親の仇」。その義貞との合流に時行が強く反対したので顕家が方向転換したとする説だ。面白い話なんだけど、時行の発言力がそんなに強かったとも思えないので、ちょいと弱いと感じるところ。
 ドラマでは「時行説」以外をほどよく混ぜ合わせ、「父上に会いたかった」という顕家の実に個人的な動機を味付けしている。思えば後藤久美子がちゃんと演技しているのってこのシーンぐらいじゃなかったか、それは言い過ぎか。

 伊勢から奈良へ進んだ北畠顕家だったが、2月28日の「般若坂の戦い」で足利軍に敗れる。古典「太平記」によれば尊氏・直義がこのころ猛将として名を高めつつあった桃井直常・直信兄弟をわざわざ指名して顕家に立ち向かわせ、直常が感激し、その期待に応えて顕家軍を打ち破る。しかし十分な恩賞が与えられなかったので桃井兄弟はスネてしまい、以後戦いに出てこなくなってしまったという。
 奈良でいったん敗れた顕家は河内で体勢を建て直し、3月に天王寺で細川顕氏率いる足利軍を破り、弟の春日顕信に大軍を与えて男山八幡に布陣させて京をうかがわせた。ここでついに出馬するのが高師直である。師直は八幡山にこもる顕信軍を攻めて釘付けにする一方、今の大阪市方面に進出してきていた顕家と小競り合いを続けた。
 結局、最終決戦「石津の戦い」は5月22日に行われた。「保暦間記」によれば戦いは顕家軍の優勢で進んだが、師直が決死の奮戦をして大逆転、吉野へ逃れようとする顕家をついに討ち取った(自害ではなかったようだ)。ドラマは一瞬の隙をつかれた顕家が師直の奇襲に敗れたようにしているが、実際には一ヶ月以上師直と戦っていたはずで、戦況の推移をかなり単純化してしまっている。それでも本文では省いたが、顕家死後も男山八幡の大軍が抵抗を続けている、と親房に武士が報告してフォローはしてある形。このあと師直が男山八幡を攻め、やはり一ヶ月後に陥落させている。この際、男山八幡の社殿に師直が火を放ち、神をも恐れぬ行為と保守派の非難を浴びている。
 顕家が「十に一つ矢を外す」と予感を語り、戦場で「弓を!」と叫び、死ぬ間際にも「弓がのうては」と言う具合で、やたら「弓の顕家」を印象づけるセリフが多いが、これもドラマの構想倒れの匂いがする。顕家の初登場はいきなり見事な弓を披露する場面だったが、その後弓を使っているのは33回の奥州での戦闘シーンにチラッとあるだけで、視聴者としては顕家に神がかり的な弓の腕があるという印象はあまり残ってない。そのためこの回での顕家の弓に関するセリフの数々はいまいちピンと来ないのが悔やまれる。「大逆転」で描かれた尊氏を破る戦いでもっと活躍の機会を与えるつもりだったんでしょうね、ホントは。やっぱり1年がかりの大河ドラマってこういう「構想倒れ」っていろいろと出てくるなぁ。

 息子の死を知った親房の演技は、近藤正臣さんドラマ中最高の名演。武士の前では「死んだ…」と無表情に言って、息子の戦死を讃える。そして武士が立ち去った後に感情を爆発させ、泣き崩れる演技はまさに絶品だった。このあたりの描き方は戦中日本における戦死者の遺族の姿を重ねあわせられる所もある。北畠親房はその著「神皇正統記」で顕家の戦死を「同五月和泉国にてのたたかいに、時やいたらざりけん、忠孝の道ここにきはまりはべりにき」と記していて、確かに簡潔ながらも息子の死を讃えている。

 北畠顕家、享年わずかに21歳だった。その死の7日前の5月15日に顕家は吉野の後醍醐天皇にむけて上奏文を送っている。その現物が今日も残っているのだが、内容は建武政権の失敗を痛烈に批判し、後醍醐の政策方針の変更を強く求めたものだった。例えば後醍醐はかつての国司制のように中央集権制を目指したが、顕家は自らの経験もふまえてであろう、地方分権の体制を主張している。さらに三年間の租税免除の提案(建武新政の重税への批判である)、みだりに官位・恩賞をばらまくことへの批判(まぁ保守貴族的な秩序維持思想でもある)、天皇の行幸や宴会の禁止(つまり後醍醐はそれがはなはだしかったという批判である)、朝令暮改で混乱した法令を厳格に行うこと、貴族・武士・女官・僧侶などの政治への口出しを禁じること(廉子や文観のことを暗に言ってるとしか思えない)、などなどを列挙している。顕家の意図をよそに「二条河原の落書」と並ぶ建武新政の実態を知る貴重な資料となってしまっているのである。顕家は「誤りを正さず太平の世に戻す努力をなされないなら、私は帝のもとを離れて山林に隠れるでありましょう」と厳しく後醍醐に迫っている。若き正義感に燃える青年公家武将・顕家の真骨頂はこの上奏文にあると思うんですけどね。

 ドラマでも最後まで顕家に副将としてついていた結城宗広だが、このあと伊勢におもむき、親房とともに海路東国へ渡って南朝勢力の拡大を図ろうとする。しかし嵐のために宗広は伊勢に戻され、ここで病死することとなった。古典「太平記」はなぜか宗広が生前残酷な男であったために死後地獄に堕ちたと妙に長い文で記している。なんか宗広に怨みでもあったんだろうか、小島法師。

 なお、この回出演リストの「トリ」に片岡孝夫がいるが、本編中には一度も登場していない。確かにアヴァン・タイトル中に姿が見えるが、これまではアヴァン・タイトルの出演者は「出演」に入れてなかったように思うのだが…