第四十回「義貞の最期」(10月6日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二


◇アヴァン・タイトル◇

 各地の南朝軍が戦闘を続ける。しかし北陸の新田義貞は日に日に不利となり、奥州から駆け付けた北畠顕家は都の一歩手前まで迫りながら戦死を遂げてしまった。じりじりと追いつめられる状況の中でも後醍醐天皇は京へ帰る日を強く待ち続ける。


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

陣内孝則(佐々木道誉)

高嶋政伸(足利直義)

森次晃嗣(細川顕氏) 塩見三省(高師泰)
筒井道隆(足利直冬) 浅野和之(塩谷高貞)
相川恵里(西台) 武藤令子(直義の妻)
渡辺寛二(大高重成) 中島定則(三戸七郎)
海野義貴(光明天皇) 松本公成(細川師氏)

近藤正臣(北畠親房)

大地康雄(一色右馬介)

柄本明(高師直)

井上倫宏(四条隆資) 森松條次(洞院実世)
谷嶋俊(上杉重能) 西垣内佑也(義良親王) 
岡田俊博・井戸哲也・中村麻沙希・渡辺高志(近習) 
保阪友恵(侍女) 横尾三郎・森尾なおあき(蔵人)
佐藤百起・大森一・本田清澄(公家)

若駒スタントグループ クサマ・ライディング・クラブ
わざおぎ塾 早川プロ 丹波道場 劇団東俳  
 
藤村志保(清子)

原田美枝子(阿野廉子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:加藤宏○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:松本恒雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇
 
 ある朝、足利尊氏が気散じの朝駆けがてらに弟の直義の屋敷を突然訪れていた。尊氏は直義が欲しがっていた自分の碁盤と同じものをみつけてきた、と言って碁盤を直義に渡し、「使い初めに一手」と誘う。そこへ直義の妻が姿を見せ、尊氏に挨拶した。しかし直義は妻をすぐにさがらせた。直義の妻は渋川貞頼の娘で、病弱のためか子もできず、めったに表に出てくることもなかったのである。
 兄弟は碁盤を囲んだ。形勢不利になった尊氏は「このわしのようなものじゃ、あちらからもこちらからも攻められ、頭が痛い」とぼやく。直義が各地の南朝方の活動が活発なことを口にすると、「それもある」と尊氏。不知哉丸のことと察した直義は話題をそちらに向ける。不知哉丸は武士になりたい一心で近ごろは佐々木道誉のところに日参していた。尊氏が道誉に相手にしないよう言い渡していたが、不知哉丸がその気になればいくらでも駆け込み先はある。
 「どうしたものか…」という尊氏に、「不知哉丸どのをそれがしにいただけませぬか?」と直義が申し出る。他家に雇われるよりは一門の中で立派な武将に育てたほうがよい、だが兄の子を家来にするわけにもいかないから自分の養子としたい、と直義は言う。自分達夫婦には子がないから嬉しい話であるし、不知哉丸とは不思議な縁でめぐりあい妙に気のあった仲、これは天のめぐりあわせだと直義は言い、尊氏に頭を下げた。

 尊氏は花を立てている登子に不知哉丸を直義の養子とする件を話した。まだ決めたわけではないが気持ちは有り難いと思う、と言う尊氏に、登子は「ではお決めになればよろしいではござりませぬか」と言いつつ、どこか言葉にとげがある。「直義の子ともなれば日ごろ顔を合わすこともあろう…それでも良いか?」と尊氏が聞くと、登子は「不知哉丸どのは殿に似ておられますか?」と聞いてきた。「お会いするたびに似たところを探すのでござりましょうな」と登子は嘆息する。
 登子は最近道誉から立花を教わっていて、道誉が言っていた言葉を尊氏に教えた。「気に染まぬ一輪の花も、他の花々と共に器に盛れば、見事な一点に見えることもある。それが立花の奥の深さだ」というものだった。「花も人も、そうであるならよろしゅうござりまするな…」そう言いながら登子は一輪の花を器に差し入れた。

 数日後、不知哉丸が直義の養子となることを承諾したとの知らせが入る。そしてひと月後、不知哉丸と直義の養子縁組と不知哉丸の元服の儀が、尊氏ら一族の見守る中で執り行われた。元服した不知哉丸は直義の一字をとり直冬と名乗ることになる。後に尊氏を脅かす生涯の敵となる、足利直冬の誕生である。むろん尊氏も直冬もそんな運命に気づいてはいない。

 一方、尊氏のもう一人の生涯の敵である新田義貞は、越前・藤島の燈明寺畷で足利方の斯波高経相手に戦っていた。「都へ帰る日は近い!この戦に勝てばあと一息ぞ!」と言って、義貞は負傷した兵士一人一人に声をかけ、激励する。
 義貞は吉野の後醍醐天皇から届いた宸筆(帝の直筆)の勅書を開いた。内容は足利討伐のことは義貞を頼みにしている、という内容であった。「帝は我らを心頼みにしておられる!この御心に、何としてもお応えつかまつらねばならん!」義貞は兵達に叫んだ。
 この日の夕暮れ、義貞はわずかな手勢を連れて味方の援軍に出かけ、田のあぜ道を進んでいた。するとそこへたまたま敗走してきた斯波軍と遭遇してしまう。斯波軍も突然現れた敵に驚き、「敵じゃ〜!」と慌てて矢を放つ。義貞の馬に矢が当たり、義貞は田のぬかるみの中へ投げ出されてしまった。泥の中でもがいて何とか立ち上がろうとしたその瞬間。一本の矢が義貞の首元に突き刺さった。「グッ!」と目を見開く義貞。あわてて駆け寄る家臣達に「帝の…ご宸筆を…」とうめく義貞。勅書を取り出した義貞はそれを口にくわえ、「帝の御心に…お応えつかまつらねば…」と絞り出すように言いながら、ヨロヨロと泥田の中を這い、剣を振り回す。口にくわえた勅書はビリビリと破れ、泥にまみれていく。最後の力を振り絞って立ち上がり、剣を振り上げた義貞は、そのまま大の字になって仰向けに倒れた。
 建武5年、閏7月2日。尊氏の宿命のライバル・新田義貞は燈明寺畷のぬかるみの中であっけなく死んだ。享年38歳であったと伝えられる。

 義貞戦死の報は斯波高経を通じてただちに都の幕府へ伝えられた。高師直も直義も、家臣一同大いに喜び、尊氏に祝いを述べる。尊氏は酒宴の用意を命じ、全軍に義貞戦死を触れ回るよう指示を出した。
 「酒じゃ、酒じゃ」とお祝いムードで家臣達が立ち去った後、尊氏は報告の紙を手にしたまま、どこか寂しそうに一人で廊下にたたずむ。尊氏は少年時代以来の義貞との因縁を回想し、一騎打ちまでした思い出には少し笑みも浮かべた。そこへ直義がやってきて義貞の戦死を朝廷にも奏上するよう進言した後、「しかし新田どのも不運なお方でござりましたな…我らがおらねば、武家の棟梁にもなれたはず…さぞや無念でござりましたでしょうな」と尊氏に言う。「我らがおらねば、の…だが、我らを育てたのも新田どのじゃ」と尊氏は言い、少年時代に義貞に投げかけられた言葉に自分は世を見る目を開かされたのだと語る。「新田どのはおのれの敵を、おのれの手で作ってしまわれたのじゃ…誠に不運なお方と言う他はない」尊氏はそう嘆じた。
 「しかし遠い道じゃのう…赤橋守時どのを殺し、楠木正成どのを殺し、新田どのを殺した…安穏な世ならば、みな良き友じゃ…これだけ殺して、まだ世は治まらん」と、尊氏は天を仰いだ。しかしここまで来ては引き返すこともできない。「力の限り戦うてみしょうぞ、それが死んだ者へのたむけじゃ」と尊氏は言い、直義も「同感でござります」と応じた。
 尊氏は立ち去り際に、「内裏へはわしが行こう」と直義に言い、先日上皇から話のあった将軍赴任の件を受けることにしたと直義に明かす。「すべては決した。戦はやめよ、天下にそう宣するのじゃ!」と尊氏は言って歩みを進めていった。そんな兄を直義は誇らしげに見送っていた。

 建武5年8月11日。光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍に任命した。尊氏が新しい幕府の初代将軍となることが天下に示されたのである。そして同時に、弟の直義も左兵衛督に任命された。世の人は尊氏を将軍、直義を副将軍とはやした。
 北畠顕家に続き、新田義貞も戦死したことで吉野方の劣勢は明らかになりつつあった。各地で戦乱は続いていたが、こうした戦乱の中で高師直・師泰兄弟の活躍はめざましいものがあり、幕府内でも発言力を急速に強めつつあった。

 折しも、幕府では越前守護に足利一門の斯波高経が任命されたことに高兄弟が反発し、直義との間に激しい衝突が起こっていた。斯波高経が越前を保てたのは師泰や道誉が手助けしてやったからで、義貞を討ち取れたのは単なる偶然に過ぎない、と師直兄弟や道誉は主張する。しかし直義は守護とは一国の政治を任される重職であり、金品のように恩賞としてくれてやるわけにはいかぬ、と拒絶する。師泰がついに怒って「師直、もう良い!」と退出してしまい、師直、そして道誉もこれに続いた。

 尊氏が登子と内裏で詠む和歌を選んでいるところへ、師直がやって来て直義のやり方への不満を訴えた。「御舎弟どのは戦のことは何もご存知ないのです!」と言う師直に、尊氏は丸く収めるためには足利一族の協力が必要なのだと諭す。「では、我らは戦の時だけ働かされ、政には高い家柄の方や古い領主の方がおつきになると、かような事になりまするか?」と厳しく問う師直。新しい幕府の中枢を古い顔ぶれが占めているのはおかしいと師直はなおも主張するが、尊氏は政治は直義に任せたと言って相手にしない。
 そこへ清子が尊氏を訪ねてきた。「何事ならん」などと言いながら、尊氏は廊下まで清子を出迎え、そこで立ち話を始める。その様子を眺めながら、登子は「近ごろは何かにつけて直義どの、直義どのじゃ…」と師直に愚痴り始める。清子も最近は直義邸をしばしば訪れ孫の直冬の顔を見に行っているらしく、ああやって登子に聞こえないように尊氏に直冬の様子を話しているのだ、と登子は恨めしそうに言う。「そのせいでもあるまいが、以前にも増して殿は直義どのに甘うなられた…そなたの申すこともことわりなり」と登子は師直にささやき、直義のことは自分からも夫に口添えしようと約束する。師直は宋から渡来した笛を「鎌倉の若殿に」と登子に献上する。「義詮のことを案じてくりゃるか…師直どの、かたじけのう…」と登子は喜ぶ。

 夜、佐々木道誉の館に招かれた師直は道誉と共に女を侍らせ、酒を飲みながら田楽を見物していた。師直から登子が直冬のことを気にしていることを聞かされた道誉は「義詮どのに万一あらば跡を継ぐのは直冬どの」と自分も気にしていることを明かす。そうなれば直義の幕府内における力は押さえ切れなくなってしまうと。「わしはの、尊氏どのが好きなのじゃ。それゆえ今日まで従うてきた。今の形ではまずい」と道誉は言い、「古い友」として足利家の将来が案じられると口にする。すると師直は道誉が尊氏に天下を取らせそれを横取りすると言っていたことを尊氏から聞いたと言い、「油断ならぬお方」と道誉を呼ぶ。ではその油断ならぬ者のところに出入りしていては叱られよう、と道誉が言うと、師直は「背に腹は代えられませぬ…我が足利惣領家を守り、大殿が名実共に天下を握るまで、それがしは判官どのも御台さまも利用させていただきます」とサラリと言う。道誉は「その方もなかなかのバサラよ!」と笑った。
 そこへ佐々木の一族、塩谷高貞が道誉の招きを受けて宴の席にやって来た。高貞とともにその妻・西台(にしのだい)も姿を見せる。「お美しいのう」と西台をはやす道誉に、高貞は「高どのの御前じゃ、おからかいめさるな」と道誉に言う。宴の間、師直は西台の顔を食い入るようにじっと見つめていた。

 暦応2年(1339)8月、一色右馬介が尊氏のもとへ重大な情報をもたらした。吉野では今日明日中にも帝位を引き継ぐ践祚(せんそ)の儀が行われる模様だ、というのである。後醍醐帝が重い病に倒れたらしく、行宮(あんぐう)はただならぬ気配、「推し量られまするに、もはや、先帝は…」と言う右馬介。尊氏は愕然として「なんとしたこと…いま先帝が崩御なされては…この尊氏は、もはや手の打ちようが無いわ!なんとしても生き延びていただかねば…事は収まらぬぞ!」とうめく。

 このとき、吉野の後醍醐天皇は死の床についていた。比類無き帝王の最期が近づいていた。人も時も、時代が大きく変わろうとしていた−。


◇太平記のふるさと◇
 
 福井市。義貞が戦死した地点にある新田塚神社、江戸時代に発見された義貞使用と思われる兜(藤島神社蔵)、丸岡町にある義貞だけのために建てられた称念寺と義貞の墓を紹介。


☆解 説☆
 
 ついに新田義貞戦死。ただ主人公のライバルにしてはあっけないのは確かで、ドラマでもタイトルにしてもらった割りに配分時間は少ない。どこまでも貧乏くじを引かされてるなあ、義貞さんは。誠に不運なお方と言う他はない。

 前回に続いて不知哉丸の認知問題。ついにこの回で直義の養子となることが決定し、足利直冬となる。この経緯が実際にどういうものだったのかは判然としないが、どうも寺に入っていたのを「建武式目」作成にも関わった政治僧・玄恵が直義に紹介し、直義がこの不遇な甥を哀れんで尊氏に進言し、尊氏の子と認知させた上で自分の養子として引き取ったという事らしい。なんで尊氏がそこまで直冬の認知をしぶったのかよく分からないのだが(その辺が小説家達の想像力をかきたてるわけだが)、直義に実子がなかったのは事実でちょうどよいと言えば確かにその通りだった。もっとも古典「太平記」はこのあと年齢が高かった直義の妻が突然身ごもり、子を生んだことを記している。ただしその子は間もなく亡くなり、「太平記」はどうやらこれが天下を乱す天狗のしわざだったとしてしまっている。
 ナレーションで早くも直冬が尊氏の敵となることが明示されるが、直冬が実は大変な屈折型ファザコンだった…ことについてはこのあとドラマでも描かれるので、その時に触れよう。

 義貞戦死シーンはナレーション説明が多すぎるのが耳ざわり。「義貞の馬に矢が当たり、義貞はぬかるみに投げ出された、ぬかるみの中でのがきあがろうとしたそのとき…」なんて調子で全部ナレーションで説明しちゃうのだ。映像見れば分かるだろ、と思っちゃうのだが、夜間シーンということもあって説明の必要を感じたのだろうか。
 ドラマのセリフでも言っているが、この時期の義貞は体勢を立て直し、足利方の斯波高経を逆に追いつめる勢いを見せていた。あと一歩で越前を平定し、都へ攻め上る日程も計算に上ってきていたと言われている。そんな時に、まさに不慮の戦死を遂げてしまったわけで、つくづくツイてない武将ではある。もっともこの藤島の戦いでも大将自ら少数の兵を率いて援軍に駆け付けるなど「総大将」として身を慎んでいないと言う非難も多いが。「太平記」はこのとき家臣が逃げるようにすすめるのを「兵を死なせて一人逃げるわけにはいかぬ」と義貞が拒否したと伝えている。まぁ結局のところ義貞ってそういう姿勢の人であり、それが命を縮めることにつながったんでしょうね。
 義貞の戦死は古典「太平記」によれば眉間に流れ矢が命中したことによるもの。命中した途端に目が見えなくなり、もはやこれまでと観念した義貞はおのれの首をかき切って泥の中に隠し、その上に覆いかぶさるように倒れたとある。首のない義貞が泥の中に自分の首を埋めてるマンガみたいな絵(あるいはホラー)が頭に浮かぶが…。
 義貞の首は最初誰の首だか分からなかった。まさか敵の総大将がそんなところで死んでるとは斯波高経も思いも寄らなかったのである。しかし遺体から後醍醐天皇宸筆の勅書が出たこと、名刀を持っていたことなどでようやく確認された。ドラマではこの勅書を映像的に使おうと、義貞がこれを口にくわえて戦死することにしたわけだ。
 義貞戦死の地は判然としていなかったのだが、「ふるさと」コーナーにも紹介されているように江戸時代にこの地から元弘年間に鎌倉で製作されたと銘の入った兜が発見された。発見した藩ではこれを新田義貞本人の兜と認定し、今も神社に保存されているわけだが、義貞本人のものとは限りませんよね。ただ義貞軍の誰か身近な人物とは予測できるだろう。

 義貞の戦死を受けて尊氏が征夷大将軍に就任する。将軍になるのはいつでもできたのだが、源氏の棟梁を争うライバルであった義貞の死を良い機会ととらえ、政治的セレモニーとして将軍就任を実行に移した形だ。確かにそうすることで尊氏は「決着はついたぞ!」と天下に知らしめたかったのだと思われる。ま、甘かったけどね。

 前回からぼちぼち形を見せ始めていた師直と直義の対立が明確になってきている。直義は事実上の「副将軍」として尊氏に政治全般を任されたが、そのブレーンは足利一門など名家が多く、体質も朝廷や公家を重んじる保守的な傾向が強かった。対して師直らは尊氏に直属し、戦場で目に見える形で功績を上げ、その功績に見合うだけの所領を要求し、なおかつ旧体制にへつらうことのない実力主義の新興武士層の立場を代表していた。この回でも守護職をめぐって議論が戦わされているが、師直らは自分達が守護職を欲しているというよりも自分に従ってくれる新興武士層に恩賞として土地を与えてやる必要に迫られて守護を求めていたと言える。「観応の擾乱」にいたる幕府内の対立は個人的・人脈的対立関係というより、武士内部での階層対立という背景が大きかったのだ。
 ドラマで師直が尊氏に鋭く言うセリフにも、その辺がよく現れている。当時「下剋上」という言葉が使われ始めているが、かつてない動乱の中で実力主義の主張が強く出てくるのは必然であったと言える。古典「太平記」の作者は明白な下剋上批判派なので高師直などは完全に悪人扱いされてしまっているのだが(それが「忠臣蔵」につながっていく)、ドラマの師直はそこにちょっと一ひねりをくわえている。この回で道誉に「足利惣領家を守り、大殿が名実共に天下を握るまで…」というセリフにも師直の「真意」をのぞかせている。もっともその辺が彼の「下剋上」の限界だったとも言えるが…それについてはズバリ「下剋上」の回で触れることにしよう。それにしてもこれまで尊氏に寄り添う「影の人」という印象だった師直に、俄然見せどころが増えてきますね。、

 道誉邸での宴会シーンで、塩谷高貞夫妻が登場。ここから後に「忠臣蔵」のモデルとされる高師直の横恋慕の物話が始まるのだ。塩谷高貞は第23回に登場していたが、やはり俳優サンは変更されている。