第四十一回「帝崩御」(10月13日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

陣内孝則(佐々木道誉)

高嶋政伸(足利直義)

石原良純(脇屋義助)

森次晃嗣(細川顕氏) 塩見三省 (高師泰)
筒井道隆(足利直冬) 森口瑤子(二条の君)
田口トモロヲ(彦部十郎) 辻輝猛(光厳上皇)
井上倫宏(四条隆資) 森松條次(洞院実世)
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継)
中島定則(三戸七郎) 安達義也 (畠山直宗) 谷嶋俊(上杉重能)

近藤正臣(北畠親房)

柄本明(高師直)

高橋悦史(桃井直常)

草薙幸二郎(勧修寺経顕) 神田正夫(薬師)
西垣内佑也(義良親王)  中村麻沙希・大塩武 (近習) 
赤井睦・赤崎ひかる(僧)  横尾三郎・森尾なおあき(蔵人)
佐藤百起・大森一・本田清澄(公家)

若駒スタントグループ 
早川プロ 鳳プロ 劇団いろは  
 
原田美枝子(阿野廉子)

藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:藤野登○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:岩崎延雄○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 暦応二年(延元四・1339)八月十五日。吉野では後醍醐天皇が重い病の床に伏し、その最期の時が迫っていた。朦朧とする意識の中で、 「西廂(にしびさし)に鞠を忘れた…」とつぶやく後醍醐。かたわらの阿野廉子 が「ここは吉野でございます。西廂はございません」と言うと、後醍醐は「そうか…吉野か…富小路(とみのこうじ)かと思うた…よう、迷うのじゃ…隠岐の島かと思う時もある…」と笑みを浮かべる。廉子もつられて懐かしそうに微笑み、思い出を語り合う。 「よう歩いたのう…笠置、船上山、叡山…みなに苦労をかけた…とりわけ、そなたには…千種も…顕家も…あまたの者を死なせてしもうた…やむをえん…世を正し、見事な王土を作るためじゃ…そう思うてきたが、未だに王土は見えぬ…」 後醍醐は苦しい息の中でつぶやくように言う。廉子が各地の味方が立ち上がっている、都に帰れるのもそう先のことではない、と励ますと、「そう思わねば…そ う思わねば何事も言えぬ。だが朕は力の限り言わねばならぬ…皆を呼べ…」と後醍醐は側近の公家達を側へ寄せるよう命じた。
 後醍醐は支えられながら体を起こし、廉子に差し出された経典と剣を両手に持った。 「皆に命じおく…朕亡きあと、義良がもと、天下を鎮むべし…朝敵足利をすみやかに討ち、天下を太平ならしめよ…これ、朕の妄念なり。これ思うゆえ、朕は、吉野の苔にこの身を埋めるとも、魂魄(こんぱく)常に都の天を望まんと思う…よいか…!」 後醍醐が力をふり絞って叫ぶ遺勅を、廉子や公家達は涙ながらに聞く。言い終えた後醍醐は力尽きたように横になった。廉子は側に控える 義良親王の肩に手を置き、義良は父帝に向かって深々と頭を下げた。公家達は嗚咽する。
 翌八月十六日早朝、後醍醐天皇は息をひきとった。帝位を継いだのは義良親王、すなわち 後村上天皇である。

 後醍醐崩御の知らせは京にも伝わった。 足利尊氏はただちに家臣に喪に服するよう命じ、幕府の行事も中止させ、自らも仏間に籠もって後醍醐の冥福を祈っていた。その悲嘆ぶりは北朝の公家、幕府の武家達をとまどわせるほどのものであった。
 足利直義 邸では桃井直常 細川顕氏らが「敵の大将が死んで、何故こちらが嘆かねばならぬ?」と尊氏への批判を叫んでいた。「兄上はご自分の感情でしかお動きにならぬ」と直義も困惑し、怒りの色を見せていた。
 
 尊氏邸では清子 が訪ねてきて、登子か ら寺への寄進を受けていた。尊氏が後醍醐のために寺を建て幕府をあげて法事を行おうとしていることに話題が及び、清子は尊氏の優しい心を世上はかえって悪 くとる、朝廷や幕府でも波風が立ちそうだとの懸念を口にした。すると登子は「それは三条坊門の直義殿の言っていることでは?」と揶揄するように言う。清子 は都大路で聞いた世間の噂だと弁解するが、登子は清子が 直冬に 会うために連日直義邸へ通っていることを言い立て、清子の直冬への傾倒ぶりを皮肉る。そこへ参内の準備を整えた尊氏が現れると、登子は清子の言う「世上の 噂」をそのまま尊氏に伝える。おろおろする清子の様子から状況を察した尊氏は「世上の噂は大事に聞かねばならぬ」と母に礼を言い、登子に清子から「噂」を 良く聞くよう命じてその場をとりつくろうのだった。

 尊氏は直義を伴って参内し、光厳上皇 に拝謁した。大納言・勧修寺経顕 が後醍醐のために寺を建立すること、追悼の行事を行うことについて尊氏の本心を問いただし、光厳上皇も「思うところを申すがよい」と尊氏に言い渡した。
 「尊氏は先帝をお恨み申したことはございませぬ」 と尊氏は語りだした。二十歳の時に初めて後醍醐の姿を目撃してその姿に感動し、、乱れた世に絶望しかけていた自分は希望を与えられた、あれが自分の出発点 であったと尊氏は述懐する。その後醍醐に敵と名指しされても、いつか分かってもらえるものと思って今日まで戦ってきた、こうして敵味方に分かれたことは世 の無常と言う他はない。 「尊氏今日あるは先帝のおかげでござりまする。この都で弔いごとをいたしとうござりまする」と言って尊氏は光厳に向かい平伏した。
 光厳は微笑み、「経顕…将軍の御心のなんという広さよ。かかる広さゆえ、武家がみな慕い来て、都も穏やかなのじゃ。将軍、その儀許す」 と言って後醍醐追悼の許可を出した。尊氏は「ははーっ」とかしこまり、直義も頭を下げたが、表情は複雑だった。
 退出しながら直義は尊氏に、光厳の言葉は本心ではなく尊氏を恐れて相づちを打ったのかもしれぬと言い、また後醍醐が死んだことで各地の南朝方が衰えるから、これはもっけの幸いと語る。しかし尊氏は 「直義、それは違うぞ。こたびの先帝崩御で我らは戦を終える手だてを失うたのじゃ」と言う。もはや南朝勢力に戦いをやめよと命を下せる者がいなくなってしまった。光厳では後醍醐に遠く及ばず、この戦いは船頭を失った船のようなもの、世は乱れに乱れるだろう。 「それゆえ弔うのじゃ。我らも先帝と同じ心であったと、戦をやめよ、と呼びかけるのじゃ。さもなくば我らは生涯戦うことになろうぞ」 と尊氏は言うのだった。
 尊氏の不安は的中した。信濃では北条時行 が挙兵し、常陸では北畠親房が活動し、北陸では 脇屋義助が抵抗を続けるなど、後醍醐というカリスマを失った南朝勢力の動きが各地で相次いだ。足利幕府はこれらを力でねじ伏せて行き、その戦いの中で 佐々木道誉高師直師泰 土岐頼遠などの活躍はめざましく、幕府内でも台頭するようになってきた。

 その佐々木道誉が都で事件を引き起こした。天台座主をつとめる親王がいる東山・妙法院の庭の枝を通りがかりに折り取ってしまったのだ。飛び出してきた妙法院の僧兵たちが騒ぐが、道誉は 「たかが枝の一本や二本、そう騒ぎ立てることもあるまい。この判官が、こちらの庭で立ち腐れている木を立花で蘇らそうと言うておるのじゃ。どれ、もう一本…」 と手を伸ばしてさらに一本枝を折った。激怒した僧兵達が斬りかかり、道誉の家臣達と斬り合いになる。「天台座主が怖くて戦ができるか!」と道誉は吠え、松明を次々と寺の中へと投げ込んだ。妙法院はたちまち火に包まれてしまう。

 幕府の評定所は朝廷の抗議を受けて道誉の身柄を拘束した。尊氏は直義らが自分に断りなく戦功のある 道誉を監禁したことに怒るが、直義は朝廷が道誉の首をはねよと要求するほど激怒していること、また高兄弟が兵糧米の徴収と称して公家・寺社の領地を掠め 取っており、これにも朝廷が怒っていると告げ、幕府が公家や寺社とうまくやっていかねばならぬ以上、道誉を許すわけにはいかないと尊氏に言った。やむなく 尊氏は引き下がるが、そこへ高師直・師泰兄弟が姿を現した。高兄弟は道誉監禁に抗議するが、尊氏は逆に師直たちが公家・寺社の領地を奪っていることを叱責 する。
 その夜、尊氏は道誉邸を訪れ監禁されている道誉に会った。道誉は酒を飲んで歌など歌っている。「情けない とは思わぬか」と尊氏が呆れて言うと、道誉は「情けない…まことにのう。幕府のために戦うてきて、この扱いよ」などと笑う。尊氏が「なぜ妙法院に火をつけ た?」と問うと、道誉は「体の虫がそう言った」と答え、酒をあおった。
 道誉は酒の勢いも借りて不満を尊氏に訴える。 「わしはの…近ごろこう思うのじゃ。わしは何のために戦うておるのか?朝廷のためか、御辺の御舎弟が行うておる幕府の政のためか?それともその政で守られておる荘園領主どものためか?」 道誉は自分や師直たちの軍が強いのは北条時代には御家人にもなれなかった新興武士達をとりたて彼らに土地を与えているからだと言い、直義らは頭が古く上しか見ていないと激しく批判する。 「御辺が政を行うのじゃ!御舎弟から全て奪い返すのじゃ!先帝はもはやおかくれになった。このさき世の中をまとめられるのは御辺しかおらぬ!」 と道誉は尊氏に叫ぶ。そして「さて言うべきことは言うた。これでいつ首を切られても思い残すことはない…が、死なぬに越したことはない」と言って朝廷にとりなしてくれるよう尊氏に手を合わせて頼むのだった。尊氏は深々とため息を付く。

 尊氏に叱責を受けた師泰は鬱憤を師直にぶちまけていた。師直は冷静に「足利宗家を支えているのは執事、大御所も分かっておられる」と慰め、直義ら評定所の頭の古い面々をどうにかして排除すればよいのだと師泰に言う。
 何やら知らせが来て師直は奥に引き下がった。家臣の 彦部十郎たちがさる公家の娘・二条の君 を連れてきていた。師直が家臣達を下がらせると、二条の君は上に羽織っていた単衣を脱いた。師直はそんな彼女に襲いかかっていく。このころ師直のような新興の武士達が没落した公家の娘を愛妾にすることが多くなっており、二条の君もそんな公家の娘の一人だったのである。

 「変わってしもうた…外ばかり見ておるうちに中が変わってしもうた…」 夜の縁側で尊氏は登子につぶやく。「わしはどこかで大きな間違いをしでかしたのやもしれぬ。足利党は何かが狂い始めておる」 と言う尊氏を、登子は「殿が道をお示しになれば、みな殿についていきまする。ご案じなさいますな」と慰める。
 二ヶ月後、道誉は死罪一等を減じられ上総国へ流罪と決まった。道誉は輿に乗せられ、京をあとにした。
 これで一件落着と誰もが思ったが、こののち幕府を揺るがすさらなる大事件が待ち受けていたのである。


◇太平記のふるさと◇
 
 京都・東寺。京の戦闘で尊氏が本陣とし、義貞の進撃を防いだ東大門は尊氏の命で閉められて以来「不開門」とされている。後醍醐天皇の遺品も多く収められており、「東寺と太平記展」が開かれている様子も紹介。


☆解 説☆
 
 正成、顕家、義貞に続き、ついに巨星・後醍醐もこの世を去る。「太平記」の一方の主役ともいうべき大物の死去でドラマの顔ぶれが一気に寂しくなってしまうのは覆い隠しようもない。

 後醍醐天皇の崩御シーンは古典「太平記」に少々のアレンジを加えている。ドラマのオリジナル、「西廂に鞠を忘れた…」と廉子と語り合うところはなかなか泣かせるやりとりである。古典「太平記」の伝えるところによれば後醍醐は左手に法華経の第五巻、右手に剣を持ち、 「…ただ生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり…これ思ふ故、玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命に背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ」 と言い残したという。とにかく最期まで強烈なお人である。「魂魄は常に北を望む」との遺言に従って後醍醐天皇の陵墓は通例と違い北向きに作られている。ず いぶん前のことだが、僕も吉野を訪れて後醍醐の墓を見たが、明治以来絶賛されたこの天皇にしては案外こじんまりとしたものであった。なお、今でも新天皇が たったときに天皇と皇太子が歴代天皇の事績についての講義を受ける行事があるのだが、後醍醐天皇はその中でも長く時間が割かれる天皇の一人とのことであ る。
 この強烈な天皇を見事に演じた片岡孝夫(現・仁左衛門)さん、まさに最後の熱演。僕自身のイメージよりはおっとりした印象の後醍醐だったが (実物はもっと強烈かつアクの強いキャラクターだったように思っているので)、 やはりドラマ中での貫禄たっぷりの存在感は他のキャラクターを圧倒していた。片岡さん本人は「武将的感覚の天皇」ととらえていたようで、その狙いは十分に 達せられていたと思う。ちょっと描き方が「いい人」過ぎる嫌いは確かにあったが、それはこのドラマ全体に言えること。今後もっと辛らつな後醍醐像が出てく ることを期待したい。

 尊氏が後醍醐の死去にショックを受け追悼をあれこれするくだりは、あながちドラマの創作とは言い切れない。尊氏自身が後醍醐に個人的親近感を抱い ていたらしいことはしばしば指摘されることであるし、後醍醐が死んでしまったことで和平の機会が失われたと失望した可能性も十分に考えられる。ただ、現実 問題として尊氏らが一番恐れたのは、後醍醐の「怨霊」だったようだ。日本人に古代以来「怨霊」信仰が強くあったのは事実で、権力者本人が怨霊の存在を本気 で信じていなかったとしても世間向けには「怨霊対策」をしておかねばならないというところがあったようだ。まして後醍醐天皇というあの超強烈な個性が恨み を抱いて異郷で死んだのである。そんな彼の怨霊じゃ相当なパワーを発揮してしまうのでは、と誰もが思ったことだろう。
 ドラマでは直接的には描かれなかったが、尊氏が後醍醐慰霊のために行った最大の事業が「天竜寺」の創建である。後醍醐が吉野で死んだ年の十月五日に光厳 上皇が院宣を下し、嵯峨の離宮跡地に禅寺の造営を命じているのだが、これは尊氏・直義兄弟が後醍醐の慰霊のために発願したものだった。もともとの提案をし たのは足利兄弟および後醍醐も帰依した禅僧の夢窓疎石で、彼がこの禅寺の開山となることなった。当初この寺は年号をとって「暦応寺」とされる予定だった が、寺の名に年号をいただく比叡山・延暦寺からイチャモンが入り、「天竜資聖禅寺」と改称を余儀なくされた。背景には禅宗の京都での勢力拡大を恐れる比叡 山の強い警戒感があったと言われる。比叡山はこのあとしばらく禅宗勢力を押さえ込もうと室町幕府と激しくやりあうことになるが、室町時代を通して京都周辺 の禅宗一派は幕府政治と結びついて強い影響力をもつことになる。
 天竜寺造営にあたって費用捻出のために幕府が中国(元)に貿易船を派遣したことも注目に値する。世に「天竜寺船」と呼ばれるもので、博多の商人に「商売 の好悪に関わらず銭5000貫を天竜寺に収める」ことを約束させて康永元年(1342)に出航、翌年莫大な利益を上げて帰国している。鎌倉幕府が建長寺創 建時に宋へ貿易船を派遣した前例にならったものと言われるが、長い目で見るとこのあとの日明貿易につながる室町幕府の対外貿易政策のはしりだったかもしれ ない。足利政権が後醍醐の怨霊対策にかこつけてこうした各種政策を推し進めていたと見ることもできる。

 尊氏の態度を直義派の武将たちがなじっている場面で、故・高橋悦史さん演じる桃井直常が初登場。このドラマの終盤から登場するメインキャストの一 人で、一貫して直義、直冬派に属した猛将として貫禄ある存在感を見せてくれる。実は以前からひそかに桃井直常ファン(?)だった僕は、彼がこのドラマで大 きく扱われたことに大いに満足し、演じた高橋悦史さんという俳優にも興味を持つことになった。恥ずかしながらそれまで全くこの俳優さんについては知識がな く、あとから「日本のいちばん長い日」などの岡本喜八監督作品や「戦争と人間」などの山本薩夫監督作品でその魅力に触れることになった。
 ところで前回から見えていた傾向だが、登子がえらく嫌味なオバサンとして描かれている。次回ではそれがついに頂点に達するのだが、どうも沢口靖子さんにはこの手の演技は似合わないような…。

 後醍醐の死後、各地での南朝方の動きがひとまとめに伝えられている(使用映像は全て過去のものの使いまわし) 。北条時行は北畠顕家軍崩壊ののち、また信濃に戻って上野の新田一族などと連携してしばらく関東における南朝方として活動を続けた。その活動は意外に長期に及び、最後は1353年に新田義興らと共に尊氏軍と戦って捕らえられ、鎌倉で処刑されることとなる。
 義貞の弟・脇屋義助は、兄の死後北陸から美濃を突破して吉野へ赴き、今度は四国に南朝勢力を広げるべく伊予へと赴いた。しかし伊予に到着した直後に病に倒れ急死してしまう。長らく義助を演じてきた石原良純さんの出番もこの回までである (まぁ何回か前から再利用映像ばかりでの「出演」なんだけど)。伊予まで義助についていった新田勢はこの後、ドラマでもチラッと出てきた細川頼春の攻撃を受けて壊滅する。このとき頼春が四国に勢力基盤をつくったことが、その息子・細川頼之の活躍につながっていったりもする。
 北畠親房の常陸での活動については次回の解説で詳しく触れたい。

 この回の後半は佐々木道誉が起こした「妙法院焼き討ち事件」が中心になっている。この事件は後醍醐が亡くなった同年の10月6日のことで、実際に は道誉父子が鷹狩りに出かけた帰り道に、配下の者たちが妙法院の庭の紅葉の枝を折り、これをみとがめた比叡山の僧兵に袋叩きにされ (比叡山の支社みたいな寺だったのだ)、 それを聞いて怒った道誉父子が兵を繰り出して寺を焼き討ちさせたという事件である。ドラマのような酒の勢いで、ってな軽いものではない、まさに確信犯で あったわけだ。その年の末までに幕府および北朝が道誉父子の上総への流罪を決定しているが、実際に上総まで出かけたかどうかはかなり怪しい。しかも流刑の はずの道誉一行はうつぼ(矢を入れる筒)や腰に猿皮を巻き、きらびやかな格好で悠然と都を立ち去ったという。猿は比叡山の守り神・日吉神社の神獣で、道誉 は明らかに比叡山に対するあてつけを見せ付けていったのである。おまけに道中では宿場宿場で遊女を集めて大宴会を繰り広げていったそうで、「バサラ大名」 本命の面目躍如というところがあったのだ。どうもこの事件、背景には近江に荘園を多く持つ比叡山と道誉の確執があったのではないかと言われている。
 ドラマでは流刑人用の粗末な輿に乗せられてつまらなそうに都を去るように描かれたのが残念。終盤戦の道誉はいささか派手さに欠けるんだよなぁ。

 次第に独自の存在感がクローズアップされてきた高師直周辺に出番はそれほどでもないが妙に目立つキャストが二人いる。
 一人は森口瑤子さんが演じている師直の愛妾「二条の君」。決して多くはないドラマ「太平記」の女性キャラの一人で、この終盤戦で一人気を吐いている感がある。
 もうお一人は師直の部下・「彦部十郎」を演じている田口トモロヲさん。このあといろんな映画でお姿を拝見したが、最近では何といっても「プロジェクト X」のナレーションで有名になってしまった。このドラマではいたって地味な役どころで、どこに出ているのか探してしまうほどである。